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マッサマンカレー
煮込む間
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彼はいたって普段通りに過ごしていた。
他の女の影があるわけでもなく、交友関係に何か変化があったようにも見えない。大学のキャンパスで私と目があった時だってほんの少し気まずそうにしながら、何時もの様にただ微笑むだけだった。
誰もいない自室へ帰り、ぐるり見回す。流行りの物を取り揃えた、私だけの落ち着ける空間。でも今日はなんだか少し落ち着かない。危惧した通り、カレーの匂いがほんのり残っているせいだろうか。微かなスパイス臭に包まれながらゆっくり考える。
結論。
つまり、彼は私に嫉妬したのだ。華々しく大学デビューを果たした私を、彼は内心快く思っていなかったのだろう。素朴な優しい味を好む彼は、同じ田舎で育った素朴な私を良く思っていたのだった。
必死に努力し、田舎者と笑われないようバイトに明け暮れながらも周りに合わせ、無理をして頑張っていた私を、垢抜けた私を、彼がどんな想いで見ていたのかは想像に難くない。
そして直接の引き金となったのは、彼と行ったあの喫茶店での出来事だった。
あのとき私は、彼がカレーのおかわりをする姿を見て吹き出してしまった。その喫茶店の事を教えてくれた、彼の知らない男友達の姿と重ねてしまったから。その事を面白おかしく話したのがいけなかった。
華やかな垢抜けた世界を前に彼は妬き、そしてその身を引いたのだ。まるで黒胡椒のように、ピリッと辛い刺激を残して。
『胡椒の商人はどんな気持ちだったんだろうな』と言った、先輩の言葉が蘇る。アイツは、彼もひょっとしたら胡椒の商人と同じような気持ちだったのかもしれない。
その素晴らしさにいち早く気付いた商人は、金の価値を持つ胡椒を独占していた。胡椒の魅力が一般に知れ渡って、誰もが愛し、手を伸ばし始めた頃に多くの人の手に渡る方法が生まれてしまった。
自分達が知っていただけのはずの魅力、流通方法だったのに。そんな想いもあったのかもしれない。それでも胡椒の商人達は黙って見守った。その身を引いたのだ。
胡椒の幸せ、みんなの幸せの為に。
彼は、『やっぱりお前は、本当、芋っぽいよ』と私に言った。多くの人に愛されるじゃが芋に喩えて、無念な気持ちをちょっぴりと滲ませて。ほんの少しだけ、後ろ足で砂をかけてみたかったのだろう。
自分が惨めで、悔しかったから。
「おや。大葉くん、ココナッツミルクの買い置きはどこの棚にあるのかな」
という先輩の声でフッと我に返る。
うっとりと物思いに耽っていたようだ。ふるふると頭を振り、正気を取り戻す。ええとココナッツミルク? そんな、一般家庭にない物を求められても困ってしまう。
「普通はないですよ、先輩」
「ふぅん。そういうものなのか?」
どうやら納得がいってはいないようだ。カレーオタクの先輩の部屋にはあって当たり前の物なのかもしれない。
「ちょっと、取ってくるよ」
と自分の部屋に戻っていく。
シンと静まり返った部屋をちらりと眺める。あの頃とはすこし部屋の様相も変わってきていた。田舎にいた頃の部屋に戻りつつある。無理をして周りに合わせ、取り繕うことをやめたのだ。私は垢抜け損なったのかもしれない。友達も少し減った。
でも、それでも構わなかった。
じゃが芋でも世界一になれるのだから。私はじゃが芋のまま、世界一を目指すしようじゃないか。まずは、その為の一歩だ。
先輩のいない間にネット探偵の宣伝用の動画を取り終えた。編集をしていると、缶詰めを手に戻ってきた先輩は訊いてくる。
「もう、彼氏とは仲直りしたのか?」
「んー、保留中です」
と返しておく。どうしたものだろうか。
あれ、彼とのわだかまりが溶けた事を私は先輩に話したっけ。あの後、先輩に私の気付きを聞いて貰おうといった所、そんな事よりもとカレーの話を聞かされて有耶無耶になったのだ。
先輩のカレー話は偶然に役に立ったわけではないのだろうか。なんて、まさかね。
先輩はただ、カレーの話がしたかっただけなのだろう。私の推理力があの時にたまたま花開いたのだ。きっとそうにちがいない。不慣れなスパイスと、先輩のカレー話が私の脳細胞を活性化させたに過ぎない。
そのふたつがあれば、私は謎が解けるはずなんだと先輩の元に駆け寄っていく。
「先輩、聞いて欲しいことがあるんです。大葉、この間、大学で不思議なものを見たんです」
すると、くるくるお玉をかき混ぜなら、
「まったく、しょうがないな」
