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第1話 ささやかな出逢い

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 職場恋愛というものに対して、春生はるきは以前から懐疑的だった。
 例えば、東京は23区だけでも1,000万人近い人々が暮らしており、これに横浜市や川崎市、さいたま市といった近郊の人口集積地域を加えると、優に倍の2,000万人くらいは数えていい。
 そのうち、性別、年齢や婚姻状況で絞り込んでいくとして、恋愛対象になりうるのはざっと100万人は軽く超えるはずだ。
 そのなかから、なぜわざわざ仕事に関わりある人を選ぶ?
 まともな知能があれば、リスクとデメリットしかない職場恋愛などはしないだろう。
 と、そう思っていたのだが、そうした考えもついに過去のものとなるときがきた。

「今日、午前中のシャトーさんの商談、よろしくお願いしますね」
 朝会のあとで、同期入社のインサイドセールス、藤井郁美いくみが春生に明るく声をかける。
 この日はセールスグループの出社日で、春生の所属するフィールドセールス、藤井らインサイドセールス、ほかマーケティングチームが全員、顔を出している。
「あぁ、シャトーさんね、こちらこそよろしく」
「先方、だいぶ前のめりになってくれてるので、積極的にいっちゃってください」
「積極的に、ねぇ」
「あと、担当者の方、美人ですよ」
 くすくす、と笑いながら、藤井は自席に戻っていった。
 春生にしばらく恋人がいないことを知っていて、半ばからかっているのだ。
 (美人、ねぇ)
 これから取引先になるかもしれない会社の担当者が美人だろうとそうでなかろうと、いつも通りに淡々と仕事をするだけだ。
 春生の会社は、アパレル企業向けの業務管理システムを提供している。業界用語で言うところの、バーティカルSaaSサースだ。
 そのセールス担当になってから、春生はちょうど2年になる。大企業から中途入社でベンチャーに移ってきて、ビジネスのスピード感やコミュニケーション文化の違いに戸惑いは持ちつつ、なんとかついていけている。
 あとは恋人がいれば、というところだが、これがなかなか難しい。
 週に4日はリモートで働き、職場恋愛をする気はなく、しかもものぐさときている。
 出会いを求めて飛び出す勇気も、その行動力もない。
 恋愛対象になりうる100万人のうち、彼はまだそのうちの誰にも出会えていないということになる。
 さて、その出会いだ。
 オンライン会議ツールを立ち上げ、藤井とともに待機していると、画面いっぱいに女性の上半身が映る。
 (こ、これが美人……?)
 年は30代後半だろうか。ふくよかで人がよさそうだが、お世辞にも美人とは言えない。
 別に期待したわけではないが、春生は思わず、この人物を美人と表現する感覚を疑う意味で、対面に座る藤井に一瞬だけ、非難めいた視線を向けた。
「お世話になっておりますー。小林です!」
「小林さん、お世話になっております。先日はヒアリングのお時間をいただきありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。藤井さんとおしゃべりしてたら、なんだか時間を忘れちゃって」
「私も小林さんとお話しするのが楽しくて、本日も楽しみにしておりました」
 本商談の前のヒアリングで、よほど盛り上がったのだろう。二人は春生を置いてきぼりにする勢いで、にぎやかに笑い合っている。
「本日は同席の相沢がメインでお話しします。御社は小林さんと、それからユジュさんがいらっしゃいますか?」
「そうですね、うちもユジュがメインでお話を聞くことになると思います」
 (ユジュ? 変わった名前だな……)
 先方担当者の情報は前日に藤井から共有されていたが、あいにく多忙で、細部まで目を通す時間がなかった。
 雑談を交えながら待つうち、彼女が画面にその姿を見せた。
「こんにちはぁ」
 ビジネスがらみの初対面にしてはずいぶん甘ったるい、というよりはあどけない口調が、第一声だった。
 一瞬。
 まさに一瞬で、彼女は春生の心を奪った。
 表示名には、こう書かれている。
『そん・ゆじゅ』
 それが、彼女の名前だった。

