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第8話 高杉パラダイムシフト
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6月に入り、梅雨入りが宣言されたというのに、この日はからりと晴れて、直射日光で肌が焼けつくようだ。
そんななかを、愛凛は自転車にまたがって、我が家にやってきた。
自由が丘から駒沢はさほど遠くはないが、歩くとそれなりに時間がかかる。自転車ならすぐだ。
愛凛は襟のついた白のタイトミニのワンピースで、気のせいか、いつもよりフェミニンな印象だ。あれで自転車に乗ったら、スカートの奥の秘せられし三角地帯さえ、白日のもとにさらされるだろう。
誘ってるのかもしれない。
まぁ、童貞の想像力、勘違い力というのはこういうものだ。
俺は何やら異様な緊張感とともに、彼女を玄関へと招き入れた。
「お邪魔しまーす」
「ごめんね、今日お父さんもお母さんもいないから、なんにもお構いできないけど」
「なぁんで謝んの。気を遣わなくていいし、全然いいよ。お昼も食べてきたから」
家族がいないと分かっても、彼女は別に警戒心を抱くそぶりもない。
やはり、俺のことを男として見ていないのだろうか。
それとも、男子と二人きりになる、そしてその先のことなど、彼女にとっては特に珍しくもなく、緊張や警戒をするほどのことですらないのだろうか。
ありうることだ。
「ちょっと、リビング散歩させて」
俺があれこれ考えているよそで、彼女は無遠慮に居間を見て回った。
なにがそんなに面白いのか、壁に飾られている絵やテーブルの写真をながめたり、ソファやクッションなどのインテリアを熱心に見ている。
「落ち着いてて優しい感じだね。お母さんがインテリア決めてるの?」
「うん、たぶん」
「次、みーちゃの部屋見せてよ」
「う、うん」
俺の部屋は2階だ。
愛凛が入ると、そっけないヲタク部屋が、それだけでまるで魔法にかけられたように華やかさをおびて感じられた。
「へーけっこうキレイにしてんだね。ヲタクの部屋って、もっとポスターとかフィギュアとか、モノがあふれてんのかって思ってた」
「俺はゲームが好きなだけで、アニメとかはほとんど興味ないからね」
「ヲタクにも色々あんだね」
もっとも、部屋はこの数日間で念入りに整理と掃除をしておいた。女子が部屋に入るというのは俺にとって初めてだし、特別なことだ。いつもは散らかっているが、見違えるようにさっぱりしている。
「じゃあ、さっそくゲーム教えて」
「うん。そしたらまずトレーニングモードで、基本的な動きから教えるよ」
彼女をチェアに座らせ、そのそばに膝をつくと、爽やかな匂いがする。
美少女というのは、汗をかいてもなぜこのようにいい香りを放つのだろう。
(いい匂い……)
俺は震えるほどに感動した。性格はともかく、こんなピチピチギャルと自分の部屋で二人きりになれるなんて、それだけで奇跡のような体験だ。
愛凛は俺のひそやかな感動に気づく様子もない。
「これトレーニングに入ったの?」
「そう。まず動き方なんだけど、キーボードでWを押すと、前に進める。方向はマウスで調整ね。アイテムの前まで歩いて、Fで拾えるよ。やってみて」
「はーい」
素直な返事が愛らしい。
「銃を拾ったら、次に照準器とか拡張マガジンとかのアタッチメントを装備して、銃を強化してみよう。こっちに動いて」
「はい」
「この、レッドドットサイトと拡張マガジンを拾って、Tabキーでインベントリ画面を開く。マウスでドラッグして、こことここに動かしてみて」
「はい」
「Tabキーで元に戻して、右クリックすると、さっきつけたサイト越しにターゲットを狙える。左クリックを押し込むと撃てるよ」
「わぁほんとだ! けど反動で上向いちゃうんだねー」
「そう。銃によって反動の具合も違うから、それをうまくコントロールしながら、標的に撃ち勝たないといけないね。周りをよく見て、より速く、より効果的に攻撃しないと生き残れない」
