オミナス・ワールド

ひとやま あてる

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第2章 Dynamism in New Life

第27話 感情

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 ハジメとレスカは役場でのプレート作成と魔法使い登録の後、ベルナルダンでに住民登録を終えてフリックに続く。

 住民登録はそう簡単にできることではない。 というのも、村人とは村の所有物であり、ひいては領主の所有物──つまり農奴だからだ。

 農奴は土地の貸与と引き換えにそこへ縛られている存在のため、移転の自由もなければ、土地が売買されれば付属物として一緒に扱われる存在でもある。 また農奴には職業選択の自由がなかったり、婚姻も村の長から決定されたりと、自由の利かない身分でもある。 しかしその一方で、農奴は個人的な財産や富を貯蓄することができるため、経済的に余裕のある農奴なら自由を買うことも可能だ。 それが叶えば、晴れて自由民という肩書きを得ることができ、そこでようやく村などの枠組みから解放される。

 ラクラ村の事件は正規ではないものの、住民を村から解放させる方法であった。 村の崩壊などのイレギュラーに対しては国や領主からの補償などが間に合わないため、農奴は一時的にそれぞれの枠組みから外れ、延命手段を模索することになる。 しかしこれは自由民とは言えず、フリーの農奴という意味だ。

 ただ、行き場を失った農奴の末路は大抵良いものとはならない。 何も持たない彼らを受け入れたいと考える都市や村は無いし、受け入れられたとしてもそれは奴隷としてだったりもする。 だからこそハジメやレスカのように無用に逃げ出す者は少なく、むしろ買い取られた方が良い場合が多い。

 ハジメとレスカは、フリックという魔法使いと出会ったこと、そして彼がベルナルダンで信頼の高い人物であったこと、彼がこの世界では珍しい他人を思いやれる人物だったこと、更に二人が魔法技能を有していたこと、そのほか様々な奇跡が味方したおかげで住民登録が可能となっていた。 二人はそんなことなどつゆ知らず、ここまで薄氷の上を歩んできたことを実感できない。 苦労の連続だったからこそ、まだそこまで考えが至らないだけかもしれない。

 今回のことで、フリックはアーキアを出し抜いた。 もしアーキアがハジメとレスカをモルテヴァに連れて行っていたら、彼らは有無を言わさずクレメント村の所有物に変えられていただろう。 だが、アーキアは気を抜いた。 正式な手続きなどは結局のところスピード勝負であり、今更二人をベルナルダンからクレメント村まで戻すことなどできない。

 ハジメとレスカには、ベルナルダンで生活基盤を形成して自由を得て貰わなければならない。 それこそが、自由を得ることの叶わなかったフリックの願いであり信念だ。

(大人は次の世代に繋げることが役割です。 それを放棄した社会──特にクレメント村などに、二人の未来を奪われるわけにはいきません。 しかしこれは、エスナさんを最後まで育てきれなかった贖罪からくるものかもしれませんね……)

 フリックは未だに安否の分からないエスナのことを思考から外しつつ、次なるバトンの受け渡し先であるハジメとレスカに注力する。

 現在、フリックの案内で町を回っている。

「町中での買い物は少々値が張りますが、種類が豊富で他の土地からやってきた品物も並ぶので贅沢したい時はここにやってきます。 壁外でも良いのですが、種類も味もそれほど優れませんからね」

 バイセルは主にベルナルダンとクレメント間を行き来する商人だが、他の街からやってくる商人も多い。 そういった者が物流を加速させ、田舎の町にも活気を届けてくれている。

「金銭……」
「そこが鬼門なんで──……ん? ああ、またですか……」

 夕方の街中に叫び声が響いてきた。

「皆の者、目を覚ませ! 魔法は人間如きが決して自由に弄んで良い力ではない! 今こそ神にその力をお返しするのだ!」

 中央広場で何かを声高に力説している男がいる。 襤褸を纏ったような見窄らしい姿の彼の発言に対して誰もが白い目を向け、そして侮蔑の視線を投げつけながら去っていく。

(これは、あれだな。 偏った思考の人間に特有の……。 この世界でもあるんだな)

 ハジメは日本でもよく見た思想の押し付けを目にして辟易とする。

「あの人は誰? 何を言ってるの?」
「彼はタージという名で、出自は不明です。 今では度々ベルナルダンにやってきて独自の持論ばかり吐き続けるので、誰にも相手にされていませんが……」
「変なの。 何がしたいんだろうね?」

