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里帰りと黒歴史
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「ひろくん、見て! ワンちゃん、かわいいなー」
夕飯の食材を買いに行く途中の公園で、散歩中の柴犬が千紗へと寄って来た。犬に好かれるのは、昔も今も変わらないらしい。
「ムサシもかわいかったなー」
「その柴犬とは全然違うと思うけど……」
千紗が幼稚園の頃、親父もおふくろも健在でこの近くに俺の家もあった。熊のような秋田犬を飼っていて、金太郎のように千紗を背中へ乗せて親父は散歩をさせていた。
繋がれた鎖を切って何度も逃走をするほど気性の荒い犬だったのに、千紗へ吠えたことは一度もなかった。もちろん千紗もお気に入りだったけれど三年ほど前に天寿を全うしている。
「――ムサシに会いたいな」
「さすがに無理だけど、似たようなワンコだったら田舎で親父が飼っていたな」
「ジイジが?」
「そうか。千紗は行ったことがなかったか」
「今すぐ行きたい! ジイジにも会いたい!」
「俺は――あまり会いたくないな」
何かと文句を言われるのが目に見えているので当然乗り気にはならない俺。対照的に千紗は妙に乗り気である。
本当に何もない田舎だから行ってもすぐに飽きると思うのだけど、今は耳に入らないだろう。
「じゃあ一人で行って来る。ひろくんは来たくないって言っとくから!」
「それはなかなかひどい仕打ちだぞ」
「もうすぐお休みも終わっちゃうし、何処か一緒に行きたーい」
「はいはい、わかりました。連れて行きますよ、連れて行けばいいんでしょ!」
「やった!」
買い物袋を抱えた千紗が俺の左腕に抱きつく。
その週末、俺は嫌々、千紗は大喜びで田舎へ帰った。
俺は今住んでいるこの町で生まれて育った。田舎と言っても親父とじいちゃんの生まれ故郷のことになる。
子供の頃は夏休みになるといつも遊びに行って、長ければ二週間ほどいたこともあった。おかげで知り合いもそこそこいるけれど、なるべく会わずに済ませたい人もいる。
千紗は親父がそこら中を連れ回すだろうし、俺はひっそり息を殺していようと思う。
なんて考えは通用しないのが田舎。
見たことのない車が止まっているとすぐにバレる。
戸締りなどしないので、勝手に人がどんどん家へと入って来る。
俺が久しぶりに来ていることがすっかり知れ渡る。
そして誰もいない家で手持ち無沙汰にテレビを見ていると、居間の窓が突然開いた。
「ひろー、久しぶりだね」
「せ、せっちゃんこそ、げ、元気そうだね。ひょっとして里帰り?」
「んなわけないでしょー。聞いてないの? 私、先月離婚して出戻りなんだから」
顔を見せて縁側に座るなり不意打ちをかましてくれたのは、親戚筋にあたる三歳年上の世津子。
血の気が一瞬で引いた。一番会いたくない人物が現れてしまった。いないと思って帰って来たのに大間違いだったらしい。
俺と同じくらい何とも言えない表情を浮かべる世津子は、昔は長かった髪もすっぱり切ってショートボブにしている。美人と言うよりは小動物のように愛らしい顔で、好感を持たれやすいと思う。俺より一つ年下の弟がいて、いつも一緒に遊んでもらっていた。
今は何処かへ出掛けた帰りのような、田舎らしくないオシャレをしている。
膝上くらいの黒いタイトスカートに、少し網目の入ったグレーっぽい色のストッキング。ダウンジャケットを着ているが前は開いていて、白いニットセーターが大きめの胸の存在を強調していた。
世津子は、かなりのおてんば娘だった。
しかし彼女が小学五年生になった夏に俺達と遊ばなくなった。いわゆる思春期だと今はわかる。
