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カーボベルデの都はこの当時、5万ないし8万人の人口を養っていたと言われる。
誤差が大きいのは、ペストの流行により、この年だけでも数万人の死者が出たであろうこと、また感染の広まり具合によって、人々の都からの流出及び流入が大量に発生したために、人口動向の推測が困難なのである。
ただし、いずれにしてもアパラチア帝国における最大都市であったことは疑いようがない。
都の東にある大門に近づくと、一見して長者然とした品格ある老人が、少年を一人連れて、風にさらされる切り株のようにじっと佇んでいる。髪も髭も真っ白だが、年寄りのくせに吊るされたように背筋が伸び、ために背丈も高く見える。
「もし、そこを歩くのはセーヌ村に住まう双子の姉妹ではあらぬか」
「はい、ソフィーとソフィアと申します。失礼ですが先生は?」
「私はあなた方をお招きした有志の一人で、セルバンテスと申します」
とすれば、著名な老人である。現代風に言うところの慈善活動家のようなことをやっていて、豊富な学識と経験を活かして、あちこちの貧村をめぐり、井戸を掘ったり、農耕や牧畜を指導したり、雨漏りのしない家を建てたりといった人助けを生き甲斐にしている。清貧に甘んじ、家を持たず、いつも誰かの家に厄介になっては、粗末な衣服と食事だけで過ごしている。奇特な名士と言うべきであろう。
ただ、姉妹は田舎者であるので、彼を知らない。というより、もともと村の外に知人などいない身である。彼女らを招いた有志が門で待ち受けてくれていたので、姉妹はほっとした。セルバンテスも、人の好さそうな物腰で、その意味でも安心がある。
「お出迎えありがとうございます。まさか、何日もこの門でお待ちいただいていたのですか?」
「いやいや、老骨の身ですからさすがに。今日あたり、いらっしゃるのではないかとふと思い当たりましてな。亀の甲より年の功とでも申しましょうか」
ホホホ、と老人は愉快そうに笑った。
その様子を後ろから見ていた鈴のシノーポリ改めシャルルは、ぐいとテオドールの肩を抱き寄せていたずらっぽく笑った。
「なんだかうさんくせぇジジイだよな。とんだ食わせモンかもしれねぇ。お前、ちゃんとソフィアを守ってやれよ」
「う、うん」
護衛団に加わって以来、シャルルは恩人と仰ぐソフィー以外では何かとテオドールにまつわりついている。誰から聞いたわけでもないがなかなか鋭い男で、彼はテオドールがソフィアに対して抱いている想いに気づいているらしかった。その点、嫌がらせではなく、小声で茶化しつつも応援したいらしい。悪党だが、根はさっぱりした好漢なのである。
少なくともソフィーと、それからこのテオドールの二人は、今回の旅路を通してそのように評価しつつある。テオドールなどは初めて会ったあの夜、シャルルに羽交い絞めにされて危ないところであったが、今ではなんの屈託もなくシャルルを受け入れている。
ソフィアやアレックスは、そのようなテオドールに対して少々呆れる思いである。彼女らは、シャルルに対してまだまだ油断はできぬと警戒心を持っているということもあり、一方でシャルルのために最も危険な思いをしたテオドールが少しも気にしていない様子なので、どうも調子が狂ってしまう。
一行はまず、この移住期間における当面の下宿先となるルブラン邸に入り、夕方には招待主である有志一同によってささやかな宴が催された。
この日、ルブラン邸に集った有志は筆頭格のルブランを含めて七名で、数としては多くないがいずれも都の有力者として鳴らした人物ばかりである。事実、この日の参加者はいずれも史書に名を刻むこととなる、まさに綺羅星と言っていい錚々たる顔ぶれで、後世の研究家たちは誰もが歴史をさかのぼりこの輝かしいサロンに混ざることを夢見るものである。
