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第二章 セストの心を占めるのは
乙女達による奇跡だったらしい
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それから結局三日間、ロザリアはセストの屋敷で過ごした。一日目はあのままベッドから出してもらえず、終日ゴロゴロとして過ごし、二日目にはテオのお許しが出て(苦い薬からはまだ解放されなかったが)、やっとベッドから離れられた。
ロザリアはすぐにも家に帰ると言ったのだけれど、目を離したら薬をさぼろうとするだろうとセストに疑われ、結局薬を飲まなくてもいいとテオに言われる三日後まで、屋敷に滞在することになった。
帰るとき、セストには家まで送って行こうかと言われたが、ロザリアは固辞した。治療のためとはいえ三日間も外泊したあとで、どんな顔して当のセストを引き連れ、両親や姉と妹と顔を合わせればいいのかわからなかった。それに、薬を飲んだ後、慣習のようにセストとキスをしていただけに、余計にいたたまれない……。
キスなんて地味女の自分がすることはないだろう。そう思っていたこの四十二年間が、たった一回のキスで覆った。一度してしまえばもっとと求める気持ちが沸き起こる。
やっぱりわたしって淫乱なのかしら……。
もともとTL小説は大好きだ。未経験なだけに想像は膨らみ、イケナイ世界を覗くようでドキドキした。そのスリル感がたまらなく好きだった。もちろん、それだけではなく純粋に興味もあったわけで……。
セストとキスをしていると、他のことはどうでもよくなるような心地よさがあった。好きでもない相手とこんなことをしてのめり込むなんて、ほんとに自分はどうかしている。
頬の火照りを冷ましながら、セストの屋敷の重厚な扉を開き、王宮内の廊下に戻ると、なんだか浦島太郎にでもなったような気分だった。
三日間。たったそれだけなのに王宮内の見慣れた景色が、ずいぶんと久しぶりのような気がする。
王宮内の廊下を歩いていると、今度の乙女達は黒妖犬を抑え込める力を持っていると、その話題で持ちきりだった。何のことやらと思いながら歩いていると、自然と足は魔事室に向かっていた。
「ご苦労さまです」
同僚に声をかけ、ぼぅっとしたままデスクにつくと、
「ご苦労さまです、じゃないよ。ロザリア。怪我はもういいのかい?」
書類を手にしたペアーノ室長が、呆れた声をあげた。
「え? あれ?」
魔事室に来た自覚はなく、無意識の為せる技だ。馴染んだデスクの手触りに、ロザリアはペアーノ室長や、珍獣を見るかのようにこちらを見ている同僚にも、ぺこりと頭を下げた。
「長い間お休みさせていただいて申し訳ありませんでした」
「そんなことは誰も気にしてはいないよ。もう大丈夫なのかい? 黒妖犬に引っ掻かれたんだろう? 黒妖犬につけられた傷は、毒を持っていて厄介だと言うからね」
「あ、はい。もうすっかり。テオ様の調合してくれたお薬がとてもよく効きました」
「テオの調合したものを飲んだのか。それなら安心だよ。彼はトリエスタ王国一の薬師だからね。いや全く心配したよ、ロザリア。リベリオが真っ青になって王宮に駆け込んできて、君の無事な顔を確認するまで大変だったんだからね」
「お父様が?」
ロザリアが驚くと、ペアーノ室長は腰に手を当てて頷いた。
「そうだよ。リベリオが黒妖犬の襲撃があったことを知って現場に駆けつけた時には、君はもう王宮に連れていかれたあとだったんだ。そこで怪我をしたことを聞いたリベリオは、娘はどこだと血相変えて王宮まで戻って。ところが医務室にいないものだから、あいつは僕のところまでおしかけてきた。僕はロザリアが、セストの執務室にある休憩室で休んでいることを知っていたからね。教えてやって、君の顔を見てやっと安心した」
