17 / 47
第17話 美しく咲くひと
しおりを挟む
六本木デートの次の日、美咲からメールが入った。
『ね、昨日、一番話したいことあったのに忘れちゃってた!』
『どしたどした? 電話で話す?』
『ううん、まだ内緒にしとく!』
『次会ったとき話す? いつ会えるかな』
『学校がいい。今週、旅行に行くのと、千尋たちと約束あったりするから、18日の水曜日、学校に来られる?』
『学校だね、何時でもいいよ!』
『じゃあ、12時に学校で!』
なぜ学校なのか、と幸太は当然、思った。美咲にとって、何か、学校でなければならない理由があるのだろう。
それならそれで、知らずにいるのもいい。美咲が何をしたいのか、何を話したいのか、想像しながら、答えを待つのも楽しい。
自室でニヤニヤしていると、いつの間にか真横に姉の幸美の顔がある。
「げっ、なんだよ! 勝手に入ってくんなって!」
「家族なんだから、いいじゃなーい。思春期の童貞クンだから恥ずかしいの?」
「童貞かどうかは関係ねぇ。心臓止まるかと思ったわ」
「なぁんか、ニタニタしててキモかったよ」
「悪かったな」
「マシュマロちゃんと、いいことあった?」
「ほっとけって」
「ニヤニヤしちゃって。分かりやすいなぁ」
「てかいつまでうちにいんだよ。早く帰れよ!」
「だって実家にいたら料理も洗濯も掃除もしなくていいし。近くでだらだらしてるだけで、親は喜んでくれるんだから、一石二鳥ってもんよ」
「ったくこっちはいい迷惑だぜ」
「で、どうなのよ。マシュマロちゃんのこと、教えてよ。お姉ちゃん、かわいい弟が心配だわ」
「うるせぇな。心配してもらわなくても、うまくいってんだよ!」
「などと言いつつ、未だに童貞のコータくんであった、と」
(……黒くなれ)
幸太は壁を殴り、怒りをわずかに晴らした。
8月も半ばになり、夏も盛りだ。学校の雑草はぐんぐん伸び、セミの鳴き声も実ににぎやかに聞こえる。
グラウンドではサッカー部や野球部、テニス部といった運動部の生徒連中が、短い青春を謳歌している。
クラスメイトでサッカー部員の木村が、幸太の姿に気づいて走り寄った。
「どうしたコータ、もしかして復帰願いか?」
「まさか」
と言って、幸太は笑った。
サッカーは今でも好きだ。部は都内で強豪でも弱小でもなかったが、彼は右サイドミッドフィルダーとして、部内でもレギュラーを張り、主力選手として期待されていたという自負がある。
だが、2年かぎりで退部した。
高校運動部の、勝利至上主義に嫌気が差したからだ。
楽しくサッカーができない場所には、戻る気はない。戻ったところで、サッカーが嫌いになるだけだ。
美咲からの連絡によると、音楽室の前で待ち合わせ、ということだった。
「お待たせ!」
久しぶりに見る美咲のセーラー服姿は、相変わらずまぶしかった。
白いシャツに、肩を覆うくらいに大きなダークグレーの襟、赤いスカーフ、襟と同じダークグレーのスカート、黒のハイソックスに、黒のローファー。
一分の隙もなく美しい。
あごに滴るほどに流れ出た汗さえも。
「あつはなついねー」
美咲はときどき、さらりと意味不明のことを言う。
音楽室のカギを開けると、すさまじい熱気が熱風のように吹き出した。
ハンカチで汗を拭きながら、美咲がエアコンの電源を入れる。
「松永さ」
「うん、なぁに?」
「きれいだよ」
「えっ……?」
「世界で一番、きれい」
美咲は一瞬、呆然とし、すぐに音響機器の方へ走って、顔を隠した。
幸太は、別に冗談で言っているつもりはない。スマートで褒め上手だから調子のいいことを言っているわけでもない。ただ、本気も本気で思っていることだった。
前も同じことを言って、美咲には笑われてしまった。だが、幸太が美咲をどう思っているか、どれだけの愛情を持っているのか、彼女が確信を持ってくれるまで、幸太はどれだけ笑われても同じことを伝え続けようと思っていた。
