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医師の独白
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ひさしぶりに雅久たちの試合を見ながら桜や瑞樹と話をしている。瑞樹の体調が芳しくないことが桜にもわかるらしい。心配そうな視線を時折私へ向けてくる。
瑞樹が外出を許可されたのは、医師の私が付き添うからとの条件による。こうして一緒に観戦をすることになったのだが、私は珍しく自己嫌悪へ陥っていた。
瑞樹は私の直接の患者ではない。
大学時代の友人でもある佐用のオペを希望して転院をして来たが、彼は急遽渡米してしまった。諸事情から瑞樹への説明を私に任されたが、その前にあの絵を通して知り合うことになった。
希望するオペができないことを患者へ伝える嫌な役割は自業自得による。私は面談時間前に少しでも意志を奮い立たせるため、階段の踊り場にある絵の前へ向かった。
混濁する深い緑色の背景に、白い空手着を着た大きな背中と逞しく力強い右腕が振り上げられている絵。
見る者に、苦悩と力強くありたい思いを訴えかける。
私は絵のモデルも作者もよく知っている。だからこそ気持ちが揺り動かされる。
病気へ立ち向かう患者のために飾って欲しいと病院理事会や市役所へ働きかけた。一番勇気をもらっているのは私かもしれない。
面談時間の十五分前、大きく息を吐いて絵の前を去ろうとした時、一人の女の子が横に並んで絵を眺めはじめた。
その時は知る由もなかったが、その子が瑞樹だった。
立ち止まった私が瑞樹の様子を窺う。涙を浮かべながら絵の下にあった作者の名札に気づき優しく撫でている。嗚咽を我慢するように口を手で覆っていた。私があの絵に抱いたものと同じことを感じていたのだと思う。
白衣を着て医師と分かる私の何か言いたげな視線に、涙を浮かべた顔で笑って静かに話を始めた。絵の作者とは幼なじみだけど疎遠になっていることや、絵は昔から上手かったが、こんなに苦しい絵を描くとは知らなかったこと。
熱っぽく雅久のことを語る彼女が、彼に特別な感情を抱いていることはすぐにわかった。
今も隣であの時と同じ目をして必死に戦う彼を見ている。
雅久とは図らずも娘の桜を介して知り合い、空手から一歩身を引いていた彼に無理を言ってまた試合へ出させた。瑞樹には雅久にあったことを何もかも教えて、ぜひ彼を見て欲しいと今日は連れ出した。
どこかの昼ドラのように、すべてを自分のせいにして悲嘆にくれるような性格を私は持ち合わせていないが、何も感じない朴念仁でもいられない。
高名な医師である友人の佐用を市民病院へ招聘するお膳立ては私がした。雅久の絵を正面階段の踊り場に飾る条件の一つでもあった。
佐用はその後、高度医療技術修得のためにアメリカへ向かった。研究チームに急遽席が空いたとかつての私の恩師から連絡が入り、佐用を薦めたからだ。
その時点では瑞樹の転院のことをまだ知らなかった。
だから瑞樹の手術ができなくなったのは私のせいだと言うのは少し傲慢すぎるか。
しかし若い彼らだけに無理難題を押し付けて、大人の私が知らぬ振りなどできるはずがない。
ならばかわいい娘のためにも、前途洋々の若い後輩たちのためにも、できる限りのことはしようと思う。
しかしながら、話は少々厄介だ。
瑞樹の病気に関して、国内で佐用に勝る医師がなかなかいないだけでなく、佐用の背中に何とか手が届きそうな優秀な連中は、彼の後釜へ喜んで就こうとしない。
得てしてプライドが高いから、後塵を拝していると考えて嫌なのだろう。
必定、次に病院へ来る者は、残念ながらほどほどの腕になってしまう。
さらに面倒なのは老害としか言えない頭の固い病院の役員連中だ。
雅久たちが試合を終えて、互いの健闘を称え合っている姿を見た私は、静かに拳を握りしめて決心をした。