「へーめちゃくちゃ面白いじゃん。次、遠距離で狙うやつ教えてよ!」
愛凛はFPSが気に入ったようで、そのあと2時間ほど、トレーニングやマッチを回して存分に遊んだ。
と思うと、いきなり電池が切れたようにゲームを放り出して、許可もなく本棚からマンガを取り出して、ベッドに横たわる。
引き締まった筋肉質な脚がふとももの半分ほどまで見えて、俺は彼女が先ほどまで座っていた椅子に戻りながら、思わず自らの股間をおさえた。
わがままで、自由で、大胆な女だ。
「なぁんか疲れちゃったー。でも面白かったよ。ありがとねー」
「あぁ、うん、楽しかったならよかった」
「ゲームは普段、全然やらないけど夢中になるの分かるかも。家近いしさ、たまに遊びに来てもいい?」
嫌だ、とは不思議とまったく思わなかった。
「いいよ。でもさ、不安にならないの?」
「ん、なにが?」
「いや、だって友達っていっても、男の部屋に一人で入るの、怖かったりしない?」
「みーちゃになにかされるんじゃないかって?」
ふっ、と軽く笑う気配が整った横顔に浮かんだ。
「私、仲良しがみんな友達ってわけじゃないから。信頼できない人は、仲が良くても友達とは思ってないもん」
「俺を信頼してるってこと?」
「じゃなかったら、付き合ってもいない男の部屋になんか怖くて入れないよ」
俺は少し、不快な気分になった。
愛凛に対してじゃない。これはいわば、自己嫌悪だ。
彼女が俺の部屋でこうしてくつろいでいるのは、ただ単に俺のことを友達として信頼しているからだった。
俺のことを男として軽く見ているからでも、ましてや彼女が男の部屋に入ることに抵抗のない尻軽女だからでもない。
彼女のことを誤解していた自分が、ひどく汚れた、愚かな人間に思われた。
愛凛はページをめくりながら、のんびりした口調で続けた。
「みーちゃだってさ、私のことは別にタイプでも、好きでもないでしょ」
「え……う、うん……」
「でしょ。だからお互い緊張したり警戒する必要ないじゃん。友達は友達だから」
「男女間の友情は存在しないって言う人もいるけど」
「それが本当なら、人類の半分と友達になれないってこと? そんなの、人生さびしすぎるじゃん。なんで自分から可能性を半分にしちゃうの。それに私が誰を友達と呼ぶかは、私しか決められないでしょ」
この女にして、これほど知的で良識的なことが言えるのか。
俺は彼女のことがよく分からなくなった。俺のような、人生経験も女性経験も絶望的に浅い三軍男子がたやすく理解できるような単純な人間ではないらしい。それ以上に、彼女は俺よりもはるかに大人なのだろう。
恐らく、この時だった。
入学式の次の日から持ち続けてきた、この女を分からせて三軍男子から脱出してやろうなどという、幼稚でくだらない気持ちが完全になくなったのは。
そして、そういった雑念や邪念が消えるとともに、俺の目には彼女がまったく別の意味を持った存在のように思われてきた。
それは言葉にするなら、信頼や、もしかしたら尊敬、そういったものの対象としてであったかもしれない。
突然、俺の脳裏に、箱の封印がほどけて光があふれ出すような鮮やかさで過去の記憶がよみがえった。
俺のことを「低すぎ君」とからかっていた、小学生の頃の愛凛だ。
当時、俺は女子からもそのようにバカにされる存在だったから、当然のように一軍男子からも下っ端とみなされていた。いたずらで持ち物を取り上げられたり、パシり扱いでいじめられることも多かった。
そういう扱いが目に余ると、愛凛はしばしばあいだに入っては、いじめっ子たちを非難し、ときには力ずくで乱暴や嫌がらせをやめさせて、俺を守ってくれた。
まるで、高杉パラダイムシフトが起こったようだ。
そうだった。
彼女は俺をいじめてもいたし、守ってもくれていたのだ。
ほかのどのいじめっ子も、俺の記憶からは抹消してしまったが、唯一、彼女のことは忘れていなかった。記憶がゆがみにゆがんで、彼女がいじめの大親玉のように思い込んでいたが、事実は違う。
まったく違っていた。
