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第17章 術者、死闘す
第17章-① 女王に捧ぐ
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ミネルヴァ暦1397年7月3日。
帝国との開戦に始まったこの年も、すでに半ばを終えている。だがロンバルディア教国の誰もがそのような感慨さえ持つ暇もなく、血眼になって働いている。打倒帝国を唱え、来るべき大遠征に向けて、休みもなく動いているからだ。
その帝国から、使者が訪れたとの報告がクイーンのもとへもたらされたのは、昼下がりの最も暑い時間帯である。この時間帯は、この地方ではシエスタと呼ばれ、多くの者は昼食のあとの眠気に身を任せて、昼寝をする。商店も店じまいをして、昼寝明けに商売を再開する。何故、昼寝をするのが一般的なのかはよく分かってはいないが、アポロニア半島は大陸で最も緯度が低く、つまり日照時間が長く、古代人があまりの退屈さに耐えかねて寝るようになったとの説や、昼の最も暑い時間を日陰に逃げて寝るようになったとの説など、様々な理由が考えられている。なかには悪意のある論者もいて、アポロニア半島の人々は生まれつき怠惰で強欲だから昼間でも寝てしまうのだ、などと言う者もある。
生まれつき怠惰で強欲というのは、少なくともこの人の場合は当てはまらないであろう。実際、クイーンには昼寝の習慣はなかった。起きているあいだは目一杯動いて、自室に入った瞬間、ことりと眠る。日によって多少は前後するが、おおよそ7時間ないし9時間程度は睡眠時間にあてていたと伝えられる。
「帝国からの使者、ですか?」
「はい、クイーンへの貢ぎ物を持参したと。カスティーリャ要塞でラマルク将軍が直々に調べましたが、献上品の箱以外は怪しいところはなかったそうです」
「奇々怪々な話です。ここはクイーンを害したてまつる可能性を考慮して、近衛兵が貢ぎ物の箱とやらを仔細に検めるべきでしょう。ディーキルヒでの天然痘攻撃の例もあります」
エミリア、ヴァネッサが口を揃えて進言したため、謁見は大広間での公式の会見のみとし、箱は近衛兵のクレアが確認することとなった。
(さて、帝国は何を仕掛けるつもりなのか)
大広間への途上、エミリアの胸には疑惑と警戒が渦巻いている。帝国が、関係修復のために友好の品を送ってきたなどとは微塵も考えていない。そのようなしおらしい一面があるのなら、予告もなく自領を通過する教国軍を奇襲するような真似ははじめからしないであろう。今回の使節派遣には、背景に何らかの陰謀があると見るのが妥当である。
ただ、エミリアにはそれが分からない。
大広間の中央には、老人がぽつりと立っている。帝都ヴェルダンディから国都アルジャントゥイユまでは、片道でも最低20日間はかかる。真夏の猛暑のなか、よくそれだけの道程を乗り越えられたものだ、と感心するほどに、弱々しい老体であった。友好国であったら、クイーンはその労苦を懇ろにねぎらったことであろう。
だが教国人の誰もが先般の帝国の裏切りを忘れてはいない。特に近衛兵団は帝国軍の奇襲によって遠征に従った兵のうち9割を失った。帝国憎しの感情は生々しく、風化するどころかいよいよ激しさを増している。
殺意の混じった緊張感のなかで、老人は臆せず淡々と、「帝国外務省二等官僚のハンス・マーラー」であると名乗った。陰気な雰囲気をまとっていて、その名も、クイーンを除いては誰も記憶することができなかった。老人はさらに、
「我が総統より、陛下への献上品を預かってまいりました。何卒お納めください」
