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第一章 迷惑な求愛
黒妖犬の襲撃
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最終選考会翌日、乙女に選ばれた十人の令嬢とベネデッタは、王都にある神殿へ禊の儀を行うため王宮を出発した。
トリエスタ王国の国旗を持った騎士が白馬に乗り先頭をいき、続いて現国王オリンドの御印の旗を掲げた隊が進み、次いで隊長であるウバルド王弟殿下、その後ろに白馬の馬車に乗ったベネデッタ、十人の乙女となった令嬢が後続の馬車五台に分乗し、沿道に集まった人々の歓声に応えながら粛々と隊列は進んだ。
隊列の周りは、剣を佩き甲冑に身を固めた騎士や、深緑のローブを着た魔法士が護衛している。
そんな隊列の中、ロザリアは最後尾で馬に乗り、セストと並走していた。
貴族の嗜みで女性でも馬に乗れる者は多い。ロザリアも父リベリオに付き合って幼い頃から乗馬に親しんできたので騎乗は難なくこなせる。ゆっくりと馬を闊歩させながら前を行くきらびやかな隊列の後ろに続いた。
神殿への禊に、まさかロザリアが参加するとは思ってもみなかった。昨日の最終選考会への出席といい、この禊への同行といい、セストはどうやら今回の狩りに伴う行事全てにロザリアを連れて行く気らしい。
出発のとき、ベネデッタは最後尾にセストと並んでいるロザリアを見つけて、それはそれは嫌そうな顔をした。ベネデッタは乙女の証である純白のドレスを着ていたのだが、それが一瞬灰色に見えるほどどす黒いオーラを放っていた。
……いたたまれない。これでまた一段とロザリアへの当たりがきつくなりそうだ。セストの執務室前での一件が今更ながら悔やまれる。母のことを言われ、つい言い返したが、何かもっといい対処法はなかったのだろうか。
セストの補佐役でいる限り、これから狩りの行事に関わることになる。乙女であるベネデッタとの接触も避けられない。
それにしても。
ロザリアはちらりと馬上のセストに目をやった。沿道の人々の歓声は、主にベネデッタと十人の乙女へ注がれているのだが、明らかに女性陣の黄色い声がセストへと飛んでいる。
熱い視線を送っている女性の姿も、一人や二人ではない。
セストは、そんな視線を向けられていることをわかっているのかどうか。口元に絶えず微笑を浮かべながら、ぴんと背筋を伸ばして堂々たるものだ。深緑のローブが、馬の闊歩に合わせて上下に揺れる様まで美しい。
「おい、ちゃんと前を向け」
じっとセストを見ていると、セストから声が飛んだ。ちょっとでもセストに見惚れていたなんて思われたら恥ずかしすぎる。あわわわと焦って前を向こうとして体勢を崩した。
「……!」
けれどロザリアは落馬することはなく、見えない魔力で馬上へと引き戻される。セストを見ると、にやりと笑われた。
「俺が見たいなら、あとでたっぷりと見せてやる。なんなら触らせてやるぞ」
「け、結構です……」
見惚れていただけに、上手い返しも思いつかない。せめてもの、とロザリアは関心がないようにふいっとセストから視線をそらせた。
神殿での禊は、ベネデッタと十人の乙女が神官から祝福を受け神殿内の最奥部に入り、そこにある泉に身を浸すというのが具体的な儀式次第だ。
泉には特別な霊力が宿っているらしく、乙女たちはそこに身を浸すことで世俗の垢を落とし、より一角獣を呼び寄せ易くなるらしい。
ロザリア達同行者も神殿内の別の場所で、その泉から汲まれた水で同じように禊を行うことになっていた。
真っ白な晒しに着替え、全身を水に浸す決まりだ。
乙女達は神殿の最奥部で誰の目にも触れることはないが、さすがにロザリアは他の男性同行者達と一緒に水に浸かる訳にはいかない。晒しはごく薄いもので、素肌の上に羽織る決まりなので水に入れば当然透ける。
そういう訳でロザリアは、もう一人隊列にいたジルダという名の女性と共に最奥部の前室に案内され、そこで禊を行うことになった。
