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第一章

漁火の灯火 2

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「やぁ、先客がいたのか」

 藪をかき分け現れたのは、一人の青年だった。動きやすいよう、ズボンの裾をしばり、ジャケットを羽織った商人の小間使いのような格好だが、腰に佩いた剣が異彩を放っている。
 
 黒髪に琥珀の瞳。その琥珀の瞳を見て、男がさきほど宿屋で助けてくれた青年だとわかった。
  
 もしあそこで彼が助けてくれなかったら、仕事がもっと遅れて、おかみさんの機嫌をもっと損ねていたかもしれない。彼のおかげで、今こうして一年に一度の楽しみを堪能できているといってもいい。

「さっきはありがとうございました」

 ヨハンナが礼を言うと、男もヨハンナのことに気がついたようだ。

「さっき、山の裾の」
「はい。おかげでおかみさんに叱られずに、こうして祭りを見に来ることができました」
「でもその傷,,,」

 男はヨハンナの両腕を見た。服の袖からは、赤く腫れ上がった鞭の痕がのぞいている。

「これは、別の仕事で失敗したせいです」

 ヨハンナは、そっと服の袖を引き下ろした。男のお陰で助かったのは確かだ。せっかく助けてもらったのに、台無しにはしたくなかった。

 青年は気遣わしげに眉をひそめたが、ヨハンナがこれは自分のせいだとかたくなに言い張ると「わかったよ」と息をついた。

 青年は腰に下げた鞄から酒瓶を取り出し、崖のへりまでいくと腰を下ろした。

「君は酒は飲まないのか?」

 オシ街の領主から無料で振舞われる酒を楽しみにしている下働きは多い。

 ヨハンナも一度同じ下働き仲間に誘われて、祭りの日に支給される酒を受け取ったことがある。どんな味がするのだろうとドキドキしながら口に含み、うっとなってすぐに吐き出した。

 酒の匂いには食堂で客へ提供するときに嗅ぎなれていたつもりだったが、実際それを口に含んだときの強烈な匂いとはまた違う。お客はみんな、あんなに美味しそうに喉をならして呑むのに。

 まだまだお子様だなと一つ二つしか違わない仲間に笑われた。以来、ヨハンナは酒を口にしたことはない。

「君も座りなよ」

 男は自分の隣りの地面をぽんと叩く。
 悪い人には見えないが、丘陵で養父母に育てられたヨハンナは、こんな風に男の人と関わったことがなかった。距離感を上手くつかめないヨハンナは恐る恐る隣に腰を下ろした。
 こんな端整な顔立ちの青年はそうはいない。胸がどきどきして、美しい光景を堪能するどころではない。
 
 落ち着かなく青年の隣に腰を下ろし、ヨハンナはちらちらと青年を盗み見た。
 青年は、剣を帯刀しているだけあって、上背もあり、がっしりとした肩回りをしている。琥珀の瞳に白熱球の明かりが反射し、星のようにまたたく。

「あ、そうだ」

 青年が突然声を上げたので、ヨハンナはびっくりした。
 じっと見ていたのを咎められたのかと思ったが、男は酒瓶を取り出した鞄をさぐり、もう一つ、小さな瓶を取り出した。
 きつく閉められていたコルク栓を抜くとヨハンナに差し出す。

「これ、酒のかわりに。果実の汁を絞って、ハララの香り付けをしたものだ」
「ハララ!」

 思わずヨハンナは声をあげ、瓶を受け取ると瓶の口に鼻を近づけた。
 ふわりと芳しい甘い香りがしてくる。

「ほんと! ハララの香り! うれしい!」
「君はハララが好きなの?」
「はい! 大好き。私が育った丘陵にはハララの群生があちこちに見られて、とってもきれいなんです」

 ありがとうございますと頭を下げると、男は照れたように後ろ頭をかいた。

「こんなに喜ばれるとは思わなかったよ。そこの露店で買った安い飲み物だよ」

 安いといってもヨハンナからすれば果実を絞った飲み物は高価で、贅沢な品だ。
 差し出されてただ受け取ったが、露店で買ったものならば、お金を支払わねばならなかった。そう思い至り、ヨハンナは青ざめた。

