上 下
1 / 99
第一章

ヨハンナの夢と現実

しおりを挟む
 ヨハンナには夢がある。

 またいつか、イクサカ地方の山岳地帯で、羊と共に暮らすことだ。
 たくさんの羊を飼うことは難しいかもしれない。だからほんの数頭の羊たちと、少しの野菜を育て、できれば大好きな黄色いハララの花の側で暮らしたい。
 昼はのんびり羊を放牧し、夜は、養父母である老夫婦に教えてもらった機織で、羊毛の絨緞を作る。そうして穏やかに時を刻み、吹き渡る草原の風を感じながら穏やかに暮らしたい。





「おいそこの女。きれいなエメラルドグリーンの髪と瞳だな。ハーネヤンの出かい?」

 夕方の宿屋「山の裾」の一階食堂は戦場だ。
 クシラ帝国でも、首都に継ぐ中核都市であるオシ街。 
 ヨハンナがかつて暮らしたイクサカ地方、その山岳地帯から流れ出る川を、西へと下った港町。

 宿屋「山の裾」は、普段から多くの貿易商が出入りするこの街一番の宿屋である。その五階建ての一階部分。おかみさんの切り盛りする食堂で、ヨハンナは夕食を客へと運んでいた。

 今日のメイン料理をテーブルへと並べたところで、そのテーブルについていた男性客がヨハンナの手を掴んだ。

「ハーネヤンの出かどうかと聞いてるんだよ。どうなんだい?」
「あの、すみません。お客様、手を離していただけますか」

 夕食時の食堂は混む。おかみさんのいらいらも今が最高潮だ。酒の入った客たちは大声で話に花を咲かせ、名物の魚介料理に舌鼓を打つ。
 たいてい上客は街の高級レストランへ行くので、この食堂へ食べに来るのは一般客だ。
 主人についてきた馬丁の者や、小間使いが多い。野卑な言葉が飛び、手癖の悪い客は、お運びの女性従業員の尻を戯れに撫でてくる。

 ヨハンナは男に掴まれた手を引いたが、男の力は存外に強かった。厨房を見るとおかみさんがいらいらした顔でこちらを睨んでいる。

 客のあしらいなどさっさとして早く戻って来いということだ。まだまだ仕事は山のようにあるのだ。

「あの、お客様。手を……」
「さっさと客の質問に答えろ。無礼な下働きが。ハーネヤンなのか?」

 ハーネヤンは海を渡った先にある大国の名前だ。いくつもの荒れた海を渡る海の民の国だ。
 もちろん、下働きのヨハンナが、高い船賃を払って、海を渡ったそんな大国に行ったことがあるわけもない。
    
 ハーネヤンの出かと聞かれれば、答えはノーだ。行ったことも見たこともない、話に聞くだけの大国だ。けれどハーネヤンには、ヨハンナと同じエメラルドの髪と瞳をした人種が多く、よくハーネヤンの出身だと間違われる。

「見事なエメラルドだな。ハーネヤンでもここまで鮮やかなエメラルドは珍しい。おまえ、ハーネヤンの出ではないだろう?」

 腕を掴んだ客は、じろじろと鑑賞物を見るかのようにヨハンナを見てくる。

 実際のところ、ヨハンナは自分がどこの出であるのか知らない。
 知らないのだが、よくハーネヤンの出身かと聞かれるので聞かれればそうだと答えることにしていた。

 一度知らないと答えたら、ではテンドウ族かとしつこく聞かれたことがあって、それ以来ハーネヤンだと答えている。
 どうやら、十七年前に滅んだテンドウ族にも同じ特徴をもった人がいたらしい。
 テンドウ族にとってエメラルドの瞳と髪は特別な色らしく、一度わからないと答えると「神子さま」と拝まれたことがある。
 それに懲りて、その一件以来、ハーネヤンの出だと答えることにしていた。

 しかしこのときは、早く仕事に戻らねば、おかみさんの勘気を買うことが気になって、過去の失敗を失念していた。
 男の質問に答えるよりも、おかみさんの勘気が気になって仕方がなかった。
 おかみさんは、仕事でドジをふんだり、ぐずったりすると、後で鞭を振るう。短い鞭で、手首をぶたれるのだが、みみずばれになってあとがとても痛い。

