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ふたりの決意
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朝の声を、ソフィアは聞いた。
毎朝の目覚めを、彼女たちは鶏の声で得る。この日も、その甲高い声で意識はまどろみから覚醒へと急速に引き上げられる。目覚めは、常に幻想とのひとときの別れである。始まるのは世界との対話だ。
夜が明けると必ず訪れる新たな世界は、記憶の許す限り、きまってソフィーの顔から広がってゆく。彼女らは双子であり、当然のように、寝るときは隣に並ぶ。生まれも育ちも同じ部屋だった彼女たちは、いつも寄り添って生きてきたのである。
ソフィーは先に起きていたのか、粗末な納屋の隙間から差す淡い光のなかで、ぼんやりと視線を妹に向けている。
「姉さん」
「起きた?」
「うん」
姉のソフィーは、風の術者である。術者にはそれぞれ固有の術式というものが与えられていて、それがその術者の能力や気質をも左右する。風の術者は、慈悲の気質を持つという。確かに、姉は幼い頃から慈悲深い性格だった。謙虚で慎み深く、着るものも食べるものも、ソフィアを優先した。優しいのは、妹に対してだけではない。両親に対して親孝行を欠かしたことはなかったし、召使いのウルラにさえいたわりが深く、村の誰からも愛された。世界の人がすべて姉のような人柄を持っていたなら、争いやいさかいは起こらないだろう、とさえソフィアは思う。
ソフィアは、両親からよく「術士奇譚」の伝承を聞かされた。
古き昔、神のごとき術者あり、その者に三人の孫娘がおり、長女をアルトゥ、次女をムング、三女をエルスという。エルスは野心の人であるセトゥゲルに導きを施し、その罪に殉じた。ムングはセトゥゲルとの戦いで敗れるが、アルトゥにより蘇生され、辛くも生き永らえる。アルトゥはセトゥゲルに風の術を施して死に至らしめるが、彼の部下三人は生き延びて、各地に散った。
そのうちの一人が、単身でアポロニア半島にまで落ちて、オリーブの豊かに実る小さな小さな村にたどり着いて、余生を送ることとなった。それが彼女たちの先祖であるバルという男だと。
いにしえの術者三姉妹、その長女アルトゥは風の術者で、人格はまさに聖女のようであったという。それを裏付ける逸話のどれを聞いても、まるで姉のソフィーそのままのようだと、ソフィアは感じてきた。
姉として、妹の面倒を見るという立場だからだろうか。いやむしろ、ソフィーにはアルトゥという、同じ風の術者として指標とすべき人物がいたからなのかもしれない。
ソフィアにはいない。彼女と同じ水の術者が、かつて世界に恵みや災いをもたらしたという話を、ついぞ聞いたことがないのである。それは気楽でもあるが、不安でもあった。水の術者の気質は、冷徹らしい。
「冷徹な人とは、どのような人だろう」
ソフィアには、よく分からない。
まだ少し眠い目をこすりながら外に目を向けると、空は青白く、ひんやりした空気が肌にまとわりついてくる。そっと、ソフィーが牛革の寝具を肩にかけてくれた。
「姉さん、私たち、ふたりきりになってしまったの?」
「そう、ふたりきりよ。ふたりだけで、生きなきゃいけない」
「私、さびしい。父さんと母さんがいない世界なんて」
「父さんと母さんの魂は、私たちのなかに生きてる。生き続ける」
「そうだけど……」
ソフィーの言いたいことも分かる。だがソフィアの心には、姉の気高い言葉だけではぬぐいきれない失意と喪失感がわだかまっている。
「さぁ、家に戻ろう。父さんと母さんを、見送ってあげよう」
「うん……」
ペストの患者が死ぬと、その家は村人によって火をかけられ、焼かれる掟になっている。彼女らはその両親だけでなく、思い出の詰まった住むべき家までも失うことになるのだ。村の人々に累を及ぼさないためには必要な処置だとは本人たちにも理解できるが、16歳の少女に対してはいかにも酷な扱いと言わねばならない。
姉妹の見守る前で、村人たちはおびただしい量の薪や枝を家の周囲に並べ、火をつけた。炎はたちまちさかんに起こり、やがて家屋は崩れて、なかで眠る夫婦の遺骸ごと燃やし尽くして、ようやく消えた。
二人は腰を抱き合って寄り添い、何も言わず、ただじっと火葬の模様を眺めていた。
人々が去ってから、召使いのウルラとともに焼け跡を探したものの、目に映るのは炭と化した木や布や石ばかりであった。燃えかすを掘り起こし、ようやく人骨らしきかたまりを発見して、彼女らは丸一日をかけて、丹念に遺骨を拾い集めた。
