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三章 モンブロワ公国編
36話 悲劇
しおりを挟むグラスでお茶を転がしながら、ステファンの前の行列が捌けるのを待っていたが人が減る気配がない。
魔王は小さく唸って、中庭の花を見に行った垂れ目の少女を探す。やっぱり女の子だなぁ、なんて呑気な事を考え、次は金髪の少女を探した。此処のシャンパンは美味しくない、と言いながらも水の様に飲み下してる姿が見えて、相変わらずだなぁ、と微笑む。
『っと…ごめんね』
「嗚呼、失礼」
余所見をしていて、タキシード姿の男とぶつかってしまった。彼の持っていたワインが溢れ、魔王が着ていた服に染みを作る。
「すまないね」
『いや、僕が悪かったよ。気にしないで』
目の前の男は申し訳なさそうに笑って会釈をして見せた。借り物の服を汚す訳にはいかなかったが、まだ拭けば間に合うだろうか、と白髪の青年は背広を脱ぐ。
胸の辺りから見事に湿り、ボーイに濡れタオルを借りようとした。
「あらっ、」
今度は振り向き様に女性とぶつかってしまった。豪勢なドレスを着た女性が蹌踉めき、持っていたグラスが魔王の腹部に押し当てられる。
『…、と…』
「きゃぁ!ごめんなさい?私ったら」
白いシャツに染みた、真っ赤な赤色。周囲から嘲笑が漏れて、白髪の青年も事態を理解した。
『態と…かぁ』
何とも気の抜けた、あまり気にしてない声色。いつもの癖なのか困った様に微笑みを浮かべて、レンタル品の服を心配している。
「平民風情が」
「此処を何処だと…」
ヒソヒソと口々に吐かれる嫌厭を含む言葉の数々。気にした素振りも見せず淡々としている魔王に、ホーリーは青筋を立てた。
青年の視界に入らない様に注意しながら「平民臭いぞ!」と指を差して嘲笑う。
「ふふ、ワインの匂いで少しはマシになるかしら?」
周囲の人間が一斉にグラスを掲げて白髪の青年に浴びせた。逃げる事も避ける事もしなかった青年は酒でびしょ濡れになり、キョトンとしている。
列に並んでいたイシュベルトが其方に気付き、「何をやっている!?」と声を張り上げた。
「何って?害虫駆除さ」
「平民は身の丈に合った生活をしなくては」
「濡れてしまったなぁ!中庭の噴水で洗ってあげような」
イシュベルトは怒りでわなわな震え、事の重大さに気付いてない貴族達を青年から引き離そうとした。
その時、中庭に居たらしい2人の部下が戻って来て主人の姿に顔面蒼白になる。
「…、あ〝?誰ぇ?アルバちゃんにこんな事したのぉ。私達が離れてる間にさぁ」
「お兄様を1人にした自分が許せない。脆弱な人間風情がお兄様になんて事を!」
ステファンの元へ並んでいた貴族達も異変に気付いたのか、此方へ集まって来た。
「許さない、ぐちゃぐちゃにして引き裂いてぇ、魔獣の餌にしても足りない。一瞬では終わらせない、苦しめて苦しめてぇ、殺して下さいって言うまで痛め付けるからぁ。…テメーらクソゴミ以下の分際でなぁッ!!!」
『ルカ』
言葉が荒汚くなった少女の名前を呼んだ。その声は今まで聞いたどの声よりも冷たく、突き刺される様に鋭利だった。金髪の少女も驚いて、白髪の青年を見る。
『マテだ』
まるで犬に命令するかの如く、短かかった。白髪の青年は前髪を無理やり下ろしているせいで表情が分かりにくい。
彼はテーブルにあったワインボトルを鷲掴みにし、それに口を付けて勢い良く飲む。それには周囲で囃し立てていた貴族もギョッとして彼に注目した。些か乱暴に空になったボトルをテーブルに戻し大きな音を立て、青年は長く息を吐き出す。
煩しげに眼鏡を外し、手袋を口で噛んで手を抜き取った。眼鏡と手袋をテーブルに置き、びっしょりと濡れて張り付く髪を掻き上げる。露わになった青年は、血も凍る程に冷たい表情をしていた。
