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第6話 ご褒美
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夜はこの日の結果をWBS上に更新し、さらに念のためロックをかけたファイル上に日記を残した。幸太は日記や日報のたぐいを自主的にやったことはなく、面倒なだけであったが、美咲との思い出は余さず記録しておきたい。
(この頃の俺って、趣味なんてあったかな)
ふと、自室の状況調査を兼ね、夕食後に部屋の片づけをした。高校時代の幸太はおよそ整理整頓が苦手で、いつも部屋は散らかっていた。
その幸太がにわかにばたばたと整理を始めたので、音を聞きつけて2階に上がってきた母親がまたしても眉をひそめた。
「なに、片付けしてんの」
「そうだよー」
「ほんとにどうしちゃったの。片付けなんて催促してもやらなかったのに」
「散らかった部屋は、脳にとって最悪なんだよ。散らかってる状況がストレスで、さらにやる気がなくなる。自分の能力を下げるだけだから、定期的に片づけをしてた方が自分のためにもなるよ」
「人が変わったみたい。気持ちわる……」
「生まれ変わったんだよ」
まったく、幸太自身も未だに信じられない気持ちだが、実際に生まれ変わっているのだ。高校生なのに、大学生活や結婚生活、商社の仕事や海外駐在の経験まである。
(さて、あらかた片付いたな)
所持品をチェックすると、完全に忘れていた思い出が、記憶の倉庫の最も奥からよみがえってくる。
(そっか、一眼レフなんて買ってもらってたんだな……)
これは幸太がサッカー部を2年生かぎりで退部し、暇を持て余していたなかで写真を趣味にしようと思い立ち、父親に頼み込んで買い与えてもらったものだ。史実というか一度目の人生、いわばTake1では、手に入った瞬間に興味を失い、ほとんど使わずじまいになっている。今にして思えば、ひどい話だ。
(カメラ、始めてみてもいいかもな)
日記とは別に、機会があれば美咲の姿を写真として残しておきたい。
翌朝、幸太はまたしても早起きをして、読書をする伊東に話しかけた。
「伊東、昨日は本当にありがとう。一生の恩に着るよ」
「なになに、うまくいったの?」
「色々話せたよ。次は俺がアシストするから」
「お願いね……!」
「任せといて。世の中、信義と信用から人脈はできるからな」
「信義と信用?」
「いや、気にしないで。こっちの話」
(さぁて、来週も公園に行くとして、それまではどうアピールを高めるか、だな……)
普段からあまりしつこく接点を持つと、かえって美咲に警戒されるかもしれない。それに思春期の男女のみで構成されたクラスというのは、人間関係の変化に対して異様に敏感で、妙な噂が立つとかえって動きにくくなる。
とは言え、ただ指をくわえて眺めているだけではいかにも芸がない。
だが金曜日になって、その機会は訪れた。
美咲が、日本史の授業で使う教科書を忘れたのである。
「早川君、教科書を見せてあげなさい」
幸太は教師からの命令が大嫌いだ。だがこの種の指示だけは、男子にとってこの上ないご褒美となる。
「早川君、ごめんね」
「珍しいね、忘れ物なんて」
そう、美咲は部活に打ち込む一方、成績も優秀なしっかり者で、忘れ物はまずしない。つまり教科書がなくて困っている彼女に手を差し伸べる機会というのは、そうそう与えられるものではない。
幸太は今も昔も学校が嫌いだが、毎日好きな人の顔を見ることができる、そしてときには、こういう肩と肩がこすれ合うほどまで近づくことができる、そうした環境と機会を提供してくれるという点では、これほどありがたいものはないとも思っている。
開いた教科書をくっつけた机の境界線、わずかに美咲寄りに置きながら、右と左から該当の部分をなぞるように目で追っていく。視界の端には常に美咲の整った横顔があり、首元や手首からほのかに爽やかな香りが匂い立っている。
(好きだ、ほんとに好きだ……)
これは授業なんぞに集中できるはずもない。初恋の人がこんなに近くにいて、どう頭を動かせというのか。今、幸太の脳内を我が物顔で飛び回っている思いは、ただこうしていたい、こうして美咲の隣にいたい、ただただそばにいたい、それだけだ。
浮ついて思考停止に陥った幸太を含めて、授業は進む。内容は第一次世界大戦期周りである。
日本史の教師、鴻池が突然に宣言した。
「ほーい、全員、教科書を閉じて」
うんざりしたような声が教室内の複数から上がった。この教師は授業のうち、少なくとも一度はこういう時間をもうける。生徒が予習をしっかり行っているかをチェックするため、教科書を閉じさせて、クイズを出すのだ。出題者の気分によっては、同じ生徒に連続で出題される。
「松永」
「はい」
「第一次世界大戦が始まる頃、『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていた地域はどこか」
「え、えっと、確か……」
(バルタン半島……?)