 それに今日は漁火の灯火がある。

 普段から夕方の食堂は混みあうが、今日はここオシ街で開かれている灯台祭りの中日とあって、各地から集まった人で特に賑わっていた。
 
 部屋も満室で、いつもより早い夕食を軽く摂り、このあと酔客たちは街へと繰り出す。

「ヨハンナ! 何してんだい! さっさとしな! 愚図はいらないよ!」

 とうとう業を煮やしたおかみさんの怒号が飛んだ。

「はい、おかみさん」
 
 ヨハンナは慌てて返事を返し、未だ手を放そうとしない男を見た。

 節くれだった指に、よく日に焼けた浅黒い顔。身なりは悪くない。商人の小間使いだろうか。太い眉の下の目は、他をだしぬいてやろうというしたたかさをのぞかせている。赤毛の男だった。

「女を引っかけるなら、宿屋じゃなくて娼館にでも行きな」
「あいてっ! いててててっ!」

 横からぬっと腕が伸びてきて、ヨハンナを掴む男の腕を、別の腕が掴んだ。指に力を入れたらしく、したたかな目をした男は、叫びながらヨハンナから手を放した。

「なにすんだよ! いてぇじゃねぇか!」

 男は赤毛を逆立てて後ろを振り返った。

 男の手を掴んだのは、黒髪に琥珀の瞳を持った二十歳過ぎの青年だった。すらりと背が高く、腰に佩いた護身用の剣が異彩を放っている。
 服装は商人の護衛といった簡素で動きやすいものだったが、他の酔客達にはない品の良さを漂わせている。

 琥珀の瞳に、威圧的な何かを感じ取ったのだろう。赤毛のしたたかな目の男は、振り上げたこぶしをそっと下ろした。

「なんだい、兄ちゃん。邪魔すんじゃねぇよ」

 悪態をつきながらも、大人しく席に戻り、ぐびっとグラスの酒をあおった。もう、ヨハンナに興味を失ったかのように。

 ヨハンナは琥珀の瞳の青年にぺこりと頭を下げ、急いで厨房へと戻った。

 どうかおかみさんが、この不手際を許してくれますように。

 顔色を見ながら、後は言われた仕事を必死でこなした。

 灯台祭りは、船の安全を見守る灯台に感謝の念を捧げる祭りで、オシ街で年一度開かれる。
 船舶関係の仕事に従事する人間はもとより、その恩恵に預かる貿易商人、オシ街で商売をする人たちの無礼講でもある。

 店先にはいつも以上に露店が出され、酒はオシ街の領主から無料で振舞われる。

 祭りの中日である今日は、幾千もの船が海に繰り出し、一斉に漁火をともし、海を照らす。漁火の灯火と呼ばれる、祭りのハイライトが行われる。

 少し高台から眺めるその光景は、白熱球の明かりが揺れる水面に映り、息をのむほど幻想的で美しい。

 ヨハンナは、夜中に行われるこの漁火の灯火を初めて見たとき、その美しさに心を奪われた。

 以来、一年に一度のこの光景を楽しみにしている。残念ながら去年は宿屋の仕事が終わらず、急いで高台へと駆けつけたときには最後の一隻が白い軌跡を描きながら遠洋へと遠ざかっていくところだった。

 だから何としても今年は漁火の灯火をこの目に収めたかった。 
 なるべくスムーズに仕事を終わらせて、おかみさんの勘気で仕事を増やされたくはなかった。
 遅れを取り戻そうと、ヨハンナは懸命に足と手を動かした。

 この時のヨハンナの頭の中は、一年に一度の美しい光景のことでいっぱいだった。ハーネヤンの出身かという男の質問に明確に答えなかったことを後悔することになるとは、思いもよらなかった。
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

