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第四章
ラッセという男
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小舟を漕いでいるのは、黒髪のラッセだろう。統治一族が持つという根付が腰で揺れている。
ラッセは小舟を海岸線にのり上げると、ゆっくりと近づいてきたアランの全身を見、無言で乗るようにと促してきた。
アランは深く被ったフードを更に目深にした。
ラッセはゆったりとした動作で沖に向って、再び櫂を漕ぎ出した。
小舟は荒波の中を静かに進んだ。
波濤の立つ中を、小舟だけがほとんど波を受けず進んでいく。
ラッセは一言もしゃべらなかった。
ギィ、ギィと櫂を漕ぐ音と、先端に当たって弾けた波の音だけが響いてくる。
テンドウの里へはすぐについた。
ラッセは埠頭に小舟をつなぐと、崖につけられた階段を先に立ってのぼっていく。
テンドウの里は、少し首を巡らせれば全てが見渡せるほどの小さな土地だった。
草地の広がる丘に、ぽつんぽつんと木造の家屋が立ち並んでいる。その中で一際豪奢な建物がある。
その建物へとラッセは入っていく。
入ってすぐは天井の高い講堂で、その横の扉から更に建物の奥へ。
途中何度も廊下を渡り、抜け道と思われる通路を行く。
「お待ちいたしておりました、オルブライト侯爵殿」
不意にかけられた声に、アランは立ち止まった。声を聞いたのははじめてだが、おそらくセヴェリの声だろう。
こちらが声を出せばおそらくばれる。
アランは無言を通した。不審に思われるだろうか。
そう思ったとき、それまで口を開かなかったラッセが言った。
「セヴェリ様。これから侯爵殿をご案内いたします」
「ああ、そうして差し上げてくれ。ごゆるりと、オルブライト侯爵殿。神子の気が、必ずやあなたさまを癒やしてくれるでしょう」
セヴェリはそれだけ言うと、廊下の向こうへ去っていった。
「さぁ、お早く」
ラッセはアランを急かすように廊下を急いだ。
上品な龍の彫り物のある扉の前で、ラッセは慇懃に頭を下げた。
「お帰りは明るくなる前がよろしいかと思います。オルブライト侯爵殿」
「おまえ……」
その言い方に、アランは眼鏡を外し、ラッセを見た。
ラッセは、アランの琥珀の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。驚いた様子はない。
「わかっていたのか?」
「さぁ。何をです。早く部屋へ。二刻ほど致しましたら、またお迎えにあがります。侯爵殿」
「なぜ奴に言わなかった」
セヴェリに告げるなら、いつでも告げられる状態だった。にもかかわらずこの男は、むしろセヴェリに怪しまれないよう、アランに助け舟を出した。
「今ここで貴殿を捕らえることは、難しいでしょうが、おそらく可能でしょう。ですが---」
ラッセは黒い瞳でアランを見た。
「それは意味のないこと。さきほどお迎えに上がった際、船団が沖に停泊しているのを見ました。この大陸を凌駕したクシラ帝国軍が、本気で我々に向かってくるなら、数でも質でも劣る我々は、なす術がありません。今ここであなたの命を奪うことには、なんの意味もない」
くすんだエメラルドの者が多いテンドウ族にしては、ラッセの黒髪黒目は異質な存在だ。
里ではさぞ目立つ存在だったことだろう。
「そうか、なるほどな。軍が攻めてくる前に逃げおおせようという魂胆か」
「逃げはいたしませんよ、まだね。事が逼迫したならセヴェリ様も目を覚まされるでしょう。何もかもはそれからです」
「お前の話を聞いていると、捕らえられてもいいと言っているように聞こえるぞ? セヴェリを裏切るのか?」
「裏切る……?」
おかしなことを言うとラッセは表情を動かさず続ける。
「私があの方を裏切ることは決してない。ただ、今むやみに貴殿を捕らえようと血を流す無駄を厭うただけです。では---」
「待て!」
アランはラッセを呼び止めた。腰の根付がラッセの動きに合わせて揺れる。
「おまえは統治一族だったのか?」
先の急襲で、テンドウ族の統治一族は捕らえられたはずだ。
でもラッセの腰の根付は、統治一族の者が揃って持っていたという、緑龍のうろこでできた根付ではないのか。
そう思って聞くと、ラッセは「いいえ」と首を振った。
「私は統治一族ではありません。私は、神子と称して神殿に召し上げられた、偽の神子が務めを果たす過程で産まれた子です。誰ともしれぬ父親の色なのでしょう、この黒髪黒目は」
そして能面だったラッセの顔に、このとき初めて表情が宿った。
