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横抱きに抱き上げられ夢栗 希はげんなりしていた。自分から言い出したこととはいえ、もう勘弁してほしい。
「姫……」
希を姫と呼んだ高名 由人はというと、最初は渋っていたというのに、なんという豹変ぶりだろう。うっとりと見つめられても、彼女には自分が姫扱いされているようには思えなかったが。
昼休みだけ開放される威澄中の屋上で、二人は「お姫様ごっこ」をしていた。風が冷たくなってくる季節柄、屋上が貸し切り状態になっているので見咎める者は誰もいない。いつもは希の彼氏・桑名 時満と由人の彼氏・有塚 園夫を交えた四人で平和に弁当をつついているのだが、今日は一学年上の時満と園夫は進路指導室に呼ばれていてまだ来ていないのだ。
だから助けはいつ来るのか分からない。
希はため息をついた。
ことの発端となったのは、昨夜テレビ放映されたファンタジーものの洋画だ。春に劇場公開されたそれは、四人で観に行く約束だけはしておきながら予定が合わずお流れになってしまったという代物で、希と由人はずっと楽しみにしていた。
ある国の王子が敵国の寵姫と恋に落ちるという内容で、不義がばれ国外追放となった姫を王子が救出するという場面がある。王子は森の中、座り込んでいた姫をお姫様だっこするのだ。
希と由人は大興奮で感想を捲し立てあっていた。
「あそこが一番よかった~。お父さんがくっさい屁こかなきゃもっと泣けたんだけどね」
「うちは家族で息を殺して集中してたよ。キスシーンではみんな大泣きでさ」
「羨ましい!」
と、こんな具合である。
「そういえば、のぞみんってちょっと姫に似てるよね」
「えっ?」
目をキラッとさせた希に、由人は称えるような眼差しを向ける。
「アジア系美女だったしね。キリッとしててさ。のぞみんもかっこいいもんね」
「いや~、それほどでも……あるかもね!」
得意げに流し目をくれた希の目は切れ長だ。黒のショートヘアが似合う長身の彼女は、肌も白く若さに光り輝いていた。
「姫ほど色っぽくはないけど……」
ガクッと希の肩が落ちる。
「自信過剰なところが瓜二つだよね」
「ちょっと、それで褒めてるつもり!?」
「えへへ、だって……」
由人は悪びれもせず言ってのけた。
「のぞみんが調子に乗るから」
ガーン――……
希は言葉をなくした。
「あ、あんたね……!」
やっとのことで唸り声を発したときには、希の怒りを火種に燃え上がった炎がとぐろを巻きはじめていた。だが彼女は、由人のへらへら顔を睨みながらも、怒鳴りつけたくなる衝動を懸命に抑える。
別に遠慮しているわけではない。学習の成果を発揮しようとしているのだ。希は長年、大声を出しては由人に泣かれ、なあなあのまま許させられてしまうという日々を繰り返してきた。だが……!
(あたしだって、言うときゃ言うのよっ!)
希はふっと笑みを浮かべた。
「よく見りゃ、ゆーも王子に似てるよ」
きょとんとしている由人を見据え、彼のうつくしさを称えてやる。目には目を、歯には歯を作戦だ。
「イギリス人とのハーフってのは伊達じゃないわよね。金髪碧眼で色白、長身だなんて夢のようだもの。あたしに身長で勝ってるの、ゆーくらいだし。あんただったら、あたしのこともお姫様だっこできるんでしょうね」
「うん」
即答された!
「っ……!?」
あまりにも当然そうな顔で返されたので、希は一瞬めまいを覚え
「でも、のぞみん」
それが命取りになった。
「僕は浮気はしないよ?」
どこか、憐れむような口調だった。
(なんですって――!?)
