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第22章 虚々実々
第22章-④ 赤き稲妻の一撃
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帝国軍は夜間の配置換えを行い、戦線を大きく右側へ移動させたが、相互の位置関係は変わってはいない。右翼から左翼にかけて、第七軍、第八軍、第二軍、第五軍の順番で、後衛に第三軍がつくという配置である。
第二軍司令官のベーム中将は、前線指揮官中の最古参の宿将であり、メッサーシュミット将軍亡き今となっては帝国軍第一の名将と評されることが多い。故将軍との縁も誰よりも濃厚で、かつてはその副司令官や参謀を務め、ほかの誰よりも軍人として、あるいは人格面においても影響を強く受けている。
彼がメッサーシュミット将軍の死後、大将へ昇進、もしくは前線の統括をすべき役職へと進めなかったのは、かねてより彼がヘルムス総統に批判的であり、さらには互いに不信を抱いていたからであるというのは、もっぱらの噂である。そしてそれは、概ね事実であった。彼は誠実で実直な人柄であり、メッサーシュミット将軍と同様、高潔であることを最高の美徳と考えていた。そのため、国防軍を自らの権力の基盤として私物化し、一方で民衆に対しては苛烈な統制と弾圧を加え続けるヘルムス体制に対して好意的でいられなかったのは確かである。そして彼は、その思いを敢然として意見する骨太さも持ち合わせていた。当然、ヘルムス総統からは嫌われ、警戒される。
そのために、戦争前からベームは実戦指揮官中の次席に留められ、第一軍司令官の任には「番犬ブルーノ」ことメッテルニヒ中将を就任させることで、彼の権威を封じるとともに、潜在的反対勢力に対する見せしめも狙っていたようである。メッテルニヒは、もとは政権奪取前にヘルムスの私設護衛隊長を務めていたという程度の男で、軍指揮官としての才覚や器量など持ち合わせてはいない。そのような男の下風に立たされるのは、彼自身、どのような思いであったのか。
だが、だからといってベーム中将がヘルムスに対して叛意を抱いたり、任務に対する意欲が下がったというような証拠や証言は一切見出せない。政権や体制に対しては批判するが、国家そのものに対する彼の忠義心に揺らぎが生じることはなかったということであろう。
交戦2日目の第二軍の布陣位置は友軍と比べてわずかに低地にあり、そのために直接、全体の状況を把握するのが難しい。だが彼ほどの将帥ともなると、戦場を漂い流れる不穏な空気というものが目や耳より早く肌で感じられるのかもしれない。案の定、味方陣地の様子を油断なく見張っていた斥候から、異変が報告された。
さらに情報を集め吟味しているうち、第二軍からも姿の見える第八軍の旗がにわかに揺れ動き、戦闘とはまた少し違った種類の怒号や悲鳴が飛び交い、やがてその旗が後方へと流れてゆくのを見て、ベームは直ちに出動を号令した。この間、第二軍の将兵にわずかな乱れもない。全軍が指揮官たるベーム中将の威厳に服し、その命令を待っている。軽はずみな私語もなく、勝手自儘に動くこともない。一糸乱れぬ、とはまさにこのような姿のことを言うのであろう。
第二軍は総司令部の命令を待たず、独断で持ち場を引き払い、第七軍及び第八軍の救援のため、右翼方向へと移動を始めた。命令を待つだけの猶予はない、という判断だった。
結果的に彼のこの判断は奏功した。
突撃旅団と遊撃旅団は、互いに協力して第七軍を突き崩し、さらに第八軍を追い立てて戦果を拡大しようと図ったが、その中途で第二軍の整然たる側撃を受け、かえって被害を出した。コクトー将軍自身も奮戦して新手を押し返そうと試みたが、乗馬が矢を受けて落馬し、軽い捻挫を負ったために、攻勢を断念して軍を下げた。このとき、第七軍と第八軍が早期に混乱を収拾し、逆襲に移っていたら、突撃旅団と遊撃旅団は混戦のなかで窮地に陥っていたかもしれない。
