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初めての旅立ち

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  それから、ソフィーとソフィアの姉妹は何度か、ペストを含む病気や、事故に苦しむ人を術によって救った。治療を受けた者はみな、自分の身に起きた体験を興奮して語り、二人をそれこそ神のようにあがめた。 
 確かに、病気や事故で命を落としかけたり、体の一部を欠損したり、地獄のような痛みや苦しみを味わっていた者が、健康な肉体を取り戻せたなら、その奇跡を招来させた者が神のように見えるのも無理からぬことであろう。 
 しばらくして、村にペストにかかる者はぱったりと途絶えて、どうやらこの悪魔のような感染症は少なくともセーヌの村からは根絶されたように思われた。 
 年が明けミネルヴァ暦442年2月、姉妹は村の救世主として村民からこの上ない尊崇を受けていた。しかし、本人たちは周囲の狂騒とは裏腹に、やや戸惑いを覚えていた。彼女たちが真に術者であるという事実を知った人々の反応は、彼女らの想像を超えていたのである。物心つく頃に術者の導きを受け、術者に関する伝承を聞かされた彼女らには、術者という存在が肌のぬくもりのような身近さで感じられるが、人々はそうではない。術者が世界に存在したとされる時代からは、2世紀以上を優に経過している。なかには、術者は伝説や神話のたぐいであって、実在しなかった、と考える者もいた。だがそうした連中も、ソフィーとソフィアの起こす奇跡の前には、ぐうのも出なかった。 
 そしてこの2月、次の転機が姉妹のもとを訪れる。 
 徒歩で丸一日ほどの距離にある隣のアディジェ村から、姉妹の噂を聞きつけた二人の若者がやってきて、往診を願ったのである。なんでも、アディジェではこのところペストの感染が急拡大して、数日前には村の長老と年寄りが相次いで亡くなり、今も多くの者が病床にあるという。 
「このままでは村は全滅だ。聞けば隣村のソフィー嬢、ソフィア嬢は術者で、その神通力によって村人はみな健康に過ごしているとか。面妖な話ではあるが、ここはひとつ、わらにもすがる思いで往診を頼もうじゃないか」 
 合議の結果、二人の若者が代表して、姉妹のもとへ来訪したというわけである。報酬は1,200ルーガで、ずいぶんと思い切りのいい大金である。村民たちから集めた金らしいが、命が助かるものなら財産など惜しくもないといったところなのであろう。 
 姉妹は行って苦しむ人々を助けたいと考えた。彼女たちの世話をしているルモワーヌに相談すると、 
「行ってくるといい。世界は広い。若いうちに、見聞を広めるといいだろう」 
 ただし、とルモワーヌは言った。その語気には、これだけは有無を言わせまいとする重さと強さがあった。 
「黒死病の急速な拡大で、世情は何かと物騒ぶっそうだ。必ず護衛を連れて歩くようにしなさい。今回は先方も急ぎのようだから、私の方で護衛の人数は見繕みつくろっておく」 
 世間知らずの二人は、ルモワーヌさんの取り越し苦労も度が過ぎる、と思った。しかし、ルモワーヌは誠実の人で、命の恩人でもある二人を心から敬い、心配している思いが伝わってくるので、忠告を素直に受け入れた。農園の方も、収穫はすでに終わって落ち着いているから、翌日にもすぐに出立しゅったつすることとした。 
 だが夕刻になって、ソフィアは驚くべき事実を知った。 
「テオ、あなたなにをしているの?」 
「僕も、君たちと行くんだ」 
 ルモワーヌの長男テオドールが、やや興奮した表情と声色で答えながら、巾着状の大きな荷物袋に旅支度をしている。 
 ソフィアは当然、驚いた。ルモワーヌが手配すると言っていた護衛とは、なんと、彼の息子であるテオドールのことらしいのである。 
「あなたが一緒に!?」 
「あぁ、そうだよ」 
「あなた、剣なんて使ったことあるの?」 
「いや、初めて持つよ」 
「……それで、護衛ができるの?」 
 意気揚々としていたテオドールが、その不本意な疑惑の言葉で表情を変えた。ふてくされた、と称するにはむしろその目は真剣に過ぎた。 
「君のことを守りたいんだ」 
 かぁっ、と頬が熱くなるのを自覚しながら、ソフィアは知った。これはきっとテオドール自身が、彼女たちの護衛をしたいと、父親に願い出たのだ。彼は元来おとなしい性格で、争いごとなどは多分に苦手としていたが、それでも危険をいとわずともに行くと言っている。 
 しかも、テオドールは「君たち」ではなく、「君」と表現した。単に護衛任務を全うしたいというだけの思いならば、その対象はソフィーとソフィアの両名すなわち「君たち」とすべきであろう。だが、彼はあえて「君」と言った。彼のソフィアに寄せる想いが、無意識にその言葉遣いに微妙なニュアンスを与えたのであろう。 