儀礼では通常、近衛兵が代理で受け取り、さらに女王に近しい側近が中身を確認して、ようやく女王に見せる、という工程を踏む。今回は正規の手順から外れ、旗本のクレアが開封までを行う。
箱はずいぶんと小さい。広げた掌ほどの大きさで、よく、金塊や琥珀、宝石を贈る際に、このような箱を用いる。
重々しくもおもむろに、クレアが箱を開けると、咄嗟に彼女は小さな悲鳴を上げた。たちまち顔面は蒼白となり、開いた唇が震え、目はまばたきを忘れたように凍りついている。
上段にいるクイーンやエミリア、ヴァネッサ、ジュリエットらには、箱の中が見えない。クレアが動けずにいるため、やむなくすぐ近くにいたダフネが介添えのため確認に入った。
彼女は一瞬、息を呑み、即座に剣を抜いてマーラー老人の首筋に擬して叫ぶに、
「貴様、これはなんだ!」
「これは、貴軍のクロエ千人長が両目と両耳」
と言ったものだから、同席していた近衛兵団の関係者は全員がクレアと同じか、少なくともそれに近い表情へと豹変した。近衛兵団のクロエ千人長は、デュッセルドルフでの戦いで行方不明になっている。この老人は、その両目をくり抜き、両耳を削いで持ってきたのだという。
近衛兵らに愕然とする時間は与えられたがそれも長くはなく、ダフネに続いてばらばらと抜剣し、マーラー老人の周囲はきらきらと輝く白刃の林に囲まれた。老人には恐怖の感情がないのか、微動だにもせず静まり返っている。
「卑劣な帝国の害獣ども、クロエ千人長を殺めたか!」
「我が軍の捕虜をいたぶる帝国の蛮行、断じて許せん!」
「貴様の目と耳も引き抜いて、帝国に送り返してやるぞ!」
怒号が雨のように浴びせられるなか、エミリアはすぐに異変に気づいた。
「クイーン!」
彼女の視線の先に、玉座にもたれつつうなだれるクイーンがいる。衝撃のあまり、血の気を失ったらしい。
エミリアは、近衛兵団の旗本で最も力持ちと評されるサミアに命じ、クイーンを直ちに私室へ運びまいらせるとともに、ベルッチ宮廷医長を呼ばせた。
使者の扱いは保留となり、これもエミリアの判断で、貴賓室のひとつをあてがい留めることとした。不満げな近衛兵たちを前に、エミリアは冷然と言い放った。
「事は外交に関することで、クイーンの御叡慮を必要とする。殺すと決まれば、そのときは死を賜ればよい。もとより、生きて帰れるとは思っていまい」
確かに、マーラー老人はひたすらに目を伏せ、生への執着を完全に捨てているように見える。ダフネら近衛兵は全員、剣を収め、老人に対するにはことさら乱暴に過ぎるほどの扱いで、彼を貴賓室へと連行し、そこで監視下に置いた。仮に自殺を企図したとしても、たちまち制止させられてしまうであろうほどに、その監視ぶりは厳重をきわめた。
小一時間後には、クイーンは意識を取り戻している。こういうとき、クイーンが目覚めたそばには必ずエミリアがいる。
「ご気分はいかがですか」
よいはずもない。
デュッセルドルフの戦いののち、クイーンはこの戦いにおける犠牲者について、その胸を痛めなかった日はない。それはどのようなときでも傍らを離れることなく、彼女の振舞いを見守り、その心情を察し続けたエミリアが最もよく理解している。帝国軍による奇襲から軍を守れなかったのも、奇襲の意図を読めなかったのも、あるいはそもそも帝国領を通ってラドワーン王に加勢すると決めたのも、クイーンであった。彼女は帝国軍の手で殺されたすべての兵に責任がある。さらに、捕虜となった者たち。その生死は不明だが、願わくは無事にその身柄を取り戻したい。
しかし、実際には帝国は捕虜とした近衛兵団クロエ千人長の両目と両耳を送りつけてきている。許容の限度をはるかに超えた蛮行であり、悪事もここに極まれりといったところである。
クイーンの心痛たるや、想像に難くない。
「クロエは、ずっと忠実に尽くしてくれていたわ」