 まるで、全身の血が彼をはやし立てているかのようだ。
 体温が上がり、脈拍と呼吸が速くなり、脇や掌に汗がにじむ。
 美人、と藤井は表現したが、その形容はむしろ控えめに過ぎる。
 営業職として、春生はオンラインとオフラインとを問わず、多くの女性を見てきた。当然、美人も多くいた。
 そのなかでも、彼女はそのすべてをぶち抜いていくくらいに、抜群ばつぐんに美しかった。
 最初、彼女はわずかに遅れて参加となったために神妙な面持ちで、クールな雰囲気に感じられた。だがその表情も、藤井が親しげに挨拶をすると、ふわふわと目尻の緊張がゆるみ、口角がきゅっと上がって、その変化が、まるでバラの花びらが開くような鮮やかな香りと彩りに満ちている。
 春生は挨拶さえ忘れて、呆然と彼女に見惚みとれた。
「ユジュさん、今日はフォーマルな感じですね」
「はい、今日はお店に行きますから、シャツ着てます」
「ユジュさんきれいだし、とっても素敵です!」
「イヒヒ、カッコいいですか?」
 名前やわずかに癖のあるイントネーションからしても、韓国の人らしい。
 動揺する春生の内心を見透かしたのか、藤井が彼に話を振った。
「本日は少し長めにお時間とっていただいてますので、メインの担当である相沢含め、改めて軽く自己紹介できればと思います。相沢さん」
「あ、はい、ご紹介に預かりました、セールスの相沢春生と申します。改めて、よろしくお願いいたします」
「ハルキさん、よろしくお願いしますー」
 日本語は相当に上手なのだが、どこかたどたどしさがある。
 無難に経歴などの紹介をし、最後に趣味はロードバイクとお酒です、と言うと、彼女はきらきらと目を輝かせ、話を広げた。
「わたし、ワインがとても好きです! ハルキさん詳しいですか?」
「そうですね、まぁそれなりに」
 ワインに詳しいなど、とんでもないことだ。
 酒が好きだというのは間違っていないが、これはほかに趣味らしい趣味がないのでとりあえずそのように自己紹介しているだけでしかないのと、好きといっても安酒をなんのこだわりもなく飲んでいるだけだ。
 なぜ、そのような嘘を言ったのだろう。
 春生のあと、同僚の藤井と、先方の決裁者である小林さんがそれぞれ自己紹介をしたが、彼はうかつにも、ほとんどその内容を聞いていなかった。
 第一印象とまるで違う、くるくるとよく動く彼女の表情に、目も心も奪われてしまっていた。
 奇妙な体験だ。
 春生はどうも、オンラインの画面越しに、彼女に一目惚れをしてしまったらしい。
「わたし、ソン・ユジュといいます。韓国出身です」
 彼女の自己紹介パートだ。
 この日はパリッとした白のシャツを着こなしていて、それが冒頭のクールなイメージを補強していた。日本と、それからアメリカに留学していたこともあって、いつもはラフな服装が好きらしい。アメリカの大学を卒業したあと、しばらくは韓国のアパレルで働いていたが、日本に住みたい気持ちが強くなり、ちょうど1年前に現職のシャトー・インターナショナル株式会社に入社し、店舗のエリアSVをて、今は店舗で使用するシステムの整備担当をしている。
 シャトー社はフランスに本社があり、彼女は韓国語に日本語、英語で会話ができる上、フランス語もビジネスメール程度ならできるという。
 多才だ。
「ユジュさんは、どうして日本で働きたいと思ったんですか?」
 途中、藤井が質問を挟んだ。
「日本の人、とっても優しいです。住みやすいですし、あとわたし、日本の歌がとても好きです」
「ユジュはね、日本の古い歌を歌って、動画にして配信してるんですよ。もうとっても上手で! ファンもたくさんいるのよー」
「えー素敵ですね!」
 どんな歌だろう、と春生は気にかかったが、藤井もそれ以上は言及せず、彼自身も柄にもなく緊張してしまっていたために、ただ「応援してます」と、意味があるのかないのか分からないようなことを言っただけだった。
 春生はなんとか平静を取り戻して、商談は順調に進んだ。
 課題を把握し、求める要件も理解して、プロダクトの軽い紹介を当てたところ、マッチしていそうという印象を植えつけることができた。
 次回を具体的な提案の場とし、導入後の未来について意見交換をしましょう、という合意のもとで、この日はミーティングを終えた。
 春生が会議をリードしているあいだ、藤井は議事録をとりつつ、片手間で彼女のチャンネルを調べていたようだ。
「相沢さん、見つけましたよ」
「ん、なにを?」
「ユジュさんの動画」
 くるり、とノートPCを反転させてこちらに向けると、なるほど、Yo〇Tubeのチャンネル詳細が表示されていて、上部に彼女のアイコンとチャンネル名が記載されている。
『유주 / ゆじゅ / Yu-Ju』
 下部にはずらりとアップロードされた動画が並んでいる。
「ね、美人だったでしょ?」
 藤井は春生の反応を楽しむように、彼の目をのぞき込んだ。
 同期入社ではあるが、藤井は春生よりも3歳ほど年下で、人なつっこい性格もあって、妹のような存在であり、ほかの同僚よりも距離感が近い。飲み会でも、ほとんど必ずと言っていいほど、春生の隣にいる。
 それだけに、とかく春生の心の動きに鋭い。
「うん、まぁね……」
生返事なまへんじだけど、実は興味あり?」
「いや、俺は職場恋愛は」
「職場恋愛なんてするやつはバカだ、仕事で知り合った人に手を出すなんて頭が悪い。それ、もうミニにタコです」
「……ずいぶん古いネタだな。なんで知ってんだよ」
「恋はするものじゃなくて落ちるものらしいですよ」
「ご助言どうも」
 仕事を終えて家に帰っても、どこか落ち着かない。
 意を決して、春生はYo〇Tubeを立ち上げた。
 ある種の決心が必要だったのは、彼自身、あのひとのことが気になっている自分を、無自覚に認めたくない思いがあったからだ。
 不思議な緊張感とともに、『スローモーション』というタイトルのついた動画のサムネイルをクリックする。
 それが、恋の扉を開けることになったとも気づかずに。
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