人の骨というのは、炎のなかで焼かれても、不思議なほどに白い。
日が暮れる頃、ウルラは姉妹に給金のことについて尋ねた。誤解されることが多いが、召使いや奴隷には、労働に対する正当な対価を要求する権利がある。対価を支払えないのなら、働く意味がないから、彼らは主を見限って出ていってしまう。
ソフィーは困った表情をして、
「ごめんなさい。お金も財産も、すべて家のなかにあったから、渡せるお給金がないの」
「それでは、今日働いた分はどうなりますか」
ソフィアは、ぐっ、と奥歯を噛みしめてウルラをにらんだ。彼女らの両親の、昨日までの主人の、その遺骨を拾い集める作業を労働と称し、給金をせしめようとするウルラに憎しみと憤りを覚えた。術による治療を拒否し、運命のままに従容として死んでいった両親や、その両親を亡くしたばかりでありながら気丈に振舞う姉に比して、この知恵おくれの召使いはなんと卑しい人間であろう。
「ウルラ、本当にごめんなさい。すぐには渡せるものがないわ。でも、今はオリーブがちょうど収穫期だから、それが売れれば……」
「冗談じゃないよ。それじゃただ働きじゃないか。あんたたちは乞食と一緒だよ。この役立たず!納屋にあるオリーブの実は、あたしがもらってくからね!」
ウルラは、まるで人が変わったようにソフィーを罵りそそくさと去っていった。ソフィーは何も言い返さず、黙ってウルラの背中を見送った。ソフィアは悔しさのあまり全身を震わせ、落ちていた石を投げつけたが、足早のウルラにはわずかに届かない。
がくり、とソフィアは膝から崩れ落ちた。あっという間に暗くなってゆくプルシアンブルーの空の下で、ソフィーは横から包み込むように肩を抱いてくれた。
「ソフィア、つらいのはきっと今だけ。私たちが支え合えば、きっと生きてゆける」
「姉さん、姉さん……!」
「いいのよ、泣いてもいいの。つらいときは、こうして一緒に泣くの」
ソフィアは激しく慟哭し、ソフィーはさめざめとして泣いた。性格も表現もまったく異なるが、感じていることはいつも同じふたりだ。
ウルラが奪っていったために、オリーブの在庫は半分ほどになってしまっている。農園に実っている分も合わせて、一年分の蓄えにはほど遠い。
考えるほど、姉妹の前途には絶望が広がるだけであるが、
「とにかく、今日は休もう。明日、ふたりで一緒に考えよう」
というソフィーの言葉に、どれだけ救われたか分からない。両親の遺骨が入った箱を大切に抱えながら、ソフィアはふと、姉がいなければ自分は望みを失って崖から身を投げたかもしれない。
そのように思った。
翌朝、互いのほかにすべてを失った姉妹が、井戸に水を汲みに歩いていると、村人どもが慌ただしく立ち騒ぐ様子がある。黒死病、という声が、何度か聞こえてきた。
二人は顔を見合わせ、ちょうど近くにいた婦人に尋ねた。
「ウァレリアさん」
「あら、あんたたち」
ウァレリアと呼ばれた婦人は、一歩、二歩と後ずさりながら、応じた。ペストで死んだ者の家族だから、恐れを抱いているのであろう。
「何か、あったのですか?」
「ルモワーヌさんのところのご主人が倒れたらしくてね。黒死病だ、とみな騒いでいるよ」
それだけ言って、逃げるようにいなくなった。
このときソフィアは、もう自分の心を欺くことはしない、そしてたったひとりの寄る辺であるこの双子の姉に対しても、本心を隠すようなことはしまい、とあふれる感情に衝き動かされつつ誓った。
「姉さん」
「何?」
「私、母さんが間違ってたとは思わない。母さんも、ご先祖様も、術者が世界に出ることのないよう、ずっと掟を守って暮らしてきたんだわ。それが彼らの生き方だったから。でも、私は違う生き方をしたい」
「どんな生き方?」
「目の前で、苦しんでる人がいる。私はこの身に宿る力を、みんなのために役立たせたい」
「母さんの遺言に背いても?」
「私、奇跡も運命も信じない。守りたいものは、自分で守る。もう子供じゃないの」
「よかった、私たち、これからも一緒にいられる」
えっ、と振り向くと、緑色の瞳がペリドットのような爽やかで明るい輝きを放っている。思い返すと、誰よりも多く、ソフィアはこの美しい貴石を思わせる慈悲深い瞳を見てきた。そして、自分の蒼い瞳を誰より多く見ているのが、目の前にいるソフィーなのであろう。
「ソフィア、私たちは術者として生きる、それでいい?」
「姉さん」
