上 下
14 / 32

ポラリスとして

しおりを挟む
 (テオが、またいなくなる)
 その思いは、ルブランの集会での発言以来、ソフィアの脳裏をひっきりなしに駆けめぐって離れない。彼女は心中、テオドールが戻ってきたことを誰よりも喜んでいたが、今度は信頼していた仲間たちに彼を取り上げられる。しかも、国に対しての叛乱ともなれば指導者たる彼はその頭目ということで、捕らえられて殺されるか、戦いのなかで戦死することも充分にありえる。諸事、お世辞にも要領がいいとは言えないテオドールのことだ。十中八九、叛乱は中途で失敗し、彼も野垂れ死ぬことであろう。 
 (テオが、死ぬ)
 その点に思いが至ると、涙がとめどなく流れ落ちた。 
 あの場で理性を失ったソフィアを、ブラニクとブーランジェ未亡人は別室で手を尽くしなだめた。ブラニクは感情の面で、ブーランジェ未亡人は理性の面で、それぞれ働きかけた。ソフィアは二人を信頼しているし、個人的にも親しい。しかしこの件に関する限り、両者は明確にテオドールが指導者となることに期待を抱いており、彼女はすっかり心を閉ざして、耳もふさいでしまった。 
 両名が嘆息しつつ去り、ソフィーが戻ってくると、彼女は涙ながらに姉をなじった。テオが死んでもいいのか、子供の頃から一緒に育ってきた兄弟のような者であるのに、叛乱軍の指導者などという役回りを押し付けられているのを見て黙っているのか、とそう言うと、ソフィーはむしろぴしゃりと表情を厳しくして、 
「ソフィア、テオはもう子供じゃないのよ」 
 と、突然に当たり前のことを言い出した。 
「そんなこと分かってる。でも、彼は気が弱いの。私たちが守ってあげなくてどうするの」 
「ソフィア、あなた、彼のことを縛ってる」 
「どういうこと?私は守ってあげたいだけ」 
「彼ももう立派な大人なの。彼が本当はどうしたいのか、彼の気持ちを聞いた?彼の意見をちゃんと聞いたの?彼はあなたの道具じゃないのよ」 
「分かってる!分かってるそんなこと!」 
「分かってるなら、彼としっかり話し合いなさい。そして彼のしたいこと、彼の志を認めて、受け入れてあげるの。これまでもずっと、彼は一緒にいても離れてても、あなたを支えててくれたでしょ」 
 姉の沈着な声と言葉はソフィアの心を重く揺さぶったが、感情の激したソフィアは自暴自棄に陥って、あえて刃物のような言葉を選んだ。 
「もしテオが死んだら、姉さんのせいよ」 
 ソフィーはこの発言をとがめる資格が当然にあったであろう。しかし、彼女は表情を硬くしただけで、あとは無言のまま寝床に入った。ソフィアの心情を思いやって、ただじっと妹の暴言を受け止めただけであった。 
 ソフィアには、姉のそうした聖母のような広い心と優しさが分かるだけに、自分の失言をすぐに悔いた。だが謝罪する気力もなく、火の気のない肌寒い部屋のなかでうなだれ、ぼんやりとするほかはなかった。 
 どれほどの時間が経過したのであろうか。 
 部屋の外で、かすかに声がした。体は疲れきっていても、それが彼女を呼ぶ声であり、今まさに部屋の前に立っているのがテオドールであろうことは、彼女には目で見る以上に直感で分かった。 
 彼らは、普段は人が多くたむろする無人のリビングで、話をした。ソフィアがひとりアームチェアに腰かけ、テオドールはなぜかその前に片膝をついてひざまずいた。まるで求婚でもするようだとソフィアは思った。 
 テオドールは、静かに話し始めた。声には若々しさと落ち着きとが同居して、なるほど、人を魅了するだけの品格のようなものがあるかもしれない。いつまでも自分の弟のような存在として感じていたテオドールが、今ではまったく違う生き物のようにさえ思われる。 
「ソフィア、さっきはありがとう」 
「何が?」 
「僕のことを心配して、君は涙を流してまで反対してくれた」 
「当たり前じゃない。あんなバカげた話」 
「だから、僕は君に相談したかったんだ」 
「相談?」 
 相談をする必要があるのだろうか。ソフィアの意志は、あの場ではっきりと示したはずだ。今さら、ソフィアに対し何事かを問う余地などあるまい。 
 ソフィアが暗い表情のままでいると、テオドールは泣きたくなるほどに優しい声で続けた。 
「僕は、僕がどうすればいいか、君に聞きたいんだ。君に決めてほしい」 
「どうして、私があなたのことを決めるの?」 
「僕が、君のことを愛しているからだよ」 
 思わず、吐息が漏れた。胸の奥で熱い泉が湧き上がり、じんわりととめどもなく全身へと広がってゆくように感じられる。 
 テオドールがそっと、彼女のもみじのように小さく可憐な手を握った。彼の手は大きく、あたたかい血が隅々までかよっていた。 
 ソフィアは息をすることさえ忘れて、そのぬくもりをいとおしんだ。 
「テオ」 
「ソフィア、愛する君に、僕のことを決めてほしい」 
「あなたはどうしたいの?」 
「僕はただ、君のそばで、君を守っていたい」 
「そう思うなら」 
 とその先を言いかけて、ソフィアは口をつぐんだ。彼女は聡明である。それを言えば、彼は恐らく、すべてを捨てても、あるいはすべてをあきらめても、彼女をそばで守ると誓うに違いない。 
 かつて、偉大な術者の少女と愛し合ったひとりの青年がいた。その者はセトゥゲルという名前で、後世、梟雄きょうゆうと呼ばれ、その野心を永遠に指弾されることになる人物である。彼は術者エルスの純真な心を盗み、さらには術者としての力まで盗み出した。 
 セトゥゲルはその手でエルスを殺し、野心に生きる決意を新たにしたわけだが、テオドールはいわば、かの野心家とは正反対の道を歩もうとしている。 
 ソフィアがそう望みさえすれば、彼は我が身さえなげうってでも、彼女を守り、彼女とともに生きてくれるはずで、そこに迷いは毛ほどもないであろう。 
 だが、今はまだ、テオドールに迷いがあるらしい。 
「何か、気にかかっていることがあるの?」 
北極星ポラリス」 
「ポラリス?」 
「父さんの遺言なんだ。みんなを守り、みんなを導くポラリスになれって」 
 ポラリス、つまり北極星とは、北の夜空のある一点に輝く星のことで、これは季節や時間によっても動くことがない。そのため、旅人は常にこの星から方角を導き出している。転じて、ポラリスとは迷える人々を救済する救い主や、人々を団結させ目標へと導く指導者、といった意味合いを持つようになっている。 
 ソフィアはふと、姉の言葉を思い出した。テオドールの気持ち、テオドールの意見を聞き、その志を支えろと言った。ソフィアが、彼を縛っているとも言っていた。 
 (テオは、心の底ではルモワーヌさんの遺言に従いたいと思っている)
 その洞察は、ソフィアを寂しくさせることはなかった。むしろ、父の遺言よりも彼女の気持ちを躊躇ためらわず優先しようとしていることに穏やかな喜びを覚えた。 
 そして、ソフィアは自分でも思わぬことを言った。 
「テオ、ルモワーヌさんの遺言、大切にしてあげて」 
「ソフィア」 
「みんなも望んでる。何より、あなた自身がポラリスになろうとするなら、私はその志を支えてあげたい」 
「ありがとう、ソフィア」 
「あなたって、ひとりじゃ頼りないもの。私が支えてあげなかったら、あなたもひとりでは不安になるでしょ」 
「うん、よく分かるね」 
「あなたのことならなんでもお見通しなの」 
 くしゃくしゃ、とテオドールが笑顔だけは子供のように無邪気である。その表情を見ると、ソフィアも頬に喜びが浮かんだ。 
 自分でも驚くほどごく自然に、彼女はテオドールの手を胸元へと引き寄せていた。手とともに、テオドールの顔が近づいた。 
 彼はソフィアの意図を察し、招かれるままに振舞った。 
 一本の松明たいまつだけが静かに燃えて映じる薄暗がりのなかで、ふたりのまぶたのとばりが下りた。 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

