ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

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第22章 虚々実々

第22章-② 偽撃転殺の計

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 この戦い、帝国軍に有利な点があるとすれば、まず予定戦場に到着する前に敵の布陣を知ることができたという点であろう。
 この方面を指揮するシュトラウス上級大将は、教国軍の位置とその兵力について情報を得るたび、わざわざ移動中の馬から下りて、地図に詳細を書き込んでいった。
「地元の木こりか、猟師を連れてこい」
 彼は地形についても丹念に調べ、戦場における要の地が、周囲よりも一段高くなっているナッツァの小山にあると断定した。戦闘の準備段階における情報収集としては、要領を得ている。
「ナッツァに位置する部隊が、少々薄いようだな」
 要所を守る部隊は、教国軍の猛将コクトー将軍の突撃旅団であるらしく、とすればその兵力は師団の半分の規模である。だが実際の兵力は違うかもしれない。ナッツァを見下ろしてその陣容をうかがい知ることのできる高所が付近にないために、斥候せっこうも実兵力をつかむのが難しいようだ。
 つまり、少数と見せて思わぬ大兵力を用意しているかもしれない。
「ありうることだ」
 ナッツァの小山が戦術上の要地であることは、教国女王ほどの者であれば見抜けるに違いない。この地点を考えもなしに手薄にすることはありえないから、あえて少ない兵力で守らせているということは、罠の可能性が高い。ナッツァに攻撃を集中させれば、伏兵や奇襲によって痛打を受けるかもしれない。つまり、実際の急所は別のところにあるかもしれない。
 だがシュトラウスは、その読みこそが真の罠ではないかと疑った。ナッツァを手薄にすることで不用意な攻撃を誘引し、その乱れに乗じる策など、子供でも思いつく。それを読んで本物の急所を襲撃するのも、並の指揮官であれば決して難しいことではない。教国女王はそこまでを予想して、巧緻な罠を用意しているのではないか。
 シュトラウスはごく近しい幕僚らと簡易的な協議の末、作戦の基本方針を定めた。開戦の劈頭へきとう、教国軍の期待通りまずグリューンヒュッテ村の教国軍本営に猛攻を加え、しかるのちに精鋭をナッツァへと突撃させる。
「ナッツァがおとりで、グリューンヒュッテ村が真の主力と見せかけ、それをあえて読ませた上で我が軍の攻撃を誘っている。ツヴァイク中将も言っていたように、教国女王の用兵は虚実をうまく使う。ナッツァは見かけ通りに弱いに違いない」
 彼はこの戦術構想のもと、進軍中の麾下きか五個軍を部署し、各軍はその指示通りに配置に就いた。グリューンヒュッテ村の正面に先陣の第五軍と第二軍、中央にレーウ中将の第八軍、右翼にフルトヴェングラー中将の第七軍、後衛はシュテルンベルク中将の第三軍を置く。後衛は背後より追及の構えを見せている教国軍第三師団への抑えである。
 開戦初日、ツヴァイク中将とベーム中将は軍を進め、緊密な連携のもとで教国軍第一師団及び近衛兵団に攻勢をかけた。ツヴァイク中将の第五軍は左へ左へと軍を展開させつつ、第二軍とのあいだに半包囲の態勢を築こうとする。デュラン将軍は防戦に努める一方、手元に小編成の遊撃部隊をいくつか持っておいて、それらを変化の多い複雑な地形に合わせて順に繰り出しては機動的に急襲を仕掛けて第五軍の動きを封じるため、容易に包囲の糸口をつくらせない。それでもベーム、ツヴァイクの両雄を左右に抱えての防戦は、名将とうたわれるデュランでさえ、ひどく苦労した。
 第一日目は双方とも痛み分けといったところであったが、実のところ、ここまでは帝国軍にとって予想していた進行でもある。特にシュトラウス上級大将は、自らの読みの正しさについて、確信を強めた。グリューンヒュッテ村の敵は粘り強く、第二軍と第五軍の攻勢にびくともしない。となれば、ナッツァの部隊は弱く、初日は攻撃を受けなかったこともあって、すっかり油断しているに違いない。