執務室にある休憩室ではなかったのだけれど、はじめはそちらの方に寝かされていたのだろう。セストの執務室の扉が、セストの屋敷に繋がっていることを知っている者はほとんどいないのかもしれない。
「そうだったんですね」
それにしてもまた父に心配をかけてしまった。申し訳なく思っていると、ペアーノ室長はそんな様子のロザリアを見て、
「まぁ十分反省しているようだから、僕からは何も言うまい。君は乙女達を庇おうと飛び出したらしいからね。昔から、大人しいようでいて急に大胆に行動するところがある。大事な乙女達を守ろうとする気持ちは否定しないが、自分を大事にしなさい」
「……はい」
ペアーノ室長にも心配をかけたようだ。周りを見回すと、同僚達も室長と同様の視線を投げかけている。
前世持ちで、今ひとつ自分というものが何者なのか。いつも揺らいでいるロザリアだけれど、周りには自分を心配してくれるたくさんの優しい人達がいる。
そのことを忘れないでおこう。
ロザリアは胸の内がぽっとあたたかくなるように感じた。
それにしても―――。
ロザリアは乙女達を助けようとして果敢に黒妖犬に向かっていったことになっているらしい。実際にはベネデッタに突き飛ばされただけなのだが…。
「あの、室長?」
ロザリアは廊下で漏れ聞いた、乙女達のうわさのことを尋ねた。乙女達が黒妖犬を抑え込めるとは、一体何の話なのだろう。
ロザリアが不思議に思って聞くと、ペアーノ室長は「それね」と苦笑した。
「真相はわからないんだがね、黒妖犬は君を襲ったあと、急に大人しくなったのだろう。あの場にいた乙女達がみなそう証言した。その話が尾ひれをつけて、黒妖犬を抑え込んだのは、乙女達の力だとうわさが広まっているようだよ」
確かにあの時、黒妖犬は突然戦意を喪失し、従順で大人しくなった。その理由はロザリアも気になっていた。
「本当に乙女達にそんな力が?」
真面目にロザリアが聞くと、ペアーノ室長は笑った。
「ないよ、そんなもの。みんなその手の話は好きだからね。乙女達を神格化して楽しんでいるだけだよ。もし黒妖犬を、魔力ではなく大人しくさせられる者がいたとしたら、それは魔族しかありえない」
「……魔族」
「ああ。魔の森の奥深くに住んでいると言われる者達のことだ。彼らの中には、魔獣を従える能力を持った者がいるらしいからね」
「……本当にいるんですか? 魔族なんて」
魔族の話は聞いたことはあるが、その姿を実際に見た者はいないという。話としては聞いたことはあるが、本当にいるのかどうか。そのわりに魔族に関しては、様々な逸話が語られる。人外の能力を多数有することから魔の者、魔族として恐れられ、転生能力があるというのもその一つだ。
ロザリアが真剣な様子で聞き返すと、ペアーノ室長は、軽くロザリアの肩を叩いた。
「いると言う者もいるし、いないと言う者もいるし、実際のところはわからないよ。ただね、今回の黒妖犬の襲撃は、裏で糸を引く者がいたのではと疑い、アッカルド局長が動いているようだよ」
確かに、黒妖犬が王都に現れることはほとんどないうえに、外に面しているとはいえ神殿の最奥部という、隔離された場所への侵入だ。手引した者がいたと考えたくなる。
「でも手引した者がいるとして、一体何の目的でしょう」
一角獣狩りは、この国に住む者にとって最大の関心事の一つであり、死活問題でもある。狩りの成功を祈りこそすれ、失敗することを、ましてや狩りにおいて最も重要な役割を果たす乙女達を傷つけてどうしようというのだろう。
「さあね。私にはさっぱりだよ」
ペアーノ室長はお手上げだというように両手をあげ、片眼鏡の目を茶目っ気たっぷりにつむった。
三日ぶりの家に帰り着くと、母のジュリエッタが突進してきた。
「ロザリアー! よかったわ、無事で。怪我は? もう大丈夫なの? 見せてみなさい」
