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第一章 迷惑な求愛
セストの執務室の扉は
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「あ、そうだ」
その日一日の仕事を終え、魔事室に寄ってから帰ろうと廊下を歩いていたロザリアは、一つセストに聞き忘れたことを思い出し、立ち止まった。
今日は終日、セストの執務室で書類とにらめっこをして過ごした。乙女選出の推薦状は、最初に手渡された分だけかと思いきや、戸籍との突き合わせが終わらぬ間に文官が次々やってきて、新たな推薦状を置いていく。
結局昼の休憩時間と、お手洗いに立つ時間以外、ひたすら書類に目を通すことになった。
若い体とはいえ、一日中前屈みで文字を見つめていたら疲れる。
「今日はここまでにしよう」と同じく幾分か疲れた様子のセストに言われ、ロザリアは執務室を出た。セストも一日中執務机に向かい、ロザリアの知る限り昼食も摂らずに仕事をしていた。
ロザリアが懸念していたような、歯の浮くような口説き文句も言う間もないといった感じだ。
疲れた頭で言われるままに退出し、ペアーノ室長に今日の報告をしに寄ろうと考えたところで、そういえばセストに、明日の予定を聞くのを忘れたことに気がついた。
ロザリアは、もと来た廊下を取って返し、さきほど出たばかりの執務室の扉をノックした。
が、中からセストの声は返ってこない。セストももう帰ったのだろうかとも思ったが、ロザリアが帰る時点では、まだまだ仕事を続けそうな雰囲気だった。
まさか中で倒れているとか……?
疲れた様子だったので、ありえない話ではない。
ロザリアがセストを手伝ったのは今日が初日だが、一角獣狩りに向けてセストはすでに何日も前からこの仕事にとりかかっていたはずだ。激務が続ているのなら、倒れていてもおかしくはない。
ロザリアは心配になり何度か声をかけながらノックを続けたが、返答がない。
「―――入りますよ」
このまま中の様子を確かめずに帰る選択肢はなかった。ロザリアは大きな声で中へ向かって呼びかけ、扉を開いた。
「アッカルド様……?」
―――セストはいなかった。
というより、ロザリアが扉を開けて入った先は執務室ではなかった。
「あ、れ……?」
そこは、蔦模様が織り込まれた緋色の絨毯が敷き詰められた、吹き抜けの円形ホールだった。真正面には大階段があり、見上げると円形ホールを見下ろす形でぐるりと廊下が巡っている。
「え? あれ? どうして?」
どこかの屋敷の中のようだ。一体どこの……?
「でも、そんなはずないわよね…」
セストの執務室の扉を間違えたのだろうか。でも、王宮内の扉を開けた先にこんな二階建ての屋敷があるなんて、構造的に考えてありえない。
ともかくも一旦出直そうとロザリアは入ってきた扉を振り返り、また驚いた。
王宮内の、板を張り合わせて作られた扉がなくなり、代わりに一木造りの重厚な扉がでんと鎮座している。
「………なんで?」
頭が痛くなりそうだ。まるで異空間にでも迷い込んだかのようだ。ホールの中ほどにある大きな柱時計の、チクタクと時を刻む音がしんとした空間に響いている。
「とりあえず、出るしかない、よね?」
ロザリアは誰にともなく独り言を呟き、重そうな一木造りの扉を押した。扉はギィっと軋み音を発しながらゆっくりと開いた。
「ええっ!」
扉を開けて見えた外の光景に、ロザリアは目を瞬いた。そこは、王宮内の廊下ではなかった。鬱蒼と木々の茂る、どう見ても森の中だった。
