Escape from 底辺(EFT)

一条 千種

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第3話 聖天使降臨す

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 翌日、俺は気を取り直して、右隣の清水という男子に声をかけた。
 これは絵に描いたような陰キャ×ヲタクだ。ただ、自己紹介では登山が趣味だと言っていたから、見かけよりもアクティブなのかもしれない。
 高校生活の最初に友達にするには少々、物足りない気もするが、まぁ今の自分がレベル1だとしたら、こういうので慣らしておくのも悪くない。何よりも、俺たちは同類じゃないか。

 左隣には深澤ゆかりという女子が座っている。美人ではないが、笑顔の多い、感じのいい女子だ。どこかでタイミングを測って、自然に話せるくらいにはしておきたい。

 この朝、何よりも驚かされたのが、愛凛があの木内さんと連れ立って登校したことだ。見るからにイケイケギャルの愛凛とお嬢様の木内さんとでは、水と油のように思えるが、二人は登校途中にどこかで行き合い、意気投合したのか、にこやかに談笑しながら教室に入ってきた。
 俺はそれが気になってしょうがないが、あいつにこれ以上、弱点を見せたくはない。
 さあらぬていで、清水とゲームの話を続けた。

 だが愛凛は図々しい。木内さんと離れ、俺の前に座ると、ためらいもなく話に割り込んできた。

「なんの話?」

 俺と清水は思わず顔を見合わせ、仕方なく俺が返事をする。

「……ゲームの話だよ」
「私も混ぜてよ」
「……ゲーム、やんの?」
「ううん」
「じゃあなんで混ざりたいの?」
「んー社会勉強? ヲタクってどんな話すんのかなって」

 こいつ、さらっと俺たちのことをヲタク認定しやがった!
 確かに誰が見てもそうだろうし、特に俺は自分から3,000時間プレーヤーであることを告知したのだから否定しようもないが、そうもはっきり言うものだろうか?

 高校入学2日目で面と向かってヲタク呼ばわりされるのは、記録的な早さに違いない。
 もういっそのこと、このクラスからの不名誉除隊をお願いしたい気分だ。

「別に、ヲタクだからって特別な話はしないよ。それに知らない話聞いてても面白くないんじゃない?」
「なぁにふてくされちゃってんの、あ・か・ちゃん!」

 指を伸ばして、俺の額を軽くこづく。

 (こっ、こなくそ……!)

 俺は歯噛みし、むかっ腹を立てた。

 しかし子どもの頃に刷り込まれた記憶というものは全身を、というより細胞レベルまでをも強力に支配しているものらしい。
 どれだけ怒りの感情がき上がっても、抗議どころか反発さえできない。

 怖いからだ。

 俺は高岡愛凛という女を、恐れている。
 小学校の頃に彼女にいじめられた記憶が、高校生の俺に忍従をいている。

 情けないことではあるが、俺は血液が沸騰しそうなほどの怒りに震えながら、それでも無言で彼女の仕打ちに耐えるほかなかった。
 彼女のからかいに耐え、沈黙するということは、彼女の行動を受け入れ、黙認することにひとしい。

 それはつまり、もうこのときには、高校3年間における俺と彼女の地位、関係性が決まってしまったということでもある。こいつはこれからも、俺をおもちゃのように殴ったり、壁にぶつけたり、あちこちを引きずり回してもてあそぶだろう。

 俺は目の前が真っ暗になる思いだった。

 この日、授業が物理基礎、数学A、英語表現Ⅰと進んだあとの休憩時間、あの木内さんが俺の席までやってきた。
 というのはもちろん俺の早とちりで、実際には愛凛に話しかけている。

「ラブリー、お話ししよ」
「いいよ、今朝の続き話す?」

 不思議なことに、二人は昨日からのわずかな時間で、たちまち距離を縮め、仲を深めているらしい。
 愛凛が椅子いすに座り、その横に木内さんがしゃがみ込んで、互いにうちとけた表情を見せている。

 俺は正直、愛凛のそういうところに嫉妬しっとし、同時に感銘かんめいも受けた。見る限り、木内さんは人見知りをする感じではないが、愛凛はそれ以上に気さくだ。見てくれは彼女自身言っていたようにツンツンして無愛想なのだが、話し上手で、人付き合いが得意らしい。そういう才能があるみたいだ。小学校の頃も、俺のことをいじめる以外は、誰とでも仲良くやっていた。
 木内さんとも、愛凛の方から積極的に声をかけて、これだけ親密になれたのだろう。