結果的には、第二軍の動きは友軍の退避を助け、全軍崩壊を食い止めたというところまでが精一杯であった。緒戦の醜態からすれば混乱が波及して全戦線にわたって潰走、となっていてもおかしくなかったが、ベーム中将の第二軍による戦闘介入と、ツヴァイク中将の第五軍も逆攻勢の構えを見せたことで、教国軍が自重して深入りしなかったためもある。
両軍が戦闘を完全に停止したのが、太陽が南中をわずかに過ぎた頃合いである。戦闘中、戦闘後も、クイーンは帝国軍の各軍の動きについて情報収集している。
「今朝の戦闘のあと、ナッツァの正面に配置換えされた部隊、どの報告でも動きが悪いと知らせてきていますが、どの軍ですか?」
「潜伏させた斥候からの報告によれば、第八軍とか」
「第八軍の指揮官レーウ中将といえば、キティホークでメッサーシュミット将軍に代わって総指揮官を務めた人物のはず。大将から降格になったと聞きましたし、今朝も第七軍を救援するどころか、先を争って逃げていたとか。恐らく、帝国軍の弱点になるでしょう」
教国軍はナッツァにバクスター将軍の第二師団、その左翼に突撃旅団、右翼に第一師団、突撃旅団の後方に遊撃旅団を配して、近衛兵団は第一師団から離れ、夕方のうちにナッツァへと移動した。さらにベルヴェデーレ要塞方面から帝国軍主力を追尾していた第三師団も戦場へと到着し、主力と挟撃の態勢を築いている。
一方、帝国軍は左翼から第五軍、第二軍、第八軍と並べ、さらに第三軍を最右翼に配置した。被害の深刻な第七軍は後方に回して、教国第三師団への抑えとしている。夜間移動と薄暮の急襲によってナッツァを奪い、優位に立とうとした帝国軍の作戦は破綻し、気落ちしたシュトラウスは作戦全体における積極性を失い、ひどく受動的になっている。今後の見通しや打開策も持ってはいなかった。むしろベルヴェデーレ要塞でツヴァイクが提唱したように、帝都と要塞を守りつつ、遊撃部隊を機動的に運用して教国軍の補給線を寸断し、敵の疲れを待つべきではないかとさえ考え始めている。彼自身、この時点で教国軍と帝国軍、というよりクイーンと自分自身の優劣をはっきりと自覚しており、状況を好転させるためには戦場で勝つことではなく、戦場以外で勝つしかないのではないかと思っている。具体的には、侵攻軍の最大の弱点である補給の問題を取り上げることだ。敵を追い返すには、それしかない。
だがシュトラウスは決断を欠いた。作戦を大転換させるには、彼自身の地位や名声に対する未練と、彼の手元に残っている兵力があまりにも大きかった。今一度、教国軍に勝負を挑み、勝てればこれまでの失敗も覆せるし、敵も諦めて本国へと帰るであろう。そう思わせるには充分な未練と兵力が彼にはある。
そのような総指揮官を上に戴いている限り、帝国軍にいわゆる武運などというものがあろうはずもない。
明けて交戦3日目の2月17日、教国軍は全戦線において攻勢に出た。それは軽く当ててみる、といった生半可な攻撃ではなく、全軍突撃の総力戦と言っていい勢いであった。
帝国軍の各司令官たちは思わぬ激しい攻撃にも動揺することなく、落ち着いて防戦の手配をした。
ただ一人、例外がいる。
「なぜ、敵が攻勢に出る!?」
そう叫び、教国軍の行動は常軌を逸している、戦術の常道に背馳している、と狂ったように指摘を続ける男がいる。どうやら彼の発想では、現在の状況で大攻勢をかける敵の行動は戦術常識に照らして間違っている、ということらしい。
その最も大きな理由としては、戦線正面に展開させている兵力としては両者伯仲しており、遠征中の教国軍が消耗の激しい白兵戦を自ら望むことは考えづらいということである。さらに、教国軍は開戦初日の戦闘、同日の夜間行軍、さらに2日目の激突を経験して、疲労甚だしいはずである。連日の戦闘は、特に遠征中で予備兵力を持たない教国軍にとっては不利と言えよう。
だが現実の敵は、彼の理論を無視して積極攻勢に出ている。
「レーウ司令官、各部隊にどのような指示を出しますか」