ロザリアは思わず駆け出し、濡れた草に足を取られながらも自分が出てきた建物の全体を視界に収められる地点まで下がった。薄暗い森の中に、煙突のついたオレンジの三角屋根が連なったレンガ造りの建物が目の前に現れた。
「一体何がどうなってるの……?」
ここは王宮内だったはずだ。扉を一歩入ったとたん、どこかの屋敷に入り、こんな森のような場所に出るなんて。
辺りは鬱蒼とした木々がどこまでも続いているばかりだ。
「……これじゃあ帰るに帰れないじゃないの」
足元は湿った草がしげり、編み上げのブーツの中まで少し冷たい。
王宮内の扉から入ったにしては場所がとんでもなくおかしい。が、現状、戻る方法もわからない今、このオレンジ屋根の玄関扉の中に再び入るしかあるまい。
石段を上がり、なんとなくドアノッカーを叩くと、コツコツと小気味よい音が響いた。もしかしたら屋敷の主が出てくるかもとしばらく待ったが、屋敷内はしんと静まり返っている。
ロザリアはコツコツコツコツとノッカーを何度も響かせた。これだけの音、この屋敷の主が気が付かないわけがない。
けれど屋敷はうんともすんとも言わず、やはりしんとしている。
「……お邪魔します」
ロザリアは諦めて再びギィと軋み音を上げながら扉を開いた。中に入り、扉を閉めると外の音は完全に遮断された。玄関ホールに置かれた大きな振り子時計が、またチクタクとリズムを刻みだす。
「ごめんください!」
チク、タク。
「誰かいませんか?」
チク、タク。
「お邪魔しますよ!」
チク、タク。
ロザリアは大きな声で何度か呼びかけた。が、返ってくるのは古時計の音ばかりだ。天井から吊るされたシャンデリアがきらきらと光り、窓から見える森の葉が風で揺れている。
このまま玄関ホールで主の帰りを待つのがいいんだろうけど……。
きっとその人物に聞けば、帰る方法がわかるに違いない。しかしこんな森の中に住み、王宮内の扉と繋がっている屋敷に住む主が、まともな人物であるはずはない。できれば顔を合わせず失礼したいところだが、自力ではどうしようもないのだから主を待つよりほか仕方がない。
ロザリアはぐるりとホールを見渡した。これ以上奥へ勝手に入るのも気が引ける。が、このまま振り子時計の定期的な音をずっと聞いていなければならないのも、なんとなく落ち着かない。
やっぱり少し奥で待たせてもらおう。
ロザリアは玄関ホール真正面にある広い階段をのぼった。踊り場の向こうに明かりが灯っているのが見えたからだ。階段をのぼってすぐ右手、明かりの漏れている赤茶けた扉から中を覗いた。
「わっ……」
思わず叫んでロザリアは尻餅をついた。扉を入った真正面に、灰白色の長い髪と瞳をした女性が立っていた。ぱちりと目が合い、ロザリアは慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。返事がなかったものだから勝手に入ってしまって、その―――、ってあれ?」
明かりに目が慣れてくると、その女性は描かれた肖像画であることがわかった。
「な、なーんだ。びっくりした……」
ロザリアはお尻をはたいて立ち上がった。等身大の大きな絵画だ。銀のティアラを載せた灰白色の髪の女性は、恥ずかしそうに少し微笑み、両手をこちらに差し出すように広げている。
「きれいな人……」
優しそうで、それでいて意志の強さも感じる眼差しだ。
その時、パチンと何かが弾ける音がし、屋敷中の明かりが一斉に灯った。
びっくりして呆然としていると、急に腕を引かれた。
「どうやって入った?」
セストだった。深緑のローブ姿のままだ。セストは強い力で、ロザリアを肖像画の前から引き離すと、部屋の扉を閉めた。つかまれた腕が痛い。でもセストの顔が怒っていて、言い出せる雰囲気ではなかった。