続くはずだったのに。『でもあんたほど、見掛け倒しって言葉が似合うやつもいないわよね』と。
なのに由人は、口をぱくぱくさせている希をどう取ったのか、真摯な目をして言ってくる。
「時さんが忙しくて寂しい気持ちは分かるけど、そんなことしたら駄目だよ。あとで傷つくのはのぞみんなんだから。今、頑張ってる時さんと園くんのためにも、もう少し我慢してようよ」
手を包み込まれた。
「きっとまた前みたいに、四人で出掛けられるようになるからさ」
希はずばん、と手を振り払った。
「なんでそうなんのよ!?」
「わああぁっ!?」
更に突き飛ばすと、由人が尻餅をつく。もし目の前にちゃぶ台があったらみそ汁とごはんごとひっくり返してやったのに。
「あんた、ほんとに失礼な奴よね。一度あんたの、そのでろでろに煮立った毒々しい頭の中身を、塩素系漂白剤で真っ白にしてやりたいわ!」
「ひ、ひどいよ。のぞみん」
「どっちがよ!?」
希の頭からは「理性」という言葉が完全に吹っ飛んでいた。
「よりによって浮気だなんて、言いがかりも大概にしてよ。しかも相手があんただなんて……へそで茶が沸いちゃうわ!」
「え、違うの?」
不思議そうに瞬かれた。
「違うわよ。どこから出てきたのよ、それ!?」
「だって~」
ひーん、と由人は泣き声を上げる。
「お姫様だっこして、なんて言うから」
「はあ!? 言ってないし!」
ふん、と希は鼻息を荒くする。
「大体、なんでお姫様だっこが浮気なのよ?」
聞いてやると、由人は目を白黒させた。
「へっ? だからさ、そういうのって好きな人同士でするものでしょ? そりゃ、僕だって子供の頃からそういうの憧れてたし、育ちすぎちゃったのぞみんが時さんにそれを頼めない気持ちも分かるけど……」
ブチィッ!
「言ってないって言ってんでしょ――!?」
「わああんっ!?」
胸倉を掴まれ逃げ腰になる由人の眼前に、頭突きせんばかりの勢いで希が迫った。
「あんたの頭の中がお花畑だからって、あたしまでそうだと思わないでよね! そりゃ……ちょっとは、あたしだって……時にしてほしくないわけじゃ、ないけど……」
一瞬、時満の優しい笑顔が頭を過ぎった。焦げ茶色の髪を横に流し、茶道部の部室で優雅にお茶を点てている――彼は副部長なのだ。
「けど、夢と現実をごっちゃにする気は、あたしにはないの。……大体、あんただってアリとお姫様だっこなんて一生かけても無理なくせに!」
アリとは園夫の愛称だ。どこまでも雄々しいボクシング野郎である彼は、恋人と同級生以下の人間が名前呼びすることを認めない、上下関係にうるさい奴。出会った当初は希も「有塚さんと呼べ」としつこく言われた。時満と由人の執り成しのおかげで、なんとか今の形に落ち着いたが、いくら由人の涙を以ってしてもこの件ばかりは無理に決まってる。
される方など屈辱でしかないだろうし、する方では体格差が問題になる。園夫の身長は平均より少し低い程度だが、由人の身長は二メートル近くあるのだ。園夫がいくらムキムキでも、さすがに分が悪い。
とはいえ
「うっ……うっ……」
(あー……)
ちょっと言い過ぎたかな、と思った途端。
「うわあああんっ、のぞみんの馬鹿。考えないようにしてたのに、なんでそんなこと言うんだよ~!?」
「な、なによ。あんたが先に言ったことでしょ!?」
「のぞみんの馬鹿~! 冷血漢~!」
「なんですって!?」
「わあああんっ、わああああんっ!」
由人は手足をばたばたさせ、駄々っ子のようにコンクリートの床を転げ回りはじめた。
(ああああー……)
希はふらふらと由人から離れた。その場で頭を抱えてしまう。
(またやっちゃった……)
後悔しても、もう遅い。どうして自分はこう、こらえ性がないんだろう。勝率はあったはずなのに。それともこれが、自分の宿命というやつなのだろうか?
希は瞑目した。
こうなっては仕方がない。潔く負けを認めよう。放っておけばいいじゃないかと人にはよく言われるが、この幼なじみを見捨てることは到底できそうにない。
そうして希は、大きな赤ん坊を宥めるために猫撫で声を出しはじめた。
それがどうして、こんなことになっているのかというと。
「ちょっと、いい加減降ろしてよ」
「やだ。せっかく、抱き心地がいいのに」
「やめてー!」
力無く嫌がる希に由人はすりすり頬擦りした。はしゃいだ彼に抱き上げられたまま、走り回られぐるぐる振り回された彼女は乗り物酔い状態になってしまい、怒鳴る気力も、もはやないのだ。
希は知らなかった。お姫様だっこが、こんなにも人を無力化できるものだったなんて。
――つまり、ごっこ遊びで機嫌を取ることにした、というわけだ。
由人は最初、宥めてもすかしても謝ってみても、ただ泣き叫ぶばかりだった。気を逸らさせようと、屋上からの景色に注意を向けさせようとしても、遊びに誘ってみても駄目。それで考えてみた結果、彼はお姫様だっこがしたいのにできないから泣いているのだと思い至った。
そこで希が「あたしがアリの代わりをしてあげる」と提案してやったのだ。
とはいえもちろん、それとて由人は嫌がった。希がなけなしの母性を総動員して誘ってやったというのに「僕は絶対、浮気はしない」の一点張り。目の方は物欲しげにこちらを向いているのに、そこまで操立てするのかと、ちょっとイラッときたものだ。
だが希はそれでも笑顔を保った。「そんなこと言ったら芸能人なんて恋愛できないじゃない」とか「これはごっこなんだから浮気になんてならないのよ」とか言葉を尽くして説得し、なんとかここまできたのだ。
――失敗だったが。
(誰か助けてー!)