「決まっている、直ちに応戦し、敵の攻撃を押し返せ」
レーウはむしろ彼の思い通りに動かない敵に苛立ちを感じながら、粗雑な命令を下した。すでに戦局は刻一刻と動いているのに、この男は神経が過敏なだけで反応が常に遅い。軍司令官なら戦術上の工夫として、より具体的な指示を出してもよいところだが、彼の場合は押し返せとだけ言えば麾下部隊が奮励して敵を押し返すと思っているのであろうか。あるいは事前に完璧に手配りを終えているのであれば、大雑把な命令だけでもよかろうが、そのような準備は無論、していない。どこまでも前線に置いておくには不向きな男だ。
教国第二師団を率いるのは、ティム・バクスター将軍である。もとはコーンウォリス公国の刑吏だったが、帝国による公国の併合の際、妻子を連れて難民となり、教国へと亡命した。以来、前第二師団長のカッサーノ将軍の引き立てを受け、キティホークにおける上官の戦死後に第二師団長の職を継いでいる。国を失い、さらに恩人をも帝国の手で亡くした彼にとって、帝国に対する個人的な復讐心はきわめて強く、深刻である。
前任のカッサーノ将軍も攻撃を得意とする驍将であったが、彼の勇猛さはそれを上回るとさえ言われている。特にこの戦いののち、彼は「南海の赤い稲妻」と呼ばれ、その勇名を広く知られることとなる。
彼はこの前日、グリューンヒュッテ村からナッツァへと動座したクイーンの訪問を受け、直接に命令を受けている。エミリアとダフネだけを連れたクイーンは、第二師団の正面に移動してきた帝国第八軍の司令官がレーウ中将なる者で、能力に欠ける上に軍の統率がとれていない点を指摘し、
「バクスター将軍、明日は全戦力をこぞって、目前の第八軍を粉砕してください。恐らく一撃で、あの軍は四散するでしょう。その後は両翼の敵味方を気にかけることなく、さらに突進して、帝国軍の司令部を目指してください。この方面の帝国軍を統御すべき司令部を突き崩せば、この段階における作戦は成功です。戦いの成否を、将軍に託します」
卑賎の職から身を起こし、教国軍の師団長にまで上った男であるだけに、功名心や名誉欲は人並み以上にある。まして、憎しみ募る帝国軍の戦いで、勝敗を委ねるとまで言われれば、発奮しないわけもない。
バクスターは最前線に馬を立て、号令とともにナッツァから眼下の第八軍へと一気に突っ込んだ。その勢いは、まさに稲妻と言っていい。彼の甲冑は赤く塗装され、その勇姿を敵味方に誇示している。その真っ赤な猛将を先頭に、黒い人馬の群れが蒼い教国旗を激しく揺らめかせながら風とともに坂を駆け下ってくる姿は、戦い慣れぬ新兵ばかりで編成され、前日には教国軍の突撃のために恐怖を体に叩き込まれている第八軍の兵卒たちの戦意を、一瞬で萎えさせた。
まるで狼の群れと、羊の群れのようであった。
第八軍の兵は当初こそ怖気づきつつ槍を構えて迎え撃ったが、先頭の集団騎馬突撃を受けて逃げ出す者があると、たちまち崩れた。ほとんど、戦いにならないほどの弱さである。
帝国第八軍は、その兵数で言えばこの方面に展開していた帝国軍のなかでも最大規模の兵力を誇っていたはずである。だがその兵は弱く、指揮していたのも無能を絵に描いたような男であった。クイーンが見立てた通り、まさにこの部隊は帝国軍の弱点そのものであった。友軍の士気に悪影響を与え、戦線を無用に乱れさせる点では、百害あって一利ももたらすことなき存在である。
第二師団は全軍で突進し、その圧迫によって第八軍は四分五裂となり、有効な反撃も抵抗もままならないままに次々と戦場を離脱していった。
戦意を喪失した逃亡兵を、それこそ羊を食いあさる狼のように追い立てることもできたであろうが、バクスターは目もくれず、さらに進んだ。やわらかい絹を切り裂くナイフのように第八軍を分断し、突破した先に、無防備な帝国軍前線司令部がある。
「足を止めるな、飛び込めッ!」
馬蹄のすさまじい轟きのなかでも、バクスターの大音声は敵味方を圧する迫力で響き渡る。
