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第21章 帝国領攻略作戦
第21章-① 虎将を狙え
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教国軍による帝国領攻略作戦。
その最重要任務とクイーンが銘打ったのが、帝国国防軍の第四軍司令官であるリヒテンシュタイン中将に対する調略である。
ヴィルヘルム・リヒテンシュタインは、帝国に七人現存する軍司令官のなかでも猛将として知られている。直情径行で卑怯や臆病を憎み、戦術思想は常に攻勢と突進を好む。容貌も荒武者、虎将、一本槍といった表現そのままで、眼光鋭く、針金のような硬質の髭と外にはね上がった太い眉に特徴がある。
その勇名と外見から、世人のなかには彼を粗野で好戦的で、匹夫の勇を誇るだけの知恵なしと思い込む者もいるが、そうした評は偏見のそしりを免れないであろう。彼は帝国軍最高の名将にして高潔無比の人格者であるメッサーシュミット将軍に子飼いの部下として手塩にかけて育てられ、その薫陶を濃厚に受けた。先人に及ばぬにしても、似通った価値基準を持っており、少なくとも己も同様に高潔たろうと心がけてはいる。
一方で毀誉褒貶が激しく、無能な上官や卑劣な同僚、怯懦の部下に対しては過剰なほどに手厳しい。
その性格が災いしたこともあって、キティホークの会戦では総司令官であるレーウ大将の命令なく独断で陣を引き払い、大敗の一因にもなっている。
またトリーゼンベルク地方の一連の戦いにおいては、上官であるシュトラウス上級大将に自ら殿軍を願い出ながら、敵将の手厚い降伏勧告に感激し、屈して、部下を捕虜として売り渡しておきながら自身は単身で逃げ戻っている。
このあたり、帝国軍における彼の立場は極めて悪い。帝国軍の対教国及び対同盟作戦の最重要根拠地であるベルヴェデーレ要塞に舞い戻ってから、彼への扱いは目に見えて粗雑になった。シュトラウス上級大将は彼を一顧だにもせず、意思決定の場からもしばしば除外した。
本国では彼に対する処分は留保され、引き続いて第四軍司令官の地位を保持することとなったが、デュッセルドルフの奇襲戦以来、連戦に次ぐ連戦、そしてキティホークとトリーゼンベルク地方の戦いで大打撃を受けた彼の戦力は兵6,000をようやく超える程度で、本来の半数以下の規模でしかない。しかも慢性的な疲労が蓄積して士気も低い。
士気の点に関しては、実のところ軍司令官たるリヒテンシュタイン中将その人の士気が致命的に低かった。彼は上官から疎外され、同僚からも忌避されていることを嘆いたり憤ったりするわけでもなく、むしろ思春期の少女のように傷つき、内向きになって、無気力になっていた。こうした姿が末端の兵にまで伝染して、第四軍は要塞内にあってまるで夢遊病者の群れのようにも見えた。
メッサーシュミット将軍のもとで長く僚友として親交を深めてきた第二軍のベーム中将、第五軍のツヴァイク中将は相見互いの仲であるリヒテンシュタインの著しく覇気に欠けた様子を心配したが、彼はこれら信頼する同僚に対してさえ、自らの心境を明かそうとはしなかった。言えば、叛逆を疑われるであろう。
彼の裡には、降伏会見の際に敵国の女王が発した問いが密かに残り続けていたのである。
「あなたが掲げるべき正義は、果たしてヘルムス総統の頭上のみにあるものなのですか」
これが例えばメッサーシュミット将軍に正義があるかと問われれば、彼に迷いが生じる余地は寸分もなかったであろう。だが、ヘルムス総統の統治や戦争指導については、彼の価値観に反する例が多々あり、残念ながらそのすべてを正義であるとは信じきれなくなっている。