「のぞみん軽ーい。いい匂いー。やっぱり女の子は収まりがいいな~」
(収まりって何よ、それ!?)
希は胸中でだけ悲鳴を上げる。……吐きそうだ。
(どうしてこんな目に。好きでさせてるわけでもないのに……)
よく分からない喪失感のようなものに、希は支配されていた。
そのとき。
バン!
「わりーわりー、遅くなっちまった――」
校舎側から扉を開けて園夫が飛び込んできた。
同時に、感じたのは浮遊感。
「なっ……!?」
「希……!?」
園夫と、少し遅れて出てきた時満が愕然としている。希は、両腕を万歳させたまま硬直している由人の手を遠く離れ、空に投げ出されていた。校庭と威澄町の全景と、秋晴れの空が希の視界を横切っていき――。
「だあああーー!!」
キスしつつあった希と床との間に滑り込んできたのは、一番フットワークの軽い園夫だった。
ゴスッ!
希の膝が園夫の脛にヒットする。
「ぐおあああおっ!?」
園夫はたまらず彼女の下から転がり出た。
「園くん、大丈夫!?」
「うおああああっ!?」
血相を変えて走り寄る由人と、苦しむ園夫。希が呆然とそれを見守っていると
「希、大丈夫か!?」
同じく駆けてきた時満に助け起こされた。
「うん、ありが……」
バッシン!
「いだあっ!?」
と、由人の悲痛な叫び声が飛んできた。
「何やってんだ、馬鹿由人。夢栗が死んだらどうすんだ!?」
(……いや、さすがに死なないけどね)
とは、フォローしてやる気になれない希だった。
「姫……」
希を姫と呼んだ高名 由人はというと、最初は渋っていたというのに、なんという豹変ぶりだろう。うっとりと見つめられても、彼女には自分が姫扱いされているようには思えなかったが。
昼休みだけ開放される威澄中の屋上で、二人は「お姫様ごっこ」をしていた。風が冷たくなってくる季節柄、屋上が貸し切り状態になっているので見咎める者は誰もいない。いつもは希の彼氏・桑名 時満と由人の彼氏・有塚 園夫を交えた四人で平和に弁当をつついているのだが、今日は一学年上の時満と園夫は進路指導室に呼ばれていてまだ来ていないのだ。
だから助けはいつ来るのか分からない。
希はため息をついた。
ことの発端となったのは、昨夜テレビ放映されたファンタジーものの洋画だ。春に劇場公開されたそれは、四人で観に行く約束だけはしておきながら予定が合わずお流れになってしまったという代物で、希と由人はずっと楽しみにしていた。
ある国の王子が敵国の寵姫と恋に落ちるという内容で、不義がばれ国外追放となった姫を王子が救出するという場面がある。王子は森の中、座り込んでいた姫をお姫様だっこするのだ。
希と由人は大興奮で感想を捲し立てあっていた。
「あそこが一番よかった~。お父さんがくっさい屁こかなきゃもっと泣けたんだけどね」
「うちは家族で息を殺して集中してたよ。キスシーンではみんな大泣きでさ」
「羨ましい!」
と、こんな具合である。
「そういえば、のぞみんってちょっと姫に似てるよね」
「えっ?」
目をキラッとさせた希に、由人は称えるような眼差しを向ける。
「アジア系美女だったしね。キリッとしててさ。のぞみんもかっこいいもんね」
「いや~、それほどでも……あるかもね!」
得意げに流し目をくれた希の目は切れ長だ。黒のショートヘアが似合う長身の彼女は、肌も白く若さに光り輝いていた。
「姫ほど色っぽくはないけど……」
ガクッと希の肩が落ちる。
「自信過剰なところが瓜二つだよね」
「ちょっと、それで褒めてるつもり!?」
「えへへ、だって……」
由人は悪びれもせず言ってのけた。
「のぞみんが調子に乗るから」
ガーン――……
希は言葉をなくした。
「あ、あんたね……!」
やっとのことで唸り声を発したときには、希の怒りを火種に燃え上がった炎がとぐろを巻きはじめていた。だが彼女は、由人のへらへら顔を睨みながらも、怒鳴りつけたくなる衝動を懸命に抑える。
別に遠慮しているわけではない。学習の成果を発揮しようとしているのだ。希は長年、大声を出しては由人に泣かれ、なあなあのまま許させられてしまうという日々を繰り返してきた。だが……!