第二師団の先頭部隊はバクスター以下100騎ほど、シュトラウス上級大将とその幕僚団を擁する護衛部隊1,800名ほどの部隊へと躊躇なく突撃し、蹂躙せんとした。
第二軍司令官のベーム中将は、前線指揮官中の最古参の宿将であり、メッサーシュミット将軍亡き今となっては帝国軍第一の名将と評されることが多い。故将軍との縁も誰よりも濃厚で、かつてはその副司令官や参謀を務め、ほかの誰よりも軍人として、あるいは人格面においても影響を強く受けている。
彼がメッサーシュミット将軍の死後、大将へ昇進、もしくは前線の統括をすべき役職へと進めなかったのは、かねてより彼がヘルムス総統に批判的であり、さらには互いに不信を抱いていたからであるというのは、もっぱらの噂である。そしてそれは、概ね事実であった。彼は誠実で実直な人柄であり、メッサーシュミット将軍と同様、高潔であることを最高の美徳と考えていた。そのため、国防軍を自らの権力の基盤として私物化し、一方で民衆に対しては苛烈な統制と弾圧を加え続けるヘルムス体制に対して好意的でいられなかったのは確かである。そして彼は、その思いを敢然として意見する骨太さも持ち合わせていた。当然、ヘルムス総統からは嫌われ、警戒される。
そのために、戦争前からベームは実戦指揮官中の次席に留められ、第一軍司令官の任には「番犬ブルーノ」ことメッテルニヒ中将を就任させることで、彼の権威を封じるとともに、潜在的反対勢力に対する見せしめも狙っていたようである。メッテルニヒは、もとは政権奪取前にヘルムスの私設護衛隊長を務めていたという程度の男で、軍指揮官としての才覚や器量など持ち合わせてはいない。そのような男の下風に立たされるのは、彼自身、どのような思いであったのか。
だが、だからといってベーム中将がヘルムスに対して叛意を抱いたり、任務に対する意欲が下がったというような証拠や証言は一切見出せない。政権や体制に対しては批判するが、国家そのものに対する彼の忠義心に揺らぎが生じることはなかったということであろう。
交戦2日目の第二軍の布陣位置は友軍と比べてわずかに低地にあり、そのために直接、全体の状況を把握するのが難しい。だが彼ほどの将帥ともなると、戦場を漂い流れる不穏な空気というものが目や耳より早く肌で感じられるのかもしれない。案の定、味方陣地の様子を油断なく見張っていた斥候から、異変が報告された。
さらに情報を集め吟味しているうち、第二軍からも姿の見える第八軍の旗がにわかに揺れ動き、戦闘とはまた少し違った種類の怒号や悲鳴が飛び交い、やがてその旗が後方へと流れてゆくのを見て、ベームは直ちに出動を号令した。この間、第二軍の将兵にわずかな乱れもない。全軍が指揮官たるベーム中将の威厳に服し、その命令を待っている。軽はずみな私語もなく、勝手自儘に動くこともない。一糸乱れぬ、とはまさにこのような姿のことを言うのであろう。
第二軍は総司令部の命令を待たず、独断で持ち場を引き払い、第七軍及び第八軍の救援のため、右翼方向へと移動を始めた。命令を待つだけの猶予はない、という判断だった。
結果的に彼のこの判断は奏功した。
突撃旅団と遊撃旅団は、互いに協力して第七軍を突き崩し、さらに第八軍を追い立てて戦果を拡大しようと図ったが、その中途で第二軍の整然たる側撃を受け、かえって被害を出した。コクトー将軍自身も奮戦して新手を押し返そうと試みたが、乗馬が矢を受けて落馬し、軽い捻挫を負ったために、攻勢を断念して軍を下げた。このとき、第七軍と第八軍が早期に混乱を収拾し、逆襲に移っていたら、突撃旅団と遊撃旅団は混戦のなかで窮地に陥っていたかもしれない。
結果的には、第二軍の動きは友軍の退避を助け、全軍崩壊を食い止めたというところまでが精一杯であった。緒戦の醜態からすれば混乱が波及して全戦線にわたって潰走、となっていてもおかしくなかったが、ベーム中将の第二軍による戦闘介入と、ツヴァイク中将の第五軍も逆攻勢の構えを見せたことで、教国軍が自重して深入りしなかったためもある。