 夜、帝国軍は曇天どんてんで月が隠れているのを幸い、作戦の第二段階へ移るため大規模な配置換えを行った。初日は、帝国軍の攻撃が教国軍の右翼に集中していることを見せるための陽動に過ぎない。夜のうちに戦力の偏りを左翼から右翼へとずらし、夜明けとともに教国軍の左翼、すなわちナッツァの小山へと大攻勢をかけるのである。
 夜間行軍といえば、これは教国軍の十八番おはこである。数年前の教国内戦の際も、キティホークでも、教国軍は夜陰にまぎれて軍を動かし、結果として生じた敵軍の虚に乗じて勝利を得ている。そしてトリーゼンベルク地方における戦いでも、教国軍の夜間移動を察知できず、ミューレホルツに大軍の接近を許す羽目はめになった。
 ミューレホルツからの逃亡戦は、シュトラウスにとっても苦く生々しい記憶として強く残っている。彼はリヒテンシュタインを殿軍しんがりとしてミューレホルツからベルヴェデーレ要塞へと逃げ帰る途中、幾度か教国軍の追撃を受け、ついに腹を下して馬上のまま糞尿を漏らした。以来、彼は脱糞将軍だの失禁司令官だのとこれ以上はない不名誉なあだ名をつけられ、汚名は未だに返上できてはいない。
 本来、夜間かつ曇天かつ無灯火下における行軍というのは、非常な困難を伴うものだ。士卒や軍馬は疲労するし、同士討ちの危険もある。また失敗した場合、奇襲が未発に終わるだけならまだしも、逆襲を受けて大打撃をこうむる可能性すらある。よほど熟練した統率力と、将兵からの信頼がなければ、敵に知られずに移動するのは難しい。
 が、シュトラウスはやってのけた。少なくとも、やってのけたと彼自身は思った。大きな混乱もなく、日の出を迎えるまでに全軍の移動を完了させたのである。教国軍が朝を迎えたとき、その前面に広がる光景はまさに一変しており、さぞ度肝を抜かれることであろう。
 帝国軍は左翼に集中させていた兵力を、夜のうちに右へ右へと移動させ、ナッツァをちょうど扇の要のようにして囲い込み、夜明けとともに強襲してこの高所を奪い取らんと画策していた。前日、教国軍とにらみ合いのまま交戦を控えていた第七軍、第八軍がこの攻撃を担当する。教国軍は慌てて右翼の第一師団を動かし、第二師団と連携させて帝国軍の左翼を追尾しようとするであろうが、こちらは第二軍、第五軍が踏みとどまって防戦する。
 かくして、ナッツァを手に入れた帝国軍は戦術上の地の利と兵力差を活かし、教国軍をこの地から駆逐することができよう。
 しかしシュトラウスの画策した夜間行軍、確かに上辺うわべを見れば教国軍の十八番を奪ったかたちだが、大きく違う点がある。
 その最たるものが、敵に悟られることなく移動できるか、という点である。夜間に移動することのそもそもの意義を考えれば当然のことだが、これは敵の虚を突き、有利な状況で戦うための方法である。遠くにいると思っていた敵が、朝を迎えればすでに目の前まで迫っていた。いるはずのない敵が、朝になると後方に出現していた。そうして生じた相手の混乱に乗じて勝利してきたのが、教国軍である。
 今回は違う。
 いくら夜で月や星の明かりもないなかとはいえ、数万人規模の夜間行軍を敵の目前でやっておいて、夜明けまで気づかれずにいることができようと、本気でシュトラウスとその幕僚たちは思ったのであろうか。だとしたら、彼らにとっての敵とは、まるで赤ん坊のようなあどけなさを備えた存在なのかもしれない。そう思っている彼らこそ、奇跡としか思えないあどけなさの持ち主である。
 いまひとつ、クイーンが鉄則としていることが、作戦とは敵将の性格や優劣に応じて決めるべきものだということである。教国の内戦のときもキティホークでも、敵将がどのような人物か、その軍はどれだけ整っているか、敵のすべてを調べ上げてから、彼女は作戦を立てた。もし、これらの戦いにおける敵方の指揮官が例えばメッサーシュミット将軍であったら、彼女は夜間行軍の強行などという、投機的で危険の大きい作戦は採用しなかったはずだ。相手が有能であればあるほど、作戦は当然に慎重にならざるをえない。