ジルダは、魔法防衛局付きの魔法士でセストの部下だった。緑の短髪の凛々しい顔立ちの女性で、ロザリアと同じ男爵家の令嬢だそうだが、魔力が強かったため魔法士となったそうだ。
前室には泉の水を満たした大きな桶が置かれていた。神官の文言が終わり、最奥部に入っていく乙女たちを見送ったあと、ジルダと二人、部屋に残されると、ジルダは手早く深緑のローブを取り、着ていた衣服を躊躇いなく脱いだ。
ジルダは、女のロザリアでも見惚れるほどにスタイルが良かった。さすが魔法士だけあってかっしりとした体つきをしているが、出るところはちゃんと出ていて、腰や足首は引き締まっている。
「お先です」
ジルダは白の晒しを羽織ると、動けないでいるロザリアに構わず、早々に桶に肩まで身を浸した。
わたしも早くしなくちゃとロザリアが自分の衣服に手をかけた時だった。
「キャーッ!」
耳をつんざくほどの悲鳴が最奥部の方から聞こえてきた。悲鳴は一度では収まらず、「助けてー!」と中の乙女達が叫ぶ声も響いてくる。
悲鳴に混じって、何か獣らしきものが吠える声もしている。
「一体何が……」
不測の事態が起こっていることは間違いない。
ジルダも異常な事態に気が付き、水から上がると手早く衣服を元通り身につけた。
「ロザリアさんは隣室の他の護衛騎士と魔法士に伝えに行ってください」
ジルダはロザリアにそう言うと、自らは最奥部に通じる扉を開いた。とたん、
「……あっ!」
ジルダの開いた扉の隙間から何か黒くて大きなものが飛び出してきた。その黒く大きなものは、ジルダに飛びかかる。
黒妖犬だ。真っ赤な瞳に、鋭い牙を持つ魔獣だ。
不意をつかれたジルダは、あっと叫んでまともに黒妖犬の突撃を受け、もんどり打って床に叩きつけられた。
「……うっ…」
背中を強打したジルダはうめき、そのまま動かなくなった。黒妖犬は、ジルダの両肩に前足をおき、ぐわっとよだれの滴る真っ赤な口を開き、牙を剥いた。
「ジルダさんっ!」
黒妖犬は、最も個体数の多い魔獣の一つで、群れをなして行動している。主に魔の森に棲息しているが、時折群れで移動し、村の畑や人を襲う恐ろしい獣だ。
さすがに王都では見かけることはほとんどないが、皆無ではない。
神殿の最奥部は、自然の泉がある外部に面した場所だ。どこかから入り込んだのだろうか。
いままさに襲われようとしているジルダに、ロザリアはジルダが身につける間のなかった深緑のマントを拾い上げ、咄嗟に黒妖犬の顔めがけて投げかけた。
視界を奪われた黒妖犬は、顔にかかった布を取ろうとごろごろ床を転がった。
その隙にロザリアはジルダを引きずって黒妖犬から距離を取った壁際に寝かせ、上から目隠しにローブを被せた。
悲鳴の続く最奥部はと視線を向けると―――。
そこにはざっと見ただけでも十頭ほどの黒妖犬がいて、白い晒しを着た乙女達とベネデッタが逃げ回っていた。よく見ると、徐々に黒妖犬は壁際へと乙女らを追い詰めていっている。
これだけの数の黒妖犬相手に、魔力のないロザリア一人ではどうすることもできない。ジルダの言った通り、一刻も早く助けを呼びに行くのが賢明な判断だ。
ロザリアはそう思い、駆け出そうとしたが、その腕を隙をついて逃げてきたベネデッタに掴まれた。
「自分だけ逃げるつもり!」
「違います…。わたしは助けを呼びに行こうと……あっ」
ほんの数秒のそのやり取りの合間で、黒妖犬はベネデッタとロザリアに最接近し、牙を向いて飛びかかってきた。それを見たベネデッタは、ロザリアを黒妖犬の前へ突き飛ばした。
ロザリアは足がもつれてその場に跪き、あっと思って顔を上げた時には、黒妖犬の鋭い牙がすぐ目の前に迫っていた。
ロザリアは声を出すこともできず、咄嗟に両腕で顔をかばった。それくらいしかできることはなかった。
ザシュッと空を切る音がし、両腕が燃えるように熱くなり、次いで激しい痛みが襲った。
黒妖犬の着地する足音に顔を上げると、両腕から血が滴り落ちた。
「……いた、い…」
焼けるように腕が痛い。傷口を抑えてロザリアはうずくまった。うーっという黒妖犬の唸り声が聞こえる。まだ臨戦態勢にあることはわかっていたが、動けなかった。
「あ、あなたが悪いんだからね」