 二人はどうやら好きな音楽が同じのようで、関連した話題で盛り上がっている。俺はスマホを黙々といじりながら聞き耳を立てていたのだが、ゲーム以外のエンタメと隔絶した世界にいる俺には、それが日本の歌手なのか、それとも海外のアーティストなのか、その判断さえつかなかった。

 それにしても、俺の目と鼻の先にちょこんとしゃがんで、しきりと笑顔を見せる木内さんは、本当に魅力的だ。表情の変化が豊かで、目元は知的で爽やか、声も鈴を鳴らしたようなんだ音色、話しぶりも上品でやわらかい。
 そして、千鳥格子の長めのボックスプリーツからのぞく白い生足が、姿勢を変えるたびにまばゆい光を放って、女性経験のない俺をドキドキさせる。

 すると、俺の心理変化が挙動に表れたのか、愛凛が目線をこちらに向けた。
 木内さんを見るときは楽しそうなのに、なんで俺にはそんな冷たい目をするんだよ。

「みーちゃ、盗み聞きしてないでさ、話に入りたいときは自分も仲間に入れてくださいってお願いしなきゃ」
「いや、ぬ、盗み聞きなんかしてねぇし……!」
「うーん、あすあすと話したいー、あすあすと仲良しになりたいー、って心の声が聞こえてくるんだけど」
「ちょ、そんなこと思ってないって!」
「じゃあ、あすあすと仲良くなりたいって思わないのね?」

 ここで意地を張って思わない、と言ってしまえば、木内さんとお近づきになれる可能性を自らつことになる。
 だが、思う、と素直に言う勇気も無論ない。

 俺は回答を拒否することにした。人間には内心を明かさない権利がある。

「そんなこと、大っぴらに言うことじゃないよ」
「素直に言ってれば、友達になれたのに。意気地いくじなしの低すぎ君」
「二人、仲良しなの?」

 少し不思議そうに、木内さんが俺と愛凛の顔を交互に見ながら尋ねた。
 愛凛はすっとぼけて、俺に返答を強要した。

「んーどうだろ。私たち、仲良し?」
「……仲良しっていうか、同じ小学校だったんだよ」
「じゃあ、幼馴染なんだ!」
「……うん、そんな感じ」
「みーちゃ、よかったじゃん、あすあすとお話しできて。私がいなかったら、たぶん一生、話せてないよ」

 確かに、それはそうだ。ただ、言い方が悪い。
 俺は愛凛の傲慢ごうまんで人を虫けらのように扱う態度に心底、耐えかねたが、ここでその我慢に対する思いもよらぬご褒美ほうびが天から降ってきた。

「そんなことないよねー。みーちゃってあだ名なの? 私、木内明日香。よろしくね!」
「あ、あ……っ、よろしく。高杉未来です……!」

 俺のテンパり具合がよほど滑稽こっけいだったのか、愛凛はぶっ、と吹き出した。

 しかし、もうそんなことはどうでもいい。
 普通、クラスの一軍女子にとって俺のような底辺の三軍男子は歩く汚物のごとき存在で、話すことはおろか人とも思っていない。

 木内さんは違う。天使のような優しさを持った人だ。誰に対しても分けへだてなく接する。俺のような人間にさえ、明るく、誠実に、親しげに話しかけてくれる。こんな人は、俺の人生に今までいなかった。
 考えてみれば、一言か二言、他愛もない挨拶と雑談をしただけの時間だったが、俺は舞い上がり、多幸感がダダ漏れの状態になった。

 木内明日香。

 彼女は本物のアイドルだ。間違いない。

 まったく身に余る光栄と言うべきだが、それからというもの、木内さんは愛凛の席に来ることがあると時々、俺に話しかけてくれるようになった。
 話題というほどのものはなく、いつもほんの挨拶程度ではあるのだが、そのたび、俺は生きていることの喜びを全身のミトコンドリアによって感じることができた。

 こういうのを、人は幸せと呼ぶんだね。
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