「で、今日はどうして音楽室?」
「前に、私が一番やってみたい曲があるって話をしたの、覚えてる?」
「覚えてるよ。内緒だって」
「そう。でね、その曲が文化祭のプログラムに選ばれたの!」
「えっ、すごいね! どんな曲か、すごく気になるよ!」
「文化祭の日まで秘密にしようかなと思ったけど、我慢できなくて。今日、早川君と一緒に聞きたいの」
「俺と一緒に」
幸太は、胸の奥にあたたかいシミが落ちて、それが少しずつ広がっていくような気がした。
美咲が一番、大切にしている曲。
それを、自分と一緒に聞きたいと言ってくれている。
曲が始まり、美咲は幸太の隣に座って、じっと彼の顔を見つめた。
優しい歌声、優しい言葉だ。
幸太は聞いているうちに、涙が流れた。
あぁ、これほど優しい愛情に満ちた、美しい曲があるのか。
「……どうだった?」
「……うん、優しい曲だね」
「もしかして、泣いちゃうくらい、感動した?」
「……うん、そうかも」
「優しいね、早川君」
美しい曲を聴いて涙を流すのが優しいことなら、そういうことかもしれない。
「変かもしれないけど、歌詞を聴いてたら、君のことで胸がいっぱいになった」
「私はこの曲の歌詞を聴くと、あなたのことで胸がいっぱいになる」
幸太が驚いた表情をすると、美咲はこの上ないほどに優しい微笑を浮かべた。
瞳が、濡れている。
「これ、なんて曲?」
「『あなたのすべて』。原曲はずっと昔のなんだけど、何年か前にレコーディングし直したバージョンだよ」
「ありがとう、教えてくれて」
幸太は涙を拭いながら、泣いている場合じゃない、美咲のことを自分が支えなければと思った。
「うまくいくといいね。君が、後悔のないように」
「ありがとう、そう言ってくれると思った」
ふたりは互いの顔を見つめ、笑顔を交換した。
美咲は一度、恥ずかしげに目線を落とし、それから幸太の目に戻して、
「ね、お願いがあるんだけど、笑わないで聞いてくれる? もし嫌だったら、断っていいから」
「なんでも言って」
「私のこと、呼んでほしいの。その、名前で」
言っておいてから、美咲は体ごと、幸太から目を背けた。
恐らく、これを言うのに、彼女はよほどの勇気を振り絞ったに違いなかった。
「……美咲」
「……うん」
「美咲」
「……うん!」
横顔がほんのり赤く、ぱっと笑顔が咲き誇った。うれしいのだろうか。
「美咲」
これほどに短く、それでいてなんと詩的で、可憐で、気高く、美しい名前なのだろう。
美しく咲くひと。美咲。
「美咲、俺のことも、コータって呼んでくれる?」
「うん、コータくん」
「コータ」
「……コータ」
これから何度、幸太は美咲と呼び、美咲は何度、幸太と呼んでくれるだろう。
何百回か、それとも何万回だろうか。
幸太はできればその一回一回を数え、思い出に刻みつけたいと思った。
その一回ごとが、彼にとって幸せな瞬間を約束するものであったから。
『ね、昨日、一番話したいことあったのに忘れちゃってた!』
『どしたどした? 電話で話す?』
『ううん、まだ内緒にしとく!』
『次会ったとき話す? いつ会えるかな』
『学校がいい。今週、旅行に行くのと、千尋たちと約束あったりするから、18日の水曜日、学校に来られる?』
『学校だね、何時でもいいよ!』
『じゃあ、12時に学校で!』
なぜ学校なのか、と幸太は当然、思った。美咲にとって、何か、学校でなければならない理由があるのだろう。
それならそれで、知らずにいるのもいい。美咲が何をしたいのか、何を話したいのか、想像しながら、答えを待つのも楽しい。
自室でニヤニヤしていると、いつの間にか真横に姉の幸美の顔がある。