ベネデッタは血の滴るロザリアを見て青ざめ、だっと前室へ向かって逃げ出す。朦朧とする視界でそれを捉え、なんとか目の前の黒妖犬へ視線を向けた。
いつの間にか、十頭ほどいた黒妖犬全てにロザリアは囲まれていた。奥の壁際では、固唾をのんでこちらを見守る乙女達の姿があった。魔力のない彼女達では、ロザリアを助けることはできない。彼女達もどうしていいのかわからないのだろう。
こうしている間にも、隣室にはこちらの非常事態はそろそろ伝わっているはずだし、駆けていったベネデッタが、おそらく助けを求めるはずだ。
それまでロザリアは黒妖犬が他の乙女達をおそうことのないよう、この十頭もの黒妖犬の意識をひきつけなければならない。
つと、ロザリアを襲った黒妖犬がてくてくと歩いて近寄ってきた。そのままがぶりとやられるのかと思いきや、黒妖犬は、ロザリアの足元で伏せをし、はっはっと息を吐きながらこちらを見上げ、尻尾を振り出した。
「えっ……?」
一体何がどうなっているのだろう。
襲いかかってくる気配はまるでなく、むしろ構ってとでも言うようにロザリアに向かって熱心に尻尾を振る。赤い口からのぞく牙の鋭さは変わらないが、こちらを襲おうとの意思は感じ取れなくなった。
「キュイーン」
伏せた黒妖犬が子犬のように鳴くと、周りにいた他の黒妖犬の耳がピクピクと動き仲間の声を聞き取る。すると他の黒妖犬も次々と臨戦態勢を解き、伏せをし出した。
一体何が起こっているのだろうか。困惑し、腕を抑えて立ち上がったところへ、黒妖犬を取り囲むように数十の黒い渦が地面に現れ、深緑のローブを着用した魔法士達が一斉に飛び出してきた。
その中には銀髪のセストもいて、彼らがローブを翻しながら一斉に呪文を唱えると、強い閃光が辺りを満たした。
そこからはあっという間の出来事だった。強い閃光に当てられた黒妖犬達が、一斉にその場から逃げ出し、あとにはロザリアの血痕に乱れた芝生、息を呑んだまま固まった乙女達が残った。
深緑のローブの魔法士の中から、セストは真っ先にロザリアの元へとやってくると、えぐられたロザリアの両腕にちらりと視線を向けた。
「ばかか、お前は」
セストの口から放たれたのは、なぜか辛辣な一言だった。
トリエスタ王国の国旗を持った騎士が白馬に乗り先頭をいき、続いて現国王オリンドの御印の旗を掲げた隊が進み、次いで隊長であるウバルド王弟殿下、その後ろに白馬の馬車に乗ったベネデッタ、十人の乙女となった令嬢が後続の馬車五台に分乗し、沿道に集まった人々の歓声に応えながら粛々と隊列は進んだ。
隊列の周りは、剣を佩き甲冑に身を固めた騎士や、深緑のローブを着た魔法士が護衛している。
そんな隊列の中、ロザリアは最後尾で馬に乗り、セストと並走していた。
貴族の嗜みで女性でも馬に乗れる者は多い。ロザリアも父リベリオに付き合って幼い頃から乗馬に親しんできたので騎乗は難なくこなせる。ゆっくりと馬を闊歩させながら前を行くきらびやかな隊列の後ろに続いた。
神殿への禊に、まさかロザリアが参加するとは思ってもみなかった。昨日の最終選考会への出席といい、この禊への同行といい、セストはどうやら今回の狩りに伴う行事全てにロザリアを連れて行く気らしい。
出発のとき、ベネデッタは最後尾にセストと並んでいるロザリアを見つけて、それはそれは嫌そうな顔をした。ベネデッタは乙女の証である純白のドレスを着ていたのだが、それが一瞬灰色に見えるほどどす黒いオーラを放っていた。
……いたたまれない。これでまた一段とロザリアへの当たりがきつくなりそうだ。セストの執務室前での一件が今更ながら悔やまれる。母のことを言われ、つい言い返したが、何かもっといい対処法はなかったのだろうか。
セストの補佐役でいる限り、これから狩りの行事に関わることになる。乙女であるベネデッタとの接触も避けられない。
それにしても。
ロザリアはちらりと馬上のセストに目をやった。沿道の人々の歓声は、主にベネデッタと十人の乙女へ注がれているのだが、明らかに女性陣の黄色い声がセストへと飛んでいる。
熱い視線を送っている女性の姿も、一人や二人ではない。
