ミネルヴァ大陸戦記

一条 千種

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第16章 王権は崩れ

第16章-② 世乱れてのち、未だ治まらず

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 ラドワーン王とその軍が、帝国軍に天然痘を広められたために撤退し、その策源地であるナジュラーンに帰着したのは、5月10日である。 
 以来、ナジュラーン市内では軍が持ち帰った天然痘が幾何級数的に蔓延を始め、パニックに陥った一般市民は食料の買い占めに走り、それが終わってからは戸を閉め、出歩く姿は乞食ばかりになった。民間レベルでは継続していた王国や帝国とは無論、教国や合衆国との貿易もめっきり下火となった。商業活動によって潤っていたナジュラーンの経済は、完全に停止したのである。 
 軍も、損失は甚大である。キティホークの会戦含め、ラドワーン軍は対帝国作戦において直接の敗北は喫していなかったが、ディーキルヒで天然痘攻撃を受けて以来、その罹患《りかん》者は総計で1万に達するものと見られた。この病気は一度かかって治癒すれば二度はかからないが、そのような疫学的知識の乏しい兵士たちは、地獄のような苦しみが忘れられず、回復してもその大半が復帰せずに脱走した。 
 罹患せぬ者も、間近で同僚の苦痛を目撃してきただけに恐怖は尋常でない。日一日と、兵舎に詰める兵の数は減っていった。 
 さらに追い撃ちをかけるように、危機的な状況がナジュラーン朝を襲った。 
 ラドワーン王、病臥びょうがす。 
 王は天然痘であられる、と聞いて、ラドワーンの二番目の弟であるヤアクーブは、膝から崩れ落ちて嘆いた。 
嗚呼ああ、我が王朝もこれにてしまいか」 
 東には王国軍とイシャーン軍、西には帝国軍と、腹背に敵を抱え、天然痘の流行で国は乱れ、民衆は恐れおののき、軍も自壊の道をたどっている。これだけの悪条件のなか、指導者たる王が倒れたら、国は立ち直れないほどの打撃を被る。 
 実際、このときにイシャーン軍なり王国軍なり、あるいは帝国軍がナジュラーンに攻め入っていたら、到底戦いにはならず、同盟は即座に崩壊し、旧同盟領全域はイシャーン、王国、帝国の三者で山分けされていたことであろう。 
 だが、イシャーン軍と王国軍はドワングワ湖付近における合衆国軍との睨み合いから脱することができず、帝国軍も補給と物資の問題から進撃の歩みは遅い。特に帝国軍に対しては殿軍しんがりのラフィークが退却中もしばしばゲリラ戦を仕掛けては足止めを図るので、この方面の帝国軍の指揮をとるゴルトシュミット将軍も大いに手を焼いた。 
 しかし、破局はあっさりと訪れた。 
 症状が発現して6日目、ラドワーン王が息を引き取った。よわい38は、政治指導者としてはまだまだ壮年と言っていい年代である。 
 彼は3日目に熱が引き、回復するかと思われたところ、5日目に再び焼けるような高熱を発し、たちまち意識が混濁した。死の直前、彼は一度だけ目を覚まし、くわっと虚空を見据えて声を張り上げるに、 
「世、乱れてのち、未だ治まらず。賊をしりぞけることあたわずくは、我が残念なり」 
 言い終わるや、ラドワーン王はその表情のまま、時間が止まったように動かなくなった。医師が脈をとると、すでに死んでいたという。 
 宮殿にいるラドワーンの弟たち、二番目の弟ヤアクーブ、三番目の弟フィラース、四番目の弟スレイマーン、そして末弟のアーディルは、あまりに突然の長兄の死に悲嘆に暮れたが、同時に彼らに深刻な課題が残されていることに考えを向けざるを得なかった。 
 後継者を、どうする。 
 ラドワーン王は生涯、性欲に関して潔癖を貫いていたために、子がない。生前から、彼の弟のいずれかが当然に王位を継ぐことになると思われてはいたが、後継者の指名なく急逝した。 
「跡目争いが起こる」 
 と、高官らは噂した。 
 宮殿には、末弟のアーディルがいる。この者はまだ20歳の若さながら、才気は縦横、威風は凛々、容色ひときわ優れ、目元には古代英雄の彫刻を思わせるような爽やかさがある。故ラドワーン王とは腹違いの兄弟であったが最も将来を嘱望《しょくぼう》され、ラドワーンも彼を後継者にしたいとの望みを持っていたであろうとの観測は、多くの歴史家から支持される通説となっている。 
