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ポラリスとして
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(テオが、またいなくなる)
その思いは、ルブランの集会での発言以来、ソフィアの脳裏をひっきりなしに駆けめぐって離れない。彼女は心中、テオドールが戻ってきたことを誰よりも喜んでいたが、今度は信頼していた仲間たちに彼を取り上げられる。しかも、国に対しての叛乱ともなれば指導者たる彼はその頭目ということで、捕らえられて殺されるか、戦いのなかで戦死することも充分にありえる。諸事、お世辞にも要領がいいとは言えないテオドールのことだ。十中八九、叛乱は中途で失敗し、彼も野垂れ死ぬことであろう。
(テオが、死ぬ)
その点に思いが至ると、涙がとめどなく流れ落ちた。
あの場で理性を失ったソフィアを、ブラニクとブーランジェ未亡人は別室で手を尽くしなだめた。ブラニクは感情の面で、ブーランジェ未亡人は理性の面で、それぞれ働きかけた。ソフィアは二人を信頼しているし、個人的にも親しい。しかしこの件に関する限り、両者は明確にテオドールが指導者となることに期待を抱いており、彼女はすっかり心を閉ざして、耳も塞いでしまった。
両名が嘆息しつつ去り、ソフィーが戻ってくると、彼女は涙ながらに姉を詰った。テオが死んでもいいのか、子供の頃から一緒に育ってきた兄弟のような者であるのに、叛乱軍の指導者などという役回りを押し付けられているのを見て黙っているのか、とそう言うと、ソフィーはむしろぴしゃりと表情を厳しくして、
「ソフィア、テオはもう子供じゃないのよ」
と、突然に当たり前のことを言い出した。
「そんなこと分かってる。でも、彼は気が弱いの。私たちが守ってあげなくてどうするの」
「ソフィア、あなた、彼のことを縛ってる」
「どういうこと?私は守ってあげたいだけ」
「彼ももう立派な大人なの。彼が本当はどうしたいのか、彼の気持ちを聞いた?彼の意見をちゃんと聞いたの?彼はあなたの道具じゃないのよ」
「分かってる!分かってるそんなこと!」
「分かってるなら、彼としっかり話し合いなさい。そして彼のしたいこと、彼の志を認めて、受け入れてあげるの。これまでもずっと、彼は一緒にいても離れてても、あなたを支えててくれたでしょ」
姉の沈着な声と言葉はソフィアの心を重く揺さぶったが、感情の激したソフィアは自暴自棄に陥って、あえて刃物のような言葉を選んだ。
「もしテオが死んだら、姉さんのせいよ」
ソフィーはこの発言を咎める資格が当然にあったであろう。しかし、彼女は表情を硬くしただけで、あとは無言のまま寝床に入った。ソフィアの心情を思いやって、ただじっと妹の暴言を受け止めただけであった。
ソフィアには、姉のそうした聖母のような広い心と優しさが分かるだけに、自分の失言をすぐに悔いた。だが謝罪する気力もなく、火の気のない肌寒い部屋のなかでうなだれ、ぼんやりとするほかはなかった。
どれほどの時間が経過したのであろうか。
部屋の外で、かすかに声がした。体は疲れきっていても、それが彼女を呼ぶ声であり、今まさに部屋の前に立っているのがテオドールであろうことは、彼女には目で見る以上に直感で分かった。
彼らは、普段は人が多くたむろする無人のリビングで、話をした。ソフィアがひとりアームチェアに腰かけ、テオドールはなぜかその前に片膝をついてひざまずいた。まるで求婚でもするようだとソフィアは思った。
テオドールは、静かに話し始めた。声には若々しさと落ち着きとが同居して、なるほど、人を魅了するだけの品格のようなものがあるかもしれない。いつまでも自分の弟のような存在として感じていたテオドールが、今ではまったく違う生き物のようにさえ思われる。