国内にいないなら国外に求めればいい。
彼を動かすことは、私だけでは難しいかもしれない。だけど雅久とあいつの力があれば何とかなる――そう信じて。
瑞樹が外出を許可されたのは、医師の私が付き添うからとの条件による。こうして一緒に観戦をすることになったのだが、私は珍しく自己嫌悪へ陥っていた。
瑞樹は私の直接の患者ではない。
大学時代の友人でもある佐用のオペを希望して転院をして来たが、彼は急遽渡米してしまった。諸事情から瑞樹への説明を私に任されたが、その前にあの絵を通して知り合うことになった。
希望するオペができないことを患者へ伝える嫌な役割は自業自得による。私は面談時間前に少しでも意志を奮い立たせるため、階段の踊り場にある絵の前へ向かった。
混濁する深い緑色の背景に、白い空手着を着た大きな背中と逞しく力強い右腕が振り上げられている絵。
見る者に、苦悩と力強くありたい思いを訴えかける。
私は絵のモデルも作者もよく知っている。だからこそ気持ちが揺り動かされる。
病気へ立ち向かう患者のために飾って欲しいと病院理事会や市役所へ働きかけた。一番勇気をもらっているのは私かもしれない。
面談時間の十五分前、大きく息を吐いて絵の前を去ろうとした時、一人の女の子が横に並んで絵を眺めはじめた。
その時は知る由もなかったが、その子が瑞樹だった。
立ち止まった私が瑞樹の様子を窺う。涙を浮かべながら絵の下にあった作者の名札に気づき優しく撫でている。嗚咽を我慢するように口を手で覆っていた。私があの絵に抱いたものと同じことを感じていたのだと思う。
白衣を着て医師と分かる私の何か言いたげな視線に、涙を浮かべた顔で笑って静かに話を始めた。絵の作者とは幼なじみだけど疎遠になっていることや、絵は昔から上手かったが、こんなに苦しい絵を描くとは知らなかったこと。
熱っぽく雅久のことを語る彼女が、彼に特別な感情を抱いていることはすぐにわかった。
今も隣であの時と同じ目をして必死に戦う彼を見ている。
雅久とは図らずも娘の桜を介して知り合い、空手から一歩身を引いていた彼に無理を言ってまた試合へ出させた。瑞樹には雅久にあったことを何もかも教えて、ぜひ彼を見て欲しいと今日は連れ出した。
どこかの昼ドラのように、すべてを自分のせいにして悲嘆にくれるような性格を私は持ち合わせていないが、何も感じない朴念仁でもいられない。
高名な医師である友人の佐用を市民病院へ招聘するお膳立ては私がした。雅久の絵を正面階段の踊り場に飾る条件の一つでもあった。
佐用はその後、高度医療技術修得のためにアメリカへ向かった。研究チームに急遽席が空いたとかつての私の恩師から連絡が入り、佐用を薦めたからだ。
その時点では瑞樹の転院のことをまだ知らなかった。
だから瑞樹の手術ができなくなったのは私のせいだと言うのは少し傲慢すぎるか。
しかし若い彼らだけに無理難題を押し付けて、大人の私が知らぬ振りなどできるはずがない。
ならばかわいい娘のためにも、前途洋々の若い後輩たちのためにも、できる限りのことはしようと思う。
しかしながら、話は少々厄介だ。
瑞樹の病気に関して、国内で佐用に勝る医師がなかなかいないだけでなく、佐用の背中に何とか手が届きそうな優秀な連中は、彼の後釜へ喜んで就こうとしない。
得てしてプライドが高いから、後塵を拝していると考えて嫌なのだろう。
必定、次に病院へ来る者は、残念ながらほどほどの腕になってしまう。
さらに面倒なのは老害としか言えない頭の固い病院の役員連中だ。
雅久たちが試合を終えて、互いの健闘を称え合っている姿を見た私は、静かに拳を握りしめて決心をした。
国内にいないなら国外に求めればいい。
彼を動かすことは、私だけでは難しいかもしれない。だけど雅久とあいつの力があれば何とかなる――そう信じて。
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