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第四章
俺の幸せ
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隣の家へ駆け込んだその足で、辻馬車のひろえる領主の館の立つ区画へと走った。足が千切れてもいい。息が続く限りヨハンナは走った。
辻馬車を見つけると、首都ナーバーまでとお願いする。
「ナーバーですかい?! 今から」
すでに日は傾いている、
ここからナーバーまで、単騎で馬を飛ばしても五日はかかる。それを今からというのだから、御者が驚くのも無理はない。
「無理だよお客さん。今からだと次の街に着くまでに日が沈んじまう。この辺り、夜は物騒でね。遠出なら明日の朝の出発にしておくれよ」
「そんな…。お願いします。私どうしてもナーバーに行きたいんです」
「そんなこと言われてもねぇ。まいっちまうな…」
つかみかからんばかりのヨハンナに御者は弱りきっている。そこへ、
「どこかへ出かけるのか?」
かけられた懐かしい声にヨハンナは後ろを振り返った。
ジャケットにタイを締め、ブーツを履いたアランがすっくと立っていた。
「アラン…?」
「どうした? そんなに驚いた顔をして、俺の顔を忘れたのか?」
夢にまで見た琥珀色の瞳がすぐそばで笑っている。ヨハンナは目尻に浮かんだ涙を袖で乱暴に拭った。
「アラン? ほんとにアラン?」
「偽物に見えるのか?」
アランは笑いながらヨハンナを抱き寄せ、御者へ「俺が送るからいいよ」と断り、「ところでどこに行くつもりだったんだ?」とヨハンナに問いかける。
「どこって……」
「ん?」
アランがヨハンナのエメラルドの髪に顔を埋めてくる。
ヨハンナは、かかる息がくすぐったくて首をすくめ、少し身体を離してアランの頬に手を伸ばした。
「アラン……。ほんとにアランだ…。よかった…」
「どうしたヨハンナ」
「私、アランが大怪我をしたって聞いて。それでどうしていいかわからなくて」
「会いに来ようとしてくれたのか? それは嬉しいな」
アランはヨハンナの手の平に軽く口付ける。
「ご覧の通り俺はぴんぴんしてるぞ。と言っても、腕に敵の剣を受けてな。大怪我とまではいかないが、少し負傷した。首都から離れていると、情報は錯綜して大きく伝わることもあるからな。心配かけた」
「腕はもう大丈夫なの?」
「ああ、もうなんとも」
「でも、そのせいで軍の副官を外されたって……。それに次期皇帝の話も…」
「ああ、それな」
アランは琥珀色の瞳をいたずらっ子のように細めた。
「副官はもともと北方の制圧が終わったら、辞めようと思っていたんだ。次期皇帝は柄じゃないな。兄上には立派な子がたくさんいるんだ。何も弟の俺がしゃしゃり出ることもない。初めから受けるつもりのない話だよ」
それより、とアランはヨハンナを更に抱きしめる。けれどヨハンナの方は、アランが無事だとわかり落ち着くと、周りの状況が飲み込めてきた。
ここは領主の館のすぐ目の前の広場だ。
人の少ないイクサカ地方ではあるが、領主の館前は数軒の店が並び、一軒だけの宿屋もある。辻馬車も停泊しており、草原のように見渡す限り人がいない、という場所ではない。
何人か見知った顔もある。こんな往来の真ん中で抱擁しているなんて、顔から火が出そうに恥ずかしい。
おまけにアランの後ろを見れば、すぐ側には家令のテッドが控えている。
「テッドさん!」
ヨハンナは驚いてアランの腕から逃れた。テッドはにこにこしてヨハンナに頭を下げた。
「ヨハンナ様。お久しぶりにございます。お変わりないようで、安心いたしました」
テッドの後ろにはアランの屋敷で見知った侍女や侍医のロニーまでいる。ちょっとイクサカ地方まで来た、という様相ではない。アランの身のまわりを世話する者たちが、一緒に移動してきた、といった感じだ。
「アラン? どうして屋敷の人達も一緒に?」
「これはこれはアラン殿下。ようこそおいでくださいました」
アランが答えるより先に、領主の館の前庭に、護衛兵をつけたイクサカ地方の老領主が出てきた。ヨハンナは遠目に何度か見たことはあったが、こんなに近くで見たのは初めてだった。
身分としてはアランの方が上だからだろう。老領主は皇弟殿下を出迎えに現れた。
「いやはや、ご立派になられまして。私が黄帝城に勤めておりました頃は、まだこんなに小さなお子であられましたのに」
「ポート子爵殿、ご無沙汰しております」
「いやいや、お待ちいたしておりましたぞ、アラン殿下。これで私はようやっと領主の任を離れ、懐かしい首都へと帰ることができます」