確かに、クロエが近衛兵として忠実であったことについては、エミリアもクイーン以上に理解している。万能である分、いささか器用貧乏のようなところがあって、その点は本人も気に病んでいた節があるが、実直で勤勉であり、信頼に足る近衛兵であった。
であった、と過去形で振り返らねばならないのが、ふたりにとっては哀傷胸に迫るものがある。
「クイーン、今はあまり深くお心に感じられませぬように」
「私がクロエを殺したも同然よ」
「何を仰せです」
「私が、守るべきだったのに。ほかにも捕虜になった兵は数多くいるはず。今頃、どうなっているのか。生きているのか、それとも殺されたのか。何故、このようなことに……」
クイーンはベッドに横たわったまま、珍しいことに起き上がる気力もないらしく、透き通るような涙を幾筋も流している。
かけるべき言葉も見当たらぬまま、エミリアはただじっと主君の手を握り、無言の励ましを与えていたが、それでもクイーンは前を向くことができなかった。帝国が送りつけた贈り物は、その狙い通り、彼女の精神に深刻な傷跡を残したようであった。
「エミリア、お願いしてもいい?」
「おっしゃってください」
「私の代わりに、あのマーラーさんという方に話を聞いてほしいの。我が軍の捕虜がどのような扱いを受けているのか、帝国で何が行われているのか。私、考えてみたけど、今はどうしてもそれを真正面から聞く勇気が持てない」
「分かりました。私が確認してみましょう」
「ごめんね、エミリアも自分が育てた大切な部下をたくさん失って、とてもつらいはずなのに」
「私はクイーンをお守りするのが役目です。あなたのためなら、私は心を氷にも鋼にも、鬼にもできますよ」
「エミリア、いつもありがとう。私、あなたに感謝してもしきれないくらいよ」
「お心を平らかにお休みください。あとで、メリッサにぶどうを届けさせましょう」
「うん」
相槌を打つ声は穏やかだが、憂いと影が感じられる。
エミリアは部屋を引き取り、沸々と噴き上がる怒りを抑えるのに苦労した。クイーンの表現した通り、現在の近衛兵団はエミリアが育て鍛えたと言ってもよく、特に百人長や千人長といった幹部は彼女の引き上げによって地位を得た者が多い。
もっとも、彼女らを失ったことに、エミリアは耐えられる。戦いに赴くのであるから、部下はおろか、自分が命を落とすことも充分に予期しているし、諦めもつく。だが捕虜となった部下が虐待を受け、両目と両耳を失う苦痛のなかで死んでいったであろうその事実は、それこそ氷や鋼のように、そしてときには鬼のように強い心を持った彼女でさえ、甘受せざるところである。クロエは、戦いのなかで死んだのではない。戦い終わってなお、助かった命を帝国によって無残に奪われた。そしてその体の一部を送りつけてきた目的は、クイーンへの挑発ないし精神的なショックを与えることであろう。これも、エミリアにとっては内心、怒り心頭に発している。帝国はどこまで、彼女の主君を傷つけようというのか。
(帝国、絶対に許すことはできない)
ただ、彼女がこれから相対しようとする老人に対しては、さほど怒りの感情が向いてはいない。クイーンも同様であろう。
それは、老人自身が、任務の内容を理解した上で、死を受け入れているということ。捕虜の虐待や虐殺と直接の関係がないに違いないあの老人ひとりを殺したところで、帝国に対する復仇を遂げたことにはならないであろうこと。そして老人はいわば捨て駒として派遣されたのであり、たとえ殺されてもそれは想定内のことで、帝国の高官どもが痛痒を感じるとは思えないことなどが理由である。要するにあの老人も、帝国の悪辣で邪悪な思惑に利用され捨てられた哀れな人形でしかない。