類を見ないルビーアイが会場を一瞥し、貴族達が畏怖の念に駆られる。何処かで「ブルクハルトの…」と声がして「ま…魔王…!?」と悲鳴が上がり騒めいた。
金髪の少女と垂れ目の少女は、主人の記憶が戻ったのではないかと息を飲む。それ程に今の青年は、冷酷と謳われた頃の彼そっくりだった。
『こんな気分は久々だ』
彼が視線を動かすだけで、貴族達が恐れ慄いている。それ程の目に見えない圧迫感、殺気ではないがプレッシャーがあった。
「お、お許し下さい陛下…っ!」
「申し訳ありませんでした…!!」
イシュベルトとステファンが並んで床に這い蹲る。彼を歓迎する舞踏会の筈が、何かの間違いでこんな事に。彼の2人の部下でさえ固まってしまっている中で、彼らが動く事が出来たのは奇跡とも言えた。
『この国が腐敗してるのは、着いた時から分かっていた』
周囲をぐるり見据えて、魔王が吐き捨てる。まるで別人の様な変貌ぶりにイシュベルトは生唾を飲む。(一体、何が…)普段の彼からは想像も出来ない侮蔑を含んだ声と言葉。背筋が凍る様な冷たい表情。
イシュベルトは彼の身体から立ち込める酒の強烈な匂いに、彼の言葉を思い出す。(酒…)あまり得意ではない、以前飲んだ時に記憶を無くしたと、そう言っていた。
だからパーティーの席で彼の為に茶か水を用意する様、ステファンへ伝えたのだ。それを、彼を侮る馬鹿者が…。奥歯を噛んで、彼から離れてしまった事を後悔する。
『貴様らの貴族至上主義には正直吐き気がする』
「陛下、我が国の者が無礼を働いて大変申し訳ない。許して頂けるなら、何でも…望みの物を差し出します!!」
『……それは本当に何でもか?』
確認をする様に魔王が繰り返した。床に額を擦る程に頭を垂れるステファンの前に片膝を突き、指で彼の顎を支え上を向かせる。ステファンは恐怖のあまりそれに従う他なかった。
「左様で御座います陛下…っ」
『此処にいる、貴様ら全員の首だと言ってもか?』
「…っ…、」
ステファンの声は喉で詰まり、言葉にならない。状況を理解した周囲の貴族達が逃げようとテラスや出入り口から出ようとしたが、そちらを見ないまま魔王が指を鳴らすと蒼色の雷が一直線に走った。
『そこに居ろ』
たったそれだけで、貴族の動きを止めるには十分だった。高位の雷を操る者など雷神龍しか居ない筈だ。しかし、彼が放った雷は雷の比ではない。
たった一筋の青白い光が走っただけで高圧のレーザーが放たれた様に地面が割れ、今尚も赤く切り口が岩漿の様だった。
「ひ、ひぃぃ…!」
「お許しを…ッ魔王陛下…ッ!」
腰を抜かす者、へたり込んで失禁する者、土下座し許しを乞う者、様々だが、ルビーアイは其方を見ない。
言葉を失っていたステファンに向かって『先程のは冗談だ、愚かな人間の王よ』嘲弄した。
『貴様らの首など要らん。それに、俺には年寄を虐める趣味もない』
鼻で笑う魔王は立ち上がり、ステファンから離れる。息さえ呑まれていた彼が苦しそうに肩で息をしていた。
『だが、大公自ら何でもと言うのだ。折角だから欲しい物を言おうじゃないか』
テーブルに添えてあった椅子に座って脚を組んだ魔王は実に楽しそうにクツクツと笑った。そして掌を開き、『この国のそのものを貰おうか』言葉と共に握る。
「な…っ」
「占領するつもりか…!」
貴族から絶望的な声が湧いた。
『早まるな。俺は別に貴様らの腐った国など手元に欲しくない』
「では…?」
額に汗を掻いたステファンが、魔王へ縋る様な視線を向ける。
『貴様らが踏み付け、蔑ろにする平民が欲しい』
これにはこの場に居た誰もが驚いた。魔王が続ける。
『貴様らにとって、とるに足らない者達だろう?平民である事を侮辱し、貶めていた者達だろう?なら問題無い筈だな?』
「へ、平民と言うのは…」