セストの屋敷からそのまま白いワンピースにショールを羽織って帰ってきたのだけれど、ジュリエッタに腕をまくられた。分厚く巻かれた白い包帯に、ジュリエッタは顔を曇らせた。
「どれくらい深い傷なの? あとは残らない?」
「テオ様は、たぶん残らないだろうって」
「ああ、そうなの? よかったわ。テオ様が言うなら大丈夫かしらね。痛かったでしょう?」
ペアーノ室長といい、ジュリエッタといい、テオは薬師として王宮内では信をおかれているようだ。痛々しいものを見るように腕の包帯を見つめるジュリエッタに、ロザリアは頭を下げた。
「心配かけてごめんなさい」
「ほんとにそうよ。ロザリアはほんとに無鉄砲なんですから。魔力もないのに黒妖犬に太刀打ちできるはずないでしょう。今回は怪我ですんだけれど、下手をすれば命を落とすことだってあるんです。もっと自分を大事になさい。―――ねぇ、あなたからも何か言って下さいな」
ジュリエッタはくるりと振り返り、何も言わずに立っていた父のリベリオを見た。
矛先を向けられ、リベリオは苦笑した。
「私の言いたいことは、全てジュリエッタが言ってしまったからな。――おかえり、ロザリア」
リベリオは両手を広げると、広い胸にロザリアを抱きしめた。気恥ずかしく、くすぐったかったけれど、静かに脈打つリベリオの鼓動に、ロザリアは耳を澄ませた。
リベリオの後ろでは、姉のフランカと入婿である姉の旦那様も、こちらを心配げな顔で見ている。
フランカは、カルテローニの家の名を継ぐことを条件に、男爵家の次男だった今の旦那様と結婚した。羨ましくなるほど仲が良くて、フランカはいま第一子を妊娠中だ。姉はしっかりものだけれど、ロザリアのことをいつも心配してくれる優しい姉でもある。
「お帰りなさい、お姉様」
リベリオとジュリエッタから解放され、二階の自室に入るとすぐ、妹のアーダがついてきた。ロザリアの着ている、見慣れない真っ白なワンピースに、蔦模様の刺繍の入ったショールを見て、肩をすくめた。
「素敵な服ね。白のワンピースにも、うっすらと蔦模様が入って、見たことのない意匠ね。ショールも素敵。セスト様に頂いたの?」
セストのもとで治療を受けていたことは、アーダも承知のようだ。意外にも父も母もセストのことは何も聞いてこなかった。本当は聞きたいけれど、自重してくれたのだろう。
ロザリアはワンピースを見下ろした。
「頂いたっていうか……」
着ていた服が無惨な状態になったので、借りたのだ。ロザリアがそう言うと、アーダはふうんと頷いて、ソファに腰を下ろした。
「女性物のワンピースにショールなんて、独身男性は普通用意がないものよね。一体どなたの者なのかしらね」
そう言われてみればそうだ。ロザリアが滞在することになって、慌てて用意したものではないことは、凝った蔦模様からもうかがい知れる。あの屋敷にあったものは、たいてい同じ紋様が入っていたから、以前から屋敷にあったものと考えるのが妥当だ。
つまりあの屋敷には、このワンピースを着る女性が出入りしている。着替えまであるのだから、かなり親密な間柄だ。
ロザリアのことを好きだと言ってキスをしておきながら、セストには他に大事な女性がいるのだ。
「……お姉様、どうして泣いてるの?」
「え?」
アーダにに言われ、頬に指をあてると指先が濡れた。ロザリアはへへと力なく笑った。
「どうしてだろ。変だよね、わたし」
「ちっとも変なんかじゃないわよ。自分の好きな人が、自分ではない他の誰かを好きだってわかったら、誰だって胸が痛いわ」
待ってよ待ってとロザリアは慌てて涙を袖で拭いた。
「そんな……、そんなことないよ。だってわたし、セストのことはなんとも」
「思ってないの? ほんとに?」
「……うん」