 故人の遺志を尊重するのであれば、末弟のアーディルを後継に立て、兄がそれらを補佐していくのが望ましい。ナジュラーン王朝は末子相続の前例がいくつもあるし、アーディル自身の才幹も王として不足はないであろう。ラドワーン王の三番目の弟フィラースが、これに加担した。フィラースについての資料はあまり残されていないために確証はないが、彼は男色家で、容貌秀麗なアーディルに懸想けそうをしていたという説がある。 
 王宮の警備隊長であるスレイマーンは、器量人揃いの兄弟たちのなかでは最も凡庸な男で、それゆえに長兄からは軍事的才能を必要としない警備任務を与えられることで遇されてきた。彼には積極的にアーディルを支持しようとする主体性もなければ、その動きを掣肘せいちゅうするほどの力もなかったため、自然、王宮における軍事力を掌握するアーディル、フィラースに対抗するすべなく、ただその勢力下に入って事なきを得た。 
 ラドワーンの二番目の弟ヤアクーブは、実戦部隊を抱えるアーディルとフィラースに対し、当初は協力を誓約した。が、彼は出色ともっぱら評判のアーディルの才能にかねがね疑問符をつけており、また物事の順番として王位は次兄であるラフィークが相続すべきとの原則を順守しようとする発想の持ち主であったため、心底からの従属ではない。夜陰にまぎれて宮殿を脱出し、西へと走った。 
 ナジュラーン朝の分裂を決定的にしたのが、このヤアクーブの逐電であった。彼は西方にあって帝国軍と戦闘状態にあるラフィークの陣へと駆け込み、今となってはたった一人の兄となったこの男に対し自ら王を名乗るよう勧めた。王宮はすでにアーディルによって事実上の支配下にあり、ラフィークが戻っても殺されるか、あるいは何かしらの理由をつけて監獄へと放り込むであろう。ラフィークは性苛烈にして冷酷ながら、その才は兄のラドワーンをもしのぐとの声も一部にはある。後継者の地位に食指を動かすアーディルにとって何より危険な存在がラフィークなのだ。 
 ラドワーンの生前、ラフィークはしばしば王と反目し、その兄弟仲は険悪なものがあったが、今や実に皮肉なことに、ラドワーンの死によってラフィークは窮地に陥っている。見方を変えれば、ラフィークがきわどくも無事でいられたのは、ラドワーンという絶対者がいてこそであったのかもしれない。 
「とにかく、あなたは西に帝国軍、東にアーディルの軍に挟撃される位置にある。速やかに王を名乗り、その大義名分をもって、アーディルを討つべし。ムアンマルも必ずや呼応してともに宮殿を陥落せしめるであろう。うまくすれば、合衆国の後ろ盾も得られよう」 
「それはどうであろう」 
 ヤアクーブの血を吐くような勢いの主戦論に対して、ラフィークは冷ややかな反応である。 
 時すでに遅しではないか、とラフィークは言う。ナジュラーン宮殿及びナジュラーン市の軍権はアーディルの徒党によって占められている。宮殿は簡素なつくりだが堅固で物資の蓄えもある。帝国軍との戦いに疲弊し、食料や兵器にも乏しいラフィークの手勢だけで落とせる見込みは薄い。 
「むしろ、ンジャイ王を頼って、北へ逃げよう」 
 というのが、ラフィークの結論であった。 
 同盟、と一言でくくっても、その実態はもとを正せば諸侯連合である。イシャーン王、ラドワーン王、ンジャイ王、ヌジャンカ王という四人の王が手を組んで互いを支援する軍事共同体が、大戦勃発前の同盟の姿であった。 
 ネタニヤの会戦でヌジャンカ王が戦死し、ンジャイ王が重傷を負ってから、両者の兵や領地はラドワーン王の管理下に入った。本拠となるべき宮殿を失ったラフィークとしては、彼らの助力をあてにするのが自然であろう。そして、逃走先としてはンジャイ王の治める北のンブール宮殿こそふさわしい。南のランダナイ宮殿はヌジャンカ王が戦死してからは嫡子が幼少のため、ラドワーンが送り込んだ代官が統治している。十中八九、アーディルの手が回っているから、そちらへ逃げるのは論外である。 