小学二年生で何も考えてなかった俺は、不思議に感じて世津子を呼びに家へ勝手に上がり、昼寝中の彼女を見つけた。
久し振りに会った世津子の胸が少し膨らんでいることに気づくと、どうしても触りたくなってつい指先で突いてしまった。
その時の俺が口にしたセリフがある。
『おっぱいぷっちゅん』だ。
世津子は当然に目を覚まして、俺の頬を思い切り叩いてから泣き出した。俺もそれまで見たことのない世津子の怒りと頬の痛みに思わず泣いてしまった。
小学生と言うのは今考えれば本当にいい身分だと思う。普通に考えれば早熟すぎるガキの悪戯を𠮟るべきところなのに、大人達は皆大笑いをして俺を怒る者は誰もいなかった。
ただし一つだけ絶対に答えろと言われて、尋ねられたことがある。
『どうして世津子の胸を触ったのか』と。
当時の無邪気な俺は、思い出しても恥ずかしくなるくらいはっきりと答えた。
『だって、せっちゃんが好きだから』と。
初恋だったのだと思う。
おかげで世津子はあっさりと許してくれたけれど、ずっとおちょくられるネタにもなった。
だから会いたくなかったんだ。千紗にも軽蔑されそうで絶対に知られたくない。
「私、フリーになったけど、おっぱいさわってみる?」
「……バ、バカ言うなっ」
「昔はあんなに喜んでくれたのに、おばさんになった私に興味がなくなったのね! ひどいわっ!」
「せっちゃん、頼むから冗談でもやめて」
「どうしたのよ、つれないわね」
再会して早々の世津子が悪乗りをした原因は、白いニットセーターの膨らみへ吸い寄せられた俺の視線を察知したからだろう。我ながら懲りないと思う。
何処か楽しそうな世津子は今でも十分魅力的だし、思わず手が出そうになる。
多分と言うか、間違いなく触っても怒られない自信はあるので、据え膳食わぬは男の恥との気持ちをどうにか抑え込む。
今ここで歯止めを利かせておかないと、千紗のいるところで同じことをやられた日には目も当てられない。後悔先に立たずは身をもって知っている。
夕飯の食材を買いに行く途中の公園で、散歩中の柴犬が千紗へと寄って来た。犬に好かれるのは、昔も今も変わらないらしい。
「ムサシもかわいかったなー」
「その柴犬とは全然違うと思うけど……」
千紗が幼稚園の頃、親父もおふくろも健在でこの近くに俺の家もあった。熊のような秋田犬を飼っていて、金太郎のように千紗を背中へ乗せて親父は散歩をさせていた。
繋がれた鎖を切って何度も逃走をするほど気性の荒い犬だったのに、千紗へ吠えたことは一度もなかった。もちろん千紗もお気に入りだったけれど三年ほど前に天寿を全うしている。
「――ムサシに会いたいな」
「さすがに無理だけど、似たようなワンコだったら田舎で親父が飼っていたな」
「ジイジが?」
「そうか。千紗は行ったことがなかったか」
「今すぐ行きたい! ジイジにも会いたい!」
「俺は――あまり会いたくないな」
何かと文句を言われるのが目に見えているので当然乗り気にはならない俺。対照的に千紗は妙に乗り気である。
本当に何もない田舎だから行ってもすぐに飽きると思うのだけど、今は耳に入らないだろう。
「じゃあ一人で行って来る。ひろくんは来たくないって言っとくから!」
「それはなかなかひどい仕打ちだぞ」
「もうすぐお休みも終わっちゃうし、何処か一緒に行きたーい」
「はいはい、わかりました。連れて行きますよ、連れて行けばいいんでしょ!」
「やった!」
買い物袋を抱えた千紗が俺の左腕に抱きつく。
その週末、俺は嫌々、千紗は大喜びで田舎へ帰った。
俺は今住んでいるこの町で生まれて育った。田舎と言っても親父とじいちゃんの生まれ故郷のことになる。