イクサカ領主、ポートの言葉にヨハンナはえ?とアランを見上げた。アランは琥珀の瞳をまたいたずらっ子のように細め、ヨハンナの腰を引き寄せた。
「今日から俺はイクサカ領主だ。これでずっと一緒にいられるな、ヨハンナ」
「イクサカ領主って……」
それはつまりアランの居城が首都ナーバーからこちらに移るということで。ここからヨハンナの営む羊牧場はすぐそばで……。
「うそ……」
「うそなものか。だからこうやってテッドを引きつれ、赴任してきたんだ」
どうだと言わんばかりのアランの言葉に、ヨハンナは夢を見ているようだった。
「だってアランそんなこと一言も」
「北方の制圧がいつになるかわからなかったからな。兄上たちには了承をもらっていたが、内々の話でまだ決定事項でもなかった。黙っていて悪かった」
それにここ三月ほど便りを出せなかったのは、敵陣深く入り込んでいたためだと言う。
その後こちらへ移る旨をしたためた便りを出したが、テッドには屋敷を移る準備を頼み、制圧が終わるとともにこちらへ向かったので、便りよりも早くアラン本人が着いた。
「これからはずっと側にいられる……?」
「ああ」
じわじわと嬉しさがこみ上げ、それが実感を伴ってくるとじんわりと胸に温かみが広がる。
「でも待って」
アランが軍の副官も次期皇帝の座も投げ打って、ヨハンナのためにイクサカ領主の座を選んでくれたことは、聞かなくてもわかる。
でもイクサカ領主は閑職だと聞いたことがある。だから歴代、中央で年老いた爵位の低い者が次々と入れ替わり立ち代わりその座に就くのだと。
「アランは、現皇帝の弟で次期皇帝の座も望めるくらい高い地位と力を持ってるのに……。こんな私のために……」
アランが望めば、もっと多くのたくさんのものが手に入るというのに。ヨハンナのために全てを投げ打つ選択をさせていいのだろうか。
「勘違いするなよ、ヨハンナ」
アランがヨハンナの言わんとしていることを察し、エメラルドの瞳を見た。ヨハンナもアランの瞳を見返した。出会ったときと同じ、真っ直ぐでうそのない目だった。
「俺は俺の望んだことをしているだけだ。俺はヨハンナの望んだ景色を見たい」
そうしてアランは優しい琥珀の目をして言った。
「俺の幸せは俺が決める」
ハララの花を揺らし、アランの黒髪をすり抜け、草原を一陣の風が吹きぬけた。
首都ナーバーまで駆け抜け、戻ってきたのだろう。赤龍と黒龍がすぐ頭上を旋回した。
完
辻馬車を見つけると、首都ナーバーまでとお願いする。
「ナーバーですかい?! 今から」
すでに日は傾いている、
ここからナーバーまで、単騎で馬を飛ばしても五日はかかる。それを今からというのだから、御者が驚くのも無理はない。
「無理だよお客さん。今からだと次の街に着くまでに日が沈んじまう。この辺り、夜は物騒でね。遠出なら明日の朝の出発にしておくれよ」
「そんな…。お願いします。私どうしてもナーバーに行きたいんです」
「そんなこと言われてもねぇ。まいっちまうな…」
つかみかからんばかりのヨハンナに御者は弱りきっている。そこへ、
「どこかへ出かけるのか?」
かけられた懐かしい声にヨハンナは後ろを振り返った。
ジャケットにタイを締め、ブーツを履いたアランがすっくと立っていた。
「アラン…?」
「どうした? そんなに驚いた顔をして、俺の顔を忘れたのか?」
夢にまで見た琥珀色の瞳がすぐそばで笑っている。ヨハンナは目尻に浮かんだ涙を袖で乱暴に拭った。
「アラン? ほんとにアラン?」
「偽物に見えるのか?」
アランは笑いながらヨハンナを抱き寄せ、御者へ「俺が送るからいいよ」と断り、「ところでどこに行くつもりだったんだ?」とヨハンナに問いかける。
「どこって……」
「ん?」
アランがヨハンナのエメラルドの髪に顔を埋めてくる。
ヨハンナは、かかる息がくすぐったくて首をすくめ、少し身体を離してアランの頬に手を伸ばした。
「アラン……。ほんとにアランだ…。よかった…」
「どうしたヨハンナ」
「私、アランが大怪我をしたって聞いて。それでどうしていいかわからなくて」
「会いに来ようとしてくれたのか? それは嬉しいな」
アランはヨハンナの手の平に軽く口付ける。
「ご覧の通り俺はぴんぴんしてるぞ。と言っても、腕に敵の剣を受けてな。大怪我とまではいかないが、少し負傷した。首都から離れていると、情報は錯綜して大きく伝わることもあるからな。心配かけた」
「腕はもう大丈夫なの?」
「ああ、もうなんとも」
「でも、そのせいで軍の副官を外されたって……。それに次期皇帝の話も…」
「ああ、それな」