歯の浮くようなセリフと共にロザリアを誘い、いつも優しい顔しか見せないセストの、繕わない本気の顔が怖い。
ロザリアは先に質問に正直に答えた。
「どうやってって。アッカルド様の執務室の扉を開いたら、この屋敷の中で、それで」
「セストでいい。様もつけるな。もう何度も言った」
「はい。ではセスト」
ここは逆らわないほうがいいような気がする。ロザリアは言われた通りセストの名を呼んだ。
「セストに明日の仕事の予定を聞こうと思い、来ただけです。どうやっても何も、普通に入っただけです」
「……そうか」
セストは何事か考えるように瞳を伏せたが、すぐに顔を上げ、ロザリアをつかんでいた腕を離した。
「悪い。つい力を入れすぎた」
「いえ、わたしこそ勝手に入ってごめんなさい。ドアノッカーを叩いて、何度も声をかけたんですが。――ここってセストの家ですか?」
「ああ、そうだ」
王宮内の扉を入るとセストの家につくとは、普通に考えればおかしな話だが彼は魔法使いだ。何か魔法でもかけられているのだろう。主は誰かと思ったが、セストの執務室の扉がセストの屋敷に繋がっていると言われれば、そうなのかもと思われる。
答えたセストの顔は、よく見るといつもの覇気がない。やはり相当疲れているのだろう。
今日一日、側でセストが仕事をこなすのを見ていたロザリアには、彼の疲労が手に取るようにわかった。やはり狩りに向け、連日この忙しさが続いているのかもしれない。
「もしかして、お休みでしたか?」
だとしたら悪いことをした。眠りを妨げた闖入者に、さぞかしセストは驚いただろう。怒られて当然だ。
「わたし、すぐに失礼しますね。ちょっとお仕事のことを聞きたかっただけなんです。明日の仕事内容によって服装も考える必要がありますし、今後の予定も聞いておこうかと。補佐役の期間はどれくらいになりそうかも気になったんです」
「ああ、そんなこと」
「ええっと。今はお疲れならまた後日伺いましょうか?」
ロザリアは慌てて言い直した。
勢い込んで来たものの、だるそうな当人を前にすると、無理に今する話でもないという気がしてくる。明日の確認をせねばと固く考えていた自分が恥ずかしい。
ロザリアは気まずさに目をそらしたが、セストの様子が気になりちらりと顔を上げた。
セストは、心なしか苛立ったようにこちらを見ていた。あ、まただと思った。セストはロザリアと接していると、時折こうやって苛立った顔を見せる。
けれどロザリアが見ていることに気づいたセストはくくくっと笑った。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ、ロザリア。せっかく来てくれたんだ。仕事の話はあとにして、俺といけないことしようよ。疲れてる体を回復させるには、女とやるのが一番だって、知ってる?」
「ひぇっ!」
ロザリアは叫んで、いつの間にかセストに囲われていた腕から逃げ出した。
「お戯れを。そんな話、聞いたことありません」
「そりゃそうだ。今思いついた」
「なっ……」
ロザリアは、口をパクパクさせた。嫌いだ。本気でこちらは心配しているのに、こんな時にこんな冗談。
ロザリアが真っ赤な顔でじとっとセストを睨むと、セストはまた、くくくと喉の奥で笑った。
「かわいいね、ロザリア。ほら、もっとこっちおいでよ。ブーツが濡れているね。乾かしてあげるから、俺の寝室においでよ」
「きゃー!」
伸ばされたセストの腕を、ロザリアは思いっきりはねのけた。軽く1メートルくらいは飛び退いた自信はある。
疲れているだろうからと気を抜いてはだめだ。この悪魔の囁きに耳を傾けてはいけない。
このナンパなセストは、たぶん彼の本性ではない。