返事の声がなぜか震えた。いくら言い寄られても、セストのことは何とも思っていないつもりだった。とても釣り合わないと始めから線を引き、距離を取ってきた。これから先もそうやってセストには近づかないつもりだった。
ロザリアは思わず指で唇を触った。薬の苦みをとりたくて、セストとキスしていたつもりだったけれど、本当にそれだけだったのだろうか。
セストとキスを交わしている間は、ロザリアにとって、間違いなく幸せなひと時だったのではないだろうか。
黙り込んだロザリアに、アーダは「ねぇ、お姉様」と腕を組んだ。
「いい加減、意地を張るのはよしたら? セスト様のこと好きなんでしょう?」
「……わからない」
「ほら、答えが変わった」
アーダはふふっと笑った。
「向こうはお姉様のこと、好きだって言って下さっているのでしょう?」
ロザリアはこくこくと頷いた。
「でも、嘘かもしれない。それにアーダの言うとおり、女性物の服の用意があるっていうことは、そういうことじゃないの?」
「そんなの、以前付き合っていた女性のものかもしれないじゃない。今はお姉様のことを好きだっておっしゃっているのなら、信じてみたらどう? 思いもかけない素敵な世界が広がるかもしれないわよ」
アーダは、相変わらず大人びたアドバイスをしてくる。これではどちらが姉かわからない。でもね、とロザリアは正直にセストに感じる違和感のことを話した。
セストが、ロザリアに苛立ちを感じていること、それに、そうだ。アーダに言葉にして話していると、時折感じる違和感の正体がロザリアの中で形を成してきた。あの違和感は、セストが自分ではない誰かを見ているような気がするからだ。
ロザリアの、もやもやとした違和感の話をアーダは最後まで熱心に聞いてくれた。どう思う?と問いかけると、「うーん」とアータは小首を傾げ、難しい顔をした。
「そういう直感って、大事だと思うのよね。直接セスト様に聞いてみたら?」
「セストに? 聞けるかな、そんなこと」
「まぁ聞きにくいよね」
アーダも特に自分の案がいいとも思わなかったらしい。あっさり引き下がり、「なんだろうね」とその後も真剣に答えを探そうとしてくれたが、結局二人で考えても結論など出なかった。
ロザリアはすぐにも家に帰ると言ったのだけれど、目を離したら薬をさぼろうとするだろうとセストに疑われ、結局薬を飲まなくてもいいとテオに言われる三日後まで、屋敷に滞在することになった。
帰るとき、セストには家まで送って行こうかと言われたが、ロザリアは固辞した。治療のためとはいえ三日間も外泊したあとで、どんな顔して当のセストを引き連れ、両親や姉と妹と顔を合わせればいいのかわからなかった。それに、薬を飲んだ後、慣習のようにセストとキスをしていただけに、余計にいたたまれない……。
キスなんて地味女の自分がすることはないだろう。そう思っていたこの四十二年間が、たった一回のキスで覆った。一度してしまえばもっとと求める気持ちが沸き起こる。
やっぱりわたしって淫乱なのかしら……。
もともとTL小説は大好きだ。未経験なだけに想像は膨らみ、イケナイ世界を覗くようでドキドキした。そのスリル感がたまらなく好きだった。もちろん、それだけではなく純粋に興味もあったわけで……。
セストとキスをしていると、他のことはどうでもよくなるような心地よさがあった。好きでもない相手とこんなことをしてのめり込むなんて、ほんとに自分はどうかしている。
頬の火照りを冷ましながら、セストの屋敷の重厚な扉を開き、王宮内の廊下に戻ると、なんだか浦島太郎にでもなったような気分だった。
三日間。たったそれだけなのに王宮内の見慣れた景色が、ずいぶんと久しぶりのような気がする。
王宮内の廊下を歩いていると、今度の乙女達は黒妖犬を抑え込める力を持っていると、その話題で持ちきりだった。何のことやらと思いながら歩いていると、自然と足は魔事室に向かっていた。