アランは琥珀色の瞳をいたずらっ子のように細めた。
「副官はもともと北方の制圧が終わったら、辞めようと思っていたんだ。次期皇帝は柄じゃないな。兄上には立派な子がたくさんいるんだ。何も弟の俺がしゃしゃり出ることもない。初めから受けるつもりのない話だよ」
それより、とアランはヨハンナを更に抱きしめる。けれどヨハンナの方は、アランが無事だとわかり落ち着くと、周りの状況が飲み込めてきた。
ここは領主の館のすぐ目の前の広場だ。
人の少ないイクサカ地方ではあるが、領主の館前は数軒の店が並び、一軒だけの宿屋もある。辻馬車も停泊しており、草原のように見渡す限り人がいない、という場所ではない。
何人か見知った顔もある。こんな往来の真ん中で抱擁しているなんて、顔から火が出そうに恥ずかしい。
おまけにアランの後ろを見れば、すぐ側には家令のテッドが控えている。
「テッドさん!」
ヨハンナは驚いてアランの腕から逃れた。テッドはにこにこしてヨハンナに頭を下げた。
「ヨハンナ様。お久しぶりにございます。お変わりないようで、安心いたしました」
テッドの後ろにはアランの屋敷で見知った侍女や侍医のロニーまでいる。ちょっとイクサカ地方まで来た、という様相ではない。アランの身のまわりを世話する者たちが、一緒に移動してきた、といった感じだ。
「アラン? どうして屋敷の人達も一緒に?」
「これはこれはアラン殿下。ようこそおいでくださいました」
アランが答えるより先に、領主の館の前庭に、護衛兵をつけたイクサカ地方の老領主が出てきた。ヨハンナは遠目に何度か見たことはあったが、こんなに近くで見たのは初めてだった。
身分としてはアランの方が上だからだろう。老領主は皇弟殿下を出迎えに現れた。
「いやはや、ご立派になられまして。私が黄帝城に勤めておりました頃は、まだこんなに小さなお子であられましたのに」
「ポート子爵殿、ご無沙汰しております」
「いやいや、お待ちいたしておりましたぞ、アラン殿下。これで私はようやっと領主の任を離れ、懐かしい首都へと帰ることができます」
イクサカ領主、ポートの言葉にヨハンナはえ?とアランを見上げた。アランは琥珀の瞳をまたいたずらっ子のように細め、ヨハンナの腰を引き寄せた。
「今日から俺はイクサカ領主だ。これでずっと一緒にいられるな、ヨハンナ」
「イクサカ領主って……」
それはつまりアランの居城が首都ナーバーからこちらに移るということで。ここからヨハンナの営む羊牧場はすぐそばで……。
「うそ……」
「うそなものか。だからこうやってテッドを引きつれ、赴任してきたんだ」
どうだと言わんばかりのアランの言葉に、ヨハンナは夢を見ているようだった。
「だってアランそんなこと一言も」
「北方の制圧がいつになるかわからなかったからな。兄上たちには了承をもらっていたが、内々の話でまだ決定事項でもなかった。黙っていて悪かった」
それにここ三月ほど便りを出せなかったのは、敵陣深く入り込んでいたためだと言う。
その後こちらへ移る旨をしたためた便りを出したが、テッドには屋敷を移る準備を頼み、制圧が終わるとともにこちらへ向かったので、便りよりも早くアラン本人が着いた。
「これからはずっと側にいられる……?」
「ああ」
じわじわと嬉しさがこみ上げ、それが実感を伴ってくるとじんわりと胸に温かみが広がる。
「でも待って」
アランが軍の副官も次期皇帝の座も投げ打って、ヨハンナのためにイクサカ領主の座を選んでくれたことは、聞かなくてもわかる。
でもイクサカ領主は閑職だと聞いたことがある。だから歴代、中央で年老いた爵位の低い者が次々と入れ替わり立ち代わりその座に就くのだと。
「アランは、現皇帝の弟で次期皇帝の座も望めるくらい高い地位と力を持ってるのに……。こんな私のために……」
アランが望めば、もっと多くのたくさんのものが手に入るというのに。ヨハンナのために全てを投げ打つ選択をさせていいのだろうか。
「勘違いするなよ、ヨハンナ」
アランがヨハンナの言わんとしていることを察し、エメラルドの瞳を見た。ヨハンナもアランの瞳を見返した。出会ったときと同じ、真っ直ぐでうそのない目だった。
「俺は俺の望んだことをしているだけだ。俺はヨハンナの望んだ景色を見たい」
そうしてアランは優しい琥珀の目をして言った。
「俺の幸せは俺が決める」
ハララの花を揺らし、アランの黒髪をすり抜け、草原を一陣の風が吹きぬけた。
首都ナーバーまで駆け抜け、戻ってきたのだろう。赤龍と黒龍がすぐ頭上を旋回した。
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