「ソフィア、さっきはありがとう」
「何が?」
「僕のことを心配して、君は涙を流してまで反対してくれた」
「当たり前じゃない。あんなバカげた話」
「だから、僕は君に相談したかったんだ」
「相談?」
相談をする必要があるのだろうか。ソフィアの意志は、あの場ではっきりと示したはずだ。今さら、ソフィアに対し何事かを問う余地などあるまい。
ソフィアが暗い表情のままでいると、テオドールは泣きたくなるほどに優しい声で続けた。
「僕は、僕がどうすればいいか、君に聞きたいんだ。君に決めてほしい」
「どうして、私があなたのことを決めるの?」
「僕が、君のことを愛しているからだよ」
思わず、吐息が漏れた。胸の奥で熱い泉が湧き上がり、じんわりととめどもなく全身へと広がってゆくように感じられる。
テオドールがそっと、彼女のもみじのように小さく可憐な手を握った。彼の手は大きく、あたたかい血が隅々まで通っていた。
ソフィアは息をすることさえ忘れて、そのぬくもりをいとおしんだ。
「テオ」
「ソフィア、愛する君に、僕のことを決めてほしい」
「あなたはどうしたいの?」
「僕はただ、君のそばで、君を守っていたい」
「そう思うなら」
とその先を言いかけて、ソフィアは口をつぐんだ。彼女は聡明である。それを言えば、彼は恐らく、すべてを捨てても、あるいはすべてを諦めても、彼女をそばで守ると誓うに違いない。
かつて、偉大な術者の少女と愛し合ったひとりの青年がいた。その者はセトゥゲルという名前で、後世、梟雄と呼ばれ、その野心を永遠に指弾されることになる人物である。彼は術者エルスの純真な心を盗み、さらには術者としての力まで盗み出した。
セトゥゲルはその手でエルスを殺し、野心に生きる決意を新たにしたわけだが、テオドールはいわば、かの野心家とは正反対の道を歩もうとしている。
ソフィアがそう望みさえすれば、彼は我が身さえなげうってでも、彼女を守り、彼女とともに生きてくれるはずで、そこに迷いは毛ほどもないであろう。
だが、今はまだ、テオドールに迷いがあるらしい。
「何か、気にかかっていることがあるの?」
「北極星」
「ポラリス?」
「父さんの遺言なんだ。みんなを守り、みんなを導くポラリスになれって」
ポラリス、つまり北極星とは、北の夜空のある一点に輝く星のことで、これは季節や時間によっても動くことがない。そのため、旅人は常にこの星から方角を導き出している。転じて、ポラリスとは迷える人々を救済する救い主や、人々を団結させ目標へと導く指導者、といった意味合いを持つようになっている。
ソフィアはふと、姉の言葉を思い出した。テオドールの気持ち、テオドールの意見を聞き、その志を支えろと言った。ソフィアが、彼を縛っているとも言っていた。
(テオは、心の底ではルモワーヌさんの遺言に従いたいと思っている)
その洞察は、ソフィアを寂しくさせることはなかった。むしろ、父の遺言よりも彼女の気持ちを躊躇わず優先しようとしていることに穏やかな喜びを覚えた。
そして、ソフィアは自分でも思わぬことを言った。
「テオ、ルモワーヌさんの遺言、大切にしてあげて」
「ソフィア」
「みんなも望んでる。何より、あなた自身がポラリスになろうとするなら、私はその志を支えてあげたい」
「ありがとう、ソフィア」
「あなたって、ひとりじゃ頼りないもの。私が支えてあげなかったら、あなたもひとりでは不安になるでしょ」
「うん、よく分かるね」
「あなたのことならなんでもお見通しなの」
くしゃくしゃ、とテオドールが笑顔だけは子供のように無邪気である。その表情を見ると、ソフィアも頬に喜びが浮かんだ。
自分でも驚くほどごく自然に、彼女はテオドールの手を胸元へと引き寄せていた。手とともに、テオドールの顔が近づいた。
