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第四章

葛藤

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――首都のナーバーってとっても賑やかな街らしいわよ。とその子は言った。

 色んな肌の色や髪や瞳の色をした人がたくさんいて、見たこともない珍しい物が街には溢れているのだという。

――高い山に登ってみたいわ。

 またある時はそう言った。眼下に雲を見下ろすほど高い山がこのメータ大陸にはあるのだと。そんな高い山に登って、雲を見下ろしてみたいと。

――お友達が欲しいわ。

 とまたある時はそう言った。一緒にご飯を食べたり、おしゃべりしたり。とっても楽しいだろうなぁと目を輝かせた。

 その子がしたいことを口にするのはよくあることで、緑龍はそんなものかといつも聞き流す。

 でもこの時ばかりはそれなら我がいるではないかと言い返した。

 一緒にご飯も食べる。おしゃべりも毎日している。一緒に眠ったり、頬ずりする時だってある。それなら我がそなたの友達だと。

 その反論へ、その子は一瞬きょとんとした顔をした。

 でもすぐに「へへ」と笑い、友達ってそういうのんじゃないわと言った。

 緑龍には何がどう違うのかさっぱりわからなかった。そして、してみたいことを口にすると決まって「外へ出てみたい」と続けるその子の願いを一蹴した。

 我はそなたを手放すつもりはないと。
 
 けれどある時その子はしつこく「外へ行きたい」と緑龍にねだった。こんな狭い世界でずっと生きていきたくはない、幼いわが子にも世界を見せてやりたいと。

 自分も若い頃は、よく愛し子をこの腕に乗せ、大空を駆け巡ったものだ。
 高い山の頂にも、広い大海にも連れて行ってやっていた。

 でも今の自分には、もうそんな体力はない。
 人は脆弱な生き物だ。落ちぬよう腕に乗せるのは骨が折れる。人を乗せながら飛ぶのは、案外難しいものだ。もうあんな芸当は今の自分にはできそうにない。

 それなのにその子はしつこく出ていきたいと繰り返した。
 あまりに執拗に何度も言うので、緑龍は面倒になってきた。部屋の隅で遊んでいた幼子を鉤爪で掴み上げ高々と掲げて、それ以上言うならこの子を落とすぞと脅した。

 幼子は突然高く持ち上げられ、泣くどころかきゃっきゃと両手をばたつかせて喜んだ。

 やめてやめてとその子は泣いて許しを乞うた。それ以来、その子は願いを二度と口にしなくなった。

 明るかったその子は次第に笑わなくなった。

 以前なら優しく慰めてくれた手も差し出してはくれない。温もりが欲しくて緑龍が身を摺り寄せても、うろこを撫でるその子の手は冷たかった。

 その子はある朝冷たくなっていた。
 悲しくはなかった。また次の子を作ればいいだけだ。

 緑龍は重い体を動かし空へと駆け上り、湖を出ると里へおり、涙を流した。

 上空高くから落とす涙に、里の人間は雨が降ってきたと思っただけだろう。
 何人かの人間に当たったので、また新しい子が産まれてくるだろう。側に居て、共に生きてくれる子が。

 もっとたくさん居てほしい。
 そう思ってたくさん涙を里へ振りまいたこともある。けれど産まれてくるのは決まって一人だけ。龍の声を聞くことができるのはたった一人。

 次の子が産まれてくるまで、また一人の時間が続く。

 そう思っていたけれど、死んだその子の子が側に居てくれた。くすんだエメラルドの髪と瞳で、我の愛し子ではなかったけれど、ずっと側にいたから緑龍の言葉を解してくれた。

 その子は外へ行きたいとは一言も言わなかった。ただ、いつも緑龍緑龍といって優しくうろこを撫でてくれた。その子にとって、世界の全てが緑龍だった。

 でも満たされなかった。この子は我の愛しい子ではない。美しく輝くようなエメラルドの髪と瞳を持っていない。

 だから新しく産まれてくる子を心待ちにしていた。それなのに――。

 人間共が里を蹂躙し、愛し子は里から去った。気がつけばいつも側にいてくれたあのくすんだエメラルドの子もいなくなっていた。

 けれどくすんだエメラルドの子、セヴェリは戻ってきた。緑龍の願いを聞き入れようと、新しい子を緑龍のもとへ連れてきてくれた。

 新しい子、ヨハンナは今までの神子達よりも一段と緑龍の加護を受け、輝くばかりのエメラルドの髪と瞳を持っていた。嬉しかった。これでまた一人ではなくなった。
 
 ヨハンナは愛しい男の元へ帰りたいようだが、聞き入れてやるつもりはない。

 この子は我の最後の愛し子だ。我にはもう、涙を振りまく元気も残っていない。最後で、唯一の愛し子。我の元を離れていくことなど許さない。

 セヴェリはこの子を逃がさないよう監視しているし、我も逃がすつもりはない。

 我の側に縛り付けておくのは容易いことだ。

『―――くぅ……』

 寝台から出てこないヨハンナに顔を寄せ、上掛けを鉤爪ではがすと、膝をかかえ丸くなったヨハンナがエメラルドの瞳でこちらを見た。

 ヨハンナは昨夜遅くにセヴェリに抱えられ、戻ってきてからずっとこの状態だ。

 昨夜は何やら熱心に書き物をしていたが、いつの間にか姿を消し、気がついたらセヴェリが連れて戻ってきた。

 今朝は子龍らがやってきたが、いつものように我にはわからない人の言葉でおしゃべりすることもなく、子龍らの呼びかけにも応じなかった。

 子龍らはヨハンナの様子がおかしい、何かあったのかと我に聞いたが、我は何も知らないと答えると、また飛び立っていった。

 こちらを見るヨハンナの目に生気がない。己の心の奥深くへ逃げ込んで、現実を映していない。

 この目を緑龍は知っていた。
 前の子もこんな風に、緑龍を関心のない目で見ていた。

 この子もか。

 せっかく加護を授けても、前の子も、その前の子も、みんなみんな我を蔑ろにする。ここにいるのに、我を慰めようとはしてくれない。

 緑龍は腹立たしく思い、ヨハンナの体を鼻面で突いた。
 力の差は歴然だ。ヨハンナは呆気なく寝台の向こうへ転がり落ちた。

 石の床にどさっと鈍い音が響く。ヨハンナは目を閉じたまま動かなくなった。

 また、死んだのだろうか。
 ここに我といれば何の苦労もなく暮らせるというのに、勝手に拗ねて、怒って、心を閉ざし、また死んだのだろうか。

 けれどこの子は我の最後の愛し子。
 こんなことするべきではなかった。もしもこの子が死んだら、我は本当の一人ぼっちだ。

 じっと見ていると、ヨハンナはうっすらと瞳を開き、緑龍の顔を見た。

 細い腕で体を支え、起き上がるとこちらへ歩いてくる。
 
 生きていたのだとほっとした。

 怒るなら怒ればいい。無関心におざなりにされるよりはよほどいい。
 
『どうした。何か言いたいことがあれば言えばよい』
 
 そうだ。ここから出して、でもいい。こんなところにいたくないでもいい。乱暴するなでもいい。罵りでもいいから、感情の見える言葉が聞きたい。

 ヨハンナはそっと緑龍に手を伸ばすと、恐ろしい牙の生える顔へと頬を寄せ、ぎゅっとしがみついてきた。

 予想外の行動に緑龍は慌て、くぅくぅと鳴いてどうしたのかと問うが、ヨハンナは緑龍にしがみついたまま離れない。

 その肩が小さく震えている。
 生暖かい雫があとからあとから石の床へ染みを作っていった。

 
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