ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

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第24章 氷雪に閉ざされし大地

第24章-⑤ 前途は予見せざりし

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 マヤの仕掛けたトラバサミの罠によって、アオバはついに意識を失った。
 彼女はこの時点で、自分の生命が終わったことを確信していた。だが実際には、マヤは幼馴染であるアオバの命を断つことをためらい、結局、アオバの愛用している髪紐を奪っただけであった。里に戻ったら、それをアオバを殺した証とするつもりだったのであろうか。
 マヤは忍びとしての素質に恵まれ、鍛錬の期間においてもアオバとは比較にならない。だが、それでも頭領のミナヅキはマヤの器量をあやぶみ、里の外の仕事には出さなかったという。才能は豊かだが人間が甘い。例えば、ともに育った幼馴染が相手では首をとることすらできぬ。ミナヅキはマヤのそうした一面を見抜いていたのかもしれない。
 アオバが目を覚ましたのは、自力によってではない。犬が、彼女の頬をねぶる、その生温かくもむずがゆい感触によってであった。
 覚醒した瞬間、彼女の周囲はすでに朝の白い光によって満たされていた。それが少しずつ晴れ、状況が視覚的に把握できるようになり、まず気づいたのは、かたわらに座る犬の存在であった。アオバの知っている犬ではない。アマギの里では、番犬、猟犬、任務の補助役として多くの犬が飼われていたが、それらの犬種とは顔つきが違う。恐らく王国の原産ではあるまい。教国か、帝国あたりで産まれた犬かもしれない。
 それに、野犬ではなさそうだ。明らかに人の訓練が入った立ち居振る舞いがあり、それにどことなく表情や目線が聡明である。態度も、まるで新たな主人にかしずく忠犬のようだ。
 アオバはけだるさの残る体を起こしつつ、この犬の右前脚に巻かれたこよりを発見し、直感的にそれが自分に宛てたものであると悟った。
 こうある。
「名はサギリ、役に立つ」
 この書面の送り主は、アオバの身の上について知った上で、これからの逃避行に犬を役立てるように言ってきている。間違いなく、里の者の仕業しわざであろう。
 アオバは、その正体について確信に近い心当たりがあった。里の年寄の一人、ハグロに間違いはない。年寄とは里の庶政を担当する、頭領の補佐役のことである。そして、彼はアオバの母であるナカの弟、すなわちアオバの叔父おじであった。異常に無口な男で、姪のアオバともほとんど言葉を交わすことはなかったが、里にあっては一方の重鎮として信望を得ていた。
 送り主がハグロであると断定したその根拠は、手紙の文字にあった。筆跡ではない。墨の濃さである。ハグロは極端な吝嗇りんしょく家としても知られており、倹約のために墨をわずかしか使わず、このため彼の筆跡は水のように淡いのが常であった。
 (叔父上……)
 ハグロが、義理の兄で頭領でもあるミナヅキを殺した彼女になぜ助力をするのかは分からない。だが、マヤに一度は奪われかけ、拾った命である。
 生きられるだけ、生きてみようと思った。
「お前、サギリというのね。よろしく」
 精悍な顔立ちの犬だが、声をかけ、頭を撫でると、舌を出した。笑っているようにも見える。
 マヤは去ったが、周辺には里の忍びどもがうろついている。サギリは卓抜した嗅覚で捜索の網をことごとくかいくぐり、人の気配のない獣道を先導して数日、ついにアルタイ街道に出た。
 アオバは街道沿いの商家に厄介になり、やむなく自身の体と引き換えにしばらくの衣食住を得た。トラバサミにかかった際、骨にまで達する傷を負ったため、療養が必要だったのである。
 傷が癒え、連邦民風の防寒服を手に入れ、さらに隊商から馬を盗んで、彼女は一路アルタイ街道を北へ向かった。ミコトらがポリャールヌイへ向かったことまでは、父から聞いている。ポリャールヌイへ向かうには、連邦首都イズマイールを必ず通る。まずはイズマイールを目指し、そこでミコトらとの合流をかくするしかない。
 たった一人の孤独で危険な旅は、幾度か挫折の危機に陥りながらも、2月15日には当面の目的地であるイズマイールに到着することができた。この数週間は、アオバの人生においても最も困難な期間だったと言えるだろう。背後には里の追っ手の気配を感じつつ、こごえるように寒い異国の地を、居所の知れぬ知人を探し求め、単独で走破するというのは、並大抵の者では不可能である。それは、体力よりはむしろ精神力の問題がある。アオバがかろうじて正気を保てたのは、サギリという仲間がいたからであった。なるほど、忍びが育てただけあって実に役立つ犬で、周囲の警戒や護衛、食料の調達、そしてときに話し相手になってくれることで、アオバはどれだけ救われたか分からない。サギリも、まるでアオバとともに育ったかのような従順さでもって、何事も以心伝心、通じ合っているように見える。