 言論の自由がどこまで認められているか分からない世界だが、あれを見ていると一定の発言権は認められているのかもしれないとハジメは思ってしまう。 ただ、彼が奇人ゆえに権利の逸脱を無視されているという線もあるため、やはり迂闊な発言は控えておきたいところだ。

「あれ……? 教会ってなんだろう」
「神を信仰する集団のことです。 神の居た時代には神の言葉を伝えたり民衆を纏めたり、また国を動かしたりと様々な役割があったと聞きます」
「へー」

 レスカは生返事でタージの奇行を眺めている。 奇妙というより、物珍しいというような視線だろうか。 それはそうだ。 村という閉鎖的な環境で、なおかつ冷遇される立場にあったレスカにはあらゆる経験がなく、見るもの全てが新鮮で珍しいのだ。

 しかしそれはレスカにとってだけで、一般的にタージは奇人以外の何者でもない。

 少し環境を変えただけでああいった人種が見つかるのだから、これから広い世界に踏み出していこうとするハジメにとっては、彼のような存在は不安の種でしかない。

「今の時代──特に王国では神の信仰はありませんから、教会権力は廃れていますね。 確か、かつてベルナルダンの近郊には教会があったと聞きます」

 フリックの言うように、王国に於いて教会の権威は失墜している。 というより、失墜させて王が独自の権利を勝ち取ったという話だ。

「この世界に於いて神を信仰しているのはもう帝国だけですね。 そこでの確執が王国と帝国の対立を産んでいるという話です。 王国と帝国が隣国だったら、今頃戦争ばかり起こっていたでしょうね」
「皆仲良くしたらいいのに」
「全くもってその通りですね。 ……とにかく、彼は私たちのような魔法使いに接触したがる人間なので、見つからないうちに離れましょう」

 どうやらヤバい人物らしい。

「危ないの?」
「直接的な攻撃はないのですが、オルソーさんや私は彼にとって神とやらに力を返すべき対象らしいのです。 一度話を聞いてしまうと何時間も説教まがいのお話を聞かされるので、お二人も注意してくださいね。 彼の前ではプレートも出さないように」
「はーい」

 ハジメとレスカは本日からフリックのところでお世話になる。

「おっきい家が多いねー」

 壁内は二階建ての民家だったり、それ以上の高さの役場だったり、これまでの村には存在していなかった現代風の建造物が当然のように立ち並んでいた。 ハジメにとっては特段珍しいものでもないが、それでもこの世界で初めて見る新しい景色は彼に刺激を与えている。 レスカも口を半開きにしながらキョロキョロとあたりを観察している。

(日本じゃ家を買うとか考えたこともなかったけど、こう見ると一軒家を購入することに対する憧れが出るよなぁ)

 壁外へ出ても周囲の建物のレベルは村よりも高く、全部が木製の家屋などはほとんど見られない。 それこそベルナルダン西の農耕地帯にある家屋は村に近いものがあったが、フリックの住む外壁地区はそうではない。

 また、こうやって家々が密集しているだけで、村とは違う時代にやってきたような感覚をハジメに与える。

(何から何まで人に頼ってばっかりだな……。 まだ誰にも恩を返していないのに、返すべき対象が増える一方だ。 早く役に立てる人間にならねぇと……!)

 外壁に程近い場所にある彼の居宅は、夕方の日照具合こそよろしくないものの周囲に複数の家々が立ち並んでいるため、比較的安全な場所に建っていると言える。

「一番奥の一室しか空きがありませんが、お二人が生活するには十分な広さだと思いますので、ご自由に使ってください」

 フリックの住まいは2階建で、まず1階に教室や仕事場、そして2階に生活スペースが詰まっている。 1階と2階はそれぞれ入り口が異なっており、生活スペースへ向かう扉の方をくぐるとすぐ階段があって、そのまま2階に上がる仕様だ。 つまり、二階建というのは外観だけで、実際は上下で別の家ということになる。

「ありがとうフリックさん」
「大した家具はありませんが、これは追々足していきましょう。 今は寝床の確保が最優先ですから」

 1階の扉を入れば黒板の設置された大部屋と3つの小部屋がある。 2階には同じ間取りでLDKに相当する1室とフリックの部屋、ハジメとレスカの共同部屋、そしてもう一室はというと──。

