ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

文字の大きさ
上 下
201 / 230
第26章 巨星は墜ち

第26章-② 沈みゆく日輪

しおりを挟む
 帝国軍の前線指揮官たちのなかで、最後までヘルムスの身を案じ、その生存と捲土重来けんどちょうらいに力を尽くしたのが第一軍司令官のメッテルニヒ中将であったことは疑いの余地のない事実である。彼はヘルムスが亡命の決意を表明してくれさえすれば、自分が殿軍しんがりとなって死ぬ覚悟を決めていた。もとはヘルムスの私設護衛隊の隊長であり、町の無頼漢ぶらいかんという程度の器量と才覚しか持ち合わせていない彼に目をかけ国防軍中将、軍司令官筆頭の地位まで引き上げてくれたのは、すべてはベルンハルト・ヘルムスという稀代きたいの政治家の徳による。
 それだけに、彼としてはどうしても早期の帝都脱出、帝国脱出をヘルムスに決断してほしかった。
 だが悪いことに、この亡命案に最も強硬に反対したのは、ヘルムス自身であった。理由は実に明快である。
「まだ勝てる」
 これには、メッテルニヒは無論のこと、ほかの高官も内心で愕然とした。我が総統はついに錯乱した、と全員が思った。
 絶句するメッテルニヒに代わって、ヒンケル大将が尋ねた。
「我が総統、どのような勝算がおありですか」
「シュマイザーの第六軍が無傷で残っている。彼がシェラン川を背に背水の陣を敷けば、兵も死力を尽くして戦う。敵は所詮しょせん、寄せ集めだ。勢いを止めれば、すぐに瓦解がかいする」
「しかし、報告ではベーム中将が発した戦線離脱及び降伏の許可により、第六軍でも相当の離反者が出ている模様です。しかも背水の陣は、敵の背後に伏兵を敷くなどの成算があってこそ意味がある戦法でして」
 ヒンケルが言葉を選びつつヘルムスの認識違いを正すと、室内は不気味な静寂に包まれた。直後にはヘルムスの怒号が降ってくるであろう。
 予想通り、数瞬の溜めのあと、ヘルムスは卓上の地図をつかみ、発狂したように叫び始めた。
「ベールの裏切り者め、奴のような裏切り者が、国を敵に売り渡そうとしている。私がどれほど精励し、努力しようと、国を守るべき国防軍がすべてを台無しにする。このような事態になるなら、開戦前に裏切り者を残らず、容赦なく粛清しておくべきだった。シュトレーゼマン、メッサーシュミット、リヒテンシュタイン、ベーム。誰も彼もが裏切り者だ、裏切り者、裏切り者、裏切り者ッ!」
 白いつばきを飛ばし、火を吐くようなすさまじい熱量と勢いでまくし立てる。メッテルニヒを含む側近たちは歯の根を震わしつつこの怒声に耐え、耐えつつ、心中ではヘルムスの行動の無意味さを悲劇的な思いでながめている。今この時に必要なのは、過去への呪いではなく、現在を直視し、未来のために選択することである。ヘルムスが期待するような連合軍に対抗しうる戦力など、もはや帝国のどこにもない。なるほどベームの行動はヘルムスからすれば許しがたい造反であろう。だが今それをののしっても事態の好転に役立つわけではない。時間を浪費するだけではないか。
 そう思ってはいても、彼らが修正を入れるだけの猶予ゆうよを、ヘルムスは与えない。
 1時間ほどが経過し、ヘルムスの喉もしわがれてきた頃。
「第五軍と帝都防衛隊が白旗を掲げ、連合軍への降伏を宣言した」
 この急報に接して、側近らは亡命の機を完全に逸したことを悟った。帝都防衛の責務を負う両部隊が仰ぐ旗を替えた以上、帝都は事実上、陥落したも同然である。第一軍はなお健在ではあるが、どこまで部隊として統率を維持できるかは疑問である。さらに後背の味方が降伏したことを知った帝国軍主力も絶望し、彼らの防御線も突破されて、帝都には早々に教国と合衆国の連合軍が突入してくるであろう。
 決定的であった。
 ヘルムスはもう怒気を発する気力さえないのか、あるいは失望が怒りを上回ったのか、静かに全員に退室を命じた。方針に関する伝達事項は、ない。メッテルニヒはやむなく、軍を率いて帝都中心部へと戻り、降伏した第五軍及び帝都防衛隊を排除すべく戦闘を開始した。数的には第一軍の方が優位だが、事態を悲観した将兵のなかに脱走を図る者が続出し、指揮系統が乱れ、シェラン川東における戦いもほぼ絶望的であったため、メッテルニヒはついに組織的抗戦をあきらめ、少数の幹部らと再び鷹の巣ファルケンネストへと戻った。
