ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

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第21章 帝国領攻略作戦

第21章-② 白き狼のささやき

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 前述したように、ベルヴェデーレ要塞には帝国の六個軍が駐留し、その総兵力は7万を超える。
 これだけの兵力、いかに巨大な要塞と言えども収容しきれないため、一部は常に要塞外にあって、訓練に励みつつ、野営することになる。このため要塞近くに臨時の野営地が設営され、各軍は交代でこの野営地と要塞に分かれて駐屯している。
「リヒテンシュタイン中将と連絡をとるとすれば、第四軍が要塞外にあるときだ」
 と、シュリアは考えた。警戒が厳重で、かつ帝国兵の充満した要塞に潜入して軍司令官に接触をこころみるよりも、野外の方がはるかに近づきやすい。
 シュリアとユンカースは、実施段階になるとそれぞれが切れ味の鋭い実務家の一面があるだけに、綿密に相談した。作戦は、速やかに決定した。
 リヒテンシュタインは野営の当番のときは、気晴らしにシェーンブルンの町を訪れて、酒を飲むらしい。身辺は亡きメッサーシュミット将軍をならってか存外に身ぎれいで、本国に妻がいるほかは愛人もなく、娼婦のたぐいも近づけない。酒による失敗もなく、ほどほどに飲んで引き上げてしまう。自分が飲んで騒ぐよりも、部下に飲ませるのが好きなようだ。
 好都合な相手である。
 シェーンブルンの酒場は、目と鼻の先にあるベルヴェデーレ要塞に帝国軍の大部隊が常駐するようになって、この半年ほどは特需とも言える空前の好景気にいている。特に飲食やホテル業でその傾向が顕著で、噂を聞きつけた娼婦やその斡旋あっせん業者も多数流れ込んできている。ユンカースの言った通り、この町はもともとその景観を買われて富豪の別荘地や景勝地として観光業が盛んであったが、6年ほど前にベルヴェデーレ要塞が完成してからは、軍を相手の商売が台頭してきている。
 この夜も、町で最も大きな酒場「ルフトクス」で近頃流行はやりのダンサー一座が興行するというので、多くの帝国兵が訪れていた。リヒテンシュタインもホールの隅に陣取り、アイスバインとソーセージをつまみに黒ビールを胃に流し込んでいる。
 ダンサーたちが披露するのは、数世紀ほどのちにストリップという言葉で表現されるようになるショーである。最初はごくごく他愛のない踊りから始まるが、音楽や歌に合わせて徐々に内容が過激になり、観客の手拍子に合わせて衣装の露出具合を増やしてゆくものだ。なかなか艶美えんびなもので、このショーを見て気分がよくなった男連中は、そのままの流れで娼婦を買いに再び夜の通りへと繰り出すのが常であった。
 本来、こうした風俗は公には禁止されていて、管理の厳重な帝都や大都市では憲兵の目があるために見られない。性的な堕落は人を退廃へと誘導するもので、優秀な国民、優秀な労働者を育てる上では忌避すべきであり、当然に排除すべきである、とヘルムス総統は考えているからである。だが前線の要塞に近い景勝地ともなれば、そうしたたがも大いに緩む。
 リヒテンシュタインはあまり興味なく、席で黙々と飲食していたが、部下たちは物珍しさにみなステージの方へと近寄って、人だかりをつくっている。
 背後に、しずしずと通りかかる男がいる。
「これを」
 テーブルに紙の切れ端を置いて、そのまま去った。
 こう書かれている。
「一匹の狼が、王の言葉を携え待つ」
 リヒテンシュタインには、書かれていることのすべての意味が分かった。狼とは誰か、そして王とは誰のことか。
 すぐに部下を呼び、不逞ふていな侵入者を捕らえるべく号令をかける。
 彼にはその選択肢もあったはずであろう。というよりは、まさにそれこそが疑いなく彼のとるべき行動であった。が、彼の行動は不可解であった。
 一人、静かに外に出た。人影が待っている。
 人影を追ってしばらく歩き、石壁に囲まれた狭い路地に入ると、乞食が一人、ぼろきれを毛布のようにまとって座っている。この冬、物乞いが野外で暮らすのは寒さがこたえるであろう。しかしこの乞食は震えてはいない。
「度胸のある男だ。この町は帝国軍の巣窟も同然、私はその親玉だぞ」
「あなたの度胸には及ばない。私がクイーンの伝言を伝えに来た工作員であると知りつつ、単身で会いに来るとは」
「相変わらず不敵な奴だ。用件を言え」
 リヒテンシュタインは言葉はぶっきらぼうに、だが態度に敵意はなく、乞食の隣の石畳にどかりと尻を落ち着けた。内容が漏れれば、彼が叛逆を疑われかねない。漏らさぬために、小声でも聞こえるよう彼も腰を下ろしたのである。
 ユンカースはぼろきれの奥から、朗々とそれこそ歌うように一言一句たがわずクイーンの言葉を伝えた。