 だがンジャイ王とはラフィーク自身、面識があり、庇護を期待できる上に、ンブール宮殿を中心とするンゼレコレ地方は広大な亜熱帯性ジャングルに覆われた天然の要塞であり、大陸における最も攻めがたき土地とされている。ここへ逃げ込めば、まず身の危険は脱することができるであろう。 
 この案には、ヤアクーブも賛同した。 
 ラフィークは軍を動かし、帝国軍の前面から急速撤退するとともに、隠密裏に使者を派遣して、ンジャイ王及びロンバルディア教国女王、オクシアナ合衆国大統領に正統な王位継承者として助力を求めるむね要請を発した。さらにドワングワ湖付近で合衆国軍とともに行動する弟のムアンマルにも、ンブール宮殿での再会を待つと申し送り、ムアンマルはこれを了とした。 
 ラドワーン没の報は、旧ラドワーン政権が二派ふたはに分裂した以上、外部に秘匿ひとくすることもかなわず、ラフィークとアーディルがそれぞれ各国各地の要人へ放った密使だけでなく、風に乗って諸方へと拡散された。 
 悲嘆に暮れる者も多かったが、ほくそ笑む者も少なくない。 
 ラドワーン王と激しく対立し、大戦の契機をつくったイシャーン王などは俄然、その動きを再び活発化させることとなる。 
「我が宿敵ラドワーンすでに滅び、その弟どもは内輪もめをして自ら地獄の門へ足を踏み入れようとしている。これを討つは今をおいてほかになし」 
 折しも、眼前の合衆国軍と行動を共にしていたはずのラドワーンの弟ムアンマルは、2,000ほどの手勢を率いて陣を引き払い、北へ向かった。ドワングワ湖の北方はンジャイ王の本拠であるンゼレコレ地方である。恐らくムアンマルは、ラフィーク、アーディルのいずれかと結託して、一時的にンジャイ王の庇護を受けるためンゼレコレへと向かったのではないかと予測された。 
 イシャーンは直ちに盟友である王国軍の大都督チャン・レアンと協議した。 
「時が来た、ということか」 
「そう考えている」 
「それだけ分かればいい」 
 イシャーンにとってチャン・レアンは、心強い味方というよりはぎょしやすい猛犬といった存在である。チャン・レアンはランバレネ高原の会戦でその勢いをとどめられて以来の半年、ドワングワ湖と旧ブリストル公国領を行きつ戻りつして、ひたすらに時を費やしている。旧公国領では王国に対する抵抗勢力の活動が根強く、それがかつてチャン・レアンとの政争に敗れた将軍ウリヤンハタイ及び合衆国軍の民兵団と結びついて、旧公国領のほとんど全域にわたってゲリラ戦を繰り広げている。 
 チャン・レアンは「狼将」の異名を持つが、その勇猛と暴威は狼どころか百獣の王と言っても差し支えない。彼のくところはさながら無人境で、どれほどの武勇自慢もたちまち巣穴に逃げ込み、民衆は彼の暴虐を恐れ身一つで逃散ちょうさんした。 
 それほどの猛将だが、ウリヤンハタイと合衆国の民兵軍を捕捉できない。彼が到来すれば逃げ、彼が去れば鬼の居ぬ間に洗濯とばかり、巣穴から這い出して旧公国領を荒らし回る。 
 このため、王国はせっかく旧公国領全域を制圧し、植民地化して大量の食糧や物資を徴収するも、その輸送路を襲撃され、本国や前線への補給も滞りがちである。その駆逐のためチャン・レアンが戻れば、それこそ向かうところ敵なしだが、おとなしいのはこの恐るべき狼将がいるときだけ、といった具合である。 
 そのような状態が半年も続いて、チャン・レアンも暴れ足りなくなってきている。 
 戦いをけしかけるのは造作もないことだ。 
 イシャーンはラドワーン王没後の混乱に乗じ、指揮が乱れるであろう合衆国軍をこのドワングワ湖付近の戦場で撃破し、その軍事力を追い払い、同盟領全域を手に入れたい。呼吸が合えば、帝国軍と東西から挟撃して、同盟領を完全に制圧するのもそう時間はかからないであろう。 
 合衆国軍も王国軍とイシャーン軍の全面攻勢の企図を早々に看破かんぱし、ランバレネ高原に全軍を結集させ、決戦の気勢を上げた。 
 前年11月に生起した第一次ランバレネ高原の会戦に続き、この因縁の地で、両軍は半年越しの決着をつけようとしている。 
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