この女は、俺にとって。
結局この日、俺は彼女に一切の手出しをすることはなく、無事に家から送り出した。
大切な、友達として。
そんななかを、愛凛は自転車にまたがって、我が家にやってきた。
自由が丘から駒沢はさほど遠くはないが、歩くとそれなりに時間がかかる。自転車ならすぐだ。
愛凛は襟のついた白のタイトミニのワンピースで、気のせいか、いつもよりフェミニンな印象だ。あれで自転車に乗ったら、スカートの奥の秘せられし三角地帯さえ、白日のもとにさらされるだろう。
誘ってるのかもしれない。
まぁ、童貞の想像力、勘違い力というのはこういうものだ。
俺は何やら異様な緊張感とともに、彼女を玄関へと招き入れた。
「お邪魔しまーす」
「ごめんね、今日お父さんもお母さんもいないから、なんにもお構いできないけど」
「なぁんで謝んの。気を遣わなくていいし、全然いいよ。お昼も食べてきたから」
家族がいないと分かっても、彼女は別に警戒心を抱くそぶりもない。
やはり、俺のことを男として見ていないのだろうか。
それとも、男子と二人きりになる、そしてその先のことなど、彼女にとっては特に珍しくもなく、緊張や警戒をするほどのことですらないのだろうか。
ありうることだ。
「ちょっと、リビング散歩させて」
俺があれこれ考えているよそで、彼女は無遠慮に居間を見て回った。
なにがそんなに面白いのか、壁に飾られている絵やテーブルの写真をながめたり、ソファやクッションなどのインテリアを熱心に見ている。
「落ち着いてて優しい感じだね。お母さんがインテリア決めてるの?」
「うん、たぶん」
「次、みーちゃの部屋見せてよ」
「う、うん」
俺の部屋は2階だ。
愛凛が入ると、そっけないヲタク部屋が、それだけでまるで魔法にかけられたように華やかさをおびて感じられた。
「へーけっこうキレイにしてんだね。ヲタクの部屋って、もっとポスターとかフィギュアとか、モノがあふれてんのかって思ってた」
「俺はゲームが好きなだけで、アニメとかはほとんど興味ないからね」
「ヲタクにも色々あんだね」
もっとも、部屋はこの数日間で念入りに整理と掃除をしておいた。女子が部屋に入るというのは俺にとって初めてだし、特別なことだ。いつもは散らかっているが、見違えるようにさっぱりしている。
「じゃあ、さっそくゲーム教えて」
「うん。そしたらまずトレーニングモードで、基本的な動きから教えるよ」
彼女をチェアに座らせ、そのそばに膝をつくと、爽やかな匂いがする。
美少女というのは、汗をかいてもなぜこのようにいい香りを放つのだろう。
(いい匂い……)
俺は震えるほどに感動した。性格はともかく、こんなピチピチギャルと自分の部屋で二人きりになれるなんて、それだけで奇跡のような体験だ。
愛凛は俺のひそやかな感動に気づく様子もない。
「これトレーニングに入ったの?」
「そう。まず動き方なんだけど、キーボードでWを押すと、前に進める。方向はマウスで調整ね。アイテムの前まで歩いて、Fで拾えるよ。やってみて」
「はーい」
素直な返事が愛らしい。
「銃を拾ったら、次に照準器とか拡張マガジンとかのアタッチメントを装備して、銃を強化してみよう。こっちに動いて」
「はい」
「この、レッドドットサイトと拡張マガジンを拾って、Tabキーでインベントリ画面を開く。マウスでドラッグして、こことここに動かしてみて」
「はい」
「Tabキーで元に戻して、右クリックすると、さっきつけたサイト越しにターゲットを狙える。左クリックを押し込むと撃てるよ」
「わぁほんとだ! けど反動で上向いちゃうんだねー」
「そう。銃によって反動の具合も違うから、それをうまくコントロールしながら、標的に撃ち勝たないといけないね。周りをよく見て、より速く、より効果的に攻撃しないと生き残れない」
「へーめちゃくちゃ面白いじゃん。次、遠距離で狙うやつ教えてよ!」
愛凛はFPSが気に入ったようで、そのあと2時間ほど、トレーニングやマッチを回して存分に遊んだ。
