それでも濡れ衣には感謝している

ナギノセン

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若先生というお医者様

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 受付でもすっかり顔なじみなので『また来たのね』とか言われるのも慣れた。
 いつまで経っても慣れないのは、正面階段のすぐ上にある踊り場の絵だ。
 本当に気恥ずかしいと言うか、何とも言えない気分にさせられる。

 どうしてあんなものを描いた挙句に、延々と衆人へさらすことを了承してしまったのか。
 当時の憤懣やるかたない心のうちを、どうぞ見て知ってくださいと言っているようなものだ。

 いつもどおり遠回りをして建物奥の西階段から二階にある整形外科へ向かうべく体を向けたところ、綺麗な茶色の長い髪の女の子の後ろ姿が絵の前にあった。
 何となく瑞樹と似ている気はするが、あそこヘ行ってまで確認するつもりはない。
 絵の下には俺の名札がしっかり貼られているので誤魔化しようもないのに、もし本当にあの子が瑞樹で、絵のことを聞かれたら何をどう答えるべきか思いつかないからだ。
 それに瑞樹は菜緒に見送られて午前のうちに帰っている。そう考えると逆に俺が瑞樹の姿を求めている気がして、慌てて頭を振った。

 痛ぇっ、ないない、絶対にない。
 すっかり肩のケガを思い出して急いで整形外科へ行くと、待合所では予想外に患者さんが座っている。診療室の前のテレビには二時間待ちの表示が流れていた。
 俺がスマホで家に遅くなることを連絡してから一時間半ほど、ようやく診察を受けられた。

「若先生、今日はまた大盛況でしたね」
「ガクガク絵師、昨日ぶりですね。絵の添削をありがとうございます。桜もとても喜んでいました」

 クスクスと笑いをかみ殺す看護師さんに案内された部屋では、にこやかな若先生が嬉しくない呼び方で迎えてくれた。
 細身に白衣を少しだらしなく着て椅子に腰かける姿からは、とても師範代が務まるとは思えない感じだけど怒るとものすごく怖い。銀縁眼鏡の奥にある細く理知的な一重の目が今は笑っている。すごく忙しいけど機嫌はいいらしい。

「お願いですから、何チャラ絵師とかはネットだけにしてください」
「御謙遜を。今日も階段の前で見惚れて立っている人がいましたし、最近、病院を視察に来た私の知人も理事長へ譲って欲しいと掛け合っていましたよ、それなりの額でね。いやー、うらやましい」

 俺は何と答えたらいいのかわからず、黙って若先生を睨んだ。
 アレをあそこに飾るようになったのはこの人のせいだ。
 納得の上なのだけど、この人は絶対に面白がっているのがわかるので、素直に喜ぶことができない。

「瀧上先生、そろそろ次の患者さんもいらっしゃいますから」
「すみません、すっかりお待たせしたうえに余計なおしゃべりでしたね。で、今日はどうしましたか?」

 いつものように困った俺を見かねた看護師さんが若先生を促してくれる。表情を改めて机の上のモニターを見ながら診察を始めた若先生へケガの経緯を伝える。そしてみるみる表情が険しくなった。
 教え導く子供たちの前で、手本となるべき高校生がふざけたあげくにケガをしたのだから、師範代としては当然の反応だろう。
 俺は雷が落ちることを覚悟して少し身構えた。

「ガクガク絵師、絵が描けなくなったどうするのですか!!」
「……はい?」
「あなたの体は、あなただけのものではないと前にも言ったはずです!」
「あ、はい、すみません」

 心配してくれているのがわかるので、聞いたことのあるどこかの三流ドラマのようなセリフを口にするのはまだよしとしたい。
 だけど怒るポイントが違うんじゃない?
 しかし若先生は真剣そのもの。見かけによらない強い力でさっさと俺の道着を脱がせると治療を始めた。
 その間も何やらブツブツと文句を言っていたが、聞き流すことにした。
 大作の続きとか娘の絵の添削なんて俺の知ったことか。腱鞘炎で通っている患者の美大生にでもさせてくれ。

「大したことがなくて本当に良かった。お願いですから気をつけてください」
「すみませんでした」

 診察の終わった俺がカバンから出した服を着て道着を片づけていると、若先生が電子カルテヘ入力をしながら話し掛けてきた。

「今日は本当に遅くなって申し訳なかったですね。急な患者が入ったものですから」
「何か手術でしたか?」

 俺はこれまで診察を受けに来て、待ち時間の長かった経験を口にする。若先生はモニターから俺へ目を移して苦笑いを浮かべた。

「実は、同僚が急きょアメリカヘ行くことになって、代わりに患者さんのお話を聞くことになってしまったのですよ。担当医ではなかったのでどうかとも思ったのですが、遠方からいらっしゃるとのことで申し訳なくて断れず、だけど最後にはすごく盛り上がって時間を忘れてしまいました」

 意味がわからないけど、病院なんて患者にとっては楽しいところじゃないから、盛り上がらないよりはいいのだろう。あの絵の展示を渋る俺を、若先生が口説き落とした言葉も『患者さんに少しでも熱い気持ちを感じてもらって前向きになれる力にしたい』だった。

「それは良かったんですよね?」
「ええ、とても楽しそうに帰って行かれましたから。ところでカバンの横のそれはキャンバスですよね?」
「少しだけ描いてみたいものが出てきたもので」
「それは楽しみですね、ぜひ桜にも教えなくては」

 目を輝かせる若先生に、俺は少し困りながら笞えた。

「そこまで固まっていないので、あまり期待されてもですが」
「私は素人なのでよくわかりませんが、踊り場のものほどではないものの結構な大きさですね――本当に描く気ですか?」
「博物館の展示をイメージしたらこんなになっちゃって、どうでしょうね」

 美術部に籍を置くわけでもなく、すっかり二次絵にハマっていることをご存知の若先生に問われるとかなりの気まずさを覚えたが、言いたかったのは違うことだったようだ。

「肩のケガを治して万全になってからにしてください。わかっていますね?」
「あ、はい」
「それと出来上がったらぜひ見せて下さい。いや、製作途中でもデジカメで撮ってもらえれば、西階段の踊り場を使えるように理事会協議の準備で使います」
「絶対に見せません」

 これ以上恥部をさらしてたまるか。
 引きつった笑顔で答える俺に、若先生が目を細めて不気味な笑みを浮かべる。

「なるほど。ところで父は、このケガを知っていますか?」
「……大先生は道場にいらっしゃらなかったので、残った大和が伝えてくれているかもしれませんが、俺からはまだです」
「わかりました。では私のほうから報告をしておきますが、どんな風に伝えればよいものやら悩みますねえ。ガクガク絵師は、治療後に道場へ戻って子供たちを指導したかったけれど、私がどうしても帰れと言ったとか。印象が結構違うと思いませんか?」

 看護師さんが呆れたため息をつく中、悪そうな顔をした若先生を俺はきつく睨んだ。
 大和とふざけてケガをしたことは言い逃れができないところだが、大和はあの後も子供たちを教え続けている。
 一方の俺は、今日は遅刻をやらかしたうえに教えることもせず負傷退場だ。
 恩義のある大先生から道場で任された役目を一切果たせていないのはとても辛い。

「くっ、見せるだけだったらいいてすよ!」
「ありがとうございます。私は絵師のファン第二号ですから、第一号の娘と一緒に謹んで拝見させていただきます」

 座ったまま胸に手を当てて、優雅に頭を下げる若先生が本当に腹立たしい。 
 この取引の理不尽さに苛立ちながら、俺は病院を出て夜道を自転車で我が家ヘと急いだ。
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