彼はソフィアの意図を察し、招かれるままに振舞った。
一本の松明だけが静かに燃えて映じる薄暗がりのなかで、ふたりのまぶたの帳が下りた。
その思いは、ルブランの集会での発言以来、ソフィアの脳裏をひっきりなしに駆けめぐって離れない。彼女は心中、テオドールが戻ってきたことを誰よりも喜んでいたが、今度は信頼していた仲間たちに彼を取り上げられる。しかも、国に対しての叛乱ともなれば指導者たる彼はその頭目ということで、捕らえられて殺されるか、戦いのなかで戦死することも充分にありえる。諸事、お世辞にも要領がいいとは言えないテオドールのことだ。十中八九、叛乱は中途で失敗し、彼も野垂れ死ぬことであろう。
(テオが、死ぬ)
その点に思いが至ると、涙がとめどなく流れ落ちた。
あの場で理性を失ったソフィアを、ブラニクとブーランジェ未亡人は別室で手を尽くしなだめた。ブラニクは感情の面で、ブーランジェ未亡人は理性の面で、それぞれ働きかけた。ソフィアは二人を信頼しているし、個人的にも親しい。しかしこの件に関する限り、両者は明確にテオドールが指導者となることに期待を抱いており、彼女はすっかり心を閉ざして、耳も塞いでしまった。
両名が嘆息しつつ去り、ソフィーが戻ってくると、彼女は涙ながらに姉を詰った。テオが死んでもいいのか、子供の頃から一緒に育ってきた兄弟のような者であるのに、叛乱軍の指導者などという役回りを押し付けられているのを見て黙っているのか、とそう言うと、ソフィーはむしろぴしゃりと表情を厳しくして、
「ソフィア、テオはもう子供じゃないのよ」
と、突然に当たり前のことを言い出した。
「そんなこと分かってる。でも、彼は気が弱いの。私たちが守ってあげなくてどうするの」
「ソフィア、あなた、彼のことを縛ってる」
「どういうこと?私は守ってあげたいだけ」
「彼ももう立派な大人なの。彼が本当はどうしたいのか、彼の気持ちを聞いた?彼の意見をちゃんと聞いたの?彼はあなたの道具じゃないのよ」
「分かってる!分かってるそんなこと!」
「分かってるなら、彼としっかり話し合いなさい。そして彼のしたいこと、彼の志を認めて、受け入れてあげるの。これまでもずっと、彼は一緒にいても離れてても、あなたを支えててくれたでしょ」
姉の沈着な声と言葉はソフィアの心を重く揺さぶったが、感情の激したソフィアは自暴自棄に陥って、あえて刃物のような言葉を選んだ。
「もしテオが死んだら、姉さんのせいよ」
ソフィーはこの発言を咎める資格が当然にあったであろう。しかし、彼女は表情を硬くしただけで、あとは無言のまま寝床に入った。ソフィアの心情を思いやって、ただじっと妹の暴言を受け止めただけであった。
ソフィアには、姉のそうした聖母のような広い心と優しさが分かるだけに、自分の失言をすぐに悔いた。だが謝罪する気力もなく、火の気のない肌寒い部屋のなかでうなだれ、ぼんやりとするほかはなかった。
どれほどの時間が経過したのであろうか。
部屋の外で、かすかに声がした。体は疲れきっていても、それが彼女を呼ぶ声であり、今まさに部屋の前に立っているのがテオドールであろうことは、彼女には目で見る以上に直感で分かった。
彼らは、普段は人が多くたむろする無人のリビングで、話をした。ソフィアがひとりアームチェアに腰かけ、テオドールはなぜかその前に片膝をついてひざまずいた。まるで求婚でもするようだとソフィアは思った。
テオドールは、静かに話し始めた。声には若々しさと落ち着きとが同居して、なるほど、人を魅了するだけの品格のようなものがあるかもしれない。いつまでも自分の弟のような存在として感じていたテオドールが、今ではまったく違う生き物のようにさえ思われる。
「ソフィア、さっきはありがとう」
「何が?」
「僕のことを心配して、君は涙を流してまで反対してくれた」