「げっ、なんだよ! 勝手に入ってくんなって!」
「家族なんだから、いいじゃなーい。思春期の童貞クンだから恥ずかしいの?」
「童貞かどうかは関係ねぇ。心臓止まるかと思ったわ」
「なぁんか、ニタニタしててキモかったよ」
「悪かったな」
「マシュマロちゃんと、いいことあった?」
「ほっとけって」
「ニヤニヤしちゃって。分かりやすいなぁ」
「てかいつまでうちにいんだよ。早く帰れよ!」
「だって実家にいたら料理も洗濯も掃除もしなくていいし。近くでだらだらしてるだけで、親は喜んでくれるんだから、一石二鳥ってもんよ」
「ったくこっちはいい迷惑だぜ」
「で、どうなのよ。マシュマロちゃんのこと、教えてよ。お姉ちゃん、かわいい弟が心配だわ」
「うるせぇな。心配してもらわなくても、うまくいってんだよ!」
「などと言いつつ、未だに童貞のコータくんであった、と」
(……黒くなれ)
幸太は壁を殴り、怒りをわずかに晴らした。
8月も半ばになり、夏も盛りだ。学校の雑草はぐんぐん伸び、セミの鳴き声も実ににぎやかに聞こえる。
グラウンドではサッカー部や野球部、テニス部といった運動部の生徒連中が、短い青春を謳歌している。
クラスメイトでサッカー部員の木村が、幸太の姿に気づいて走り寄った。
「どうしたコータ、もしかして復帰願いか?」
「まさか」
と言って、幸太は笑った。
サッカーは今でも好きだ。部は都内で強豪でも弱小でもなかったが、彼は右サイドミッドフィルダーとして、部内でもレギュラーを張り、主力選手として期待されていたという自負がある。
だが、2年かぎりで退部した。
高校運動部の、勝利至上主義に嫌気が差したからだ。
楽しくサッカーができない場所には、戻る気はない。戻ったところで、サッカーが嫌いになるだけだ。
美咲からの連絡によると、音楽室の前で待ち合わせ、ということだった。
「お待たせ!」
久しぶりに見る美咲のセーラー服姿は、相変わらずまぶしかった。
白いシャツに、肩を覆うくらいに大きなダークグレーの襟、赤いスカーフ、襟と同じダークグレーのスカート、黒のハイソックスに、黒のローファー。
一分の隙もなく美しい。
あごに滴るほどに流れ出た汗さえも。
「あつはなついねー」
美咲はときどき、さらりと意味不明のことを言う。
音楽室のカギを開けると、すさまじい熱気が熱風のように吹き出した。
ハンカチで汗を拭きながら、美咲がエアコンの電源を入れる。
「松永さ」
「うん、なぁに?」
「きれいだよ」
「えっ……?」
「世界で一番、きれい」
美咲は一瞬、呆然とし、すぐに音響機器の方へ走って、顔を隠した。
幸太は、別に冗談で言っているつもりはない。スマートで褒め上手だから調子のいいことを言っているわけでもない。ただ、本気も本気で思っていることだった。
前も同じことを言って、美咲には笑われてしまった。だが、幸太が美咲をどう思っているか、どれだけの愛情を持っているのか、彼女が確信を持ってくれるまで、幸太はどれだけ笑われても同じことを伝え続けようと思っていた。
「で、今日はどうして音楽室?」
「前に、私が一番やってみたい曲があるって話をしたの、覚えてる?」
「覚えてるよ。内緒だって」
「そう。でね、その曲が文化祭のプログラムに選ばれたの!」
「えっ、すごいね! どんな曲か、すごく気になるよ!」
「文化祭の日まで秘密にしようかなと思ったけど、我慢できなくて。今日、早川君と一緒に聞きたいの」
「俺と一緒に」
幸太は、胸の奥にあたたかいシミが落ちて、それが少しずつ広がっていくような気がした。
美咲が一番、大切にしている曲。
それを、自分と一緒に聞きたいと言ってくれている。
曲が始まり、美咲は幸太の隣に座って、じっと彼の顔を見つめた。
優しい歌声、優しい言葉だ。
幸太は聞いているうちに、涙が流れた。