肖像画の前からロザリアを引き剥がしたあの鋭い眼光が、きっと本来のセストだ。内心を隠さないセストの姿を初めて見てロザリアは、確信した。
じりじりと後ずさりながら、セストを見上げた。
「どうして? わたしにそんなことばかり言うの?」
「それはもちろん、ロザリアのことかわいいと思ってるからだよ。気に入った子に声をかけたり、デートに誘ったり、ベッドに入りたいと思うのは自然なことだろ?」
「だからそこっ!」
ロザリアはびしっとセストに向かって指を突き立てた。
「そもそもセストはわたしのことをそんなふうには思ってない」
「そりゃひどい。もう何度も誘った。あれ? 俺好きだって言わなかった?」
「聞いてない。ていうかそんなことはどうでもいいの。お願いします。もういい加減、付きまとうのはやめにしてください。それに、気持ちがないのに誘うのは失礼です」
「気持ちがないって、どうしてそう思うんだい?」
あっと思った時には、ロザリアはセストの腕に囲われていた。上背のあるセストに抱きしめられ、顔がすっぽりとセストの胸におさまる。いつもローブで隠れていて気が付かなかったが、セストの胸板はがっしりとしていて、たくましかった。
「わっ、わっ、わっ」
ロザリアは突然の状況についていけず、手足をばたばたと動かした。が、セストはびくともせず、離してもくれない。
「好きだよ、ロザリア。君のことを知ってから、ずっと君のこと見てきたんだ。見る目のない奴は、君のこと華がないと言うけれど、俺はとてもかわいいと思ってるよ」
「……や、やめてください。離して……」
「ねぇ、キスしようよ。キスくらい、いいだろう?」
セストは少しロザリアを抱きしめる腕を緩めると、顔を寄せてきた。秀麗な顔が近づいてきて、ロザリアは叫んだ。
「きゃー! 無理! 無理だからー!」
セストの迫ってくる顔を両手でぐいぐい押し戻した。あごがぐぎっとなり、さすがのセストもロザリアを離した。
「何だよ、いいだろキスくらい。減るもんでもなし」
「そ、そういうことは、どうぞもっと素敵な方となさってください」
「君だって十分素敵だよ」
「そんなことない!」
これ以上はもう聞けない。思わず前世の言葉が口から飛び出した。セストは、一瞬きょとんとしたような顔をし、「ところでそれってどういう意味?」と聞き返した。
その日一日の仕事を終え、魔事室に寄ってから帰ろうと廊下を歩いていたロザリアは、一つセストに聞き忘れたことを思い出し、立ち止まった。
今日は終日、セストの執務室で書類とにらめっこをして過ごした。乙女選出の推薦状は、最初に手渡された分だけかと思いきや、戸籍との突き合わせが終わらぬ間に文官が次々やってきて、新たな推薦状を置いていく。
結局昼の休憩時間と、お手洗いに立つ時間以外、ひたすら書類に目を通すことになった。
若い体とはいえ、一日中前屈みで文字を見つめていたら疲れる。
「今日はここまでにしよう」と同じく幾分か疲れた様子のセストに言われ、ロザリアは執務室を出た。セストも一日中執務机に向かい、ロザリアの知る限り昼食も摂らずに仕事をしていた。
ロザリアが懸念していたような、歯の浮くような口説き文句も言う間もないといった感じだ。
疲れた頭で言われるままに退出し、ペアーノ室長に今日の報告をしに寄ろうと考えたところで、そういえばセストに、明日の予定を聞くのを忘れたことに気がついた。
ロザリアは、もと来た廊下を取って返し、さきほど出たばかりの執務室の扉をノックした。
が、中からセストの声は返ってこない。セストももう帰ったのだろうかとも思ったが、ロザリアが帰る時点では、まだまだ仕事を続けそうな雰囲気だった。
まさか中で倒れているとか……?