「ご苦労さまです」
同僚に声をかけ、ぼぅっとしたままデスクにつくと、
「ご苦労さまです、じゃないよ。ロザリア。怪我はもういいのかい?」
書類を手にしたペアーノ室長が、呆れた声をあげた。
「え? あれ?」
魔事室に来た自覚はなく、無意識の為せる技だ。馴染んだデスクの手触りに、ロザリアはペアーノ室長や、珍獣を見るかのようにこちらを見ている同僚にも、ぺこりと頭を下げた。
「長い間お休みさせていただいて申し訳ありませんでした」
「そんなことは誰も気にしてはいないよ。もう大丈夫なのかい? 黒妖犬に引っ掻かれたんだろう? 黒妖犬につけられた傷は、毒を持っていて厄介だと言うからね」
「あ、はい。もうすっかり。テオ様の調合してくれたお薬がとてもよく効きました」
「テオの調合したものを飲んだのか。それなら安心だよ。彼はトリエスタ王国一の薬師だからね。いや全く心配したよ、ロザリア。リベリオが真っ青になって王宮に駆け込んできて、君の無事な顔を確認するまで大変だったんだからね」
「お父様が?」
ロザリアが驚くと、ペアーノ室長は腰に手を当てて頷いた。
「そうだよ。リベリオが黒妖犬の襲撃があったことを知って現場に駆けつけた時には、君はもう王宮に連れていかれたあとだったんだ。そこで怪我をしたことを聞いたリベリオは、娘はどこだと血相変えて王宮まで戻って。ところが医務室にいないものだから、あいつは僕のところまでおしかけてきた。僕はロザリアが、セストの執務室にある休憩室で休んでいることを知っていたからね。教えてやって、君の顔を見てやっと安心した」
執務室にある休憩室ではなかったのだけれど、はじめはそちらの方に寝かされていたのだろう。セストの執務室の扉が、セストの屋敷に繋がっていることを知っている者はほとんどいないのかもしれない。
「そうだったんですね」
それにしてもまた父に心配をかけてしまった。申し訳なく思っていると、ペアーノ室長はそんな様子のロザリアを見て、
「まぁ十分反省しているようだから、僕からは何も言うまい。君は乙女達を庇おうと飛び出したらしいからね。昔から、大人しいようでいて急に大胆に行動するところがある。大事な乙女達を守ろうとする気持ちは否定しないが、自分を大事にしなさい」
「……はい」
ペアーノ室長にも心配をかけたようだ。周りを見回すと、同僚達も室長と同様の視線を投げかけている。
前世持ちで、今ひとつ自分というものが何者なのか。いつも揺らいでいるロザリアだけれど、周りには自分を心配してくれるたくさんの優しい人達がいる。
そのことを忘れないでおこう。
ロザリアは胸の内がぽっとあたたかくなるように感じた。
それにしても―――。
ロザリアは乙女達を助けようとして果敢に黒妖犬に向かっていったことになっているらしい。実際にはベネデッタに突き飛ばされただけなのだが…。
「あの、室長?」
ロザリアは廊下で漏れ聞いた、乙女達のうわさのことを尋ねた。乙女達が黒妖犬を抑え込めるとは、一体何の話なのだろう。
ロザリアが不思議に思って聞くと、ペアーノ室長は「それね」と苦笑した。
「真相はわからないんだがね、黒妖犬は君を襲ったあと、急に大人しくなったのだろう。あの場にいた乙女達がみなそう証言した。その話が尾ひれをつけて、黒妖犬を抑え込んだのは、乙女達の力だとうわさが広まっているようだよ」
確かにあの時、黒妖犬は突然戦意を喪失し、従順で大人しくなった。その理由はロザリアも気になっていた。
「本当に乙女達にそんな力が?」
真面目にロザリアが聞くと、ペアーノ室長は笑った。
「ないよ、そんなもの。みんなその手の話は好きだからね。乙女達を神格化して楽しんでいるだけだよ。もし黒妖犬を、魔力ではなく大人しくさせられる者がいたとしたら、それは魔族しかありえない」
「……魔族」