【R18】騎士たちの監視対象になりました

ぴぃ
恋愛
異世界トリップしたヒロインが騎士や執事や貴族に愛されるお話。 *R18は告知無しです。 *複数プレイ有り。 *逆ハー *倫理感緩めです。 *作者の都合の良いように作っています。

星の記憶

鳳聖院 雀羅
ファンタジー
宇宙の精神とは、そして星の意思とは… 日本神話 、北欧神話、ギリシャ神話、 エジプト神話、 旧新聖書創世記 など世界中の神話や伝承等を、融合させ、独特な世界観で、謎が謎を呼ぶSFファンタジーです 人類が抱える大きな課題と試練 【神】=【『人』】=【魔】 の複雑に絡み合う壮大なるギャラクシーファンタジーです

悪役令嬢が死んだ後

ぐう
恋愛
王立学園で殺人事件が起きた。 被害者は公爵令嬢 加害者は男爵令嬢 男爵令嬢は王立学園で多くの高位貴族令息を侍らせていたと言う。 公爵令嬢は婚約者の第二王子に常に邪険にされていた。 殺害理由はなんなのか? 視察に訪れていた第一王子の目の前で事件は起きた。第一王子が事件を調査する目的は? *一話に流血・残虐な表現が有ります。話はわかる様になっていますのでお嫌いな方は二話からお読み下さい。

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

婚約破棄?貴方程度がわたくしと結婚出来ると本気で思ったの?

三条桜子
恋愛
王都に久しぶりにやって来た。楽しみにしていた舞踏会で突如、婚約破棄を突きつけられた。腕に女性を抱いてる。ん?その子、誰?わたくしがいじめたですって?わたくしなら、そんな平民殺しちゃうわ。ふふふ。ねえ?本気で貴方程度がわたくしと結婚出来ると思っていたの?可笑しい!  ◎短いお話。文字数も少なく読みやすいかと思います。全6話。 イラスト/ノーコピーライトガール

嘘つきと言われた聖女は自国に戻る

七辻ゆゆ
ファンタジー
必要とされなくなってしまったなら、仕方がありません。 民のために選ぶ道はもう、一つしかなかったのです。

拝啓 私のことが大嫌いな旦那様。あなたがほんとうに愛する私の双子の姉との仲を取り持ちますので、もう私とは離縁してください

ぽんた
恋愛
ミカは、夫を心から愛している。しかし、夫はミカを嫌っている。そして、彼のほんとうに愛する人はミカの双子の姉。彼女は、夫のしあわせを願っている。それゆえ、彼女は誓う。夫に離縁してもらい、夫がほんとうに愛している双子の姉と結婚してしあわせになってもらいたい、と。そして、ついにその機会がやってきた。 ※ハッピーエンド確約。タイトル通りです。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

処理中です...