ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

文字の大きさ
上 下
147 / 230
第18章 平和を求めて

第18章-⑤ 次なる任務

しおりを挟む
「シュリアさんを呼んでください」
 解散した会議室に残ったクイーンは、作戦の次なる一手として、その者を呼んだ。彼女においては、作戦を発表する前から、戦いを終わらせるための戦いはすでに始まっている。
「参りました」
 短く告げたシュリアは、以前よりもさらに哀れな面相になっている。帝国から戻ったとき、彼は特務機関の酷烈な拷問を受け、歯をすべて失っていた。このため話したり笑ったりすると老翁ろうおうのように悲惨で剽軽ひょうきんな印象であったが、そのあとの王国への潜入任務でさらに顔が変わった。
 彼は王国内の実情を探り、また裏の仕事としてはサミュエルの動向も確かめるため、王都トゥムルへと入った。宮殿の警備は彼の想像していたよりはるかに厳重で、御林ぎょりん軍と呼ばれる近衛軍が常に守っている。夜間もその防備は厳しく、事情を調べると、宮廷内の不平分子や民衆の蜂起を恐れ、王宮内外を厳しく警戒しているのだという。実際、王都は飢民とあぶれ者とであふれ返り、人々はあちこちで政権への憎悪と怨嗟えんさを口にしている。義臣や義士が立ち上がり、国家転覆をくわだてたとしても何ら不思議はない。
 都も宮殿も、それほどの剣呑けんのんな様子だったから、さすがのシュリアもひどく苦労したが、ようやく隙を見つけ、壁を伝って王宮内部へと潜り込んだ。
 そこから得た情報の数々は、クイーンを驚愕させ、かつ怖気おぞけをふるわせるに充分であった。
 王国の皇妃スミンはもともと矯激な人で、前の皇帝の頃から悪評の対象であった。彼女を王宮に迎えてから、皇帝イェスンゲは暴君と化し、反対者に対する苛烈なまでの弾圧や、悪政の数々から、スミンは「傾国の美女」と呼ばれた。やがてイェスンゲは病没するのだが、その死にもスミンが関与しているともっぱらの噂である。
 現皇帝のクウンは前皇帝イェスンゲが元来の皇妃に生ませた実子で、皇妃を殺させてその後釜に座ったスミンにとっては義理の息子であったが、彼女はなんとその皇妃におさまった。義理の息子のきさきになるというのは、悠久なる大陸の歴史においても、ちょっと類を見ない。
 その後、王国内で軍権を二分する軍閥となったチャン・レアンとウリヤンハタイの対立と抗争を契機として、王国は隣国のブリストル公国へと侵攻を開始する。
 公国はたちまち降伏へと至り、完全併合されて戦争は終わったが、戦火はなおもまない。王国に加担し、領内を通過して公国への進入路を確保することを認めた同盟のイシャーン王に対し、ラドワーン王をはじめとする同盟の三人の王が軍を向けたのである。イシャーンは王国のチャン・レアン将軍に救援を求め、両軍はネタニヤの会戦で激突。イシャーン・王国連合軍が勝利した。
 敗退したラドワーンは、合衆国に介入を乞い、合衆国はさらに教国にも戦線参加を求めたため、紛争は一挙に大陸規模へと発展した。
 この一連の紛争において、スミンは本国で内治に努めた。と言えば実態との乖離かいりが甚だしいが、要は安全な場所で血まみれの戦いとは無縁な生活を続けていた。その生活というのも、極端である。政道にはほとんど関心がなく、唯一の判断基準は自らの福祉にかなうかどうかであった。彼女にとっての民とは、奴隷以下の、それこそ道具でしかなかったようでもある。圧政は広まり、多くの民が苦しみを味わった。特に植民地となった旧ブリストル公国領の民は悲惨と形容するほかなく、富は収奪され、食料にすら事欠くようになった。このため流浪の人となったウリヤンハタイや、侵入した合衆国軍のゲリラ活動に協力することが多く、しかしそれもさらに王国軍による報復を招いて、弾圧と虐殺が行われるという、その繰り返しであった。
 政務を放棄してスミンがやっていたことといえば、ひたすら男と性交に明け暮れるということであった。彼女は皇妃という身分で、当然ながら夫である皇帝クウンとのみ情交が可能な身であったが、そうした建前ももはやどうでもよいのか、皇帝の弟たちを寝所に連れ込んでは犯し、それにも飽いたのか、文武に優れた有望な若者を引っ張ってきては愛人とした。その数は累計で百人は下らないであろう。彼女の性欲は際限がなく、どの男も彼女の酷使に耐えきれず健康を害しては病気を発したり男性機能を失うなどして使い物にならなくなった。
 彼女の口癖は「子がほしい、子がほしい」というもので、その執着心は狂人じみていた。いや、狂人であったのかもしれない。それほどに、過度な肉欲にまみれた暮らしであった。
 が、そうした放逸ほういつな性習慣も、突然に終わりを告げる。それが彼女の懐妊で、表向きは当然だが皇帝の子種とされた。しかし彼女が一度には数えきれないほどの愛人を抱えていることは王国の民衆で知らぬ者はいない。実際には異国から来た流浪の盲人の子であるということで、女官らの衆目は一致していた。いずれ黒い瞳の皇帝と黒い瞳の皇妃のあいだに、青い目の子が誕生するであろうと噂された。
 受胎が明らかになったあと、その盲人はいずこかに消えた。真実は誰も知らなかったが、女官たちはスミンの手で殺されたと考えていた。懐妊した途端に、スミンは子種の持ち主である盲人が邪魔に思われたのであろう。だから、殺した。彼女らの主人は、常にそのような思考をする人物であった。
 シュリアはこれだけの情報を集め、頃合いよしと見て王宮からの脱出を図った。だが、彼ほどの熟練の諜者が、失敗した。幾人かの警備兵を殺し逃げたが、その最中で市中巡察中の治安部隊に出くわし、不覚にも矢を受けた。矢は彼の鼻を削り、右頬を突き破り、さらに下顎の骨にまで達したものの、彼はそのままの姿でついに逃げきった。
 通常、これだけの傷を放置しておけば敗血症や破傷風から死に至るのも時間の問題だが、驚くべきことに彼は自らの手によるごく簡易的な応急処置のみ施して、グイリン港から出る船に乗り、アルジャントゥイユまで帰ってきた。ただ、まともな治療を受けていないために、頬には穴が開いたままで、とても人間の顔とは思えない。
 最初、クイーンは彼の痛々しい顔を見るなり、涙を流して悲しんだ。シュリアはむしろ喜んだ。かつて、彼は犬も同然の身分に生まれ、暗殺稼業に手を染めることでようやく食いつないできたような男であったが、今は地上で最も尊いと思える人から涙を頂戴し、憐憫れんびんを受けている。歯を抜かれ、顔を失おうと、それがなんだというのか。
 しばらく治療に専念し、この頃には退屈を感じ任務を願い出ていたところである。
「シュリアさん、このことは間もなく公になりますが、先に伝えておきます。年が明けてから、我々は軍を北へ進め、帝国との戦いを終わらせるつもりです」
「いよいよですか」
「シュリアさんにも、一働きいただけますか」
「すべて、仰せに従います」
「組んでほしい人がいるのです」
 その言葉を合図に、同席していたエミリアが扉を開け、長身の男を招じ入れた。
「お引き合わせします。こちらがお話ししていたシュリアさん。こちらは帝国から亡命していらしたユンカースさんで、お二人にはともに、今回の作戦における最も重要な任務に従事していただきたいと思います」
 クイーンはその任務の内容を告げ、敵将との交渉はこのユンカースが行うゆえ、シュリアにはその下準備として流言飛語を散布し、さらに両者の接触もお膳立てするようにとの指示を出した。
 詳しい説明のあと、両者は連れ立って帝国の地へと旅立っていった。
 目指すは、帝国最大の軍事基地にして戦略上の要衝たる、ベルヴェデーレ要塞である。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる

三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。 こんなはずじゃなかった! 異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。 珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に! やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活! 右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり! アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

赤き翼の万能屋―万能少女と出来損ない死霊術師の共同生活―

文海マヤ
ファンタジー
「代わりのない物なんてない。この世は代替品と上位互換に溢れてる」  万能屋。  猫探しから家の掃除や店番、果ては護衛や汚れ仕事まで、あらゆるものの代わりとなることを生業とするもの。  そして、その中でも最強と名高い一人――万能屋【赤翼】リタ・ランプシェード。  生家を焼かれた死霊術師、ジェイ・スペクターは、そんな彼女の下を訪ね、こう依頼する。 「今月いっぱい――陸の月が終わるまででいいんだ。僕のことを、守ってはくれないだろうか」 そうして始まる、二人の奇妙な共同生活。 出来損ないの死霊術師と最強の万能屋が繰り広げる、本格ファンタジー。 なろうに先行投稿中。

ととのい賢者の王国最強戦記

けんゆう
ファンタジー
異世界に転移したサウナ好きの俺は、剣と魔法の王国にサウナ文化が存在しないことに絶望する。疲れ切った人々を見て、「サウナを広めなきゃ!」と決意し、手作りのサウナを完成。しかし、理解されず異端者扱いされて追放される……

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活

天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――

修復スキルで無限魔法!?

lion
ファンタジー
死んで転生、よくある話。でももらったスキルがいまいち微妙……。それなら工夫してなんとかするしかないじゃない!

『自重』を忘れた者は色々な異世界で無双するそうです。

もみクロ
ファンタジー
主人公はチートです!イケメンです! そんなイケメンの主人公が竜神王になって7帝竜と呼ばれる竜達や、 精霊に妖精と楽しくしたり、テンプレ入れたりと色々です! 更新は不定期(笑)です!戦闘シーンは苦手ですが頑張ります! 主人公の種族が変わったもしります。 他の方の作品をパクったり真似したり等はしていないので そういう事に関する批判は感想に書かないで下さい。 面白さや文章の良さに等について気になる方は 第3幕『世界軍事教育高等学校』から読んでください。

処理中です...