と、美咲はそっとささやくような声と困ったような目線を送って、幸太に助けを求めた。
美咲には、こういうかわいいところがある。
幸太はノートに答えを書いて、美咲に示してやった。
「はい、バルカン半島です!」
美咲はまっすぐ左手を上げ、大げさなほど明るい声で回答した。
美咲には、こういう茶目っ気もある。
かわいい、という男女複数の声が笑いとともに聞こえてきた。
「よし、では早川」
「はい」
「そのバルカン半島が、『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていた理由は」
「バルカン半島周辺は当時、小国を大国が取り巻いて、民族紛争と利害衝突が複雑に働き、緊迫した情勢にあったからです」
「ん、いい答えだね。では第一次世界大戦に日本が参戦した経緯とその動機は」
「日本は元来、ヨーロッパ方面の紛争に直接の利害はありませんでしたが、ロシアを牽制する目的で結んでいた日英同盟の履行を口実に、当時ドイツが掌握していた中国大陸の要所を制圧しました。ヨーロッパで大規模な紛争が起こっている状況を利用し、中国大陸での権益や支配力を拡大しようというのがその狙いです」
「OK、100点。なんだ全部言われちゃって教えることなくなっちゃったなぁ」
教室が大きくどよめいたが、幸太にとっては鴻池やクラスメイトの賛辞などどうでもいい。
美咲が目を丸くし、「すごぉい」と言ってくれたのが、何よりもうれしかった。
実はこのあたりについては、商社勤務の経験が活きている。商社は世界と戦っている。世界の情勢のなかで、情報を武器に戦っている。その企画部門の人間が、世界の歴史を知らないでは、情報戦に勝てるはずがない。経済や貿易に関しては当然として、地理や歴史といった方面にも、ちょっとしたオタクでは歯が立たないほどの知識は持っているのだ。
まぁ、こんなときにまで役立つとは思わなかったが。
日本史の授業が終わり、二人は机を離した。
「早川君、さっきはありがとう。教科書も」
「困ってるなら、助けるのは当然だよ」
美咲の役に立てることならなんでもする、とこの男は本気で思っている。
「へー、カッコいいね!」
美咲のその発言を聞いた複数の男子が、途端に幸太を冷やかし始めた。
「コーちゃん、カッコいい!」
「コーちゃんいつものやったげて!」
「すごいよー、コーちゃんすごすぎるよー!」
こうした掛け合いがしばらく、幸太の教室では流行した。
(ぬぬぬ……カギどもが……!)
まったく、高校生の男子ってのは、本当にバカだ。
(この頃の俺って、趣味なんてあったかな)
ふと、自室の状況調査を兼ね、夕食後に部屋の片づけをした。高校時代の幸太はおよそ整理整頓が苦手で、いつも部屋は散らかっていた。
その幸太がにわかにばたばたと整理を始めたので、音を聞きつけて2階に上がってきた母親がまたしても眉をひそめた。
「なに、片付けしてんの」
「そうだよー」
「ほんとにどうしちゃったの。片付けなんて催促してもやらなかったのに」
「散らかった部屋は、脳にとって最悪なんだよ。散らかってる状況がストレスで、さらにやる気がなくなる。自分の能力を下げるだけだから、定期的に片づけをしてた方が自分のためにもなるよ」
「人が変わったみたい。気持ちわる……」
「生まれ変わったんだよ」
まったく、幸太自身も未だに信じられない気持ちだが、実際に生まれ変わっているのだ。高校生なのに、大学生活や結婚生活、商社の仕事や海外駐在の経験まである。
(さて、あらかた片付いたな)
所持品をチェックすると、完全に忘れていた思い出が、記憶の倉庫の最も奥からよみがえってくる。
(そっか、一眼レフなんて買ってもらってたんだな……)
これは幸太がサッカー部を2年生かぎりで退部し、暇を持て余していたなかで写真を趣味にしようと思い立ち、父親に頼み込んで買い与えてもらったものだ。史実というか一度目の人生、いわばTake1では、手に入った瞬間に興味を失い、ほとんど使わずじまいになっている。今にして思えば、ひどい話だ。
(カメラ、始めてみてもいいかもな)
日記とは別に、機会があれば美咲の姿を写真として残しておきたい。
翌朝、幸太はまたしても早起きをして、読書をする伊東に話しかけた。
「伊東、昨日は本当にありがとう。一生の恩に着るよ」
「なになに、うまくいったの?」
「色々話せたよ。次は俺がアシストするから」
「お願いね……!」
「任せといて。世の中、信義と信用から人脈はできるからな」
「信義と信用?」
「いや、気にしないで。こっちの話」
(さぁて、来週も公園に行くとして、それまではどうアピールを高めるか、だな……)
普段からあまりしつこく接点を持つと、かえって美咲に警戒されるかもしれない。それに思春期の男女のみで構成されたクラスというのは、人間関係の変化に対して異様に敏感で、妙な噂が立つとかえって動きにくくなる。