トリーゼンベルク地方の戦い以降、ヘルムス総統の政策は苛烈さを増し、より急進的になりつつある。例えば、帝都ヴェルダンディを含むいくつかの都市において臨時の徴兵や徴発を行い、民間の人的物的資源を強制的に軍へ納入させている。帝都では教育課程の学徒が根こそぎ動員され、新兵としての訓練を受けているという。このままではたとえ有利な条件で講和条約を結べたとしても国に禍根を残す。負ければそれこそ悲惨である。次代を担うべき若者を多く失うことになりかねず、そうなれば長期的に帝国の国力に甚大な損失をもたらすであろう。
しかもこの新兵というのが、連戦によって損害を被った各軍に補充するのではなく、キティホークの会戦で消滅した第八軍をベルヴェデーレ要塞で復活させ、その構成員として前線へと大挙して送り込んできたのである。
このため要塞は一時、右も左も分からぬ、槍も持たなければ上官の顔や名前も分からぬ大量の若い新兵が無秩序に歩き回る始末となった。
そして、「総統は耄碌したか」とリヒテンシュタインが憤慨するというより呆れたのが、この新兵の配属先である新生第八軍の司令官に、例のレーウ大将を中将に降格して充てることを聞かされたときである。キティホークの会戦における一連の作戦指導により、レーウに前線勤務が務まらないことは証明されている。少なくとも実戦部隊を率いる各軍司令官はその点をよく理解していた。
実際、軍司令官として新兵たちを統率するレーウは不慣れなことこの上なく、その部隊行動はリヒテンシュタインが哀れに思うほど無様であった。戦闘どころか行軍もまともにできないような部隊が戦場をうろついていても、かえって味方の邪魔になるだけだ。
トリーゼンベルク地方の戦いのあと、帝国軍では大規模な配置換えが行われ、メッテルニヒ中将率いる第一軍が帝都の防備に回り、シュマイザー中将の第六軍が継続して対オクシアナ合衆国戦線のおさえに就いている。それ以外の各軍はすべてベルヴェデーレ要塞を根拠地として新たな作戦の発動に備えている。
この新たな作戦というのが、本国でも容易に決まらない。ヘルムス総統はハーゲン博士の指導による天然痘攻撃を契機として、ラドワーン軍の本拠であるナジュラーンを破壊し、その政権を瓦解させたことに満足し、この勢いでロンバルディア教国国境のカスティーリャ要塞も攻略せんとの考えであったが、態勢を立て直した教国軍が堅固に守る要塞に正面から挑むのは被害が大きすぎるとして、国防軍最高司令部総長シュトレーゼマン元帥はじめ制服組の幹部のほとんどが反対しているため、前線の諸部隊はいわば棚ざらしのままベルヴェデーレ要塞に留め置かれたままとなっている。
前線は前線で第四軍に限らず士気が軒並み低く、安全な要塞内にいるために統率も緩みがちである。いずれ教国軍が全面的な反攻作戦を仕掛けてくるだろうとの噂もあったが、こちらは計六個軍が堅牢で名高いベルヴェデーレ要塞に詰めているということもあって、たとえ大規模な攻勢があっても弾き返せるであろうという楽観的な空気が上層部から兵士にいたるまで蔓延している。
人は、悲観論より楽観論を好み、さらにはすがるものである。
士気阻喪せる帝国軍をよそに、教国の作戦は水面下で開始されている。
まずは第四軍のリヒテンシュタイン中将に対し調略を施すため、クイーンは元アサシンの間諜であるシュリアと、元帝国軍人であるユンカースとを組ませて帝国領へと潜入させた。
誰が見ても、異色の取り合わせと言っていいであろう。一方はまるでミイラが這い出してきたようなすさまじい面相の陰気な猫背の男で、もう一方は孤高の狼を思わせるアンバーの瞳を持ち、婦人の誰もが振り返りため息をついてしまうほどの長身の色男である。
この二人が必要な準備を整えレユニオンパレスを発ったのはミネルヴァ暦1397年11月20日のことである。
同じ目的のため、ともに任務を遂行する仲間である、肩を叩き手を携え困難に立ち向かおう、などという殊勝でかわいげのある心掛けは、この二人には当然ながら、ない。準備期間も、二人は一言も言葉を交わさなかった。
公にできない任務であるため、大仰な出立の挨拶はなく、この件の窓口であるヴァネッサ近衛兵団長に出発の申告をするだけである。