疲れた様子だったので、ありえない話ではない。
ロザリアがセストを手伝ったのは今日が初日だが、一角獣狩りに向けてセストはすでに何日も前からこの仕事にとりかかっていたはずだ。激務が続ているのなら、倒れていてもおかしくはない。
ロザリアは心配になり何度か声をかけながらノックを続けたが、返答がない。
「―――入りますよ」
このまま中の様子を確かめずに帰る選択肢はなかった。ロザリアは大きな声で中へ向かって呼びかけ、扉を開いた。
「アッカルド様……?」
―――セストはいなかった。
というより、ロザリアが扉を開けて入った先は執務室ではなかった。
「あ、れ……?」
そこは、蔦模様が織り込まれた緋色の絨毯が敷き詰められた、吹き抜けの円形ホールだった。真正面には大階段があり、見上げると円形ホールを見下ろす形でぐるりと廊下が巡っている。
「え? あれ? どうして?」
どこかの屋敷の中のようだ。一体どこの……?
「でも、そんなはずないわよね…」
セストの執務室の扉を間違えたのだろうか。でも、王宮内の扉を開けた先にこんな二階建ての屋敷があるなんて、構造的に考えてありえない。
ともかくも一旦出直そうとロザリアは入ってきた扉を振り返り、また驚いた。
王宮内の、板を張り合わせて作られた扉がなくなり、代わりに一木造りの重厚な扉がでんと鎮座している。
「………なんで?」
頭が痛くなりそうだ。まるで異空間にでも迷い込んだかのようだ。ホールの中ほどにある大きな柱時計の、チクタクと時を刻む音がしんとした空間に響いている。
「とりあえず、出るしかない、よね?」
ロザリアは誰にともなく独り言を呟き、重そうな一木造りの扉を押した。扉はギィっと軋み音を発しながらゆっくりと開いた。
「ええっ!」
扉を開けて見えた外の光景に、ロザリアは目を瞬いた。そこは、王宮内の廊下ではなかった。鬱蒼と木々の茂る、どう見ても森の中だった。
ロザリアは思わず駆け出し、濡れた草に足を取られながらも自分が出てきた建物の全体を視界に収められる地点まで下がった。薄暗い森の中に、煙突のついたオレンジの三角屋根が連なったレンガ造りの建物が目の前に現れた。
「一体何がどうなってるの……?」
ここは王宮内だったはずだ。扉を一歩入ったとたん、どこかの屋敷に入り、こんな森のような場所に出るなんて。
辺りは鬱蒼とした木々がどこまでも続いているばかりだ。
「……これじゃあ帰るに帰れないじゃないの」
足元は湿った草がしげり、編み上げのブーツの中まで少し冷たい。
王宮内の扉から入ったにしては場所がとんでもなくおかしい。が、現状、戻る方法もわからない今、このオレンジ屋根の玄関扉の中に再び入るしかあるまい。
石段を上がり、なんとなくドアノッカーを叩くと、コツコツと小気味よい音が響いた。もしかしたら屋敷の主が出てくるかもとしばらく待ったが、屋敷内はしんと静まり返っている。
ロザリアはコツコツコツコツとノッカーを何度も響かせた。これだけの音、この屋敷の主が気が付かないわけがない。
けれど屋敷はうんともすんとも言わず、やはりしんとしている。
「……お邪魔します」
ロザリアは諦めて再びギィと軋み音を上げながら扉を開いた。中に入り、扉を閉めると外の音は完全に遮断された。玄関ホールに置かれた大きな振り子時計が、またチクタクとリズムを刻みだす。
「ごめんください!」
チク、タク。
「誰かいませんか?」
チク、タク。
「お邪魔しますよ!」
チク、タク。
ロザリアは大きな声で何度か呼びかけた。が、返ってくるのは古時計の音ばかりだ。天井から吊るされたシャンデリアがきらきらと光り、窓から見える森の葉が風で揺れている。
このまま玄関ホールで主の帰りを待つのがいいんだろうけど……。
きっとその人物に聞けば、帰る方法がわかるに違いない。しかしこんな森の中に住み、王宮内の扉と繋がっている屋敷に住む主が、まともな人物であるはずはない。できれば顔を合わせず失礼したいところだが、自力ではどうしようもないのだから主を待つよりほか仕方がない。