「え……!?」
「どうしたのハジメ?」

 ハジメは驚愕していた。 まさかそれがあるなんて想像だにしなかったからだ。

「ああ、これは村にはないものですからね」

 そこには、トイレがあったのだ。 便座があって座れるというだけの簡素なものだが、それでもこれが有ると無いとでは生活の質が大きく変わってくる。

「用を足したら、そこにあるシャワーで水を流してください。 ただ、水は有限ですので使い過ぎは禁物です」

 フリックからの簡素な説明とともに使用許可が降りたのは、生活を一変させる魔法の一品。 便座からは金属製のパイプが地面の下まで潜っており、トイレを設置した家々からの汚物は地下でひと所に集められる。 そして定期的に火属性魔法使いがそれらを焼却処分したり、水属性魔法使いが浄化するという仕組みだ。 魔法使いの用途としてそれはどうなのかという話だが、生活に関わる部分では水属性に次いで働きがあるのが火属性と言える。 だが、トイレもこの世界では高級品に当たるシロモノなので、壁外で設置している家庭は稀だ。

 水をどうしているかというと、水属性魔法使いの精製した水が市場で売られている。 ベルナルダンの魔法使いは組合に属する人間であるため、そのおかげで水は常に一定の価格で売り出され、独占や価格高騰の心配はない。 時折魔法使いの不足により水の価格が上がることはあるが、基本的に水属性魔法使いは生活を守る役割を大きく抱えているため、狩りなどの危険な任務を与えらる心配はない。

 エスナを使っていたラクラ村はやっていること自体は正しかったのだが、いかんせん扱いが酷過ぎた。 彼女の働きに対して金銭も出さずに限界まで魔法を使わせていたのは組合からすれば重大な規律違反であるが、村社会とはそういうものだし、問題にされなければ問題として認識されることすらない。

 壁内には噴水があり、また壁外には井戸もある。 それでも人々がこぞって水を購入するのは、汚染の心配があるからだ。 

 この世界はチグハグで、文明自体はそこまで発展していないものの、魔法という超常の力のおかげで部分的に発展を見せている分野もある。 とりわけ汚物に関わる部分は衛生環境を悪化させ疫病を蔓延させるということが知られているため、魔法使いを多用できる規模の町などは公衆衛生には敏感だ。 そういった観念が町と村の発展に差を生み、村は更に村らしく鬱屈とした精神を育むのだ。

「すごいの?」
「すごい、更に上」
「そうなんだー」

 レスカは理解していないだろうが、すぐにその素晴らしさに気づくだろう。 ハジメはそのありがたさに感謝する反面、もう元の生活には戻れないだろうという恐ろしさも感じていた。

 人間は裕福になるほどに何かを失っていく。 もしかしたら、ここまで育んできた精神力も損なわれてしまうかもしれない。 ハジメは生活のあらゆる部分に気を緩めさせる要素が散在していることに気付きつつ、新たな生活にも期待する。

「私はこれから周辺に挨拶があるので、その間に荷物を搬入したりしておいてください。 鍵は二つ渡しておきますね」

 ハジメとレスカはフリックから鍵を受け取り、ここまで運んできた荷物を部屋に運び込む。

 二人に与えられた室内は6畳程度の広さにベッドが一つ。 そして机と本棚がそれぞれ一つだ。 一人暮らしに使用するには広く、二人ではやや狭いほど。 二人の私物を置くとそれよりさらに狭く感じてしまうが、それでも部屋を持っているという事実は彼らに安心感を与えていた。

「あたしね、やりたいことができたんだー」

 ベッドに横になったレスカが急にそんなことを言い出した。

「……?」
「色んなとこに行ってね、色んな体験をするの。 それでお姉ちゃんが帰ってきたらね、色々教えてあげるの。 そしたらお姉ちゃんがね、レスカはえらいねって……褒めてくれ、て……うぅっ……」

 途中から涙声になり、最後の方は尻切れだった。 それでもレスカはそう発すると、堰が切れたように大粒の涙を流して嗚咽をあげ始めた。

 ハジメも心配になってレスカを抱こうとするが、彼女はそれを制した。

「大、丈夫……だから……。 レスカは、いつまでも子供じゃ、ないから……」

 ハジメ同様、レスカも守ってもらってばかりの状況を良いものとは捉えていなかったのだろう。

 レスカの行動はハジメに対する拒絶に近いものがあったが、逆に彼女の成長を感じさせる一面でもあった。 それに気付いたからこそ、ハジメは何もせずにレスカの行動を見守った。

「大丈夫?」
「うん……平気」

 しばらくするとレスカの涙も収まり、精神的にも落ち着きを見せてきた。 しかしすぐにハジメに抱きついてきたので、先ほどのあれは拒絶というほどでもなかったのだろう。 ハジメは嬉しさと寂しさが共存する理解できない感情を叩きつけられて暫く黙る。