シュリアは淡々と報告を済ませたが、ユンカースは無駄口が多い。
「では、行ってくる」
「了解した。クイーンにご報告しておく」
「なにか、激励の言葉が欲しいところだが」
「貴公がそのようなものに意味を見出すとは思わなかったな」
「無事を願ってくれる女がいると、男は生きて帰るために、必死で働くものだ」
「そうか、あぁ、とにかく任務を成功させて無事に帰ってきてくれ」
ヴァネッサは心底、うんざりしたような表情と声で応じた。この男のことは終始、面倒に思いあしらい続けているのだが、めげずに気を引こうとしてくる。何を考えているのか、よく分からない。第一、この男はあのドン・ジョヴァンニと同様、病的な女たらしで、別れを惜しんでくれる女ならいくらでもいるであろう。
シュリアも、ユンカースのことは初対面から気に入っていなかった。
無言のまま王宮を出て、帝国領へと達するピレネー街道をひたすらに北上する。シュリアには一流のアサシンとして鍛えた健脚があり、置いてきぼりを食わせてやろうと早足で歩くのだが、ユンカースは負けじとついてくる。結局、初日から二日分の行程を踏破してしまった。
奇妙な連中だ。
その後も、彼らはつかず離れずで歩き続け、ついに一切の会話を経験せぬまま、国境のカスティーリャ要塞へと到達した。クイーンから預かった特別手形を見せて、要塞の個室でそれぞれ移動の疲れをとったが、要塞司令官のラマルク将軍も、彼らの任務内容を知らず、ただ得体の知れない連中だと思い、深くは詮索はしなかった。
カスティーリャ要塞は目下、ラマルク将軍が5,000ほどの兵を率いて守っており、その北側は両国の緩衝地帯として無人の荒野が続いている。この先、敵国の領内に入るわけで、いよいよ彼らの連携が重要になってくる。だが彼らもここまでくると依怙地になっているのか、どちらからも声をかけぬまま、要塞を出た。例によって、シュリアが歩く後ろを、ユンカースが50歩ほどの距離を保って追いかける格好である。
そしてなんと、両者は12月7日にはベルヴェデーレ要塞の眼下にあるシェーンブルンの町に投宿した。
これが驚くべき事実なのが、まずはその常識外れな移動速度であり、いま一つは放胆に過ぎる。何しろ、シュリアは以前、帝都ヴェルダンディで特務機関に拘束され、拷問を受けた上に脱出している。当時とは顔がまるで違うから分からないであろうとは言え、同様の憂き目に遭いかねないことを考えれば度外れた胆力である。さらにユンカースは、ヘルムス総統の暗殺と現政権の転覆を企てた首謀者であり、帝国にあっては第一級の重罪人である。シェーンブルンの町でも未だに似顔絵や手配書が出回っており、危険は多い。町はベルヴェデーレ要塞からの非番の兵でにぎわっており、ユンカースの所属していた第七軍の兵士も多いであろう。だが彼は町を歩くときも目線を下げようともしない。目立つアンバーの瞳に、狼を思わせる特徴的な容貌。自分は大逆犯のユンカースであると触れ回っているようなもので、これは度胸があるというよりむしろ危機意識が低すぎるというものであろう。
少なくとも、シュリアはそう思った。
宿に入って、彼らは初めて言葉を交わした。
「俺は数日、情報を集める」
「心得た」
「外へは出るな」
それだけ言えば分かるだろうと思った。
数日して宿に帰ると、なんと、相棒は女といる。しかも部屋で彼らは全裸になり、立ったまま犬のような格好でまぐわっている。
ユンカースは、シュリアの姿を見ても、行為をやめようとしない。
「その犬、どこで拾ってきた」
「この町はもとは景勝地として有名で、要塞が建築されてからは兵士の接待のため美しい娼婦も多い」
「どこで拾ったと聞いている」
「近くさ」
シュリアは黙って、小さなため息をついた。殺意が起こっている。
しばらく男女の生々しい音を聞いていたが、やがて終わり、女はシュリアの顔に悲鳴を上げて出ていった。頬に穴の開いた人間を見たのは初めてだったのであろう。
ドアが閉まり、閉まった瞬間、シュリアは脇腹に隠していたナイフをその強靭な手首の動作だけで放った。尋常の者であれば、自らの胸からナイフが生えたのを見て呆然としたことであろう。
が、ナイフはベッドのシーツに刺さり、ユンカースの胸には届かない。
人とも思えぬ反射神経であったが、シュリアは怯まず踏み込んで、一振り、二振りと得物のククリを振り回した。その都度、白いリネンのシーツが切り裂かれ、ユンカースは裸のままあちこちを転げ回った。
シュリアはその滑稽な様子を前に、急激に殺意が薄れ、この愚かな相棒を助命することにした。
「おい、やめだ」
「やめるのか」
「殺す気が失せた」
「違うな」
「なんだと」
「お前ははじめから私を殺す気などなかった。お前は元アサシン、任務に忠実だ。私の肝を冷やし、軽挙を戒めるつもりはあっても、殺すつもりはあるまい。私を殺せばクイーンのご期待に背くことになる」
「そこまで分かっているなら、今後、つまらぬ遊びはやめろ。それと、早くその醜いものをしまえ。ひどいにおいだ」
この二人を組ませたのは、クイーンには珍しく失策であったかもしれない。
だが、ともかくも彼らは共通の目的のため、互いに嫌い、警戒し、監視しつつも、手を携えて任務の遂行を目指すこととなった。
その最重要任務とクイーンが銘打ったのが、帝国国防軍の第四軍司令官であるリヒテンシュタイン中将に対する調略である。
ヴィルヘルム・リヒテンシュタインは、帝国に七人現存する軍司令官のなかでも猛将として知られている。直情径行で卑怯や臆病を憎み、戦術思想は常に攻勢と突進を好む。容貌も荒武者、虎将、一本槍といった表現そのままで、眼光鋭く、針金のような硬質の髭と外にはね上がった太い眉に特徴がある。
その勇名と外見から、世人のなかには彼を粗野で好戦的で、匹夫の勇を誇るだけの知恵なしと思い込む者もいるが、そうした評は偏見のそしりを免れないであろう。彼は帝国軍最高の名将にして高潔無比の人格者であるメッサーシュミット将軍に子飼いの部下として手塩にかけて育てられ、その薫陶を濃厚に受けた。先人に及ばぬにしても、似通った価値基準を持っており、少なくとも己も同様に高潔たろうと心がけてはいる。
一方で毀誉褒貶が激しく、無能な上官や卑劣な同僚、怯懦の部下に対しては過剰なほどに手厳しい。
その性格が災いしたこともあって、キティホークの会戦では総司令官であるレーウ大将の命令なく独断で陣を引き払い、大敗の一因にもなっている。
またトリーゼンベルク地方の一連の戦いにおいては、上官であるシュトラウス上級大将に自ら殿軍を願い出ながら、敵将の手厚い降伏勧告に感激し、屈して、部下を捕虜として売り渡しておきながら自身は単身で逃げ戻っている。
このあたり、帝国軍における彼の立場は極めて悪い。帝国軍の対教国及び対同盟作戦の最重要根拠地であるベルヴェデーレ要塞に舞い戻ってから、彼への扱いは目に見えて粗雑になった。シュトラウス上級大将は彼を一顧だにもせず、意思決定の場からもしばしば除外した。
本国では彼に対する処分は留保され、引き続いて第四軍司令官の地位を保持することとなったが、デュッセルドルフの奇襲戦以来、連戦に次ぐ連戦、そしてキティホークとトリーゼンベルク地方の戦いで大打撃を受けた彼の戦力は兵6,000をようやく超える程度で、本来の半数以下の規模でしかない。しかも慢性的な疲労が蓄積して士気も低い。
士気の点に関しては、実のところ軍司令官たるリヒテンシュタイン中将その人の士気が致命的に低かった。彼は上官から疎外され、同僚からも忌避されていることを嘆いたり憤ったりするわけでもなく、むしろ思春期の少女のように傷つき、内向きになって、無気力になっていた。こうした姿が末端の兵にまで伝染して、第四軍は要塞内にあってまるで夢遊病者の群れのようにも見えた。
メッサーシュミット将軍のもとで長く僚友として親交を深めてきた第二軍のベーム中将、第五軍のツヴァイク中将は相見互いの仲であるリヒテンシュタインの著しく覇気に欠けた様子を心配したが、彼はこれら信頼する同僚に対してさえ、自らの心境を明かそうとはしなかった。言えば、叛逆を疑われるであろう。
彼の裡には、降伏会見の際に敵国の女王が発した問いが密かに残り続けていたのである。
「あなたが掲げるべき正義は、果たしてヘルムス総統の頭上のみにあるものなのですか」
これが例えばメッサーシュミット将軍に正義があるかと問われれば、彼に迷いが生じる余地は寸分もなかったであろう。だが、ヘルムス総統の統治や戦争指導については、彼の価値観に反する例が多々あり、残念ながらそのすべてを正義であるとは信じきれなくなっている。
トリーゼンベルク地方の戦い以降、ヘルムス総統の政策は苛烈さを増し、より急進的になりつつある。例えば、帝都ヴェルダンディを含むいくつかの都市において臨時の徴兵や徴発を行い、民間の人的物的資源を強制的に軍へ納入させている。帝都では教育課程の学徒が根こそぎ動員され、新兵としての訓練を受けているという。このままではたとえ有利な条件で講和条約を結べたとしても国に禍根を残す。負ければそれこそ悲惨である。次代を担うべき若者を多く失うことになりかねず、そうなれば長期的に帝国の国力に甚大な損失をもたらすであろう。
しかもこの新兵というのが、連戦によって損害を被った各軍に補充するのではなく、キティホークの会戦で消滅した第八軍をベルヴェデーレ要塞で復活させ、その構成員として前線へと大挙して送り込んできたのである。
このため要塞は一時、右も左も分からぬ、槍も持たなければ上官の顔や名前も分からぬ大量の若い新兵が無秩序に歩き回る始末となった。
そして、「総統は耄碌したか」とリヒテンシュタインが憤慨するというより呆れたのが、この新兵の配属先である新生第八軍の司令官に、例のレーウ大将を中将に降格して充てることを聞かされたときである。キティホークの会戦における一連の作戦指導により、レーウに前線勤務が務まらないことは証明されている。少なくとも実戦部隊を率いる各軍司令官はその点をよく理解していた。
実際、軍司令官として新兵たちを統率するレーウは不慣れなことこの上なく、その部隊行動はリヒテンシュタインが哀れに思うほど無様であった。戦闘どころか行軍もまともにできないような部隊が戦場をうろついていても、かえって味方の邪魔になるだけだ。
トリーゼンベルク地方の戦いのあと、帝国軍では大規模な配置換えが行われ、メッテルニヒ中将率いる第一軍が帝都の防備に回り、シュマイザー中将の第六軍が継続して対オクシアナ合衆国戦線のおさえに就いている。それ以外の各軍はすべてベルヴェデーレ要塞を根拠地として新たな作戦の発動に備えている。
この新たな作戦というのが、本国でも容易に決まらない。ヘルムス総統はハーゲン博士の指導による天然痘攻撃を契機として、ラドワーン軍の本拠であるナジュラーンを破壊し、その政権を瓦解させたことに満足し、この勢いでロンバルディア教国国境のカスティーリャ要塞も攻略せんとの考えであったが、態勢を立て直した教国軍が堅固に守る要塞に正面から挑むのは被害が大きすぎるとして、国防軍最高司令部総長シュトレーゼマン元帥はじめ制服組の幹部のほとんどが反対しているため、前線の諸部隊はいわば棚ざらしのままベルヴェデーレ要塞に留め置かれたままとなっている。
前線は前線で第四軍に限らず士気が軒並み低く、安全な要塞内にいるために統率も緩みがちである。いずれ教国軍が全面的な反攻作戦を仕掛けてくるだろうとの噂もあったが、こちらは計六個軍が堅牢で名高いベルヴェデーレ要塞に詰めているということもあって、たとえ大規模な攻勢があっても弾き返せるであろうという楽観的な空気が上層部から兵士にいたるまで蔓延している。
人は、悲観論より楽観論を好み、さらにはすがるものである。