あぁ、これほど優しい愛情に満ちた、美しい曲があるのか。
「……どうだった?」
「……うん、優しい曲だね」
「もしかして、泣いちゃうくらい、感動した?」
「……うん、そうかも」
「優しいね、早川君」
美しい曲を聴いて涙を流すのが優しいことなら、そういうことかもしれない。
「変かもしれないけど、歌詞を聴いてたら、君のことで胸がいっぱいになった」
「私はこの曲の歌詞を聴くと、あなたのことで胸がいっぱいになる」
幸太が驚いた表情をすると、美咲はこの上ないほどに優しい微笑を浮かべた。
瞳が、濡れている。
「これ、なんて曲?」
「『あなたのすべて』。原曲はずっと昔のなんだけど、何年か前にレコーディングし直したバージョンだよ」
「ありがとう、教えてくれて」
幸太は涙を拭いながら、泣いている場合じゃない、美咲のことを自分が支えなければと思った。
「うまくいくといいね。君が、後悔のないように」
「ありがとう、そう言ってくれると思った」
ふたりは互いの顔を見つめ、笑顔を交換した。
美咲は一度、恥ずかしげに目線を落とし、それから幸太の目に戻して、
「ね、お願いがあるんだけど、笑わないで聞いてくれる? もし嫌だったら、断っていいから」
「なんでも言って」
「私のこと、呼んでほしいの。その、名前で」
言っておいてから、美咲は体ごと、幸太から目を背けた。
恐らく、これを言うのに、彼女はよほどの勇気を振り絞ったに違いなかった。
「……美咲」
「……うん」
「美咲」
「……うん!」
横顔がほんのり赤く、ぱっと笑顔が咲き誇った。うれしいのだろうか。
「美咲」
これほどに短く、それでいてなんと詩的で、可憐で、気高く、美しい名前なのだろう。
美しく咲くひと。美咲。
「美咲、俺のことも、コータって呼んでくれる?」
「うん、コータくん」
「コータ」
「……コータ」
これから何度、幸太は美咲と呼び、美咲は何度、幸太と呼んでくれるだろう。
何百回か、それとも何万回だろうか。
幸太はできればその一回一回を数え、思い出に刻みつけたいと思った。
その一回ごとが、彼にとって幸せな瞬間を約束するものであったから。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クールな御曹司の溺愛ペットになりました
あさの紅茶
恋愛
旧題:クールな御曹司の溺愛ペット
やばい、やばい、やばい。
非常にやばい。
片山千咲(22)
大学を卒業後、未だ就職決まらず。
「もー、夏菜の会社で雇ってよぉ」
親友の夏菜に泣きつくも、呆れられるばかり。
なのに……。
「就職先が決まらないらしいな。だったら俺の手伝いをしないか?」
塚本一成(27)
夏菜のお兄さんからのまさかの打診。
高校生の時、一成さんに告白して玉砕している私。
いや、それはちょっと……と遠慮していたんだけど、親からのプレッシャーに負けて働くことに。
とっくに気持ちの整理はできているはずだったのに、一成さんの大人の魅力にあてられてドキドキが止まらない……。
**********
このお話は他のサイトにも掲載しています
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される
永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】
「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。
しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――?
肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる