あなたのすべて

一条 千種

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最終話 永遠の初恋

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 震災直後の混乱が続くなか、ふたりが次に会えたのはちょうど1週間後の3月18日のこと。
 状況がまだ落ち着いていないことと、ふたりきりでのんびり話せる場所がいいということで、彼らは最も多くの思い出が残るいつもの場所、大正記念公園を訪れた。
 公園自体は平常と変わりなく運営されているが、この時期、通常であればフラワーフェスティバルと銘打めいうって多くの来園客を呼び寄せるはずが中止となり、平日でしかもこういう状況下ということもあって、人の姿はあまり多くはない。
 陽気うららかな昼下がり、原っぱの桜もすでに開き始めているというのに、花見客でさえほとんどいなかった。
 もうすぐ、桜も満開の季節だ。その頃にはまた、美咲とふたり、春を訪ねよう。
 いつもの樹の根元で待っていると、明るいグレーのボックスプリーツにダークブラウンのショートブーツ、上は白のTシャツにネイビーのショートトレンチを羽織り、幸太がプレゼントしたト音記号のペンダントというよそおいで、美咲が姿を現す。
「コータ、待った?」
「俺も来たばかりだよ。会いたかった」
「私も会いたかったよ」
 愛くるしい笑顔が、胸を打つほどにいとおしい。
 美咲は幸太のすぐ隣に腰を下ろして、聞いてと言わんばかりに、彼の顔をのぞき込んだ。
「パパとママ、仲直りしたよ」
「えっ、ほんと、よかったね!」
「うん。地震のあと、パパが帰ってきたあとに、3人で家族会議したの。みんなが思ってること、ちゃんと話し合おうって。私、コータの話をした。コータは地震のときも、その前からずっと、私のことを守ってくれた。私の気持ちをなによりも大切にしてくれる。これからもずっとそうだって」
「うん、そうだね」
「だから二人も、夫婦で家族なら、お互いを大切にしてほしいって、お願いした。パパ、分かってくれたよ」
「じゃあ、お義母かあさんは仕事に戻れる?」
「うん! でね、4月からは私も一人暮らし始めるし、月に一度は夫婦でデートしようってことになったよ」
「あははっ、かわいいね!」
「そう、かわいいでしょ!」
「美咲の離婚回避ミッション成功だね」
「うんうん、バッチリ! でもね、これもコータのおかげだよ」
「俺の?」
「そう、コータのおかげ。私、コータがいてくれたから、この1年、悔いなく過ごせた。失敗した吹奏楽の演奏会も、コータがセットしてくれたソロ・コンサートのおかげで、うまくいったよ。文化祭も、修学旅行も、コータがあんなに楽しい時間にしてくれて。受験だって、コータが勇気と力をくれたから、受かったんだと思う。それと、一番は私の好きな人になってくれたこと。コータは、私の初恋のひとだよ。コータがこの公園で、私に想いを伝えてくれたとき、ほんとは少し怖くなったの。あなたといると、私、きっとあなたのこと好きになって、大好きになって、それは幸せなことのはずなのに、いつか自分が傷つくことになるんじゃないかって。でも、それでも信じてみようと思った。コータの気持ち、自分の気持ちも。コータは一度も、私の手を離さなかったよね」
 美咲はそう言って、微笑んだ。
 立てた両膝に両腕を預け、そこへ頬を乗せて、幸太を優しく見つめている。
 彼女の眼差まなざし、彼女の笑顔は、幸太にとってよろこびであり、幸せそのものだった。
「俺は、君のこと、愛していたかったんだよ。もう、二度と後悔したくなかったんだ」
「私も、コータが言ってくれたみたいに、後悔のないように、自分らしく生きようと思った。だから、両親にも、後悔のないようにしっかり話し合おうって言えたんだと思う。私ね、今、なにひとつ悔いがないの。全部、コータのおかげ。コータがいてくれなかったら、私は何度やり直しても、たくさんの後悔を残してると思う」
「俺も同じだよ。君がいてくれたから……」
 幸太は、すぐには言葉が出なかった。
 ただただ、胸がいっぱいだった。
 彼には、もう想像さえもできない。
 このひとを愛する、それ以外の人生など。
 美咲は、言わずとも分かってくれた。
 愛情に満ちた爽やかな笑顔とともに、彼女は幸太の想いを、黙って受け止めてくれた。
 話題が互いの一度目の人生に移ったとき、美咲はやや神妙な表情を見せた。
「そういえば、コータは真理まりさんとは、どうやって出会ったの?」
 真理さん、と美咲は言った。あえて奥さん、と形容したくない気持ちがあるのだろう。
 幸太にとってもこの場合、美咲のその表現に救われた。
「海外駐在先で知り合って、まぁ職場結婚てやつかな」
「もう会えなくても、後悔はしない?」
「後悔はしないよ」
 と、幸太は断言した。これは本心だった。
「彼女のことは、人間として嫌いになったわけではないけど、夫婦としては合わなかった。俺は結婚したことを後悔したし、彼女もそうだったと思う。お互いに、今度こそ後悔のない人生をそれぞれに送れたら、それでいいと思うよ」
 これも、本心だった。
 互いに後悔しかない結婚生活など、ともに不幸になるだけだ。
 もう、幸太は後悔はしない。
 美咲はほんのりと、安堵あんどの色を浮かべたように見えた。
 ふたりのタイムリープ体験についても、改めて話した。
「俺、あの日、家に帰ってから酔いつぶれてさ。そしたらあれたぶんジャ〇ーさんだと思うんだけど……」
「え、あのジャ〇ーさん!?」
「うん、そう、あのジャ〇ーさん。で、Youつまんない人生だねぇ、Take2いくよって言われて、そしたら教室で起きたんだよね。美咲がレモンのハンカチ渡してくれた時」
「なにそれ……?」
「うん、まぁそういうもんなんだろうね」
 美咲はぶっ、と吹き出し、ダンゴムシのようにころころと転がりながら、涙を流して笑った。
「美咲は、眠って、起きたら実家にいたの?」
「うふふ、私も似た感じ。目覚めたのはたぶん、コータが戻ってくる前の日」
「どんな?」
「私、酔ってテーブルで寝ちゃって。気づいたら、目の前にサ〇チーがいたの」
「うん、ごめん、サ〇チーってもしかしてあのサ〇チーだったりする?」
「うん、たぶんそのサ〇チー。あなたバカね、一度しかない人生を粗末にして、出直してらっしゃいってしかられた」
「……怖くない?」
「怖かったけど、優しかったよ」
「あぁ……まぁ、そういうもんなんだろうね」
 サ〇チーとジャ〇ーさん。
 共通点があるとすれば、今は存命だが12年後には亡くなっているということと、どちらもダーティーなイメージがあるということ、なにはともあれスゴい人、ということだろうか。
 なぜ彼らなのか、などということは考えてはいけないだろう。
 考えて、分かるはずもない。
 ともかく、そういうものなのだろう。
「けど、いつかまた、人生やり直しにさせられちゃうのかなぁ」
 美咲のその疑問は、確かに幸太にとっても気にかかる。
 ジャ〇ーさんはこうも言っていた。
「今みたいな人生じゃ見てる方もつまんないんだよ。もっとオイシイをちょうだいよ」
 と。
 シミュレーション仮説というものがある。
 これは要するに、人間が知覚できる世界はすべてがより知的な存在が構築したシミュレーションのもとにある、という見解だ。周囲の人間や環境、もっと言えば地球も宇宙も、そして自分自身も、仕組まれたプログラムの一部であるに過ぎない。
 幸太もそうで、実はジャ〇ーさんが監督を務めるリアリティ・ショーの演者なのかもしれない。
 バカバカしい。
 と、以前の幸太なら笑ったろうが、今はそう言下げんかに否定もできない。
 ただ、これこそ考えても仕方のないことではある。
 それにジャ〇ーさんの思惑はどうあれ、あのときの発言を思い返す限り、幸太自身が悔いなく毎日を生きていれば、再び過去に送られることもないだろう。
 幸太は、今が一番、幸せだ。
 それは、美咲を日々、より幸せにできているからでもある。
 幸太はもう、過去に戻る必要はない。
 美咲といる、今さえあれば。
 美咲に、そのことを伝えたかった。
「よく分からないけど、きっと後悔なく、精一杯生きていれば、同じことはないよ。もし同じことになっても……」
「なっても?」
「……美咲、伏見稲荷の千本鳥居で話したこと、覚えてる?」
「過去に戻れるならいつ、って話?」
「そう。俺、あのとき美咲が言ってくれたこと、よく覚えてるよ。今が一番幸せだから、過去に戻りたくない。何度やり直しても、今に戻ってくるって」
「覚えててくれたんだね」
「もし同じことになっても、過去じゃなくて、そのときそのときの、今に戻ってこよう。俺たち、いつだって、過去よりも、今の方が幸せだから」
「コータ……」
「美咲がそう思ってくれるように、俺、これからも美咲のすべてを、俺のすべてで愛していくから」
「……ありがとう、コータ。うん、そうしよ。私も、あなたのすべてを愛してる。今も、これからもずっと」
 この約束はきっと、ふたりの最も大切な誓いとして、ふたりの手で守られ、育てられていくだろう。
 春風は空の色で、ふたりの頬をで、過ぎてゆく。
 幸太が美咲の短く整えられた髪に触れ、そっと抱き寄せた。
 そのまま、互いの心に触れるような優しさといとおしさで、口づけを交わす。
 ふたりはそれまでにたどった道、思い出を、ひとつずつ、言葉にしていった。

 初めて、この公園で会った日のこと。
 ひたむきにサックスの練習をする、美しいひと。
 大好きな歌を口ずさむ美咲。
 その美咲の姿をおさめた写真。
 そして、幸太が美咲に想いを伝えた、あの放課後。

 そうしたひとつひとつを、ふたりはそれぞれの想いとともに共有していった。

 ドキがムネムネする、水族館デート。
 そこでつまみ上げた、ヒトデの感触。
 美咲が語ってくれた、幸太へのまっすぐな恋心。
 夏休みの音楽室で聞いた、『あなたのすべて』。
 初めて互いを名前で呼んだあの時。

 思い出を重ねてゆくうち、美咲は春の風のにおいに眠気を誘われたのか、幸太の頬に寄りかかって、静かに目を閉じた。
 幸太はそれでも、思い出を言葉につむぎ続けた。

 お台場で贈った、誕生日プレゼントのペンダント。
 美咲が砂場でつくったふたりの顔。
 まるで異世界に続いているような千本鳥居の道。
 ふたりで見た、夜の紅葉。
 その帰り、美咲が流した涙と一途いちずな口づけ。

 そこまでで、幸太の声も途切れた。
 美咲と同様、彼も意識を失うように、ゆっくりと、まぶたを閉じた。
 それでも、ふたりは互いに寄り添ったまま、握った手を決して離すことはなかった。
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