士気阻喪せる帝国軍をよそに、教国の作戦は水面下で開始されている。
まずは第四軍のリヒテンシュタイン中将に対し調略を施すため、クイーンは元アサシンの間諜であるシュリアと、元帝国軍人であるユンカースとを組ませて帝国領へと潜入させた。
誰が見ても、異色の取り合わせと言っていいであろう。一方はまるでミイラが這い出してきたようなすさまじい面相の陰気な猫背の男で、もう一方は孤高の狼を思わせるアンバーの瞳を持ち、婦人の誰もが振り返りため息をついてしまうほどの長身の色男である。
この二人が必要な準備を整えレユニオンパレスを発ったのはミネルヴァ暦1397年11月20日のことである。
同じ目的のため、ともに任務を遂行する仲間である、肩を叩き手を携え困難に立ち向かおう、などという殊勝でかわいげのある心掛けは、この二人には当然ながら、ない。準備期間も、二人は一言も言葉を交わさなかった。
公にできない任務であるため、大仰な出立の挨拶はなく、この件の窓口であるヴァネッサ近衛兵団長に出発の申告をするだけである。
シュリアは淡々と報告を済ませたが、ユンカースは無駄口が多い。
「では、行ってくる」
「了解した。クイーンにご報告しておく」
「なにか、激励の言葉が欲しいところだが」
「貴公がそのようなものに意味を見出すとは思わなかったな」
「無事を願ってくれる女がいると、男は生きて帰るために、必死で働くものだ」
「そうか、あぁ、とにかく任務を成功させて無事に帰ってきてくれ」
ヴァネッサは心底、うんざりしたような表情と声で応じた。この男のことは終始、面倒に思いあしらい続けているのだが、めげずに気を引こうとしてくる。何を考えているのか、よく分からない。第一、この男はあのドン・ジョヴァンニと同様、病的な女たらしで、別れを惜しんでくれる女ならいくらでもいるであろう。
シュリアも、ユンカースのことは初対面から気に入っていなかった。
無言のまま王宮を出て、帝国領へと達するピレネー街道をひたすらに北上する。シュリアには一流のアサシンとして鍛えた健脚があり、置いてきぼりを食わせてやろうと早足で歩くのだが、ユンカースは負けじとついてくる。結局、初日から二日分の行程を踏破してしまった。
奇妙な連中だ。
その後も、彼らはつかず離れずで歩き続け、ついに一切の会話を経験せぬまま、国境のカスティーリャ要塞へと到達した。クイーンから預かった特別手形を見せて、要塞の個室でそれぞれ移動の疲れをとったが、要塞司令官のラマルク将軍も、彼らの任務内容を知らず、ただ得体の知れない連中だと思い、深くは詮索はしなかった。
カスティーリャ要塞は目下、ラマルク将軍が5,000ほどの兵を率いて守っており、その北側は両国の緩衝地帯として無人の荒野が続いている。この先、敵国の領内に入るわけで、いよいよ彼らの連携が重要になってくる。だが彼らもここまでくると依怙地になっているのか、どちらからも声をかけぬまま、要塞を出た。例によって、シュリアが歩く後ろを、ユンカースが50歩ほどの距離を保って追いかける格好である。
そしてなんと、両者は12月7日にはベルヴェデーレ要塞の眼下にあるシェーンブルンの町に投宿した。
これが驚くべき事実なのが、まずはその常識外れな移動速度であり、いま一つは放胆に過ぎる。何しろ、シュリアは以前、帝都ヴェルダンディで特務機関に拘束され、拷問を受けた上に脱出している。当時とは顔がまるで違うから分からないであろうとは言え、同様の憂き目に遭いかねないことを考えれば度外れた胆力である。さらにユンカースは、ヘルムス総統の暗殺と現政権の転覆を企てた首謀者であり、帝国にあっては第一級の重罪人である。シェーンブルンの町でも未だに似顔絵や手配書が出回っており、危険は多い。町はベルヴェデーレ要塞からの非番の兵でにぎわっており、ユンカースの所属していた第七軍の兵士も多いであろう。だが彼は町を歩くときも目線を下げようともしない。目立つアンバーの瞳に、狼を思わせる特徴的な容貌。自分は大逆犯のユンカースであると触れ回っているようなもので、これは度胸があるというよりむしろ危機意識が低すぎるというものであろう。