「ハジメは将来何がしたいの?」
「レスカ、守る」
「ううん、そうじゃなくて。 それはとっても嬉しいんだけど、ずっとってわけにもいかないでしょ? ハジメが本当にやりたいことって何かなって思って」

(俺のやりたいこと、か……。 俺はこの世界に来て今を生きることで精一杯だったけど、やりたいことって考えたこともなかったな)

 やるべきことは山積している。 だが、やりたいこととなると話はかなり先のこととなる。 やるべきことをこなしてこそのやりたいことだし、レスカに言われるまでハジメはそんなことを考えすらしなかった。

(レスカを守るってのは、やりたいことっていうよりやるべきことなんだよな……。 その上でやりたいことって言うと……)

 生きること──これはやるべきことだ。

 帝国へ向かうこと──これも誰の指示か分からないし、本当にすべきことなのかどうかも分からない。 幻聴に従うというのはあり得ないし、それをするとしても、声の主が誰でその意図が何なのかを知ってからになるだろう。

 元の世界に帰ること──これはあまり考えていない。

(言っちゃあれだが、今更あの退屈な人生に戻っても虚無感に苛まれるだけだ。 かといって、必死に働き続けたとして得られるものなど限りがあるだろう。 そんなことだったら、この世界で生き抜いてそして満足して死んだ方がいい)

 満足して死ぬ。 それはつまり、満足して生き続けると言うこと。 そのためにはやるべきことをやらねばならないし、結局は堂々巡り。

(この思考ループに陥った時は……そうだ、できることを増やしていくんだった。 ループしてる時点で何かが足りないんだから、ここで俺がやるべきことを考える。 そうしたらやりたいことも生まれてくるだろう)

「まだ、分からない」
「そっか。 ハジメのやりたいこと、見つかるといいね」
「うん」
「あたしね、旅の芸人さんみたいに色んなとこに行きたいんだ」
「何故?」
「世界にはさ、あたしの知らないことがいっぱいで、見るもの全部が光ってるの。 だからね、今から色んなことを勉強して、旅ができたらいいなって」
「良い……と思う」

 ハジメは唐突な寂寥感に襲われた。

 ハジメもレスカも、これからずっと今のままではない。 しかしハジメは今のような関係性がずっと続けば良いのだと思ってしまっている。 苦労や事件も絶えないが、今もレスカを守っているという実感はハジメに責任感を生じさせ、そこから行動力さえ生まれているのだ。 だからハジメの中には、この状態を失いたくないと思う自分が居る。

 もしレスカがこのまま旅立ったのであればハジメのやるべきことは失われてしまうし、かと言ってずっとレスカに付き纏うのも違う気がする。 だからこそ、お互いが満足して今後も生きていける目標が必要だ。

 レスカには旅をしたいという目的がある。 それは恐らく、新しい世界をその目で見てしまったからだろう。そのためにやるべきこともしっかり考えているようなので、レスカの意志をハジメのエゴで濁してしまうのは駄目なのだ。

 レスカが子供のままだったら今のままでもよかっただろう。 しかし、レスカはすでに成人年齢で、なおかつもう自分の二本の足で立ち上がれる状況だ。 先ほどの号泣にしてもハジメや姉に縛られないための最後の涙かもしれない。

(レスカを守りたい、だって……? 違うだろ。 これは、誰かを守っているって状況に酔ってるだけじゃないか。 だからこそ、俺がここで本当に思うべきは“守りたい”ではなく“見守りたい”、だろうが……!)

 ハジメは自分自身にそう言い聞かせる。 しかし、なかなか納得できる感情ではない。

 ハジメとレスカの関係は、言ってしまえば共依存だ……いや、だった。 お互いに依存してしまっている状況はお互いの自立を妨げ、そればかりか同じ状況を望みさえする。 今回に於いては依存度はハジメの方が強く、レスカを援助することが彼自身の存在意義になってしまい、自立を阻害してしまっている。 頼られるとつい手を貸してしまったりレスカのためのやっていることが、彼女の行動をコントロールしてしまっているのだ。

 先程の「レスカが泣いていたから抱きしめる」という行動もまさしくそれで、レスカに対していつまでも子供で居ろというハジメの深層心理が行動に現れているのだ。

 共依存の関係から先に抜け出そうとしているのがレスカで、それに対して不安を感じているのがハジメだ。 もしかしたら共依存というよりも一方的な依存かもしれない。

(なんでこうもモヤモヤするんだ……。 レスカが俺の手を離れたって、自分のやりたいことを見つけたって良いじゃないか……)