「ルモワーヌさんの家、行ってみよう」
ソフィアは、両親を失ってから初めて、笑顔を取り戻した。
毎朝の目覚めを、彼女たちは鶏の声で得る。この日も、その甲高い声で意識はまどろみから覚醒へと急速に引き上げられる。目覚めは、常に幻想とのひとときの別れである。始まるのは世界との対話だ。
夜が明けると必ず訪れる新たな世界は、記憶の許す限り、きまってソフィーの顔から広がってゆく。彼女らは双子であり、当然のように、寝るときは隣に並ぶ。生まれも育ちも同じ部屋だった彼女たちは、いつも寄り添って生きてきたのである。
ソフィーは先に起きていたのか、粗末な納屋の隙間から差す淡い光のなかで、ぼんやりと視線を妹に向けている。
「姉さん」
「起きた?」
「うん」
姉のソフィーは、風の術者である。術者にはそれぞれ固有の術式というものが与えられていて、それがその術者の能力や気質をも左右する。風の術者は、慈悲の気質を持つという。確かに、姉は幼い頃から慈悲深い性格だった。謙虚で慎み深く、着るものも食べるものも、ソフィアを優先した。優しいのは、妹に対してだけではない。両親に対して親孝行を欠かしたことはなかったし、召使いのウルラにさえいたわりが深く、村の誰からも愛された。世界の人がすべて姉のような人柄を持っていたなら、争いやいさかいは起こらないだろう、とさえソフィアは思う。
ソフィアは、両親からよく「術士奇譚」の伝承を聞かされた。
古き昔、神のごとき術者あり、その者に三人の孫娘がおり、長女をアルトゥ、次女をムング、三女をエルスという。エルスは野心の人であるセトゥゲルに導きを施し、その罪に殉じた。ムングはセトゥゲルとの戦いで敗れるが、アルトゥにより蘇生され、辛くも生き永らえる。アルトゥはセトゥゲルに風の術を施して死に至らしめるが、彼の部下三人は生き延びて、各地に散った。
そのうちの一人が、単身でアポロニア半島にまで落ちて、オリーブの豊かに実る小さな小さな村にたどり着いて、余生を送ることとなった。それが彼女たちの先祖であるバルという男だと。
いにしえの術者三姉妹、その長女アルトゥは風の術者で、人格はまさに聖女のようであったという。それを裏付ける逸話のどれを聞いても、まるで姉のソフィーそのままのようだと、ソフィアは感じてきた。
姉として、妹の面倒を見るという立場だからだろうか。いやむしろ、ソフィーにはアルトゥという、同じ風の術者として指標とすべき人物がいたからなのかもしれない。
ソフィアにはいない。彼女と同じ水の術者が、かつて世界に恵みや災いをもたらしたという話を、ついぞ聞いたことがないのである。それは気楽でもあるが、不安でもあった。水の術者の気質は、冷徹らしい。
「冷徹な人とは、どのような人だろう」
ソフィアには、よく分からない。
まだ少し眠い目をこすりながら外に目を向けると、空は青白く、ひんやりした空気が肌にまとわりついてくる。そっと、ソフィーが牛革の寝具を肩にかけてくれた。
「姉さん、私たち、ふたりきりになってしまったの?」
「そう、ふたりきりよ。ふたりだけで、生きなきゃいけない」
「私、さびしい。父さんと母さんがいない世界なんて」
「父さんと母さんの魂は、私たちのなかに生きてる。生き続ける」
「そうだけど……」
ソフィーの言いたいことも分かる。だがソフィアの心には、姉の気高い言葉だけではぬぐいきれない失意と喪失感がわだかまっている。
「さぁ、家に戻ろう。父さんと母さんを、見送ってあげよう」
「うん……」
ペストの患者が死ぬと、その家は村人によって火をかけられ、焼かれる掟になっている。彼女らはその両親だけでなく、思い出の詰まった住むべき家までも失うことになるのだ。村の人々に累を及ぼさないためには必要な処置だとは本人たちにも理解できるが、16歳の少女に対してはいかにも酷な扱いと言わねばならない。
姉妹の見守る前で、村人たちはおびただしい量の薪や枝を家の周囲に並べ、火をつけた。炎はたちまちさかんに起こり、やがて家屋は崩れて、なかで眠る夫婦の遺骸ごと燃やし尽くして、ようやく消えた。
二人は腰を抱き合って寄り添い、何も言わず、ただじっと火葬の模様を眺めていた。
人々が去ってから、召使いのウルラとともに焼け跡を探したものの、目に映るのは炭と化した木や布や石ばかりであった。燃えかすを掘り起こし、ようやく人骨らしきかたまりを発見して、彼女らは丸一日をかけて、丹念に遺骨を拾い集めた。
人の骨というのは、炎のなかで焼かれても、不思議なほどに白い。