 そして連邦国内の事情について最もよく知る機関、秘密警察こと国家保安委員会の本部に潜入し、根気強く情報収集をしてミコトやサミュエルの消息をつかみ、チェレンコフ邸への作戦に合わせて後方から陽動作戦を行った。アオバは弓の腕にはさほど自信がなかったが、夜陰、樹上から矢を射られてはたとえ訓練を積んだ特殊部隊でも混乱するものだ。実際、彼らは背後の敵がまさか一人とは思わず、必要以上に警戒して、意識がミコトらの捕縛ではなく襲撃への対処に向いてしまった。この陽動が奏功し、サミュエルの術もあって、ミコトらは脱出に成功したということになる。
 チェレンコフ邸から退避したミコトらを発見したのは、まさにサギリのお手柄と言える。サギリは恐らく里でミコトのにおいをいでいたのであろう、足どりをたどってゆくと、案の定、ミコトとサミュエルと再会することができた。ミョウコウもいる。
「あの長い道のりを、よくここまで追いついて」
 ミコトは、アオバの話に、その凄絶なまでの覚悟と忍耐力、そして運命とに思わず涙を流した。どれほど憎しみつのろうと、我が父をあやめるというだけで、どれほどの重荷をその心に背負うことであろう。まして、ともに育ち、ともに暮らした仲間から追われ、戦わねばならないのは耐えがたい苦しみのはずだ。そして、ミコトはアオバに伝えるべきことがある。
「アオバ、マヤは私がこの手で」
 殺した、という言葉を口にするのが痛ましく、ミコトはただそっと、手首に身につけていた髪紐を差し出した。マヤは確かにアオバを殺そうとしたが、ついに手を下すことができず、髪紐だけを奪い、トラバサミを外して彼女が逃げられるようにした。たとえ忍びとして生きようとも、仲間の情を捨てることができなかったということであろう。そのマヤに対して、アオバも複雑な心情を抱いているであろうことは想像にかたくない。たとえ返り討ちであろうと、マヤを討ったことを伝えるのは、ミコトにとって断腸の思いがある。
 だが、そのようなことをわざわざ言葉にせずとも、アオバは透き通るような微笑を浮かべ、理解してくれた。10年以上、彼女たちは主人と侍女として過ごしてきた。アオバの方には間諜かんちょうとしての役目があったことがのちに分かったが、それでも家族同然の親愛と信頼で結ばれていたことに嘘偽りはない。たとえ間諜の役目が終わろうと、なんの利害上の必要性がなくとも、里を抜け、バブルイスク連邦という大国までも敵に回し、同じ道を歩もうとしてくれている。
 連邦領内に入って以来、慣れない風土に厳しい天候、よそ者に対する寒々しい扱い、秘密警察の脅威、そしてチェレンコフの愚にもつかぬ要求と、ミコトの心はかき乱され、ついに悲鳴を上げたくなるほどに疲れてしまっていたが、ここでようやくアオバという心強い同行者を再び得たことで、旅を続けるための精神的活力を取り戻したかのようである。
 安堵のため、緊張の糸がぷつりと切れてしまったのか、ミコトはへたへたと座り込み、少々、呆然とした。
 サミュエルは笑顔で、そしてミョウコウも、片膝をついた姿でともにアオバの合流を喜んだ。ミョウコウはアオバが頭領を殺したことをすでに聞かされていたが、どういうつもりでいるのか、ミコトの元を離れようともしないし、アオバに対しても頭領の娘に対する礼節を崩そうとはしない。不思議な男である。
 アオバは、まだ里に住んでいた頃、すでに優秀な忍びとしての片鱗を見せ、里の若党どもから兄貴分として慕われていたミョウコウを知っている。聴覚を失ったために忍びとしての第一線からはしりぞかねばならなくなったが、その誠実さと忠実さに疑いは持っていない。懐かしそうな顔で、目礼を交わした。
 首都イズマイールに着いてから、秘密警察やチェレンコフのために余計な苦労をさせられたが、アオバを加えたことによって、一行はポリャールヌイ行きを再開する運びとなった。
 もっとも、その道中は険しい。アオバの提案で、「この地で春を待たずとも、進むうち、道の氷雪ひょうせつは消えますから」と、首都で秘密警察の捜索を受ける危険を避けて北へ向かうこととなったが、行く先は冬は厚い氷、夏はその氷がけて湿地となるために、馬車も踏み入ることができない永久凍土上の不毛地帯である。それに、連邦の秘密警察や里の忍びどもから追跡を受ける身である。たった四人と一匹で、切り抜けられるものであろうか。
 一同は3月6日、アオバの奔走の甲斐もあり、極寒のポリャールヌイへと向かう支度を完全に整え、隊商団をよそおってイズマイールを発した。
 彼らの目指す地にどのような人々、どのような事態が待ち受けているのかは、この時点では予見のしようもない。
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