ロザリアはぐるりとホールを見渡した。これ以上奥へ勝手に入るのも気が引ける。が、このまま振り子時計の定期的な音をずっと聞いていなければならないのも、なんとなく落ち着かない。
やっぱり少し奥で待たせてもらおう。
ロザリアは玄関ホール真正面にある広い階段をのぼった。踊り場の向こうに明かりが灯っているのが見えたからだ。階段をのぼってすぐ右手、明かりの漏れている赤茶けた扉から中を覗いた。
「わっ……」
思わず叫んでロザリアは尻餅をついた。扉を入った真正面に、灰白色の長い髪と瞳をした女性が立っていた。ぱちりと目が合い、ロザリアは慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。返事がなかったものだから勝手に入ってしまって、その―――、ってあれ?」
明かりに目が慣れてくると、その女性は描かれた肖像画であることがわかった。
「な、なーんだ。びっくりした……」
ロザリアはお尻をはたいて立ち上がった。等身大の大きな絵画だ。銀のティアラを載せた灰白色の髪の女性は、恥ずかしそうに少し微笑み、両手をこちらに差し出すように広げている。
「きれいな人……」
優しそうで、それでいて意志の強さも感じる眼差しだ。
その時、パチンと何かが弾ける音がし、屋敷中の明かりが一斉に灯った。
びっくりして呆然としていると、急に腕を引かれた。
「どうやって入った?」
セストだった。深緑のローブ姿のままだ。セストは強い力で、ロザリアを肖像画の前から引き離すと、部屋の扉を閉めた。つかまれた腕が痛い。でもセストの顔が怒っていて、言い出せる雰囲気ではなかった。
歯の浮くようなセリフと共にロザリアを誘い、いつも優しい顔しか見せないセストの、繕わない本気の顔が怖い。
ロザリアは先に質問に正直に答えた。
「どうやってって。アッカルド様の執務室の扉を開いたら、この屋敷の中で、それで」
「セストでいい。様もつけるな。もう何度も言った」
「はい。ではセスト」
ここは逆らわないほうがいいような気がする。ロザリアは言われた通りセストの名を呼んだ。
「セストに明日の仕事の予定を聞こうと思い、来ただけです。どうやっても何も、普通に入っただけです」
「……そうか」
セストは何事か考えるように瞳を伏せたが、すぐに顔を上げ、ロザリアをつかんでいた腕を離した。
「悪い。つい力を入れすぎた」
「いえ、わたしこそ勝手に入ってごめんなさい。ドアノッカーを叩いて、何度も声をかけたんですが。――ここってセストの家ですか?」
「ああ、そうだ」
王宮内の扉を入るとセストの家につくとは、普通に考えればおかしな話だが彼は魔法使いだ。何か魔法でもかけられているのだろう。主は誰かと思ったが、セストの執務室の扉がセストの屋敷に繋がっていると言われれば、そうなのかもと思われる。
答えたセストの顔は、よく見るといつもの覇気がない。やはり相当疲れているのだろう。
今日一日、側でセストが仕事をこなすのを見ていたロザリアには、彼の疲労が手に取るようにわかった。やはり狩りに向け、連日この忙しさが続いているのかもしれない。
「もしかして、お休みでしたか?」
だとしたら悪いことをした。眠りを妨げた闖入者に、さぞかしセストは驚いただろう。怒られて当然だ。
「わたし、すぐに失礼しますね。ちょっとお仕事のことを聞きたかっただけなんです。明日の仕事内容によって服装も考える必要がありますし、今後の予定も聞いておこうかと。補佐役の期間はどれくらいになりそうかも気になったんです」
「ああ、そんなこと」
「ええっと。今はお疲れならまた後日伺いましょうか?」
ロザリアは慌てて言い直した。
勢い込んで来たものの、だるそうな当人を前にすると、無理に今する話でもないという気がしてくる。明日の確認をせねばと固く考えていた自分が恥ずかしい。