と白衣の男は振り返る。
「それじゃあ、話を聞こうじゃないか。カレーを煮込む、その間だけな」
と。
他の女の影があるわけでもなく、交友関係に何か変化があったようにも見えない。大学のキャンパスで私と目があった時だってほんの少し気まずそうにしながら、何時もの様にただ微笑むだけだった。
誰もいない自室へ帰り、ぐるり見回す。流行りの物を取り揃えた、私だけの落ち着ける空間。でも今日はなんだか少し落ち着かない。危惧した通り、カレーの匂いがほんのり残っているせいだろうか。微かなスパイス臭に包まれながらゆっくり考える。
結論。
つまり、彼は私に嫉妬したのだ。華々しく大学デビューを果たした私を、彼は内心快く思っていなかったのだろう。素朴な優しい味を好む彼は、同じ田舎で育った素朴な私を良く思っていたのだった。
必死に努力し、田舎者と笑われないようバイトに明け暮れながらも周りに合わせ、無理をして頑張っていた私を、垢抜けた私を、彼がどんな想いで見ていたのかは想像に難くない。
そして直接の引き金となったのは、彼と行ったあの喫茶店での出来事だった。
あのとき私は、彼がカレーのおかわりをする姿を見て吹き出してしまった。その喫茶店の事を教えてくれた、彼の知らない男友達の姿と重ねてしまったから。その事を面白おかしく話したのがいけなかった。
華やかな垢抜けた世界を前に彼は妬き、そしてその身を引いたのだ。まるで黒胡椒のように、ピリッと辛い刺激を残して。
『胡椒の商人はどんな気持ちだったんだろうな』と言った、先輩の言葉が蘇る。アイツは、彼もひょっとしたら胡椒の商人と同じような気持ちだったのかもしれない。
その素晴らしさにいち早く気付いた商人は、金の価値を持つ胡椒を独占していた。胡椒の魅力が一般に知れ渡って、誰もが愛し、手を伸ばし始めた頃に多くの人の手に渡る方法が生まれてしまった。
自分達が知っていただけのはずの魅力、流通方法だったのに。そんな想いもあったのかもしれない。それでも胡椒の商人達は黙って見守った。その身を引いたのだ。
胡椒の幸せ、みんなの幸せの為に。
彼は、『やっぱりお前は、本当、芋っぽいよ』と私に言った。多くの人に愛されるじゃが芋に喩えて、無念な気持ちをちょっぴりと滲ませて。ほんの少しだけ、後ろ足で砂をかけてみたかったのだろう。
自分が惨めで、悔しかったから。
「おや。大葉くん、ココナッツミルクの買い置きはどこの棚にあるのかな」
という先輩の声でフッと我に返る。
うっとりと物思いに耽っていたようだ。ふるふると頭を振り、正気を取り戻す。ええとココナッツミルク? そんな、一般家庭にない物を求められても困ってしまう。
「普通はないですよ、先輩」
「ふぅん。そういうものなのか?」
どうやら納得がいってはいないようだ。カレーオタクの先輩の部屋にはあって当たり前の物なのかもしれない。
「ちょっと、取ってくるよ」
と自分の部屋に戻っていく。
シンと静まり返った部屋をちらりと眺める。あの頃とはすこし部屋の様相も変わってきていた。田舎にいた頃の部屋に戻りつつある。無理をして周りに合わせ、取り繕うことをやめたのだ。私は垢抜け損なったのかもしれない。友達も少し減った。
でも、それでも構わなかった。
じゃが芋でも世界一になれるのだから。私はじゃが芋のまま、世界一を目指すしようじゃないか。まずは、その為の一歩だ。
先輩のいない間にネット探偵の宣伝用の動画を取り終えた。編集をしていると、缶詰めを手に戻ってきた先輩は訊いてくる。
「もう、彼氏とは仲直りしたのか?」
「んー、保留中です」
と返しておく。どうしたものだろうか。
あれ、彼とのわだかまりが溶けた事を私は先輩に話したっけ。あの後、先輩に私の気付きを聞いて貰おうといった所、そんな事よりもとカレーの話を聞かされて有耶無耶になったのだ。
先輩のカレー話は偶然に役に立ったわけではないのだろうか。なんて、まさかね。
先輩はただ、カレーの話がしたかっただけなのだろう。私の推理力があの時にたまたま花開いたのだ。きっとそうにちがいない。不慣れなスパイスと、先輩のカレー話が私の脳細胞を活性化させたに過ぎない。
そのふたつがあれば、私は謎が解けるはずなんだと先輩の元に駆け寄っていく。
「先輩、聞いて欲しいことがあるんです。大葉、この間、大学で不思議なものを見たんです」
すると、くるくるお玉をかき混ぜなら、
「まったく、しょうがないな」
と白衣の男は振り返る。
「それじゃあ、話を聞こうじゃないか。カレーを煮込む、その間だけな」
と。
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