 森に分け入ってゆくと、臨時総統大本営を守るべき警備兵や親衛隊の兵卒たちは、以前とはまるで別人のように活気や覇気が失せ、腰が抜けたようにあちこちでたむろしている。ある者はうなだれ、ある者はたばこをくゆらせ、ある者は放心したように仰向けに寝転がり、ある者はめそめそと泣いている。ほとんどは軍司令官たるメッテルニヒに気づいても敬礼や起立すらしなかった。敗戦が彼らの目にも確実になって、失意に打ちひしがれているのであろう。職位柄、メッテルニヒはそうしたくちばしを折られた鷹のように情けない兵卒連中を叱り飛ばしてもよいところであったが、あいにく時間がない。
 施設の入り口を地下へと進み、総統執務室の前まで着くと、親衛隊長クリンスマン大佐が剣と引き換えにドアを開ける。部屋には、軍需大臣のモルゲンシュテルン、宣伝大臣のデューリングだけがいる。
「我が総統、脱出のご用意を」
 開口一番、メッテルニヒはそのように言って、彼の絶対的忠誠の対象に決断を求めた。いや、決断と表現するには遅すぎる。だが、このままここに居座ればヘルムスは連合軍にとらわれの身となるであろう。ヘルムスは偉大な指導者だ。総統が敵の虜囚となり、はずかしめを受け、大衆の面前で断頭台に上がる姿など、メッテルニヒには到底認められない。あくまで生きてもらう。生きてさえいれば、ヘルムスは再びその政治力を発揮して、信奉者を増やし、敵を恐れさせ、帝国の真の支配者として返り咲くことができるはずだ。
 しかしヘルムスは腰を上げようとしない。
「私はヴェルダンディを離れない」
「なぜです、我が総統。たとえ一時的に亡命者の恥辱をかぶろうとも、不屈の信念をもって耐え忍び、命が尽きるそのときまであきらめず闘争を続けるべきではありませんか」
「ブルーノ。敗勢はもはや挽回しがたいが、全将兵は帝都ヴェルダンディを守るため、命を捧げるべきだ。私もその将兵の一人である。これから、私は家族とともに過ごす。日が暮れる前に、私は国家に対する忠誠の証として、自殺する。後事はすべてモルゲンシュテルンに託す。我が帝国に、栄光あれ」
 ヘルムスの声は意外と思えるほどに落ち着いていた。史上最も偉大な独裁者が、その生涯の終わりについて語っている。メッテルニヒにはそれが信じられない思いであり、悪い夢でも見ているような心地であった。
 メッテルニヒはヘルムスの命令に従い、またしても帝都中心へと舞い戻ったが、彼の手元には指揮すべき兵がほとんど残っていなかった。一部はなお律義に第五軍や帝都防衛隊と散発的に戦闘を継続していたが、どうやら連合軍の旗もぼつぼつ見え始めている。連合軍が本格的に帝都へと侵入すれば、打つ手はないだろう。
 帝都を守るため戦え、とヘルムスは言った。
 (だが、これ以上戦ってどうする)
 ヘルムス個人に対する忠誠心の量が過剰に多いために、かえってその死が確定したとともに、彼の気概もすっかり消え失せてしまったのかもしれない。
 (逃げよう、家族を連れて)
 仕えるべき者の消滅とともに、彼も最後は番犬の看板を下ろし人間臭いエゴイストになったと、そう言えるかもしれない。彼はわずかな供回りを連れ、帝都の混乱にまぎれて財務省の金庫を襲撃し、資金をたんまりと持ち出す一方、自らの家族とも合流して夜を待ち、夜陰のなかを北へ北へと逃げた。帝国領北岸から船を乗り継いで、放胆にも合衆国首都ブラックリバーに上陸し、ベニントンからシンシナティ山脈を越えてバブルイスク連邦領へ入り、そこで身分を明かして特別政治亡命者の扱いを受けた。
 当初、連邦政府は彼に充分な待遇を与えた。旧帝国の軍司令官を務めたほどの男である。軍事的才幹はともかく、情報源として活用できるだろうとの見込みがあった。実際には利用価値のある情報は引き出せなかったため、徐々に彼への遇し方は冷淡となり、意義のある活動を歴史に残せぬまま、ミネルヴァ暦1405年に肺炎をわずらって死去している。秘密警察によって暗殺されたという説も根強いが、その時期の連邦政府にとってわざわざ彼を隠密裏に殺さねばならぬほどの価値があったとも思えないため、単なる病死であるというのが通説である。
 さて、帝都からの退避を拒否し、ファルケンネストに残ったヘルムス総統の動向についてである。
 彼は自らが築き上げた帝国の前途がついに閉ざされたことを認め、自殺によって人生を終わらせることを決断した。その準備のため、彼はわずかばかりの時間を欲した。
 身辺に、いくつか片付けねばならぬ事柄がある。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる

三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。 こんなはずじゃなかった! 異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。 珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に! やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活! 右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり! アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活

天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――

三歳で婚約破棄された貧乏伯爵家の三男坊そのショックで現世の記憶が蘇る

マメシバ
ファンタジー
貧乏伯爵家の三男坊のアラン令息 三歳で婚約破棄され そのショックで前世の記憶が蘇る 前世でも貧乏だったのなんの問題なし なによりも魔法の世界 ワクワクが止まらない三歳児の 波瀾万丈

修復スキルで無限魔法!?

lion
ファンタジー
死んで転生、よくある話。でももらったスキルがいまいち微妙……。それなら工夫してなんとかするしかないじゃない!

【完結】そして、誰もいなくなった

杜野秋人
ファンタジー
「そなたは私の妻として、侯爵夫人として相応しくない!よって婚約を破棄する!」 愛する令嬢を傍らに声高にそう叫ぶ婚約者イグナシオに伯爵家令嬢セリアは誤解だと訴えるが、イグナシオは聞く耳を持たない。それどころか明らかに犯してもいない罪を挙げられ糾弾され、彼女は思わず彼に手を伸ばして取り縋ろうとした。 「触るな!」 だがその手をイグナシオは大きく振り払った。振り払われよろめいたセリアは、受け身も取れないまま仰向けに倒れ、頭を打って昏倒した。 「突き飛ばしたぞ」 「彼が手を上げた」 「誰か衛兵を呼べ!」 騒然となるパーティー会場。すぐさま会場警護の騎士たちに取り囲まれ、彼は「違うんだ、話を聞いてくれ!」と叫びながら愛人の令嬢とともに連行されていった。 そして倒れたセリアもすぐさま人が集められ運び出されていった。 そして誰もいなくなった。 彼女と彼と愛人と、果たして誰が悪かったのか。 これはとある悲しい、婚約破棄の物語である。 ◆小説家になろう様でも公開しています。話数の関係上あちらの方が進みが早いです。 3/27、なろう版完結。あちらは全8話です。 3/30、小説家になろうヒューマンドラマランキング日間1位になりました! 4/1、完結しました。全14話。

婚約破棄は誰が為の

瀬織董李
ファンタジー
学園の卒業パーティーで起こった婚約破棄。 宣言した王太子は気付いていなかった。 この婚約破棄を誰よりも望んでいたのが、目の前の令嬢であることを…… 10話程度の予定。1話約千文字です 10/9日HOTランキング5位 10/10HOTランキング1位になりました! ありがとうございます!!

処理中です...