(あたしだって、言うときゃ言うのよっ!)
希はふっと笑みを浮かべた。
「よく見りゃ、ゆーも王子に似てるよ」
きょとんとしている由人を見据え、彼のうつくしさを称えてやる。目には目を、歯には歯を作戦だ。
「イギリス人とのハーフってのは伊達じゃないわよね。金髪碧眼で色白、長身だなんて夢のようだもの。あたしに身長で勝ってるの、ゆーくらいだし。あんただったら、あたしのこともお姫様だっこできるんでしょうね」
「うん」
即答された!
「っ……!?」
あまりにも当然そうな顔で返されたので、希は一瞬めまいを覚え
「でも、のぞみん」
それが命取りになった。
「僕は浮気はしないよ?」
どこか、憐れむような口調だった。
(なんですって――!?)
続くはずだったのに。『でもあんたほど、見掛け倒しって言葉が似合うやつもいないわよね』と。
なのに由人は、口をぱくぱくさせている希をどう取ったのか、真摯な目をして言ってくる。
「時さんが忙しくて寂しい気持ちは分かるけど、そんなことしたら駄目だよ。あとで傷つくのはのぞみんなんだから。今、頑張ってる時さんと園くんのためにも、もう少し我慢してようよ」
手を包み込まれた。
「きっとまた前みたいに、四人で出掛けられるようになるからさ」
希はずばん、と手を振り払った。
「なんでそうなんのよ!?」
「わああぁっ!?」
更に突き飛ばすと、由人が尻餅をつく。もし目の前にちゃぶ台があったらみそ汁とごはんごとひっくり返してやったのに。
「あんた、ほんとに失礼な奴よね。一度あんたの、そのでろでろに煮立った毒々しい頭の中身を、塩素系漂白剤で真っ白にしてやりたいわ!」
「ひ、ひどいよ。のぞみん」
「どっちがよ!?」
希の頭からは「理性」という言葉が完全に吹っ飛んでいた。
「よりによって浮気だなんて、言いがかりも大概にしてよ。しかも相手があんただなんて……へそで茶が沸いちゃうわ!」
「え、違うの?」
不思議そうに瞬かれた。
「違うわよ。どこから出てきたのよ、それ!?」
「だって~」
ひーん、と由人は泣き声を上げる。
「お姫様だっこして、なんて言うから」
「はあ!? 言ってないし!」
ふん、と希は鼻息を荒くする。
「大体、なんでお姫様だっこが浮気なのよ?」
聞いてやると、由人は目を白黒させた。
「へっ? だからさ、そういうのって好きな人同士でするものでしょ? そりゃ、僕だって子供の頃からそういうの憧れてたし、育ちすぎちゃったのぞみんが時さんにそれを頼めない気持ちも分かるけど……」
ブチィッ!