ロザリアは気まずさに目をそらしたが、セストの様子が気になりちらりと顔を上げた。
セストは、心なしか苛立ったようにこちらを見ていた。あ、まただと思った。セストはロザリアと接していると、時折こうやって苛立った顔を見せる。
けれどロザリアが見ていることに気づいたセストはくくくっと笑った。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ、ロザリア。せっかく来てくれたんだ。仕事の話はあとにして、俺といけないことしようよ。疲れてる体を回復させるには、女とやるのが一番だって、知ってる?」
「ひぇっ!」
ロザリアは叫んで、いつの間にかセストに囲われていた腕から逃げ出した。
「お戯れを。そんな話、聞いたことありません」
「そりゃそうだ。今思いついた」
「なっ……」
ロザリアは、口をパクパクさせた。嫌いだ。本気でこちらは心配しているのに、こんな時にこんな冗談。
ロザリアが真っ赤な顔でじとっとセストを睨むと、セストはまた、くくくと喉の奥で笑った。
「かわいいね、ロザリア。ほら、もっとこっちおいでよ。ブーツが濡れているね。乾かしてあげるから、俺の寝室においでよ」
「きゃー!」
伸ばされたセストの腕を、ロザリアは思いっきりはねのけた。軽く1メートルくらいは飛び退いた自信はある。
疲れているだろうからと気を抜いてはだめだ。この悪魔の囁きに耳を傾けてはいけない。
このナンパなセストは、たぶん彼の本性ではない。
肖像画の前からロザリアを引き剥がしたあの鋭い眼光が、きっと本来のセストだ。内心を隠さないセストの姿を初めて見てロザリアは、確信した。
じりじりと後ずさりながら、セストを見上げた。
「どうして? わたしにそんなことばかり言うの?」
「それはもちろん、ロザリアのことかわいいと思ってるからだよ。気に入った子に声をかけたり、デートに誘ったり、ベッドに入りたいと思うのは自然なことだろ?」
「だからそこっ!」
ロザリアはびしっとセストに向かって指を突き立てた。
「そもそもセストはわたしのことをそんなふうには思ってない」
「そりゃひどい。もう何度も誘った。あれ? 俺好きだって言わなかった?」
「聞いてない。ていうかそんなことはどうでもいいの。お願いします。もういい加減、付きまとうのはやめにしてください。それに、気持ちがないのに誘うのは失礼です」
「気持ちがないって、どうしてそう思うんだい?」
あっと思った時には、ロザリアはセストの腕に囲われていた。上背のあるセストに抱きしめられ、顔がすっぽりとセストの胸におさまる。いつもローブで隠れていて気が付かなかったが、セストの胸板はがっしりとしていて、たくましかった。
「わっ、わっ、わっ」
ロザリアは突然の状況についていけず、手足をばたばたと動かした。が、セストはびくともせず、離してもくれない。
「好きだよ、ロザリア。君のことを知ってから、ずっと君のこと見てきたんだ。見る目のない奴は、君のこと華がないと言うけれど、俺はとてもかわいいと思ってるよ」
「……や、やめてください。離して……」
「ねぇ、キスしようよ。キスくらい、いいだろう?」
セストは少しロザリアを抱きしめる腕を緩めると、顔を寄せてきた。秀麗な顔が近づいてきて、ロザリアは叫んだ。
「きゃー! 無理! 無理だからー!」
セストの迫ってくる顔を両手でぐいぐい押し戻した。あごがぐぎっとなり、さすがのセストもロザリアを離した。
「何だよ、いいだろキスくらい。減るもんでもなし」
「そ、そういうことは、どうぞもっと素敵な方となさってください」
「君だって十分素敵だよ」
「そんなことない!」
これ以上はもう聞けない。思わず前世の言葉が口から飛び出した。セストは、一瞬きょとんとしたような顔をし、「ところでそれってどういう意味?」と聞き返した。
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