名を挙げると、ルブラン、クレッソン、サイモン、トルドー、モラレス、モンテスキュー、そしてセルバンテスといった面々である。このほかには織物商人で都における随一の資産家であるカッシーニが要請状に名を連ねていたが、あいにく遠出をしているために不在であった。
屋敷の主人でもあり、有志を束ねるルブランが、宴のホストを務めることになる。
「本日は、遠路はるばるのお越し、誠にかたじけない。一同を代表し、偉大なる術者の姉妹にこの葡萄酒を捧げたい。さ、お供の方も、存分にお過ごしくだされ」
ルブランは国内でも有数の大商人でありながら、謹厳実直で謙虚であり、温厚篤実な風貌の中年男性で、年は40に満たぬほどであろうと思われた。余分な財を蓄えず、わずかでも余ればすぐに民に施しをする清廉の人で、風貌も実にすがすがしく、まず当代の名士と言っていい。その気になれば都の小麦相場を自在に操れるほどの影響力を有しながら、妻に先立たれて子もなく、屋敷には住み込みの書生が数人いるだけで、質素に暮らしている。
もっとも、その知名度、人望は有志たちのなかでも頭一つ抜けている。
彼らはみないずれも都の名士とされるだけあって品位や威厳が備わり、オリーブを育てるくらいしか生き方を知らない田舎者や野盗上がりの連中は萎縮したものである。だが、それも芳醇な葡萄酒の酔いが回ると、誰もが気が大きくなって、にわかに打ち解けるようになった。
シャルルだけは、酒を口にしかなった。別にソフィーに命じられたわけではないのだが、彼自身、自分が酒にだらしない性格で酔えば前後の見境がなくなり誰彼構わず迷惑をかけるに違いないと分かっているから、勧められても謝絶を通した。意外とかわいいところがある。
ソフィー、ソフィア、テオドールの三人は酒を飲むのが初めてであった。ソフィアとテオドールは初めて飲む酒に対してずいぶんと慎重で、ちびちびとなめるように味を見てやめてしまったのだが、ソフィーは存外、大胆な飲み方である。
飲むごとに酔いが回ってこの上なく上機嫌となり、ふわふわと絶え間なく体を動かしていたが、やがてぷつりと神経が切れたようにつぶれてしまった。どうも酒に弱いらしい。
ソフィアは珍しく失態を演じた姉に呆れたのだが、一方でひどく面白がって、折に触れては姉を「酒豪」と呼んでからかった。無論、この日以降、ソフィーは自重して容易に酒に手を出さなくなったが、まれに酒席で勧められると、必ずと言っていいほど意識を失うまで飲んだ。聡明で人格者として当時も後世にも知られた彼女だが、そのほとんど唯一の弱点が酒であったことは後世にいたるまで愛される逸話である。
翌朝から、彼女らはすぐに活動を開始し、ペストの患者が出たという話を聞きつけたらすぐに呼び寄せ、術をもって治癒していった。彼女らの術に失敗はなく、ペストを患った者はいかなる痕跡も残すことなく完全に回復させた。
当然ながら術者姉妹の噂は、飛ぶように都じゅうを駆けめぐった。蜜蜂のようにその拡散と媒介に従事したのが、ルブランやセルバンテスら高名の士で、ペストに苦しむ者は誰でも来診を歓迎する、としたところ、連日、死にかけの重病人どもが殺到した。
ソフィーとソフィアは想像以上の患者の多さに驚き、ともかくも思念の続く限り治療を施したが、この時期の都は数百人を数えるペスト患者が同時発生していたと言われ、とても追いつかない。彼女らが一日のうちに治せるのは、それぞれ30人から40人程度が限界で、いくら処置しても、都の人口と感染速度を考えれば焼け石に水と言っていい。
都に着いてひと月ほどが経過してから、姉妹は今後の方針について話し合った。今のやり方では効率が悪い、とソフィアが言い出したのである。
「効率?」
夜になって当日の診察を締め切ると、姉妹はともに思念のほとんどを使い果たして、少々ぐったりしている。ソフィアはそれでも、この事柄について結論を出さねばならないと、ある種の覚悟があるのか、疲労と消耗のためけだるい様子の姉に比して前のめりである。