「ああ。魔の森の奥深くに住んでいると言われる者達のことだ。彼らの中には、魔獣を従える能力を持った者がいるらしいからね」
「……本当にいるんですか? 魔族なんて」
魔族の話は聞いたことはあるが、その姿を実際に見た者はいないという。話としては聞いたことはあるが、本当にいるのかどうか。そのわりに魔族に関しては、様々な逸話が語られる。人外の能力を多数有することから魔の者、魔族として恐れられ、転生能力があるというのもその一つだ。
ロザリアが真剣な様子で聞き返すと、ペアーノ室長は、軽くロザリアの肩を叩いた。
「いると言う者もいるし、いないと言う者もいるし、実際のところはわからないよ。ただね、今回の黒妖犬の襲撃は、裏で糸を引く者がいたのではと疑い、アッカルド局長が動いているようだよ」
確かに、黒妖犬が王都に現れることはほとんどないうえに、外に面しているとはいえ神殿の最奥部という、隔離された場所への侵入だ。手引した者がいたと考えたくなる。
「でも手引した者がいるとして、一体何の目的でしょう」
一角獣狩りは、この国に住む者にとって最大の関心事の一つであり、死活問題でもある。狩りの成功を祈りこそすれ、失敗することを、ましてや狩りにおいて最も重要な役割を果たす乙女達を傷つけてどうしようというのだろう。
「さあね。私にはさっぱりだよ」
ペアーノ室長はお手上げだというように両手をあげ、片眼鏡の目を茶目っ気たっぷりにつむった。
三日ぶりの家に帰り着くと、母のジュリエッタが突進してきた。
「ロザリアー! よかったわ、無事で。怪我は? もう大丈夫なの? 見せてみなさい」
セストの屋敷からそのまま白いワンピースにショールを羽織って帰ってきたのだけれど、ジュリエッタに腕をまくられた。分厚く巻かれた白い包帯に、ジュリエッタは顔を曇らせた。
「どれくらい深い傷なの? あとは残らない?」
「テオ様は、たぶん残らないだろうって」
「ああ、そうなの? よかったわ。テオ様が言うなら大丈夫かしらね。痛かったでしょう?」
ペアーノ室長といい、ジュリエッタといい、テオは薬師として王宮内では信をおかれているようだ。痛々しいものを見るように腕の包帯を見つめるジュリエッタに、ロザリアは頭を下げた。
「心配かけてごめんなさい」
「ほんとにそうよ。ロザリアはほんとに無鉄砲なんですから。魔力もないのに黒妖犬に太刀打ちできるはずないでしょう。今回は怪我ですんだけれど、下手をすれば命を落とすことだってあるんです。もっと自分を大事になさい。―――ねぇ、あなたからも何か言って下さいな」
ジュリエッタはくるりと振り返り、何も言わずに立っていた父のリベリオを見た。
矛先を向けられ、リベリオは苦笑した。
「私の言いたいことは、全てジュリエッタが言ってしまったからな。――おかえり、ロザリア」
リベリオは両手を広げると、広い胸にロザリアを抱きしめた。気恥ずかしく、くすぐったかったけれど、静かに脈打つリベリオの鼓動に、ロザリアは耳を澄ませた。
リベリオの後ろでは、姉のフランカと入婿である姉の旦那様も、こちらを心配げな顔で見ている。
フランカは、カルテローニの家の名を継ぐことを条件に、男爵家の次男だった今の旦那様と結婚した。羨ましくなるほど仲が良くて、フランカはいま第一子を妊娠中だ。姉はしっかりものだけれど、ロザリアのことをいつも心配してくれる優しい姉でもある。
「お帰りなさい、お姉様」
リベリオとジュリエッタから解放され、二階の自室に入るとすぐ、妹のアーダがついてきた。ロザリアの着ている、見慣れない真っ白なワンピースに、蔦模様の刺繍の入ったショールを見て、肩をすくめた。
「素敵な服ね。白のワンピースにも、うっすらと蔦模様が入って、見たことのない意匠ね。ショールも素敵。セスト様に頂いたの?」