おじさんとショタと、たまに女装

味噌村 幸太郎
恋愛
 キャッチコピー 「もう、男の子(娘)じゃないと興奮できない……」  アラサーで独身男性の黒崎 翔は、エロマンガ原作者で貧乏人。  ある日、住んでいるアパートの隣りに、美人で優しい巨乳の人妻が引っ越してきた。  同い年ということもあって、仲良くなれそうだと思ったら……。  黒猫のような小動物に遮られる。 「母ちゃんを、おかずにすんなよ!」  そう叫ぶのは、その人妻よりもかなり背の低い少女。  肌が小麦色に焼けていて、艶のあるショートヘア。  それよりも象徴的なのは、その大きな瞳。  ピンク色のワンピースを着ているし、てっきり女の子だと思ったら……。  母親である人妻が「こぉら、航太」と注意する。    その名前に衝撃を覚える翔、そして母親を守ろうと敵視する航太。  すれ違いから始まる、日常系ラブコメ。 (女装は少なめかもしれません……)

あなたが残した世界で

天海月
恋愛
「ロザリア様、あなたは俺が生涯をかけてお守りすると誓いましょう」王女であるロザリアに、そう約束した初恋の騎士アーロンは、ある事件の後、彼女との誓いを破り突然その姿を消してしまう。 八年後、生贄に選ばれてしまったロザリアは、最期に彼に一目会いたいとアーロンを探し、彼と再会を果たすが・・・。

騎士団長の欲望に今日も犯される

シェルビビ
恋愛
 ロレッタは小さい時から前世の記憶がある。元々伯爵令嬢だったが両親が投資話で大失敗し、没落してしまったため今は平民。前世の知識を使ってお金持ちになった結果、一家離散してしまったため前世の知識を使うことをしないと決意した。  就職先は騎士団内の治癒師でいい環境だったが、ルキウスが男に襲われそうになっている時に助けた結果纏わりつかれてうんざりする日々。  ある日、お地蔵様にお願いをした結果ルキウスが全裸に見えてしまった。  しかし、二日目にルキウスが分身して周囲から見えない分身にエッチな事をされる日々が始まった。  無視すればいつかは収まると思っていたが、分身は見えていないと分かると行動が大胆になっていく。  文章を付け足しています。すいません

【R18】義弟ディルドで処女喪失したらブチギレた義弟に襲われました

春瀬湖子
恋愛
伯爵令嬢でありながら魔法研究室の研究員として日々魔道具を作っていたフラヴィの集大成。 大きく反り返り、凶悪なサイズと浮き出る血管。全てが想像以上だったその魔道具、名付けて『大好き義弟パトリスの魔道ディルド』を作り上げたフラヴィは、早速その魔道具でうきうきと処女を散らした。 ――ことがディルドの大元、義弟のパトリスにバレちゃった!? 「その男のどこがいいんですか」 「どこって……おちんちん、かしら」 (だって貴方のモノだもの) そんな会話をした晩、フラヴィの寝室へパトリスが夜這いにやってきて――!? 拗らせ義弟と魔道具で義弟のディルドを作って楽しんでいた義姉の両片想いラブコメです。 ※他サイト様でも公開しております。

【R18】散らされて

月島れいわ
恋愛
風邪を引いて寝ていた夜。 いきなり黒い袋を頭に被せられ四肢を拘束された。 抵抗する間もなく躰を開かされた鞠花。 絶望の果てに待っていたのは更なる絶望だった……

【完結】お義父様と義弟の溺愛が凄すぎる件

百合蝶
恋愛
お母様の再婚でロバーニ・サクチュアリ伯爵の義娘になったアリサ(8歳)。 そこには2歳年下のアレク(6歳)がいた。 いつもツンツンしていて、愛想が悪いが(実話・・・アリサをーーー。) それに引き替え、ロバーニ義父様はとても、いや異常にアリサに構いたがる! いいんだけど触りすぎ。 お母様も呆れからの憎しみも・・・ 溺愛義父様とツンツンアレクに愛されるアリサ。 デビュタントからアリサを気になる、アイザック殿下が現れーーーーー。 アリサはの気持ちは・・・。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

前世変態学生が転生し美麗令嬢に~4人の王族兄弟に淫乱メス化させられる

KUMA
恋愛
変態学生の立花律は交通事故にあい気付くと幼女になっていた。 城からは逃げ出せず次々と自分の事が好きだと言う王太子と王子達の4人兄弟に襲われ続け次第に男だった律は女の子の快感にはまる。

処理中です...