「そう、このまま順番に治療していくのは、効率が悪いと思うの」
「もっと多くの人を救える方法が?」
「救える人の数は増やせない。でも考えたの。その人の残り時間のことを考えたらどうかって」
「残り時間……?」
「例えば、残り時間が3年の人と、残り時間が30年の人、比べたらどちらを助けるべきかって。つまり寿命を考慮するってこと」
「私たちが、助ける命を選ぶの?」
「残酷だけど、そうすべきなんじゃないかって思ったの……」
ソフィアの口調は、その論理ほどに歯切れがよくない。明らかに、彼女は姉に嫌悪され、軽蔑されることを恐れていた。嫌悪と軽蔑を呼ぶに足る提案という自覚があったからだ。
彼女の懸念は、的中した。
「それは……その考え方は、傲慢じゃないかしら」
「……姉さん」
「あなたの言ってることは正しいと思う。でも私たちが、私たちの正しさを振りかざして、治療の優先順位を色分けするなんて、まるで神にでもなったかのようだわ」
ソフィーの声は決して強くも激しくもなかったが、この件に関するソフィアの考えにはっきりと距離をとる意志が感じられた。
ソフィーはこうも言った。
「私たちが、助けを求めに訪れた人たちを順繰りに治療して、それでも間に合わずに亡くなる人がいる。でも私たちが精一杯やった結果として亡くなるのなら、天命よ。あなたが言っているのは、その天命を、私たちが条件をつけて動かそうということ。確かにその行いによって、最終的に救われる時間は長くなる。最大多数の最大利益にかなうかもしれない。でも、その基準で考えるなら、お年寄りはきっとずっと治療を受けられないわ。子供や若い人を優先するということは、間接的にそういう人たちを放置して、見殺しにするということになるのよ」
ソフィアは絶句した。彼女は彼女なりに、いかにすれば有効に自分の力が使えるのかを考えていた。結論が、診療を待つ人々を、年齢の低い順に治癒していくという方法論であった。同じだけの人数しか救えないのであれば、その者の残り時間、すなわち想定される余命がより長い方を選択して治療した方が、救える時間は長くなる。全体の利益を考えればその方が効率的であろう。
しかし、ソフィーはこの論理を、自らを神に擬するものだとした。ある条件によって救うべき者を仕分けるのは、神の行いであり、自らがその権利を手に入れたと思い込むのは力を持つ者の傲慢だ、と言うのである。
ソフィアは姉の言葉を受けて、目の前が真っ暗になる思いだった。彼女が世界で誰よりも愛し、大切に思う人から、我が人格を否定されたように感じた。人でなしと思われた、とそう感じた。
彼女はソフィーに対して何らかの反論や弁明を試みる権利があったはずだが、それをしなかった。というよりは、その時間を与えられなかった。
「どうすればいいか、少し考えてみる。今日は一人で過ごしたいから、ルブランさんに言って、離れで眠るわ。あなたも早く寝なさい」
そっけなく言って、彼女の前から立ち去ってしまったからである。
ソフィアは、思い返せば物心ついて初めて、一人で眠った。彼女たちは幼い頃から、もしかすると生まれたときからずっと、常に隣で眠っていた。
彼女は寝具にくるまりながら、寂しさと心細さに耐えかねて、膝を両腕で抱きかかえ、ダンゴムシのように丸まりながら、姉の言葉を反芻した。
(私、冷たいのかな)
肌に触れれば、ぬくもりがある。だがその奥底にある心は、まるで水のような冷たさと厳しさでできているのかもしれない。確かにそうでなければ、命を選別するような冷酷な発想は浮かばないものかもしれない。思えばテオドールに対しても、ほかの誰に対しても、彼女は姉のようには優しく接することができず、冷たい態度でいる気がする。
水の術者は、冷徹の気質を持つという。
(冷徹な人って、どんな人?)
ソフィアが長いこと疑問に思ってきたことである。
(冷酷で、人を簡単に見捨てたり、切り捨てることのできる人?)