「---この根付は、友人が私に貸してくれたものです。いつか返したいと思っていましたが、それも帝国のせいで叶わぬこととなりました」
ラッセはそれ以上言葉を繋げず、アランを部屋へ押し込めると扉の鍵を閉めた。
ラッセは小舟を海岸線にのり上げると、ゆっくりと近づいてきたアランの全身を見、無言で乗るようにと促してきた。
アランは深く被ったフードを更に目深にした。
ラッセはゆったりとした動作で沖に向って、再び櫂を漕ぎ出した。
小舟は荒波の中を静かに進んだ。
波濤の立つ中を、小舟だけがほとんど波を受けず進んでいく。
ラッセは一言もしゃべらなかった。
ギィ、ギィと櫂を漕ぐ音と、先端に当たって弾けた波の音だけが響いてくる。
テンドウの里へはすぐについた。
ラッセは埠頭に小舟をつなぐと、崖につけられた階段を先に立ってのぼっていく。
テンドウの里は、少し首を巡らせれば全てが見渡せるほどの小さな土地だった。
草地の広がる丘に、ぽつんぽつんと木造の家屋が立ち並んでいる。その中で一際豪奢な建物がある。
その建物へとラッセは入っていく。
入ってすぐは天井の高い講堂で、その横の扉から更に建物の奥へ。
途中何度も廊下を渡り、抜け道と思われる通路を行く。
「お待ちいたしておりました、オルブライト侯爵殿」
不意にかけられた声に、アランは立ち止まった。声を聞いたのははじめてだが、おそらくセヴェリの声だろう。
こちらが声を出せばおそらくばれる。
アランは無言を通した。不審に思われるだろうか。
そう思ったとき、それまで口を開かなかったラッセが言った。
「セヴェリ様。これから侯爵殿をご案内いたします」
「ああ、そうして差し上げてくれ。ごゆるりと、オルブライト侯爵殿。神子の気が、必ずやあなたさまを癒やしてくれるでしょう」
セヴェリはそれだけ言うと、廊下の向こうへ去っていった。
「さぁ、お早く」
ラッセはアランを急かすように廊下を急いだ。
上品な龍の彫り物のある扉の前で、ラッセは慇懃に頭を下げた。
「お帰りは明るくなる前がよろしいかと思います。オルブライト侯爵殿」
「おまえ……」
その言い方に、アランは眼鏡を外し、ラッセを見た。
ラッセは、アランの琥珀の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。驚いた様子はない。
「わかっていたのか?」
「さぁ。何をです。早く部屋へ。二刻ほど致しましたら、またお迎えにあがります。侯爵殿」
「なぜ奴に言わなかった」
セヴェリに告げるなら、いつでも告げられる状態だった。にもかかわらずこの男は、むしろセヴェリに怪しまれないよう、アランに助け舟を出した。
「今ここで貴殿を捕らえることは、難しいでしょうが、おそらく可能でしょう。ですが---」
ラッセは黒い瞳でアランを見た。
「それは意味のないこと。さきほどお迎えに上がった際、船団が沖に停泊しているのを見ました。この大陸を凌駕したクシラ帝国軍が、本気で我々に向かってくるなら、数でも質でも劣る我々は、なす術がありません。今ここであなたの命を奪うことには、なんの意味もない」
くすんだエメラルドの者が多いテンドウ族にしては、ラッセの黒髪黒目は異質な存在だ。
里ではさぞ目立つ存在だったことだろう。
「そうか、なるほどな。軍が攻めてくる前に逃げおおせようという魂胆か」
「逃げはいたしませんよ、まだね。事が逼迫したならセヴェリ様も目を覚まされるでしょう。何もかもはそれからです」
「お前の話を聞いていると、捕らえられてもいいと言っているように聞こえるぞ? セヴェリを裏切るのか?」
「裏切る……?」
おかしなことを言うとラッセは表情を動かさず続ける。
「私があの方を裏切ることは決してない。ただ、今むやみに貴殿を捕らえようと血を流す無駄を厭うただけです。では---」
「待て!」
アランはラッセを呼び止めた。腰の根付がラッセの動きに合わせて揺れる。
「おまえは統治一族だったのか?」
先の急襲で、テンドウ族の統治一族は捕らえられたはずだ。
でもラッセの腰の根付は、統治一族の者が揃って持っていたという、緑龍のうろこでできた根付ではないのか。
そう思って聞くと、ラッセは「いいえ」と首を振った。
「私は統治一族ではありません。私は、神子と称して神殿に召し上げられた、偽の神子が務めを果たす過程で産まれた子です。誰ともしれぬ父親の色なのでしょう、この黒髪黒目は」
そして能面だったラッセの顔に、このとき初めて表情が宿った。
「---この根付は、友人が私に貸してくれたものです。いつか返したいと思っていましたが、それも帝国のせいで叶わぬこととなりました」
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