両軍が戦闘を完全に停止したのが、太陽が南中をわずかに過ぎた頃合いである。戦闘中、戦闘後も、クイーンは帝国軍の各軍の動きについて情報収集している。
「今朝の戦闘のあと、ナッツァの正面に配置換えされた部隊、どの報告でも動きが悪いと知らせてきていますが、どの軍ですか?」
「潜伏させた斥候からの報告によれば、第八軍とか」
「第八軍の指揮官レーウ中将といえば、キティホークでメッサーシュミット将軍に代わって総指揮官を務めた人物のはず。大将から降格になったと聞きましたし、今朝も第七軍を救援するどころか、先を争って逃げていたとか。恐らく、帝国軍の弱点になるでしょう」
教国軍はナッツァにバクスター将軍の第二師団、その左翼に突撃旅団、右翼に第一師団、突撃旅団の後方に遊撃旅団を配して、近衛兵団は第一師団から離れ、夕方のうちにナッツァへと移動した。さらにベルヴェデーレ要塞方面から帝国軍主力を追尾していた第三師団も戦場へと到着し、主力と挟撃の態勢を築いている。
一方、帝国軍は左翼から第五軍、第二軍、第八軍と並べ、さらに第三軍を最右翼に配置した。被害の深刻な第七軍は後方に回して、教国第三師団への抑えとしている。夜間移動と薄暮の急襲によってナッツァを奪い、優位に立とうとした帝国軍の作戦は破綻し、気落ちしたシュトラウスは作戦全体における積極性を失い、ひどく受動的になっている。今後の見通しや打開策も持ってはいなかった。むしろベルヴェデーレ要塞でツヴァイクが提唱したように、帝都と要塞を守りつつ、遊撃部隊を機動的に運用して教国軍の補給線を寸断し、敵の疲れを待つべきではないかとさえ考え始めている。彼自身、この時点で教国軍と帝国軍、というよりクイーンと自分自身の優劣をはっきりと自覚しており、状況を好転させるためには戦場で勝つことではなく、戦場以外で勝つしかないのではないかと思っている。具体的には、侵攻軍の最大の弱点である補給の問題を取り上げることだ。敵を追い返すには、それしかない。
だがシュトラウスは決断を欠いた。作戦を大転換させるには、彼自身の地位や名声に対する未練と、彼の手元に残っている兵力があまりにも大きかった。今一度、教国軍に勝負を挑み、勝てればこれまでの失敗も覆せるし、敵も諦めて本国へと帰るであろう。そう思わせるには充分な未練と兵力が彼にはある。
そのような総指揮官を上に戴いている限り、帝国軍にいわゆる武運などというものがあろうはずもない。
明けて交戦3日目の2月17日、教国軍は全戦線において攻勢に出た。それは軽く当ててみる、といった生半可な攻撃ではなく、全軍突撃の総力戦と言っていい勢いであった。
帝国軍の各司令官たちは思わぬ激しい攻撃にも動揺することなく、落ち着いて防戦の手配をした。
ただ一人、例外がいる。
「なぜ、敵が攻勢に出る!?」
そう叫び、教国軍の行動は常軌を逸している、戦術の常道に背馳している、と狂ったように指摘を続ける男がいる。どうやら彼の発想では、現在の状況で大攻勢をかける敵の行動は戦術常識に照らして間違っている、ということらしい。
その最も大きな理由としては、戦線正面に展開させている兵力としては両者伯仲しており、遠征中の教国軍が消耗の激しい白兵戦を自ら望むことは考えづらいということである。さらに、教国軍は開戦初日の戦闘、同日の夜間行軍、さらに2日目の激突を経験して、疲労甚だしいはずである。連日の戦闘は、特に遠征中で予備兵力を持たない教国軍にとっては不利と言えよう。
だが現実の敵は、彼の理論を無視して積極攻勢に出ている。
「レーウ司令官、各部隊にどのような指示を出しますか」
「決まっている、直ちに応戦し、敵の攻撃を押し返せ」