「言ってないって言ってんでしょ――!?」
「わああんっ!?」
胸倉を掴まれ逃げ腰になる由人の眼前に、頭突きせんばかりの勢いで希が迫った。
「あんたの頭の中がお花畑だからって、あたしまでそうだと思わないでよね! そりゃ……ちょっとは、あたしだって……時にしてほしくないわけじゃ、ないけど……」
一瞬、時満の優しい笑顔が頭を過ぎった。焦げ茶色の髪を横に流し、茶道部の部室で優雅にお茶を点てている――彼は副部長なのだ。
「けど、夢と現実をごっちゃにする気は、あたしにはないの。……大体、あんただってアリとお姫様だっこなんて一生かけても無理なくせに!」
アリとは園夫の愛称だ。どこまでも雄々しいボクシング野郎である彼は、恋人と同級生以下の人間が名前呼びすることを認めない、上下関係にうるさい奴。出会った当初は希も「有塚さんと呼べ」としつこく言われた。時満と由人の執り成しのおかげで、なんとか今の形に落ち着いたが、いくら由人の涙を以ってしてもこの件ばかりは無理に決まってる。
される方など屈辱でしかないだろうし、する方では体格差が問題になる。園夫の身長は平均より少し低い程度だが、由人の身長は二メートル近くあるのだ。園夫がいくらムキムキでも、さすがに分が悪い。
とはいえ
「うっ……うっ……」
(あー……)
ちょっと言い過ぎたかな、と思った途端。
「うわあああんっ、のぞみんの馬鹿。考えないようにしてたのに、なんでそんなこと言うんだよ~!?」
「な、なによ。あんたが先に言ったことでしょ!?」
「のぞみんの馬鹿~! 冷血漢~!」
「なんですって!?」
「わあああんっ、わああああんっ!」
由人は手足をばたばたさせ、駄々っ子のようにコンクリートの床を転げ回りはじめた。
(ああああー……)
希はふらふらと由人から離れた。その場で頭を抱えてしまう。
(またやっちゃった……)
後悔しても、もう遅い。どうして自分はこう、こらえ性がないんだろう。勝率はあったはずなのに。それともこれが、自分の宿命というやつなのだろうか?
希は瞑目した。
こうなっては仕方がない。潔く負けを認めよう。放っておけばいいじゃないかと人にはよく言われるが、この幼なじみを見捨てることは到底できそうにない。
そうして希は、大きな赤ん坊を宥めるために猫撫で声を出しはじめた。
それがどうして、こんなことになっているのかというと。
「ちょっと、いい加減降ろしてよ」
「やだ。せっかく、抱き心地がいいのに」
「やめてー!」
力無く嫌がる希に由人はすりすり頬擦りした。はしゃいだ彼に抱き上げられたまま、走り回られぐるぐる振り回された彼女は乗り物酔い状態になってしまい、怒鳴る気力も、もはやないのだ。
希は知らなかった。お姫様だっこが、こんなにも人を無力化できるものだったなんて。
――つまり、ごっこ遊びで機嫌を取ることにした、というわけだ。
由人は最初、宥めてもすかしても謝ってみても、ただ泣き叫ぶばかりだった。気を逸らさせようと、屋上からの景色に注意を向けさせようとしても、遊びに誘ってみても駄目。それで考えてみた結果、彼はお姫様だっこがしたいのにできないから泣いているのだと思い至った。
そこで希が「あたしがアリの代わりをしてあげる」と提案してやったのだ。
とはいえもちろん、それとて由人は嫌がった。希がなけなしの母性を総動員して誘ってやったというのに「僕は絶対、浮気はしない」の一点張り。目の方は物欲しげにこちらを向いているのに、そこまで操立てするのかと、ちょっとイラッときたものだ。
だが希はそれでも笑顔を保った。「そんなこと言ったら芸能人なんて恋愛できないじゃない」とか「これはごっこなんだから浮気になんてならないのよ」とか言葉を尽くして説得し、なんとかここまできたのだ。
――失敗だったが。
(誰か助けてー!)
「のぞみん軽ーい。いい匂いー。やっぱり女の子は収まりがいいな~」
(収まりって何よ、それ!?)
希は胸中でだけ悲鳴を上げる。……吐きそうだ。
(どうしてこんな目に。好きでさせてるわけでもないのに……)
よく分からない喪失感のようなものに、希は支配されていた。
そのとき。
バン!
「わりーわりー、遅くなっちまった――」
校舎側から扉を開けて園夫が飛び込んできた。
同時に、感じたのは浮遊感。
「なっ……!?」
「希……!?」
園夫と、少し遅れて出てきた時満が愕然としている。希は、両腕を万歳させたまま硬直している由人の手を遠く離れ、空に投げ出されていた。校庭と威澄町の全景と、秋晴れの空が希の視界を横切っていき――。
「だあああーー!!」
キスしつつあった希と床との間に滑り込んできたのは、一番フットワークの軽い園夫だった。
ゴスッ!
希の膝が園夫の脛にヒットする。
「ぐおあああおっ!?」
園夫はたまらず彼女の下から転がり出た。
「園くん、大丈夫!?」
「うおああああっ!?」
血相を変えて走り寄る由人と、苦しむ園夫。希が呆然とそれを見守っていると
「希、大丈夫か!?」
同じく駆けてきた時満に助け起こされた。
「うん、ありが……」
バッシン!
「いだあっ!?」
と、由人の悲痛な叫び声が飛んできた。
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