自分の隠された正体を知ったようで、ぼんやりとではあるが、恐ろしかった。
ソフィーはどうであろう。姉も、そのような自分を知って、恐ろしくなったのであろうか。血を分けた双子の妹がそのような者であると知って、嫌い、憎むのではないか。
(そうなったら、私、生きていけない……)
ぼろぼろ、と途切れることなく涙が出た。
結局、彼女が眠りに落ちたのは、夜半過ぎになってからであった。
この頃の人々の朝は早い。日の出頃か、あるいはそれよりも前に起きるのが通常である。照明器具が安定供給されるようになる前の時代人は、夜の長さを持て余すものだ。
まだ夜明け前の暗さと静けさに包まれるなか、ソフィーはそっと部屋に入り、妹のいたいけな寝顔を見守った。
しばらくして、ソフィアは気付いた。
「姉さん……」
「おはよう」
「うん……」
ソフィアは上体を起こして、じっと姉の手だけを見た。目を見るのが怖い。
しかし、この慈悲深い姉は、決して彼女を見捨てることはなかった。それどころか、
「ソフィア、昨日はごめんなさい」
「……どうして?」
「あなたにひどいことを言ったから。きっと、多くの人の死を目の当たりにして、自分の無力さを感じてたんだと思う。だからあなたが正しいことを言っても、咄嗟には受け入れられなくて」
あなたの言うやり方でやってみよう、と姉は言ってくれた。そして、姉はそっと抱きしめてくれた。頬がふんわりとやわらかい。
「ソフィア、傷つけるようなことを言ってごめんなさい。きっと不安で、怖くて、それでも勇気を出して提案してくれたんでしょ?ごめんね、ありがとう」
夜に出し尽くしたと思った涙が、またあふれるように流れ出す。姉のもたらす、春のそよ風のような安心が、いつまでもソフィアの嗚咽を誘った。
姉だけは、自分の分身とも言えるこの姉だけは、どこまでも自分を分かってくれる。そして、このように抱き止めて、思いを分かち合ってくれる。
その確信が、この朝をもって改めて姉妹の絆を強めたのは間違いなかっただろう。
誤差が大きいのは、ペストの流行により、この年だけでも数万人の死者が出たであろうこと、また感染の広まり具合によって、人々の都からの流出及び流入が大量に発生したために、人口動向の推測が困難なのである。
ただし、いずれにしてもアパラチア帝国における最大都市であったことは疑いようがない。
都の東にある大門に近づくと、一見して長者然とした品格ある老人が、少年を一人連れて、風にさらされる切り株のようにじっと佇んでいる。髪も髭も真っ白だが、年寄りのくせに吊るされたように背筋が伸び、ために背丈も高く見える。
「もし、そこを歩くのはセーヌ村に住まう双子の姉妹ではあらぬか」
「はい、ソフィーとソフィアと申します。失礼ですが先生は?」
「私はあなた方をお招きした有志の一人で、セルバンテスと申します」
とすれば、著名な老人である。現代風に言うところの慈善活動家のようなことをやっていて、豊富な学識と経験を活かして、あちこちの貧村をめぐり、井戸を掘ったり、農耕や牧畜を指導したり、雨漏りのしない家を建てたりといった人助けを生き甲斐にしている。清貧に甘んじ、家を持たず、いつも誰かの家に厄介になっては、粗末な衣服と食事だけで過ごしている。奇特な名士と言うべきであろう。
ただ、姉妹は田舎者であるので、彼を知らない。というより、もともと村の外に知人などいない身である。彼女らを招いた有志が門で待ち受けてくれていたので、姉妹はほっとした。セルバンテスも、人の好さそうな物腰で、その意味でも安心がある。
「お出迎えありがとうございます。まさか、何日もこの門でお待ちいただいていたのですか?」
「いやいや、老骨の身ですからさすがに。今日あたり、いらっしゃるのではないかとふと思い当たりましてな。亀の甲より年の功とでも申しましょうか」
ホホホ、と老人は愉快そうに笑った。