 一方、シュトラウスは今や大陸一とも称される兵略の天才を相手に、露見せぬはずもない夜間の配置換えを行っている。罠にかけてくれと言わぬばかりではないか。
 クイーンも、教国軍右翼に対する攻撃のあと、一転して左翼に攻撃をかける「偽撃転殺ぎげきてんさつ」の計については読んでいた。だがまさか、夜間行軍などという手段でそれを実行しようとまでは予想していなかった。
 彼女は早々に帝国軍の動きとその意図を看破すると、すぐに各部隊へ伝令を出し、ひそかに移動を命じた。この夜、両軍はそのほとんど全軍を挙げて、移動していたことになる。違いは、相手にそのことを気づかせていたかどうか、という点であろう。
 そして組み上がった両軍の陣形は、帝国軍にとってはあまりに予想外な、そして教国軍にとってはまさに意図通りのものであった。
 シュトラウスとその高級幕僚どもの想定では、前線をそのままそっくり右へ動かし、ナッツァの小山を第七軍、第八軍、第二軍がぐるりと取り囲み、第五軍が教国軍中央の第二師団の前面まで移動するという布陣図を描いていた。確かに教国軍がそのままの位置に留まっていたなら、ナッツァに陣取る教国突撃旅団は三個軍の包囲攻撃を受け、たまらず山を駆け下りて、易々とこの要地は帝国軍の占拠に任せることとなったであろう。あとは要所の地の利と兵力の差を活かし、教国軍を相手に有利に戦況を進めることができたはずだ。
 だが朝になって、帝国軍の一部に恐慌に近い混乱が生じた。それは特に帝国軍の最右翼に位置する第七軍において深刻であった。
 夜明け前、兵どもは前日の戦闘と移動の疲れを残しつつも、戦時の緊張もあって目覚めは早く、気忙きぜわしい者は食事の準備などを始めようとしていた。
 朝焼けの気配が東の空に現れ始める頃、即席で哨戒用の矢倉を組んでのぼってみると、この兵士はよほどそそっかしい性格だったのであろう、仰天のあまり足元を見失い、尻から地面へと落下して立てなくなった。無理もなかったかもしれない。
 別の兵が矢倉へ上がって、そこで初めて異変が下で報告を待つ兵らへと伝達された。
「前方の小山に敵、右方向に敵、背後に敵!」
 哨戒の兵は狂ったように、自軍がまさに包囲を受けているその状況について大声で訴え続けた。伝令が、司令官フルトヴェングラー中将のもとへと走った。
「我が軍が三方向から包囲されているだと、まさか」
 彼にとってもまさに寝耳に水の事態である。敵は前方ナッツァの小山にのみ見えるはずだ。何を見間違えれば、我が軍が包囲下にあるなどと錯覚するのであろう。
「どうも兵らは、臆病風に吹かれているようだ。教国女王は戦上手というが、女ではないか。古来、女が兵を率いてうまくいったためしなどない。これまではたまさか運に恵まれて勝ってきただけのことであろう。よしんば周囲に部隊の影があったとしても、それは夜間行軍のあいだに迷子になった友軍に違いあるまい」
 フルトヴェングラーはめぐり合わせの関係で、クイーンの率いる軍と直接に干戈かんかを交えたことは一度しかなく、しかもそれはデュッセルドルフにおける近衛兵団に対する奇襲戦で、そのときは兵力差も大きかったことから大勝している。そのため、帝国軍のほかの指揮官たちと比べると、敵将に対する評価は低い。
 この場合はそれが災いした。
 彼は信頼する幕僚の一人に、自ら敵情を視察して報告するよう指示を出した。落ち着いて状況を俯瞰ふかんすれば、騒ぐ必要がないとはっきりするであろう。だがその幕僚も、脱兎のごとく第七軍本営へ舞い戻ってきて、ようやく彼は事態の深刻なることを悟った。その頃にはもう、混乱が第七軍全体にまで波及しつつある。こうなったら戦いにならない。
 フルトヴェングラーに一瞬、自失の時間があり、だがそれに身を任せるだけのゆとりは与えられなかった。
 地響きと喊声かんせいが、三方から迫っている。
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