「当たり前じゃない。あんなバカげた話」
「だから、僕は君に相談したかったんだ」
「相談?」
相談をする必要があるのだろうか。ソフィアの意志は、あの場ではっきりと示したはずだ。今さら、ソフィアに対し何事かを問う余地などあるまい。
ソフィアが暗い表情のままでいると、テオドールは泣きたくなるほどに優しい声で続けた。
「僕は、僕がどうすればいいか、君に聞きたいんだ。君に決めてほしい」
「どうして、私があなたのことを決めるの?」
「僕が、君のことを愛しているからだよ」
思わず、吐息が漏れた。胸の奥で熱い泉が湧き上がり、じんわりととめどもなく全身へと広がってゆくように感じられる。
テオドールがそっと、彼女のもみじのように小さく可憐な手を握った。彼の手は大きく、あたたかい血が隅々まで通っていた。
ソフィアは息をすることさえ忘れて、そのぬくもりをいとおしんだ。
「テオ」
「ソフィア、愛する君に、僕のことを決めてほしい」
「あなたはどうしたいの?」
「僕はただ、君のそばで、君を守っていたい」
「そう思うなら」
とその先を言いかけて、ソフィアは口をつぐんだ。彼女は聡明である。それを言えば、彼は恐らく、すべてを捨てても、あるいはすべてを諦めても、彼女をそばで守ると誓うに違いない。
かつて、偉大な術者の少女と愛し合ったひとりの青年がいた。その者はセトゥゲルという名前で、後世、梟雄と呼ばれ、その野心を永遠に指弾されることになる人物である。彼は術者エルスの純真な心を盗み、さらには術者としての力まで盗み出した。
セトゥゲルはその手でエルスを殺し、野心に生きる決意を新たにしたわけだが、テオドールはいわば、かの野心家とは正反対の道を歩もうとしている。
ソフィアがそう望みさえすれば、彼は我が身さえなげうってでも、彼女を守り、彼女とともに生きてくれるはずで、そこに迷いは毛ほどもないであろう。
だが、今はまだ、テオドールに迷いがあるらしい。
「何か、気にかかっていることがあるの?」
「北極星」
「ポラリス?」
「父さんの遺言なんだ。みんなを守り、みんなを導くポラリスになれって」
ポラリス、つまり北極星とは、北の夜空のある一点に輝く星のことで、これは季節や時間によっても動くことがない。そのため、旅人は常にこの星から方角を導き出している。転じて、ポラリスとは迷える人々を救済する救い主や、人々を団結させ目標へと導く指導者、といった意味合いを持つようになっている。
ソフィアはふと、姉の言葉を思い出した。テオドールの気持ち、テオドールの意見を聞き、その志を支えろと言った。ソフィアが、彼を縛っているとも言っていた。
(テオは、心の底ではルモワーヌさんの遺言に従いたいと思っている)
その洞察は、ソフィアを寂しくさせることはなかった。むしろ、父の遺言よりも彼女の気持ちを躊躇わず優先しようとしていることに穏やかな喜びを覚えた。
そして、ソフィアは自分でも思わぬことを言った。
「テオ、ルモワーヌさんの遺言、大切にしてあげて」
「ソフィア」
「みんなも望んでる。何より、あなた自身がポラリスになろうとするなら、私はその志を支えてあげたい」
「ありがとう、ソフィア」
「あなたって、ひとりじゃ頼りないもの。私が支えてあげなかったら、あなたもひとりでは不安になるでしょ」
「うん、よく分かるね」
「あなたのことならなんでもお見通しなの」
くしゃくしゃ、とテオドールが笑顔だけは子供のように無邪気である。その表情を見ると、ソフィアも頬に喜びが浮かんだ。
自分でも驚くほどごく自然に、彼女はテオドールの手を胸元へと引き寄せていた。手とともに、テオドールの顔が近づいた。
彼はソフィアの意図を察し、招かれるままに振舞った。
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