セストは、そんな視線を向けられていることをわかっているのかどうか。口元に絶えず微笑を浮かべながら、ぴんと背筋を伸ばして堂々たるものだ。深緑のローブが、馬の闊歩に合わせて上下に揺れる様まで美しい。
「おい、ちゃんと前を向け」
じっとセストを見ていると、セストから声が飛んだ。ちょっとでもセストに見惚れていたなんて思われたら恥ずかしすぎる。あわわわと焦って前を向こうとして体勢を崩した。
「……!」
けれどロザリアは落馬することはなく、見えない魔力で馬上へと引き戻される。セストを見ると、にやりと笑われた。
「俺が見たいなら、あとでたっぷりと見せてやる。なんなら触らせてやるぞ」
「け、結構です……」
見惚れていただけに、上手い返しも思いつかない。せめてもの、とロザリアは関心がないようにふいっとセストから視線をそらせた。
神殿での禊は、ベネデッタと十人の乙女が神官から祝福を受け神殿内の最奥部に入り、そこにある泉に身を浸すというのが具体的な儀式次第だ。
泉には特別な霊力が宿っているらしく、乙女たちはそこに身を浸すことで世俗の垢を落とし、より一角獣を呼び寄せ易くなるらしい。
ロザリア達同行者も神殿内の別の場所で、その泉から汲まれた水で同じように禊を行うことになっていた。
真っ白な晒しに着替え、全身を水に浸す決まりだ。
乙女達は神殿の最奥部で誰の目にも触れることはないが、さすがにロザリアは他の男性同行者達と一緒に水に浸かる訳にはいかない。晒しはごく薄いもので、素肌の上に羽織る決まりなので水に入れば当然透ける。
そういう訳でロザリアは、もう一人隊列にいたジルダという名の女性と共に最奥部の前室に案内され、そこで禊を行うことになった。
ジルダは、魔法防衛局付きの魔法士でセストの部下だった。緑の短髪の凛々しい顔立ちの女性で、ロザリアと同じ男爵家の令嬢だそうだが、魔力が強かったため魔法士となったそうだ。
前室には泉の水を満たした大きな桶が置かれていた。神官の文言が終わり、最奥部に入っていく乙女たちを見送ったあと、ジルダと二人、部屋に残されると、ジルダは手早く深緑のローブを取り、着ていた衣服を躊躇いなく脱いだ。
ジルダは、女のロザリアでも見惚れるほどにスタイルが良かった。さすが魔法士だけあってかっしりとした体つきをしているが、出るところはちゃんと出ていて、腰や足首は引き締まっている。
「お先です」
ジルダは白の晒しを羽織ると、動けないでいるロザリアに構わず、早々に桶に肩まで身を浸した。
わたしも早くしなくちゃとロザリアが自分の衣服に手をかけた時だった。
「キャーッ!」
耳をつんざくほどの悲鳴が最奥部の方から聞こえてきた。悲鳴は一度では収まらず、「助けてー!」と中の乙女達が叫ぶ声も響いてくる。
悲鳴に混じって、何か獣らしきものが吠える声もしている。
「一体何が……」
不測の事態が起こっていることは間違いない。
ジルダも異常な事態に気が付き、水から上がると手早く衣服を元通り身につけた。
「ロザリアさんは隣室の他の護衛騎士と魔法士に伝えに行ってください」
ジルダはロザリアにそう言うと、自らは最奥部に通じる扉を開いた。とたん、
「……あっ!」
ジルダの開いた扉の隙間から何か黒くて大きなものが飛び出してきた。その黒く大きなものは、ジルダに飛びかかる。
黒妖犬だ。真っ赤な瞳に、鋭い牙を持つ魔獣だ。
不意をつかれたジルダは、あっと叫んでまともに黒妖犬の突撃を受け、もんどり打って床に叩きつけられた。
「……うっ…」
背中を強打したジルダはうめき、そのまま動かなくなった。黒妖犬は、ジルダの両肩に前足をおき、ぐわっとよだれの滴る真っ赤な口を開き、牙を剥いた。
「ジルダさんっ!」
黒妖犬は、最も個体数の多い魔獣の一つで、群れをなして行動している。主に魔の森に棲息しているが、時折群れで移動し、村の畑や人を襲う恐ろしい獣だ。
さすがに王都では見かけることはほとんどないが、皆無ではない。
神殿の最奥部は、自然の泉がある外部に面した場所だ。どこかから入り込んだのだろうか。
いままさに襲われようとしているジルダに、ロザリアはジルダが身につける間のなかった深緑のマントを拾い上げ、咄嗟に黒妖犬の顔めがけて投げかけた。