 ソフィアはそのことに気づいていた。気づいてなお、気づいていないようによそおい、意識からさえ追い出そうとした。彼の純粋さを、ソフィアは決して不快に思っておらず、不快どころか痛いほどにうれしく思っていたのだが、戸惑いと羞恥はそれよりもはるかに大きかった。とにかく、奥手なのである。 
 逃げるように、客室へと引っ込んでしまった。 
 次の日の朝、姉妹はセーヌの村を旅立った。彼女たちにとっては、隣の村とはいえ、生まれて初めての遠出である。 
 護衛は、テオドールのほかにもう二人いる。 
 一人はアレッサンドロ・フェルミという名の若者で、セーヌ唯一の医家であるフェルミ家の三男坊である。通称をアレックスといい、評判の腕白わんぱく者で、医者の息子でありながら医学の心得はせいぜい応急処置ができる程度でしかない。 
 もう一人はアヴェンタドールを名乗るルモワーヌ家の召使いで、年齢は三十路みそじに入った頃であったろう。アヴェンタドールとはうちわという意味なのだが、彼がこの名前を使っていた理由はよく分かっていない。姉妹からは、アーヴェンと呼ばれた。 
 そのため、この両名についてはそれぞれアレックス、アーヴェンと記述するようにしたい。 
 一行は草がこけた、ようやく道と分かるほどの道を北に歩いた。ソフィーはこの日、妙にソフィアに対してよそよそしい態度で、列の先頭にアーヴェンを歩かせ、自らはそのあとをアレックスと並んで歩いた。 
 自然、その後ろをソフィアとテオドールが歩くこととなる。 
 (みんなで、私とテオをくっつけようとしてる)
 その程度のことは、ソフィアにも分かる。しかしテオドールはそういった周囲の動きに対する感受性が異常に鈍いのか、いつものように屈託なくあれこれと話しかけてくる。 
「だいぶ歩いて、村が見えなくなったね。ソフィア、不安じゃない?」 
「平気」 
「僕がついてるから、心配いらないよ」 
「そういうのいいから」 
 無邪気なテオドールがかわいそうになりながらも、つい距離をとるようなことばかり返事してしまう。 
 日暮れ時になると、道の脇に小屋がいくつか見えるようになる。セーヌとアディジェを往復する人々のために、夜を過ごすあばら家を建てた者がいたのであろう。 
 彼女らはそのうちでもまだ結構がましな一軒で疲れた足を休め、一晩を眠ることにした。折しも、天候は良好で、空には見渡すばかりの天の川が広がっている。 
 獣よけのためにき火をともしつつ、一行は疲労のためにことりと眠りに落ちた。 
 だが、安眠はすぐに破られることとなる。 
 ソフィアは、ソフィーの呼びかける声で目を覚ました。勢いはだいぶ弱くはなってはいるものの火はまだ残っており、そのことからも、夜はまだそのほとんどの時間を日の出までに残しているように思われる。 
「姉さん……どうしたの?」 
 眠い目をこすりながらあたりを見回すと、彼女以外の全員が起き上がっているらしい。特にアレックスとアーヴェンは剣を引き寄せて、じっと北の方角を見つめている。 
「みんな……どうしたの?」 
 不穏な様子に、不安を隠せぬ声で再度尋ねた。 
「野盗だよ」 
「野盗……?」 
 アレックスから発せられた思わぬ言葉に、ソフィアは思わず全身を硬直させた。平和なセーヌの近くに、しばしば野盗が現れては旅人を襲うという噂を聞いたことがある。 
「どうして分かるの?」 
「鈴さ」 
「鈴?」 
「ここいらをうろつく野盗団の親分は伊達なのか酔狂なのか、鈴を腰につけて歩くんだ。鈴のシノーポリ、って呼ばれてる。鈴の音、聞こえるだろ」 
 なるほど、動転していて意識していなかったが、恐ろしいほどの静けさの向こうに、チリチリ、チリチリ、と金属的な響きが聞こえてくるようだ。 
「見えた」 
 無口なアーヴェンが、この日初めて口をきいた。ソフィアも小屋の隙間からのぞくと、星明かりにさらされて、人影が三つ。 
 アレックスは、腕に覚えがある。ただちに、作戦を立てた。 
「よし、向こうは三人。こっちも三人だ。機先を制して打って出たら、まず左の奴を一斉に袋叩きにする。そうしたら数の上で有利だ。俺が一人で、アーヴェンとテオは二人がかりで、残った奴と戦う。テオ、いけんだろうな」 
 あぁ、と威勢よく応じたテオドールではあったが、近くにいるソフィアが見ると、膝がそれと分かるほどに震えている。 
「奴らがあと10歩歩いたら、ここから飛び出るぞ。いいか、左の奴から確実に仕留めるんだ」 
 必死にうなずいて、テオドールは剣を握りしめつつソフィアを振り向いた。焚き火の尽きようとする最後の明かりに照らされた彼の目には、護衛として同行したことへの後悔の色はなかった。むしろ、彼女を守るという、その約束を命をして遂行しようとしているらしい。 
 ソフィアは、姉と抱き合うようにして縮こまりながら、じっと彼の姿を追った。 
 次の瞬間、アレックスの合図とともに、三人は転がるようにして小屋を走り出ていった。 
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