その認識が、かろうじてエミリアに平静さを保たせた。でなければ、エミリアは部屋に入った瞬間に、老人の首を刎ねていたであろう。
帝国との開戦に始まったこの年も、すでに半ばを終えている。だがロンバルディア教国の誰もがそのような感慨さえ持つ暇もなく、血眼になって働いている。打倒帝国を唱え、来るべき大遠征に向けて、休みもなく動いているからだ。
その帝国から、使者が訪れたとの報告がクイーンのもとへもたらされたのは、昼下がりの最も暑い時間帯である。この時間帯は、この地方ではシエスタと呼ばれ、多くの者は昼食のあとの眠気に身を任せて、昼寝をする。商店も店じまいをして、昼寝明けに商売を再開する。何故、昼寝をするのが一般的なのかはよく分かってはいないが、アポロニア半島は大陸で最も緯度が低く、つまり日照時間が長く、古代人があまりの退屈さに耐えかねて寝るようになったとの説や、昼の最も暑い時間を日陰に逃げて寝るようになったとの説など、様々な理由が考えられている。なかには悪意のある論者もいて、アポロニア半島の人々は生まれつき怠惰で強欲だから昼間でも寝てしまうのだ、などと言う者もある。
生まれつき怠惰で強欲というのは、少なくともこの人の場合は当てはまらないであろう。実際、クイーンには昼寝の習慣はなかった。起きているあいだは目一杯動いて、自室に入った瞬間、ことりと眠る。日によって多少は前後するが、おおよそ7時間ないし9時間程度は睡眠時間にあてていたと伝えられる。
「帝国からの使者、ですか?」
「はい、クイーンへの貢ぎ物を持参したと。カスティーリャ要塞でラマルク将軍が直々に調べましたが、献上品の箱以外は怪しいところはなかったそうです」
「奇々怪々な話です。ここはクイーンを害したてまつる可能性を考慮して、近衛兵が貢ぎ物の箱とやらを仔細に検めるべきでしょう。ディーキルヒでの天然痘攻撃の例もあります」
エミリア、ヴァネッサが口を揃えて進言したため、謁見は大広間での公式の会見のみとし、箱は近衛兵のクレアが確認することとなった。
(さて、帝国は何を仕掛けるつもりなのか)
大広間への途上、エミリアの胸には疑惑と警戒が渦巻いている。帝国が、関係修復のために友好の品を送ってきたなどとは微塵も考えていない。そのようなしおらしい一面があるのなら、予告もなく自領を通過する教国軍を奇襲するような真似ははじめからしないであろう。今回の使節派遣には、背景に何らかの陰謀があると見るのが妥当である。
ただ、エミリアにはそれが分からない。
大広間の中央には、老人がぽつりと立っている。帝都ヴェルダンディから国都アルジャントゥイユまでは、片道でも最低20日間はかかる。真夏の猛暑のなか、よくそれだけの道程を乗り越えられたものだ、と感心するほどに、弱々しい老体であった。友好国であったら、クイーンはその労苦を懇ろにねぎらったことであろう。
だが教国人の誰もが先般の帝国の裏切りを忘れてはいない。特に近衛兵団は帝国軍の奇襲によって遠征に従った兵のうち9割を失った。帝国憎しの感情は生々しく、風化するどころかいよいよ激しさを増している。
殺意の混じった緊張感のなかで、老人は臆せず淡々と、「帝国外務省二等官僚のハンス・マーラー」であると名乗った。陰気な雰囲気をまとっていて、その名も、クイーンを除いては誰も記憶することができなかった。老人はさらに、
「我が総統より、陛下への献上品を預かってまいりました。何卒お納めください」
儀礼では通常、近衛兵が代理で受け取り、さらに女王に近しい側近が中身を確認して、ようやく女王に見せる、という工程を踏む。今回は正規の手順から外れ、旗本のクレアが開封までを行う。
箱はずいぶんと小さい。広げた掌ほどの大きさで、よく、金塊や琥珀、宝石を贈る際に、このような箱を用いる。