「ごめんなさい。わたし、お金持ってなくて……。その、まだ口はつけていないからお返しします」
「いいよ、飲みなよ」
「やっぱり香りを嗅いでしまったから、お返しするのはだめですか?」

 すると男は驚いたように琥珀の瞳を丸くした。そして次の瞬間声をあげて笑い出した。

「香り代を払えなんて、そんなけちなことは言わないよ。俺のおごりだ。さぁ飲んで」

 男は大笑いしながら、瓶をヨハンナへと押し返し、もう片方の手でつかんだ酒瓶をその瓶へと軽く合わせた。
 カキンと瓶の触れ合う澄んだ音がする。

「祭りのこの夜に。乾杯!」

 言うと男はぐいっと酒をあおった。

「ほら、君も早く」と急かされ、嬉しそうな男の目に、ヨハンナも瓶の中身に口をつけた。

「おいしい!」

 甘みのなかに程よい酸味もありすっきりとして飲みやすく、ハララの香りが鼻腔をくすぐる。
 ヨハンナは一気にイクサカ地方での生活を思い出し、草原の風を感じた。
 
 大事そうに瓶を傾けるヨハンナに、男は満足したように自らも酒瓶をあおった。

「俺はアランだ。君は?」
「ヨハンナです」
「年は? いくつ?」
「十七です」
「十七?」

 アランは港に向けていた目をまじまじとこちらに向けた。
 言いたいことはわかっている。
 ヨハンナは大抵幼く見られる。背はそれほど低くないと自分では思うのだが、パーツが小作りなのと、華奢な肢体のせいで幼く見られがちだ。
 それに十七歳といえば、貴族の子女なら結婚する年だ。 
 同じ下働き仲間には色気がないとよく言われるのだが、そもそもその色気というのがどういうものなのか全くわからない。

「それは……正直驚いた…」
「それ以上は言わないでください」

 恥ずかしくて顔から火を噴きそうだ。
 消え入りそうに小さな声で答え、三角に立てた膝頭に額をおしつける。そんな仕草も子供っぽいものに見えるとは思わず、ヨハンナは祭りを見るのも忘れて顔を隠す。

「ごめんごめん、ヨハンナ。顔をあげて」

 アランは手を伸ばすとヨハンナの髪に触れてきた。

 エメラルドの髪は柔らかく、ふわふわとしている。 

 その感触をアランが密かに愉しんでいるとは知らず、ヨハンナはそろりと顔を上げる。
  
 アランの優しい琥珀の瞳と目が合った。 

「ほら、ヨハンナ。船が出港していくよ」

 いつの間にか祭りはクライマックスを迎えていた。
 
 漁火を灯したままの船が、一隻、また一隻と大海へと遠ざかっていく。 
 最後の一隻が水平線の彼方に見えなくなるまで、ヨハンナとアランは二人並んで見送った。
 
 すべての船が港からいなくなり、灯台の明かりだけが水面を渡っていく頃になって、ようやくアランは腰をあげた。
 丸まった腰をのばし、手を差し出すとヨハンナが立ち上がるのをサポートしてくれる。

 アランはそのままヨハンナの手をとったまま、荒れたその手と、腕の腫れをしばらくじっと見つめ、そっと手を離した。

「また会おう、ヨハンナ」

 アランはヨハンナの頭を名残惜しそうにぽんぽんと撫でる。
 
 また、会えるのかな。
 ヨハンナはアランを見上げた。ただの社交辞令だ。それはヨハンナにでもわかる。下働きの小娘に、アランみたいに素敵な人が、本気でまた会いたいなんて、思うはずもない。こん魅力的な青年と一緒の時を過ごせただけでも感謝すべきだ。多くを望んではいけない。
 でも、また会いたい。会えればいいのに。

 そんなヨハンナの感傷を振り払うように、アランはヨハンナの髪から手を離し、来た時同様、藪の中に体を滑り込ませ、姿を消した。
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