とは言え、ただ指をくわえて眺めているだけではいかにも芸がない。
だが金曜日になって、その機会は訪れた。
美咲が、日本史の授業で使う教科書を忘れたのである。
「早川君、教科書を見せてあげなさい」
幸太は教師からの命令が大嫌いだ。だがこの種の指示だけは、男子にとってこの上ないご褒美となる。
「早川君、ごめんね」
「珍しいね、忘れ物なんて」
そう、美咲は部活に打ち込む一方、成績も優秀なしっかり者で、忘れ物はまずしない。つまり教科書がなくて困っている彼女に手を差し伸べる機会というのは、そうそう与えられるものではない。
幸太は今も昔も学校が嫌いだが、毎日好きな人の顔を見ることができる、そしてときには、こういう肩と肩がこすれ合うほどまで近づくことができる、そうした環境と機会を提供してくれるという点では、これほどありがたいものはないとも思っている。
開いた教科書をくっつけた机の境界線、わずかに美咲寄りに置きながら、右と左から該当の部分をなぞるように目で追っていく。視界の端には常に美咲の整った横顔があり、首元や手首からほのかに爽やかな香りが匂い立っている。
(好きだ、ほんとに好きだ……)
これは授業なんぞに集中できるはずもない。初恋の人がこんなに近くにいて、どう頭を動かせというのか。今、幸太の脳内を我が物顔で飛び回っている思いは、ただこうしていたい、こうして美咲の隣にいたい、ただただそばにいたい、それだけだ。
浮ついて思考停止に陥った幸太を含めて、授業は進む。内容は第一次世界大戦期周りである。
日本史の教師、鴻池が突然に宣言した。
「ほーい、全員、教科書を閉じて」
うんざりしたような声が教室内の複数から上がった。この教師は授業のうち、少なくとも一度はこういう時間をもうける。生徒が予習をしっかり行っているかをチェックするため、教科書を閉じさせて、クイズを出すのだ。出題者の気分によっては、同じ生徒に連続で出題される。
「松永」
「はい」
「第一次世界大戦が始まる頃、『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていた地域はどこか」
「え、えっと、確か……」
(バルタン半島……?)
と、美咲はそっとささやくような声と困ったような目線を送って、幸太に助けを求めた。
美咲には、こういうかわいいところがある。
幸太はノートに答えを書いて、美咲に示してやった。
「はい、バルカン半島です!」
美咲はまっすぐ左手を上げ、大げさなほど明るい声で回答した。
美咲には、こういう茶目っ気もある。
かわいい、という男女複数の声が笑いとともに聞こえてきた。
「よし、では早川」
「はい」
「そのバルカン半島が、『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていた理由は」
「バルカン半島周辺は当時、小国を大国が取り巻いて、民族紛争と利害衝突が複雑に働き、緊迫した情勢にあったからです」
「ん、いい答えだね。では第一次世界大戦に日本が参戦した経緯とその動機は」
「日本は元来、ヨーロッパ方面の紛争に直接の利害はありませんでしたが、ロシアを牽制する目的で結んでいた日英同盟の履行を口実に、当時ドイツが掌握していた中国大陸の要所を制圧しました。ヨーロッパで大規模な紛争が起こっている状況を利用し、中国大陸での権益や支配力を拡大しようというのがその狙いです」
「OK、100点。なんだ全部言われちゃって教えることなくなっちゃったなぁ」
教室が大きくどよめいたが、幸太にとっては鴻池やクラスメイトの賛辞などどうでもいい。
美咲が目を丸くし、「すごぉい」と言ってくれたのが、何よりもうれしかった。
実はこのあたりについては、商社勤務の経験が活きている。商社は世界と戦っている。世界の情勢のなかで、情報を武器に戦っている。その企画部門の人間が、世界の歴史を知らないでは、情報戦に勝てるはずがない。経済や貿易に関しては当然として、地理や歴史といった方面にも、ちょっとしたオタクでは歯が立たないほどの知識は持っているのだ。
まぁ、こんなときにまで役立つとは思わなかったが。
日本史の授業が終わり、二人は机を離した。
「早川君、さっきはありがとう。教科書も」
「困ってるなら、助けるのは当然だよ」
美咲の役に立てることならなんでもする、とこの男は本気で思っている。
「へー、カッコいいね!」
美咲のその発言を聞いた複数の男子が、途端に幸太を冷やかし始めた。
「コーちゃん、カッコいい!」
「コーちゃんいつものやったげて!」
「すごいよー、コーちゃんすごすぎるよー!」
こうした掛け合いがしばらく、幸太の教室では流行した。
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