重々しくもおもむろに、クレアが箱を開けると、咄嗟に彼女は小さな悲鳴を上げた。たちまち顔面は蒼白となり、開いた唇が震え、目はまばたきを忘れたように凍りついている。
上段にいるクイーンやエミリア、ヴァネッサ、ジュリエットらには、箱の中が見えない。クレアが動けずにいるため、やむなくすぐ近くにいたダフネが介添えのため確認に入った。
彼女は一瞬、息を呑み、即座に剣を抜いてマーラー老人の首筋に擬して叫ぶに、
「貴様、これはなんだ!」
「これは、貴軍のクロエ千人長が両目と両耳」
と言ったものだから、同席していた近衛兵団の関係者は全員がクレアと同じか、少なくともそれに近い表情へと豹変した。近衛兵団のクロエ千人長は、デュッセルドルフでの戦いで行方不明になっている。この老人は、その両目をくり抜き、両耳を削いで持ってきたのだという。
近衛兵らに愕然とする時間は与えられたがそれも長くはなく、ダフネに続いてばらばらと抜剣し、マーラー老人の周囲はきらきらと輝く白刃の林に囲まれた。老人には恐怖の感情がないのか、微動だにもせず静まり返っている。
「卑劣な帝国の害獣ども、クロエ千人長を殺めたか!」
「我が軍の捕虜をいたぶる帝国の蛮行、断じて許せん!」
「貴様の目と耳も引き抜いて、帝国に送り返してやるぞ!」
怒号が雨のように浴びせられるなか、エミリアはすぐに異変に気づいた。
「クイーン!」
彼女の視線の先に、玉座にもたれつつうなだれるクイーンがいる。衝撃のあまり、血の気を失ったらしい。
エミリアは、近衛兵団の旗本で最も力持ちと評されるサミアに命じ、クイーンを直ちに私室へ運びまいらせるとともに、ベルッチ宮廷医長を呼ばせた。
使者の扱いは保留となり、これもエミリアの判断で、貴賓室のひとつをあてがい留めることとした。不満げな近衛兵たちを前に、エミリアは冷然と言い放った。
「事は外交に関することで、クイーンの御叡慮を必要とする。殺すと決まれば、そのときは死を賜ればよい。もとより、生きて帰れるとは思っていまい」
確かに、マーラー老人はひたすらに目を伏せ、生への執着を完全に捨てているように見える。ダフネら近衛兵は全員、剣を収め、老人に対するにはことさら乱暴に過ぎるほどの扱いで、彼を貴賓室へと連行し、そこで監視下に置いた。仮に自殺を企図したとしても、たちまち制止させられてしまうであろうほどに、その監視ぶりは厳重をきわめた。
小一時間後には、クイーンは意識を取り戻している。こういうとき、クイーンが目覚めたそばには必ずエミリアがいる。
「ご気分はいかがですか」
よいはずもない。
デュッセルドルフの戦いののち、クイーンはこの戦いにおける犠牲者について、その胸を痛めなかった日はない。それはどのようなときでも傍らを離れることなく、彼女の振舞いを見守り、その心情を察し続けたエミリアが最もよく理解している。帝国軍による奇襲から軍を守れなかったのも、奇襲の意図を読めなかったのも、あるいはそもそも帝国領を通ってラドワーン王に加勢すると決めたのも、クイーンであった。彼女は帝国軍の手で殺されたすべての兵に責任がある。さらに、捕虜となった者たち。その生死は不明だが、願わくは無事にその身柄を取り戻したい。
しかし、実際には帝国は捕虜とした近衛兵団クロエ千人長の両目と両耳を送りつけてきている。許容の限度をはるかに超えた蛮行であり、悪事もここに極まれりといったところである。
クイーンの心痛たるや、想像に難くない。
「クロエは、ずっと忠実に尽くしてくれていたわ」
確かに、クロエが近衛兵として忠実であったことについては、エミリアもクイーン以上に理解している。万能である分、いささか器用貧乏のようなところがあって、その点は本人も気に病んでいた節があるが、実直で勤勉であり、信頼に足る近衛兵であった。