子供の頃は夏休みになるといつも遊びに行って、長ければ二週間ほどいたこともあった。おかげで知り合いもそこそこいるけれど、なるべく会わずに済ませたい人もいる。
千紗は親父がそこら中を連れ回すだろうし、俺はひっそり息を殺していようと思う。
なんて考えは通用しないのが田舎。
見たことのない車が止まっているとすぐにバレる。
戸締りなどしないので、勝手に人がどんどん家へと入って来る。
俺が久しぶりに来ていることがすっかり知れ渡る。
そして誰もいない家で手持ち無沙汰にテレビを見ていると、居間の窓が突然開いた。
「ひろー、久しぶりだね」
「せ、せっちゃんこそ、げ、元気そうだね。ひょっとして里帰り?」
「んなわけないでしょー。聞いてないの? 私、先月離婚して出戻りなんだから」
顔を見せて縁側に座るなり不意打ちをかましてくれたのは、親戚筋にあたる三歳年上の世津子。
血の気が一瞬で引いた。一番会いたくない人物が現れてしまった。いないと思って帰って来たのに大間違いだったらしい。
俺と同じくらい何とも言えない表情を浮かべる世津子は、昔は長かった髪もすっぱり切ってショートボブにしている。美人と言うよりは小動物のように愛らしい顔で、好感を持たれやすいと思う。俺より一つ年下の弟がいて、いつも一緒に遊んでもらっていた。
今は何処かへ出掛けた帰りのような、田舎らしくないオシャレをしている。
膝上くらいの黒いタイトスカートに、少し網目の入ったグレーっぽい色のストッキング。ダウンジャケットを着ているが前は開いていて、白いニットセーターが大きめの胸の存在を強調していた。
世津子は、かなりのおてんば娘だった。
しかし彼女が小学五年生になった夏に俺達と遊ばなくなった。いわゆる思春期だと今はわかる。
小学二年生で何も考えてなかった俺は、不思議に感じて世津子を呼びに家へ勝手に上がり、昼寝中の彼女を見つけた。
久し振りに会った世津子の胸が少し膨らんでいることに気づくと、どうしても触りたくなってつい指先で突いてしまった。
その時の俺が口にしたセリフがある。
『おっぱいぷっちゅん』だ。
世津子は当然に目を覚まして、俺の頬を思い切り叩いてから泣き出した。俺もそれまで見たことのない世津子の怒りと頬の痛みに思わず泣いてしまった。
小学生と言うのは今考えれば本当にいい身分だと思う。普通に考えれば早熟すぎるガキの悪戯を𠮟るべきところなのに、大人達は皆大笑いをして俺を怒る者は誰もいなかった。
ただし一つだけ絶対に答えろと言われて、尋ねられたことがある。
『どうして世津子の胸を触ったのか』と。
当時の無邪気な俺は、思い出しても恥ずかしくなるくらいはっきりと答えた。
『だって、せっちゃんが好きだから』と。
初恋だったのだと思う。
おかげで世津子はあっさりと許してくれたけれど、ずっとおちょくられるネタにもなった。
だから会いたくなかったんだ。千紗にも軽蔑されそうで絶対に知られたくない。
「私、フリーになったけど、おっぱいさわってみる?」
「……バ、バカ言うなっ」
「昔はあんなに喜んでくれたのに、おばさんになった私に興味がなくなったのね! ひどいわっ!」
「せっちゃん、頼むから冗談でもやめて」
「どうしたのよ、つれないわね」
再会して早々の世津子が悪乗りをした原因は、白いニットセーターの膨らみへ吸い寄せられた俺の視線を察知したからだろう。我ながら懲りないと思う。
何処か楽しそうな世津子は今でも十分魅力的だし、思わず手が出そうになる。
多分と言うか、間違いなく触っても怒られない自信はあるので、据え膳食わぬは男の恥との気持ちをどうにか抑え込む。
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