と思うと、いきなり電池が切れたようにゲームを放り出して、許可もなく本棚からマンガを取り出して、ベッドに横たわる。
引き締まった筋肉質な脚がふとももの半分ほどまで見えて、俺は彼女が先ほどまで座っていた椅子に戻りながら、思わず自らの股間をおさえた。
わがままで、自由で、大胆な女だ。
「なぁんか疲れちゃったー。でも面白かったよ。ありがとねー」
「あぁ、うん、楽しかったならよかった」
「ゲームは普段、全然やらないけど夢中になるの分かるかも。家近いしさ、たまに遊びに来てもいい?」
嫌だ、とは不思議とまったく思わなかった。
「いいよ。でもさ、不安にならないの?」
「ん、なにが?」
「いや、だって友達っていっても、男の部屋に一人で入るの、怖かったりしない?」
「みーちゃになにかされるんじゃないかって?」
ふっ、と軽く笑う気配が整った横顔に浮かんだ。
「私、仲良しがみんな友達ってわけじゃないから。信頼できない人は、仲が良くても友達とは思ってないもん」
「俺を信頼してるってこと?」
「じゃなかったら、付き合ってもいない男の部屋になんか怖くて入れないよ」
俺は少し、不快な気分になった。
愛凛に対してじゃない。これはいわば、自己嫌悪だ。
彼女が俺の部屋でこうしてくつろいでいるのは、ただ単に俺のことを友達として信頼しているからだった。
俺のことを男として軽く見ているからでも、ましてや彼女が男の部屋に入ることに抵抗のない尻軽女だからでもない。
彼女のことを誤解していた自分が、ひどく汚れた、愚かな人間に思われた。
愛凛はページをめくりながら、のんびりした口調で続けた。
「みーちゃだってさ、私のことは別にタイプでも、好きでもないでしょ」
「え……う、うん……」
「でしょ。だからお互い緊張したり警戒する必要ないじゃん。友達は友達だから」
「男女間の友情は存在しないって言う人もいるけど」
「それが本当なら、人類の半分と友達になれないってこと? そんなの、人生さびしすぎるじゃん。なんで自分から可能性を半分にしちゃうの。それに私が誰を友達と呼ぶかは、私しか決められないでしょ」
この女にして、これほど知的で良識的なことが言えるのか。
俺は彼女のことがよく分からなくなった。俺のような、人生経験も女性経験も絶望的に浅い三軍男子がたやすく理解できるような単純な人間ではないらしい。それ以上に、彼女は俺よりもはるかに大人なのだろう。
恐らく、この時だった。
入学式の次の日から持ち続けてきた、この女を分からせて三軍男子から脱出してやろうなどという、幼稚でくだらない気持ちが完全になくなったのは。
そして、そういった雑念や邪念が消えるとともに、俺の目には彼女がまったく別の意味を持った存在のように思われてきた。
それは言葉にするなら、信頼や、もしかしたら尊敬、そういったものの対象としてであったかもしれない。
突然、俺の脳裏に、箱の封印がほどけて光があふれ出すような鮮やかさで過去の記憶がよみがえった。
俺のことを「低すぎ君」とからかっていた、小学生の頃の愛凛だ。
当時、俺は女子からもそのようにバカにされる存在だったから、当然のように一軍男子からも下っ端とみなされていた。いたずらで持ち物を取り上げられたり、パシり扱いでいじめられることも多かった。
そういう扱いが目に余ると、愛凛はしばしばあいだに入っては、いじめっ子たちを非難し、ときには力ずくで乱暴や嫌がらせをやめさせて、俺を守ってくれた。
まるで、高杉パラダイムシフトが起こったようだ。
そうだった。
彼女は俺をいじめてもいたし、守ってもくれていたのだ。
ほかのどのいじめっ子も、俺の記憶からは抹消してしまったが、唯一、彼女のことは忘れていなかった。記憶がゆがみにゆがんで、彼女がいじめの大親玉のように思い込んでいたが、事実は違う。
まったく違っていた。
この女は、俺にとって。
結局この日、俺は彼女に一切の手出しをすることはなく、無事に家から送り出した。
大切な、友達として。
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