セストのもとで治療を受けていたことは、アーダも承知のようだ。意外にも父も母もセストのことは何も聞いてこなかった。本当は聞きたいけれど、自重してくれたのだろう。
ロザリアはワンピースを見下ろした。
「頂いたっていうか……」
着ていた服が無惨な状態になったので、借りたのだ。ロザリアがそう言うと、アーダはふうんと頷いて、ソファに腰を下ろした。
「女性物のワンピースにショールなんて、独身男性は普通用意がないものよね。一体どなたの者なのかしらね」
そう言われてみればそうだ。ロザリアが滞在することになって、慌てて用意したものではないことは、凝った蔦模様からもうかがい知れる。あの屋敷にあったものは、たいてい同じ紋様が入っていたから、以前から屋敷にあったものと考えるのが妥当だ。
つまりあの屋敷には、このワンピースを着る女性が出入りしている。着替えまであるのだから、かなり親密な間柄だ。
ロザリアのことを好きだと言ってキスをしておきながら、セストには他に大事な女性がいるのだ。
「……お姉様、どうして泣いてるの?」
「え?」
アーダにに言われ、頬に指をあてると指先が濡れた。ロザリアはへへと力なく笑った。
「どうしてだろ。変だよね、わたし」
「ちっとも変なんかじゃないわよ。自分の好きな人が、自分ではない他の誰かを好きだってわかったら、誰だって胸が痛いわ」
待ってよ待ってとロザリアは慌てて涙を袖で拭いた。
「そんな……、そんなことないよ。だってわたし、セストのことはなんとも」
「思ってないの? ほんとに?」
「……うん」
返事の声がなぜか震えた。いくら言い寄られても、セストのことは何とも思っていないつもりだった。とても釣り合わないと始めから線を引き、距離を取ってきた。これから先もそうやってセストには近づかないつもりだった。
ロザリアは思わず指で唇を触った。薬の苦みをとりたくて、セストとキスしていたつもりだったけれど、本当にそれだけだったのだろうか。
セストとキスを交わしている間は、ロザリアにとって、間違いなく幸せなひと時だったのではないだろうか。
黙り込んだロザリアに、アーダは「ねぇ、お姉様」と腕を組んだ。
「いい加減、意地を張るのはよしたら? セスト様のこと好きなんでしょう?」
「……わからない」
「ほら、答えが変わった」
アーダはふふっと笑った。
「向こうはお姉様のこと、好きだって言って下さっているのでしょう?」
ロザリアはこくこくと頷いた。
「でも、嘘かもしれない。それにアーダの言うとおり、女性物の服の用意があるっていうことは、そういうことじゃないの?」
「そんなの、以前付き合っていた女性のものかもしれないじゃない。今はお姉様のことを好きだっておっしゃっているのなら、信じてみたらどう? 思いもかけない素敵な世界が広がるかもしれないわよ」
アーダは、相変わらず大人びたアドバイスをしてくる。これではどちらが姉かわからない。でもね、とロザリアは正直にセストに感じる違和感のことを話した。
セストが、ロザリアに苛立ちを感じていること、それに、そうだ。アーダに言葉にして話していると、時折感じる違和感の正体がロザリアの中で形を成してきた。あの違和感は、セストが自分ではない誰かを見ているような気がするからだ。
ロザリアの、もやもやとした違和感の話をアーダは最後まで熱心に聞いてくれた。どう思う?と問いかけると、「うーん」とアータは小首を傾げ、難しい顔をした。
「そういう直感って、大事だと思うのよね。直接セスト様に聞いてみたら?」
「セストに? 聞けるかな、そんなこと」
「まぁ聞きにくいよね」
アーダも特に自分の案がいいとも思わなかったらしい。あっさり引き下がり、「なんだろうね」とその後も真剣に答えを探そうとしてくれたが、結局二人で考えても結論など出なかった。
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