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純喫茶 その4

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 この純喫茶、思ったより手ごわいな。
  そう考えていた時だった。
  流れていたBGMが変わる。
  バイオリンの軽快な音が鳴り響き始めた。



  ワルキューレの騎行



  店内に一気に緊張感が漂う。
  厨房から漂ってくるバターと玉ねぎを炒める香り…………それは地平線の彼方から飛来する戦乙女たちの雄姿。
  これから起こるであろう激戦を前に震える戦士を鼓舞するがごとき、ワルキューレの乱舞と言ってよかった。

  その時はもうすぐそこまでやって来ている。最終決戦の時がもう手の届くところまで……


 逸るな、まだだ。まだその鏑矢は飛んでいない。文豪たるものこの程度で狼狽えてはならないのだ。

  まだか……まだ来ないのか。

  気を許せば荒れ狂いそうになる私の胃袋にその芳香は容赦なく襲ってくる。おのれ、こしゃくな。

  ナポリタン、なにするものぞ!

  叫びたい衝動を必死で抑えつけ、私は文豪としての威厳を何とか保っていた。だが、それも何時決壊するか私にも自信はなかった。
  気が狂いそうになったその時、マスターが現れる。

  絶妙なタイミング、憎らしいほどの演出だ。

  こんなに読者を焦らせ、気分を高揚させる作家は最近私を除いてついぞ見たことがない。



  一芸に通ずるものは全てに通ず。



  これほどこの言葉を痛感させられることはないだろう。私はマスターを見つめた
 落ち着き払って持ってきたそれは、今やもう絶滅したと思っていた銀の皿だった。

  かつて喫茶店ではよく見られた、あの銀の皿である。やってくれる、やってくれるではないかマスター!

  これほどの衝撃は最近なかったことだ。まさかこんなところで出会うとは人生とは分からないものだ。
  事実は小説より奇なり、を地で行くのを体験する日がこようとは夢には思わなかった。


  やられた、やられたよマスター。

  たしかに緒戦はマスターの勝ちを認めようじゃぁないか。それはボクシングでいうならフェイントのジャブの中に本命の、打ち倒すためのジャブを紛れ込ませた熟練の技巧派ボクサーのそれと言ってよかった。
  ものの見事にマスターの術中に嵌ったという訳だ。ここまで見事にやられたら、ぐうの音も出ないというものだ。


  ことり。


  静かにそれは置かれる。
  隣にはペーパーナプキンに巻かれたフォークがあった。どこまで見せつけてくれるのだ、マスターよ。
  この細部に至るまでの心憎い気遣いに私は小説家としての自負にヒビが入るのを感じる。



  もはや出し惜しみはなしだ。
  何より問題は味だ。そうだ、味は嘘を付かない。幾ら見た目を誤魔化そうとも最後はそこだ。
  焦る気持ちを押さえ、フォークを取り出す。
  大丈夫だ、手は震えていない。私は冷静だ。


  銀の皿に盛りつけられた紅蓮のパスタを見てみる。具は玉ねぎ、薄切りにされたピーマン、そして短冊に切られたハム。
  分かってるじゃぁないか、まったく驚きだよ、マスター。
  昨今、何を勘違いしたか矢鱈豪華なナポリタンがあるが、そんなものはまやかしに過ぎない。



  はっ、何が選りすぐりのトマトから作り出したソースだ!

  はっ、何がイベリコ豚のベーコンだ!

  具だくさんのナポリタンなど、それこそお笑いだ!



  シンプル イズ ベスト。

  そんな言葉が頭に浮かぶ。そうだ、その通りだ。真実は何時だってシンプルにこそ宿るのだ。着飾れば着飾るほど、その本質から遠ざかると何故分からない?
  その点、このナポリタンはどうだ?
  これ以上ないほどシンプル、これから更に引いてしまえば、それはもうナポリタンではなくなってしまう。
  最小限にして最大の魅力を余すことなく引き出しているこのナポリタン…………強敵だ。

  私の心はこれから起こるであろう無慈悲かつ非情な戦いに打ち震えている。
  駄目だ、もう我慢出来ない。
  例え締切がそこまで迫っていようと、私はもう止められないぞ。
  さぁ至福の時はもうそこまで来ている。
  あとは存分に口中に押し込み、咀嚼し、胃袋に流し込むだけなのだ!



  フォークにパスタが絡みつく。
  触れたところが真っ赤になり、立ち上がる湯気が私の欲望を加速させる。
  最初の一口は何も付けない。
  いきなりタバスコだのチーズだの掛けるのはならず者の所業と心せよ!







  いざ、尋常に勝負!





  放り込まれたそのナポリタンは紛うことなきケチャップのそれだ。
  そうだ、それこそ喫茶の女王たるに相応しい。トマトソース? 冗談を言うな。
  ケチャップのみの味付けこそ正義。

  そして何よりはこのパスタだ。
  茹でたて? 何を言っている?
  喫茶店のナポリタンと言えば、茹でて放っておかれパサついたパスタにこそ、その神髄があるのではないか?
  そんなことも分からないで、世の真実を余すことなく記述する文豪となれるものか。

  もはやこのナポリタンは私のこめかみを的確かつ強烈に打ち抜く必殺のフックだった。
  気付いたときにはすでに空になった銀の皿があるのみだった。



  完敗だ。



  まったくもってマスターの完勝と言っていいだろう。悔しいが私は負けを認めなければならないようだ。
  残ったメロンソーダを一気に呷り、私は会計を済ませた。



  「美味かったよ、マスター」


  私はその勝利者を讃える。
  ロマンスグレーのマスターは無言で目礼をする。
  そうだ、言葉はいらない。
  最後まできっちりと私の心を鷲掴みにしたこの純喫茶には脱帽するよりないようだ。









  扉を開けて外に出る。
  空は何処までも高く、秋の訪れを感じさせた。
  しかし、完敗したにも関わらず、この満足感はなんだ?
  この清々しさはどうしたことだ?

  そんな疑問が心に浮かぶが適度に満たされた腹の前ではもうどうでもいいことだった。
  いい戦いだった、そういい戦いだったのだ。
  全力でぶつかり合い、己の力を余すことなく出し切り、その結果私は負けた。

  気付けば今まで抱えていた焦燥感も苛立ちも消えていた。
  あぁなんと気持ちの良い空なのだろう。

  そう言えば最近、空を見上げることすら忘れていた気がする。
  それを思い出させてくれたあの店には感謝をしなければならないだろう。
  私は軽くなった足取りで自宅に向かう。



  今ならきっと傑作が書ける予感がするのだ。


  また来よう、私は密かに誓っていた。





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