日が暮れる頃、ウルラは姉妹に給金のことについて尋ねた。誤解されることが多いが、召使いや奴隷には、労働に対する正当な対価を要求する権利がある。対価を支払えないのなら、働く意味がないから、彼らは主を見限って出ていってしまう。
ソフィーは困った表情をして、
「ごめんなさい。お金も財産も、すべて家のなかにあったから、渡せるお給金がないの」
「それでは、今日働いた分はどうなりますか」
ソフィアは、ぐっ、と奥歯を噛みしめてウルラをにらんだ。彼女らの両親の、昨日までの主人の、その遺骨を拾い集める作業を労働と称し、給金をせしめようとするウルラに憎しみと憤りを覚えた。術による治療を拒否し、運命のままに従容として死んでいった両親や、その両親を亡くしたばかりでありながら気丈に振舞う姉に比して、この知恵おくれの召使いはなんと卑しい人間であろう。
「ウルラ、本当にごめんなさい。すぐには渡せるものがないわ。でも、今はオリーブがちょうど収穫期だから、それが売れれば……」
「冗談じゃないよ。それじゃただ働きじゃないか。あんたたちは乞食と一緒だよ。この役立たず!納屋にあるオリーブの実は、あたしがもらってくからね!」
ウルラは、まるで人が変わったようにソフィーを罵りそそくさと去っていった。ソフィーは何も言い返さず、黙ってウルラの背中を見送った。ソフィアは悔しさのあまり全身を震わせ、落ちていた石を投げつけたが、足早のウルラにはわずかに届かない。
がくり、とソフィアは膝から崩れ落ちた。あっという間に暗くなってゆくプルシアンブルーの空の下で、ソフィーは横から包み込むように肩を抱いてくれた。
「ソフィア、つらいのはきっと今だけ。私たちが支え合えば、きっと生きてゆける」
「姉さん、姉さん……!」
「いいのよ、泣いてもいいの。つらいときは、こうして一緒に泣くの」
ソフィアは激しく慟哭し、ソフィーはさめざめとして泣いた。性格も表現もまったく異なるが、感じていることはいつも同じふたりだ。
ウルラが奪っていったために、オリーブの在庫は半分ほどになってしまっている。農園に実っている分も合わせて、一年分の蓄えにはほど遠い。
考えるほど、姉妹の前途には絶望が広がるだけであるが、
「とにかく、今日は休もう。明日、ふたりで一緒に考えよう」
というソフィーの言葉に、どれだけ救われたか分からない。両親の遺骨が入った箱を大切に抱えながら、ソフィアはふと、姉がいなければ自分は望みを失って崖から身を投げたかもしれない。
そのように思った。
翌朝、互いのほかにすべてを失った姉妹が、井戸に水を汲みに歩いていると、村人どもが慌ただしく立ち騒ぐ様子がある。黒死病、という声が、何度か聞こえてきた。
二人は顔を見合わせ、ちょうど近くにいた婦人に尋ねた。
「ウァレリアさん」
「あら、あんたたち」
ウァレリアと呼ばれた婦人は、一歩、二歩と後ずさりながら、応じた。ペストで死んだ者の家族だから、恐れを抱いているのであろう。
「何か、あったのですか?」
「ルモワーヌさんのところのご主人が倒れたらしくてね。黒死病だ、とみな騒いでいるよ」
それだけ言って、逃げるようにいなくなった。
このときソフィアは、もう自分の心を欺くことはしない、そしてたったひとりの寄る辺であるこの双子の姉に対しても、本心を隠すようなことはしまい、とあふれる感情に衝き動かされつつ誓った。
「姉さん」
「何?」
「私、母さんが間違ってたとは思わない。母さんも、ご先祖様も、術者が世界に出ることのないよう、ずっと掟を守って暮らしてきたんだわ。それが彼らの生き方だったから。でも、私は違う生き方をしたい」
「どんな生き方?」
「目の前で、苦しんでる人がいる。私はこの身に宿る力を、みんなのために役立たせたい」
「母さんの遺言に背いても?」
「私、奇跡も運命も信じない。守りたいものは、自分で守る。もう子供じゃないの」
「よかった、私たち、これからも一緒にいられる」
えっ、と振り向くと、緑色の瞳がペリドットのような爽やかで明るい輝きを放っている。思い返すと、誰よりも多く、ソフィアはこの美しい貴石を思わせる慈悲深い瞳を見てきた。そして、自分の蒼い瞳を誰より多く見ているのが、目の前にいるソフィーなのであろう。
「ソフィア、私たちは術者として生きる、それでいい?」
「姉さん」
「ルモワーヌさんの家、行ってみよう」
ソフィアは、両親を失ってから初めて、笑顔を取り戻した。
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