その様子を後ろから見ていた鈴のシノーポリ改めシャルルは、ぐいとテオドールの肩を抱き寄せていたずらっぽく笑った。
「なんだかうさんくせぇジジイだよな。とんだ食わせモンかもしれねぇ。お前、ちゃんとソフィアを守ってやれよ」
「う、うん」
護衛団に加わって以来、シャルルは恩人と仰ぐソフィー以外では何かとテオドールにまつわりついている。誰から聞いたわけでもないがなかなか鋭い男で、彼はテオドールがソフィアに対して抱いている想いに気づいているらしかった。その点、嫌がらせではなく、小声で茶化しつつも応援したいらしい。悪党だが、根はさっぱりした好漢なのである。
少なくともソフィーと、それからこのテオドールの二人は、今回の旅路を通してそのように評価しつつある。テオドールなどは初めて会ったあの夜、シャルルに羽交い絞めにされて危ないところであったが、今ではなんの屈託もなくシャルルを受け入れている。
ソフィアやアレックスは、そのようなテオドールに対して少々呆れる思いである。彼女らは、シャルルに対してまだまだ油断はできぬと警戒心を持っているということもあり、一方でシャルルのために最も危険な思いをしたテオドールが少しも気にしていない様子なので、どうも調子が狂ってしまう。
一行はまず、この移住期間における当面の下宿先となるルブラン邸に入り、夕方には招待主である有志一同によってささやかな宴が催された。
この日、ルブラン邸に集った有志は筆頭格のルブランを含めて七名で、数としては多くないがいずれも都の有力者として鳴らした人物ばかりである。事実、この日の参加者はいずれも史書に名を刻むこととなる、まさに綺羅星と言っていい錚々たる顔ぶれで、後世の研究家たちは誰もが歴史をさかのぼりこの輝かしいサロンに混ざることを夢見るものである。
名を挙げると、ルブラン、クレッソン、サイモン、トルドー、モラレス、モンテスキュー、そしてセルバンテスといった面々である。このほかには織物商人で都における随一の資産家であるカッシーニが要請状に名を連ねていたが、あいにく遠出をしているために不在であった。
屋敷の主人でもあり、有志を束ねるルブランが、宴のホストを務めることになる。
「本日は、遠路はるばるのお越し、誠にかたじけない。一同を代表し、偉大なる術者の姉妹にこの葡萄酒を捧げたい。さ、お供の方も、存分にお過ごしくだされ」
ルブランは国内でも有数の大商人でありながら、謹厳実直で謙虚であり、温厚篤実な風貌の中年男性で、年は40に満たぬほどであろうと思われた。余分な財を蓄えず、わずかでも余ればすぐに民に施しをする清廉の人で、風貌も実にすがすがしく、まず当代の名士と言っていい。その気になれば都の小麦相場を自在に操れるほどの影響力を有しながら、妻に先立たれて子もなく、屋敷には住み込みの書生が数人いるだけで、質素に暮らしている。
もっとも、その知名度、人望は有志たちのなかでも頭一つ抜けている。
彼らはみないずれも都の名士とされるだけあって品位や威厳が備わり、オリーブを育てるくらいしか生き方を知らない田舎者や野盗上がりの連中は萎縮したものである。だが、それも芳醇な葡萄酒の酔いが回ると、誰もが気が大きくなって、にわかに打ち解けるようになった。
シャルルだけは、酒を口にしかなった。別にソフィーに命じられたわけではないのだが、彼自身、自分が酒にだらしない性格で酔えば前後の見境がなくなり誰彼構わず迷惑をかけるに違いないと分かっているから、勧められても謝絶を通した。意外とかわいいところがある。
ソフィー、ソフィア、テオドールの三人は酒を飲むのが初めてであった。ソフィアとテオドールは初めて飲む酒に対してずいぶんと慎重で、ちびちびとなめるように味を見てやめてしまったのだが、ソフィーは存外、大胆な飲み方である。
飲むごとに酔いが回ってこの上なく上機嫌となり、ふわふわと絶え間なく体を動かしていたが、やがてぷつりと神経が切れたようにつぶれてしまった。どうも酒に弱いらしい。