「敬愛せるリヒテンシュタイン殿へ。先日の会談では貴殿の偽りなき忠義に胸を打たれ、深く我が胸に残っております。現在、我が国は帝国との和平をいかに実行すべきか、苦慮しているところであります。貴殿のよくご存じの通り、我が国は帝国との交戦を望んだことは一度としてなく、この不毛な争いに心を痛めぬ者はありません。まして帝国人はみな我が隣人で、平和と共存、そして共栄を切に願っております。しかし帝国領では貴軍の奇襲攻撃にさらされ、また先般は我が軍の捕虜の耳と目を切り取って献上の品と称するなど、貴国からの一方的な敵意は増すばかりが現状です。故メッサーシュミット将軍は我が国への攻撃に反対されたと聞き及んでおり、その人柄はまさに清廉潔白と評すに値すると考えておりました。将軍に対しては、デュッセルドルフで別れるに際し、その高潔さを信じ、捕虜に対して相応の待遇を求めて託しました。ところが、実際には我が軍の捕虜は貴国領内で不当に虐待され虐殺されていることが明らかとなっております。もはや我が国としては現在の帝国の政権を打倒するほかにこの無意味な戦いを終わらせる手立てはなきものと断じ、全面的な攻勢を準備しているところです。ついては尊敬するリヒテンシュタイン殿に我が志をお伝えし、身の処しようについてご思案いただきたく存じます。武人としての道を誤らぬよう、願うものでございます」
 リヒテンシュタインは続きを待った。だがユンカースは無言で白い息を吐き続けている。
「おい、終わりか」
「終わりです。なにか、疑問がおありか」
「私に内通を勧めるために来たのではないのか」
「内通、まさか」
 あっはは、とユンカースはこの男らしくもなくからりと哄笑こうしょうを上げた。
「内通など、あなたのような方が応諾されるはずもあるまい。クイーンは要するに、武人としての生き方、死に方をまっとうするようにさとされている。なるほど教国軍の全面攻勢と聞いて恐れおののきくだるというならそれもよいでしょう。しかしあなたも知る通り、クイーンは世に二人といない戦争の天才であり、神算鬼謀の持ち主だ。すでにいくつもの調略がこの国に入り込んでいる。つまりあなたに内通を乞わずとも勝てる。あなたに対してはただ善意で、危険を承知で我が軍の事情を漏らし、よくよく身の振り方を熟考され、晩節をけがすことのないよう配慮されているに過ぎない」
 内通を疑ったことがそれほどおかしいのか、ユンカースは再びこらえきれずに笑い声を漏らした。
 疑心暗鬼が、生じている。
 リヒテンシュタインは、確かにクイーンに恩義がある。有能な敵将、有能な王として、尊敬しているし、ひそかに畏怖の念も抱いている。また彼が最も影響を受けたメッサーシュミット将軍と通底する高潔さも認めており、当代の英雄だと思っている。
 それにクイーン自身が伝えてきているように、教国軍の捕虜の件については彼自身、忸怩じくじたる思いがある。すでに軍門に降った将兵を虐待し、虐殺し、あまつさえ体の一部を公式の使節に届けさせるなど、人の行いではない。異常であろう。
 デュッセルドルフで捕らえた教国軍の将兵は間違いなくメッサーシュミット将軍が預かったが、その処分までは将軍の権限の内にはない。だがクイーンがメッサーシュミット将軍を信頼して託した捕虜を帝国政府が虐待し虐殺したということは、ある意味では政府が将軍を裏切ったことになるであろう。当然、クイーンに対する裏切りでもある。リヒテンシュタインにとってはそこがつらい。
 だが、だからと言って教国軍に内通あるいは降伏するという選択肢は彼にはない。彼は自分を生粋きっすいの武人だと思っており、武人とは世に恥じることのない生き様、そして死に様を演じるべき生き物だと思っている。
 ゆえに、ユンカースの口から味方になれ、などという誘いがあろうものなら、言下にしりぞけてくれる、といわば心のなかで拳を振り上げた状態でいたのである。が、つまるところそのような誘いはなかった。
 クイーンからのメッセージは、甘い誘いではなく、むしろ脅しのたぐいであった。彼自身が奉じる武人としての矜持きょうじ、その矜持にあやまたぬよう、最後の道を選べと言ってきている。
 (教国女王、何を狙っている)
 この疑惑は、難解で、しかも深刻であった。
 教国の女王は高潔な一方で名うての策謀家でもある。言葉通りに受け取ってはならない。内通など期待していないと見せて、実は彼の心を揺さぶり離反を促しているのではないか。いやいや、むしろ狙いの本筋はユンカースがさりげなく口走った、この国にいくつもの調略が入っている、という点にあって、この情報を帝国軍内部に共有させることで、相互に疑いを生じさせ、内部から弱体化することを意図しているのではないか。あるいは女王の言葉はどれも誠実そのもので、彼の身の振り方について選択権を与えるだけのつもりなのかもしれない。
 疑問はついに解き明かされぬまま、ユンカースはふらふらと乞食をよそおいつつ歩き去った。
 リヒテンシュタインは暗闇の路地裏で一人、答えのない問いをいつまでも自身に投げかけていた。
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