 ハジメの中に咀嚼し切れない感情が蠢く。 それはいつだって成長過程の若者に芽吹く種であり、良悪どちらに転ぶか分からないシロモノだ。 ハジメはそれを良い方へと傾けなければならない。 それに必要な過程が別れだったとしても。

 こういう時──理解できない感情に押しつぶされそうになった場合に人間がやることは概ね二つ。 そのまま感情の渦に飲み込まれるか、もしくは忘れるためにがむしゃらに物事へ打ち込むか、だ。

「フリック。 労働、したい」
「あたしも働いてお金を稼ぎたいです。 あと、読み書きも勉強したいです」
「……なるほど。 お二人のお仕事は考えておりますよ。 そう言われるのであれば、明日から早速動くとしますか」
「お願い」
「ありがとう!」

 環境が変われば考えも変わる。

 変化はいつだって生じていて、それは大抵が回避不能なものだ。 だからこそ、否応なく襲い掛かるそれによって人間は苦しめられるのだ。


          ▽


 ベルナルダンの南東にはかつて、有名な修道院があった。

 今でこそ手入れのされていないその修道院周辺は鬱蒼と木々が生い茂り、誰も立ち入らない場所となっている。 魔物などが出現する訳ではないのだが、そこへは近づくなということがベルナルダン民には代々言い伝えられている。

 そこへ立ち入る者が一人。

「戻りました……」
「……タージ助祭、本日もベルナルダンへ赴いたのか?」
「はい、パーソン司祭……。 ですが、誰も私めの話に耳を傾けません。 これでは──」

 タージを迎えるのは、このクレルヴォー修道院の司祭であるパーソン。 彼はキャソックという聖職者の平服──立襟の祭服に身を包み、60という年齢を感じさせないピシッとした背筋と柔和な笑みでタージを迎えている。

「そう焦らずとも良い。 お前の信心深さは私も十分理解しているし、あの方々にも届いていよう。 ……だが、お前の行動も見ておられる。 それを忘れるでないぞ」

 パーソンはそう言って光の差し込む窓を仰ぐ。

 修道院は外観こそ樹木に侵食されて崩壊しているようにさえ見えるが、内部は未だに機能している。 かつては絢爛に光を取り入れていたステンドグラスの数々は割れ、それでも差し込む光は神々しさを讃えている。

 腐敗や崩壊の見える椅子や机もツギハギばかりながら綺麗に修理され、どこかしこに人間の手が入った跡が見えることから、ここは見捨てられた修道院ではない。

「私めの行動は全て間違っているのでしょうか……? どうすれば民衆は神を思い出してくれるのでしょうか……?」
「我々は──教会は負けたのだ。 歴史は勝者のものであり、敗者たる我々には語る権利はない。 だからこそ、お前は事実を告げずに回りくどい行動ばかりしているのだろう?」
「それは……はい……」

 苦々しく顔を伏せるタージ。

「しかし、それはお前の力不足ではない。 ただ、その時ではないのだ。 いずれ訪れる災厄に、人々は神の偉大さを思い出す。 流布されている誤った歴史を知り、そして再び神に感謝するのだ。 だから我々は事実を口伝として受け継ぎ、それらをありのまま編纂した書物を管理し続けるのだ」
「待つ……ただそれだけで、良いのでしょうか……?」

 顔を上げたタージの目には、希望と不安が激しく渦巻いている。

「若いお前にとって、待つことは苦しみだろう。 しかし、そこから解放された時の悦びは、全ての苦しみを凌駕するのだ。 だから待て。 我々の時ではなくとも、遠くない未来にそれは訪れるのだから」
「解放を望んでは……?」
「望んではならぬ。 神の力は与えられるものであって、自ら戴きに伺うものではないのだから」
「しかしそれでは、ベルナルド聖の──」

 なおも焦るタージの言葉を遮ってパーソンは言う。

「良い。 良いのだ。 彼の無念を晴らすことは我々のすべきことではない。 すでに騎士たちは動き出している。 人間の不幸など決して望むべきものではないが、それによって神の力が認められることも事実。 ……ああ、私はまたも醜悪な考えを抱いてしまった。 悔い改めなくては……」

 パーソンは徐に膝を付き、懺悔の姿勢で天を仰ぐ。

 タージもパーソンに倣う形で祈りを捧げた。 未だ見えぬ彼らに向けて。
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