ソフィアは珍しく失態を演じた姉に呆れたのだが、一方でひどく面白がって、折に触れては姉を「酒豪」と呼んでからかった。無論、この日以降、ソフィーは自重して容易に酒に手を出さなくなったが、まれに酒席で勧められると、必ずと言っていいほど意識を失うまで飲んだ。聡明で人格者として当時も後世にも知られた彼女だが、そのほとんど唯一の弱点が酒であったことは後世にいたるまで愛される逸話である。
翌朝から、彼女らはすぐに活動を開始し、ペストの患者が出たという話を聞きつけたらすぐに呼び寄せ、術をもって治癒していった。彼女らの術に失敗はなく、ペストを患った者はいかなる痕跡も残すことなく完全に回復させた。
当然ながら術者姉妹の噂は、飛ぶように都じゅうを駆けめぐった。蜜蜂のようにその拡散と媒介に従事したのが、ルブランやセルバンテスら高名の士で、ペストに苦しむ者は誰でも来診を歓迎する、としたところ、連日、死にかけの重病人どもが殺到した。
ソフィーとソフィアは想像以上の患者の多さに驚き、ともかくも思念の続く限り治療を施したが、この時期の都は数百人を数えるペスト患者が同時発生していたと言われ、とても追いつかない。彼女らが一日のうちに治せるのは、それぞれ30人から40人程度が限界で、いくら処置しても、都の人口と感染速度を考えれば焼け石に水と言っていい。
都に着いてひと月ほどが経過してから、姉妹は今後の方針について話し合った。今のやり方では効率が悪い、とソフィアが言い出したのである。
「効率?」
夜になって当日の診察を締め切ると、姉妹はともに思念のほとんどを使い果たして、少々ぐったりしている。ソフィアはそれでも、この事柄について結論を出さねばならないと、ある種の覚悟があるのか、疲労と消耗のためけだるい様子の姉に比して前のめりである。
「そう、このまま順番に治療していくのは、効率が悪いと思うの」
「もっと多くの人を救える方法が?」
「救える人の数は増やせない。でも考えたの。その人の残り時間のことを考えたらどうかって」
「残り時間……?」
「例えば、残り時間が3年の人と、残り時間が30年の人、比べたらどちらを助けるべきかって。つまり寿命を考慮するってこと」
「私たちが、助ける命を選ぶの?」
「残酷だけど、そうすべきなんじゃないかって思ったの……」
ソフィアの口調は、その論理ほどに歯切れがよくない。明らかに、彼女は姉に嫌悪され、軽蔑されることを恐れていた。嫌悪と軽蔑を呼ぶに足る提案という自覚があったからだ。
彼女の懸念は、的中した。
「それは……その考え方は、傲慢じゃないかしら」
「……姉さん」
「あなたの言ってることは正しいと思う。でも私たちが、私たちの正しさを振りかざして、治療の優先順位を色分けするなんて、まるで神にでもなったかのようだわ」
ソフィーの声は決して強くも激しくもなかったが、この件に関するソフィアの考えにはっきりと距離をとる意志が感じられた。
ソフィーはこうも言った。
「私たちが、助けを求めに訪れた人たちを順繰りに治療して、それでも間に合わずに亡くなる人がいる。でも私たちが精一杯やった結果として亡くなるのなら、天命よ。あなたが言っているのは、その天命を、私たちが条件をつけて動かそうということ。確かにその行いによって、最終的に救われる時間は長くなる。最大多数の最大利益にかなうかもしれない。でも、その基準で考えるなら、お年寄りはきっとずっと治療を受けられないわ。子供や若い人を優先するということは、間接的にそういう人たちを放置して、見殺しにするということになるのよ」
ソフィアは絶句した。彼女は彼女なりに、いかにすれば有効に自分の力が使えるのかを考えていた。結論が、診療を待つ人々を、年齢の低い順に治癒していくという方法論であった。同じだけの人数しか救えないのであれば、その者の残り時間、すなわち想定される余命がより長い方を選択して治療した方が、救える時間は長くなる。全体の利益を考えればその方が効率的であろう。