レーウはむしろ彼の思い通りに動かない敵に苛立ちを感じながら、粗雑な命令を下した。すでに戦局は刻一刻と動いているのに、この男は神経が過敏なだけで反応が常に遅い。軍司令官なら戦術上の工夫として、より具体的な指示を出してもよいところだが、彼の場合は押し返せとだけ言えば麾下部隊が奮励して敵を押し返すと思っているのであろうか。あるいは事前に完璧に手配りを終えているのであれば、大雑把な命令だけでもよかろうが、そのような準備は無論、していない。どこまでも前線に置いておくには不向きな男だ。
教国第二師団を率いるのは、ティム・バクスター将軍である。もとはコーンウォリス公国の刑吏だったが、帝国による公国の併合の際、妻子を連れて難民となり、教国へと亡命した。以来、前第二師団長のカッサーノ将軍の引き立てを受け、キティホークにおける上官の戦死後に第二師団長の職を継いでいる。国を失い、さらに恩人をも帝国の手で亡くした彼にとって、帝国に対する個人的な復讐心はきわめて強く、深刻である。
前任のカッサーノ将軍も攻撃を得意とする驍将であったが、彼の勇猛さはそれを上回るとさえ言われている。特にこの戦いののち、彼は「南海の赤い稲妻」と呼ばれ、その勇名を広く知られることとなる。
彼はこの前日、グリューンヒュッテ村からナッツァへと動座したクイーンの訪問を受け、直接に命令を受けている。エミリアとダフネだけを連れたクイーンは、第二師団の正面に移動してきた帝国第八軍の司令官がレーウ中将なる者で、能力に欠ける上に軍の統率がとれていない点を指摘し、
「バクスター将軍、明日は全戦力をこぞって、目前の第八軍を粉砕してください。恐らく一撃で、あの軍は四散するでしょう。その後は両翼の敵味方を気にかけることなく、さらに突進して、帝国軍の司令部を目指してください。この方面の帝国軍を統御すべき司令部を突き崩せば、この段階における作戦は成功です。戦いの成否を、将軍に託します」
卑賎の職から身を起こし、教国軍の師団長にまで上った男であるだけに、功名心や名誉欲は人並み以上にある。まして、憎しみ募る帝国軍の戦いで、勝敗を委ねるとまで言われれば、発奮しないわけもない。
バクスターは最前線に馬を立て、号令とともにナッツァから眼下の第八軍へと一気に突っ込んだ。その勢いは、まさに稲妻と言っていい。彼の甲冑は赤く塗装され、その勇姿を敵味方に誇示している。その真っ赤な猛将を先頭に、黒い人馬の群れが蒼い教国旗を激しく揺らめかせながら風とともに坂を駆け下ってくる姿は、戦い慣れぬ新兵ばかりで編成され、前日には教国軍の突撃のために恐怖を体に叩き込まれている第八軍の兵卒たちの戦意を、一瞬で萎えさせた。
まるで狼の群れと、羊の群れのようであった。
第八軍の兵は当初こそ怖気づきつつ槍を構えて迎え撃ったが、先頭の集団騎馬突撃を受けて逃げ出す者があると、たちまち崩れた。ほとんど、戦いにならないほどの弱さである。
帝国第八軍は、その兵数で言えばこの方面に展開していた帝国軍のなかでも最大規模の兵力を誇っていたはずである。だがその兵は弱く、指揮していたのも無能を絵に描いたような男であった。クイーンが見立てた通り、まさにこの部隊は帝国軍の弱点そのものであった。友軍の士気に悪影響を与え、戦線を無用に乱れさせる点では、百害あって一利ももたらすことなき存在である。
第二師団は全軍で突進し、その圧迫によって第八軍は四分五裂となり、有効な反撃も抵抗もままならないままに次々と戦場を離脱していった。
戦意を喪失した逃亡兵を、それこそ羊を食いあさる狼のように追い立てることもできたであろうが、バクスターは目もくれず、さらに進んだ。やわらかい絹を切り裂くナイフのように第八軍を分断し、突破した先に、無防備な帝国軍前線司令部がある。
「足を止めるな、飛び込めッ!」
馬蹄のすさまじい轟きのなかでも、バクスターの大音声は敵味方を圧する迫力で響き渡る。
第二師団の先頭部隊はバクスター以下100騎ほど、シュトラウス上級大将とその幕僚団を擁する護衛部隊1,800名ほどの部隊へと躊躇なく突撃し、蹂躙せんとした。
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