少なくとも、シュリアはそう思った。
宿に入って、彼らは初めて言葉を交わした。
「俺は数日、情報を集める」
「心得た」
「外へは出るな」
それだけ言えば分かるだろうと思った。
数日して宿に帰ると、なんと、相棒は女といる。しかも部屋で彼らは全裸になり、立ったまま犬のような格好でまぐわっている。
ユンカースは、シュリアの姿を見ても、行為をやめようとしない。
「その犬、どこで拾ってきた」
「この町はもとは景勝地として有名で、要塞が建築されてからは兵士の接待のため美しい娼婦も多い」
「どこで拾ったと聞いている」
「近くさ」
シュリアは黙って、小さなため息をついた。殺意が起こっている。
しばらく男女の生々しい音を聞いていたが、やがて終わり、女はシュリアの顔に悲鳴を上げて出ていった。頬に穴の開いた人間を見たのは初めてだったのであろう。
ドアが閉まり、閉まった瞬間、シュリアは脇腹に隠していたナイフをその強靭な手首の動作だけで放った。尋常の者であれば、自らの胸からナイフが生えたのを見て呆然としたことであろう。
が、ナイフはベッドのシーツに刺さり、ユンカースの胸には届かない。
人とも思えぬ反射神経であったが、シュリアは怯まず踏み込んで、一振り、二振りと得物のククリを振り回した。その都度、白いリネンのシーツが切り裂かれ、ユンカースは裸のままあちこちを転げ回った。
シュリアはその滑稽な様子を前に、急激に殺意が薄れ、この愚かな相棒を助命することにした。
「おい、やめだ」
「やめるのか」
「殺す気が失せた」
「違うな」
「なんだと」
「お前ははじめから私を殺す気などなかった。お前は元アサシン、任務に忠実だ。私の肝を冷やし、軽挙を戒めるつもりはあっても、殺すつもりはあるまい。私を殺せばクイーンのご期待に背くことになる」
「そこまで分かっているなら、今後、つまらぬ遊びはやめろ。それと、早くその醜いものをしまえ。ひどいにおいだ」
この二人を組ませたのは、クイーンには珍しく失策であったかもしれない。
だが、ともかくも彼らは共通の目的のため、互いに嫌い、警戒し、監視しつつも、手を携えて任務の遂行を目指すこととなった。
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「誰か衛兵を呼べ!」
騒然となるパーティー会場。すぐさま会場警護の騎士たちに取り囲まれ、彼は「違うんだ、話を聞いてくれ!」と叫びながら愛人の令嬢とともに連行されていった。
そして倒れたセリアもすぐさま人が集められ運び出されていった。
そして誰もいなくなった。
彼女と彼と愛人と、果たして誰が悪かったのか。
これはとある悲しい、婚約破棄の物語である。
◆小説家になろう様でも公開しています。話数の関係上あちらの方が進みが早いです。
3/27、なろう版完結。あちらは全8話です。
3/30、小説家になろうヒューマンドラマランキング日間1位になりました!
4/1、完結しました。全14話。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
我が家に子犬がやって来た!
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アルスは当初かなり周囲の人間を警戒していたのだが、フィリアナとロアルドが甲斐甲斐しく世話をする事で、すぐに二人と打ち解ける。
だがそんな子犬のアルスには、ある重大な秘密があって……。
この話は、子犬と戯れながら巻き込まれ成長をしていく兄妹の物語。
※全102話で完結済。
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