視界を奪われた黒妖犬は、顔にかかった布を取ろうとごろごろ床を転がった。
その隙にロザリアはジルダを引きずって黒妖犬から距離を取った壁際に寝かせ、上から目隠しにローブを被せた。
悲鳴の続く最奥部はと視線を向けると―――。
そこにはざっと見ただけでも十頭ほどの黒妖犬がいて、白い晒しを着た乙女達とベネデッタが逃げ回っていた。よく見ると、徐々に黒妖犬は壁際へと乙女らを追い詰めていっている。
これだけの数の黒妖犬相手に、魔力のないロザリア一人ではどうすることもできない。ジルダの言った通り、一刻も早く助けを呼びに行くのが賢明な判断だ。
ロザリアはそう思い、駆け出そうとしたが、その腕を隙をついて逃げてきたベネデッタに掴まれた。
「自分だけ逃げるつもり!」
「違います…。わたしは助けを呼びに行こうと……あっ」
ほんの数秒のそのやり取りの合間で、黒妖犬はベネデッタとロザリアに最接近し、牙を向いて飛びかかってきた。それを見たベネデッタは、ロザリアを黒妖犬の前へ突き飛ばした。
ロザリアは足がもつれてその場に跪き、あっと思って顔を上げた時には、黒妖犬の鋭い牙がすぐ目の前に迫っていた。
ロザリアは声を出すこともできず、咄嗟に両腕で顔をかばった。それくらいしかできることはなかった。
ザシュッと空を切る音がし、両腕が燃えるように熱くなり、次いで激しい痛みが襲った。
黒妖犬の着地する足音に顔を上げると、両腕から血が滴り落ちた。
「……いた、い…」
焼けるように腕が痛い。傷口を抑えてロザリアはうずくまった。うーっという黒妖犬の唸り声が聞こえる。まだ臨戦態勢にあることはわかっていたが、動けなかった。
「あ、あなたが悪いんだからね」
ベネデッタは血の滴るロザリアを見て青ざめ、だっと前室へ向かって逃げ出す。朦朧とする視界でそれを捉え、なんとか目の前の黒妖犬へ視線を向けた。
いつの間にか、十頭ほどいた黒妖犬全てにロザリアは囲まれていた。奥の壁際では、固唾をのんでこちらを見守る乙女達の姿があった。魔力のない彼女達では、ロザリアを助けることはできない。彼女達もどうしていいのかわからないのだろう。
こうしている間にも、隣室にはこちらの非常事態はそろそろ伝わっているはずだし、駆けていったベネデッタが、おそらく助けを求めるはずだ。
それまでロザリアは黒妖犬が他の乙女達をおそうことのないよう、この十頭もの黒妖犬の意識をひきつけなければならない。
つと、ロザリアを襲った黒妖犬がてくてくと歩いて近寄ってきた。そのままがぶりとやられるのかと思いきや、黒妖犬は、ロザリアの足元で伏せをし、はっはっと息を吐きながらこちらを見上げ、尻尾を振り出した。
「えっ……?」
一体何がどうなっているのだろう。
襲いかかってくる気配はまるでなく、むしろ構ってとでも言うようにロザリアに向かって熱心に尻尾を振る。赤い口からのぞく牙の鋭さは変わらないが、こちらを襲おうとの意思は感じ取れなくなった。
「キュイーン」
伏せた黒妖犬が子犬のように鳴くと、周りにいた他の黒妖犬の耳がピクピクと動き仲間の声を聞き取る。すると他の黒妖犬も次々と臨戦態勢を解き、伏せをし出した。
一体何が起こっているのだろうか。困惑し、腕を抑えて立ち上がったところへ、黒妖犬を取り囲むように数十の黒い渦が地面に現れ、深緑のローブを着用した魔法士達が一斉に飛び出してきた。
その中には銀髪のセストもいて、彼らがローブを翻しながら一斉に呪文を唱えると、強い閃光が辺りを満たした。
そこからはあっという間の出来事だった。強い閃光に当てられた黒妖犬達が、一斉にその場から逃げ出し、あとにはロザリアの血痕に乱れた芝生、息を呑んだまま固まった乙女達が残った。
深緑のローブの魔法士の中から、セストは真っ先にロザリアの元へとやってくると、えぐられたロザリアの両腕にちらりと視線を向けた。
「ばかか、お前は」
セストの口から放たれたのは、なぜか辛辣な一言だった。
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