しかし、ソフィーはこの論理を、自らを神に擬するものだとした。ある条件によって救うべき者を仕分けるのは、神の行いであり、自らがその権利を手に入れたと思い込むのは力を持つ者の傲慢だ、と言うのである。
ソフィアは姉の言葉を受けて、目の前が真っ暗になる思いだった。彼女が世界で誰よりも愛し、大切に思う人から、我が人格を否定されたように感じた。人でなしと思われた、とそう感じた。
彼女はソフィーに対して何らかの反論や弁明を試みる権利があったはずだが、それをしなかった。というよりは、その時間を与えられなかった。
「どうすればいいか、少し考えてみる。今日は一人で過ごしたいから、ルブランさんに言って、離れで眠るわ。あなたも早く寝なさい」
そっけなく言って、彼女の前から立ち去ってしまったからである。
ソフィアは、思い返せば物心ついて初めて、一人で眠った。彼女たちは幼い頃から、もしかすると生まれたときからずっと、常に隣で眠っていた。
彼女は寝具にくるまりながら、寂しさと心細さに耐えかねて、膝を両腕で抱きかかえ、ダンゴムシのように丸まりながら、姉の言葉を反芻した。
(私、冷たいのかな)
肌に触れれば、ぬくもりがある。だがその奥底にある心は、まるで水のような冷たさと厳しさでできているのかもしれない。確かにそうでなければ、命を選別するような冷酷な発想は浮かばないものかもしれない。思えばテオドールに対しても、ほかの誰に対しても、彼女は姉のようには優しく接することができず、冷たい態度でいる気がする。
水の術者は、冷徹の気質を持つという。
(冷徹な人って、どんな人?)
ソフィアが長いこと疑問に思ってきたことである。
(冷酷で、人を簡単に見捨てたり、切り捨てることのできる人?)
自分の隠された正体を知ったようで、ぼんやりとではあるが、恐ろしかった。
ソフィーはどうであろう。姉も、そのような自分を知って、恐ろしくなったのであろうか。血を分けた双子の妹がそのような者であると知って、嫌い、憎むのではないか。
(そうなったら、私、生きていけない……)
ぼろぼろ、と途切れることなく涙が出た。
結局、彼女が眠りに落ちたのは、夜半過ぎになってからであった。
この頃の人々の朝は早い。日の出頃か、あるいはそれよりも前に起きるのが通常である。照明器具が安定供給されるようになる前の時代人は、夜の長さを持て余すものだ。
まだ夜明け前の暗さと静けさに包まれるなか、ソフィーはそっと部屋に入り、妹のいたいけな寝顔を見守った。
しばらくして、ソフィアは気付いた。
「姉さん……」
「おはよう」
「うん……」
ソフィアは上体を起こして、じっと姉の手だけを見た。目を見るのが怖い。
しかし、この慈悲深い姉は、決して彼女を見捨てることはなかった。それどころか、
「ソフィア、昨日はごめんなさい」
「……どうして?」
「あなたにひどいことを言ったから。きっと、多くの人の死を目の当たりにして、自分の無力さを感じてたんだと思う。だからあなたが正しいことを言っても、咄嗟には受け入れられなくて」
あなたの言うやり方でやってみよう、と姉は言ってくれた。そして、姉はそっと抱きしめてくれた。頬がふんわりとやわらかい。
「ソフィア、傷つけるようなことを言ってごめんなさい。きっと不安で、怖くて、それでも勇気を出して提案してくれたんでしょ?ごめんね、ありがとう」
夜に出し尽くしたと思った涙が、またあふれるように流れ出す。姉のもたらす、春のそよ風のような安心が、いつまでもソフィアの嗚咽を誘った。
姉だけは、自分の分身とも言えるこの姉だけは、どこまでも自分を分かってくれる。そして、このように抱き止めて、思いを分かち合ってくれる。
その確信が、この朝をもって改めて姉妹の絆を強めたのは間違いなかっただろう。
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