であった、と過去形で振り返らねばならないのが、ふたりにとっては哀傷胸に迫るものがある。
「クイーン、今はあまり深くお心に感じられませぬように」
「私がクロエを殺したも同然よ」
「何を仰せです」
「私が、守るべきだったのに。ほかにも捕虜になった兵は数多くいるはず。今頃、どうなっているのか。生きているのか、それとも殺されたのか。何故、このようなことに……」
クイーンはベッドに横たわったまま、珍しいことに起き上がる気力もないらしく、透き通るような涙を幾筋も流している。
かけるべき言葉も見当たらぬまま、エミリアはただじっと主君の手を握り、無言の励ましを与えていたが、それでもクイーンは前を向くことができなかった。帝国が送りつけた贈り物は、その狙い通り、彼女の精神に深刻な傷跡を残したようであった。
「エミリア、お願いしてもいい?」
「おっしゃってください」
「私の代わりに、あのマーラーさんという方に話を聞いてほしいの。我が軍の捕虜がどのような扱いを受けているのか、帝国で何が行われているのか。私、考えてみたけど、今はどうしてもそれを真正面から聞く勇気が持てない」
「分かりました。私が確認してみましょう」
「ごめんね、エミリアも自分が育てた大切な部下をたくさん失って、とてもつらいはずなのに」
「私はクイーンをお守りするのが役目です。あなたのためなら、私は心を氷にも鋼にも、鬼にもできますよ」
「エミリア、いつもありがとう。私、あなたに感謝してもしきれないくらいよ」
「お心を平らかにお休みください。あとで、メリッサにぶどうを届けさせましょう」
「うん」
相槌を打つ声は穏やかだが、憂いと影が感じられる。
エミリアは部屋を引き取り、沸々と噴き上がる怒りを抑えるのに苦労した。クイーンの表現した通り、現在の近衛兵団はエミリアが育て鍛えたと言ってもよく、特に百人長や千人長といった幹部は彼女の引き上げによって地位を得た者が多い。
もっとも、彼女らを失ったことに、エミリアは耐えられる。戦いに赴くのであるから、部下はおろか、自分が命を落とすことも充分に予期しているし、諦めもつく。だが捕虜となった部下が虐待を受け、両目と両耳を失う苦痛のなかで死んでいったであろうその事実は、それこそ氷や鋼のように、そしてときには鬼のように強い心を持った彼女でさえ、甘受せざるところである。クロエは、戦いのなかで死んだのではない。戦い終わってなお、助かった命を帝国によって無残に奪われた。そしてその体の一部を送りつけてきた目的は、クイーンへの挑発ないし精神的なショックを与えることであろう。これも、エミリアにとっては内心、怒り心頭に発している。帝国はどこまで、彼女の主君を傷つけようというのか。
(帝国、絶対に許すことはできない)
ただ、彼女がこれから相対しようとする老人に対しては、さほど怒りの感情が向いてはいない。クイーンも同様であろう。
それは、老人自身が、任務の内容を理解した上で、死を受け入れているということ。捕虜の虐待や虐殺と直接の関係がないに違いないあの老人ひとりを殺したところで、帝国に対する復仇を遂げたことにはならないであろうこと。そして老人はいわば捨て駒として派遣されたのであり、たとえ殺されてもそれは想定内のことで、帝国の高官どもが痛痒を感じるとは思えないことなどが理由である。要するにあの老人も、帝国の悪辣で邪悪な思惑に利用され捨てられた哀れな人形でしかない。
その認識が、かろうじてエミリアに平静さを保たせた。でなければ、エミリアは部屋に入った瞬間に、老人の首を刎ねていたであろう。
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