『此処に残りたいと言う者は要らない。俺が欲しいのは貴様ら貴族にうんざりしている者、奴隷として飼われ辟易している者、この国に価値を見出す事が出来ず日々腐っている者だ』
テーブルにあったワイングラスに新しいワインを注ぎ、魔王は優雅に飲み下した。
『ククク、貴様らも自らの領地の人間が、どれだけ残ってくれるのか楽しみだろう?まぁ…俺に酒を浴びせた奴らの平民の扱いなど見なくても大概分かるがな』
「平民が…何百万居ると…」
震えるステファンが絞り出す。
『何でも、と言ったのは貴様だステファン。本当は皆殺しにしたい所を、平民で手を打つと言っている。今更覆したりしないよなぁ?』
不遜に微笑む魔王が、またワイングラスに口を付けた。
『国と言うものは国民が居てこそ国なんだ。貴様らはそれが全く分かっていない』
「…ッ…」
イシュベルトが唇を噛み、あまりの力加減の無さに切れて血が滲む。
『貴様らのその豚の様に肥えた腹は、一体誰のお陰だ?誰のお陰で良い服が着れていると思ってる?領民の多くは平民だな?彼らの血税のお陰だろうが』
貴族達をぐるりと見回した魔王はまるで恫喝するかの如く、語気を強めた。
『良い領地を納めていたなら何も問題は無い筈だな?領主を尊敬する平民が多ければ、俺が奪って行くと脅した所で痛くも痒くも無い』
嘲笑を浮かべる魔王がワイングラスをくるくると回して、貴族達にそれを掲げた。前方に居た貴族が怯えて肩を震わせる。
『祖国を捨ててでも、他国へ移りたいと希望する平民は例外無く俺が貰う。ブルクハルトの王都の西側には平地がある。そこで虐げられる事無く身分の違いに肩身を狭くする必要など無い自由で豊かな街を作ってやろう』
全く現実的では無いその言葉も、この魔王なら実現させてしまう空気がある。
『ステファン、貴様の権限で全平民に伝えろ。奴隷も、その子供も、1人残らずだ。その上でモンブロワに残ると言った者に、俺は特に何もしない』
「それでは、国力が…っ」
『ほぉ、分かっているな。そうだ、国力が落ちる。貴様が束ねる貴族共はそれさえ気付かず平民をぞんざいに扱う。見ていてうんざりだ』
眉を顰めて、青年は立ち上がった。小さく見えるステファンに向け、『貴様の罪は腐敗した貴族をのさばらせた事、悪しき風習を断ち切らせなかった怠惰だ』と吐き捨てる。
「…っぐぅ、」
何も言えなかった。ステファンはずっと前から貴族による平民への差別意識に気付いていた。しかし、青年に言われた通り、何もせずただただ傍観していた。
平民が貴族の為に尽くすのは当然だからだ。風習とはそう言うもの。
『何故泣く?イシュベルト』
魔王に指摘された彼は、今気付いた様に自らの頬に流れる涙を触った。
「……、お見苦しい所を、」
目頭を抑えて、そのまま指で涙を拭う。
『可笑しい…俺の予測では貴様の領地の民は殆ど残る筈だ。何が琴線に触れた?』
「…いえ、」
頭を傾げる魔王に、イシュベルトが目を瞑りゆっくり首を振った。
「陛下が其処までモンブロワ公国の民を想っている事に、心打たれたのです…。この国は衰退するでしょうが、私が今まで所詮自分は男爵だと言い聞かせ他の領民へ手を差し伸べる事が出来なかった報いなのだと受け入れます」
『クク、面白い男だな貴様は』
愉快そうに笑う魔王は考える素振りをして唐突に、跪くイシュベルトへ近付いた。
『イシュベルト、短い付き合いだか色々と世話になっていたな。貴様の様な謹厳な人間は実に好ましい』
「…そ、れは…」
『そこでだ、人間の街を作った暁には貴様がその街を納めてみる気はないか?』
思わぬ申し出に、イシュベルトは驚く。魔王は冗談を言っている様には見えず、揶揄っている様子も無い。
『領地の者、家族、貴様が望む全ての者をブルクハルトが迎え入れる』
「な…んと…」
『返事は急かない。そうだな、1ヶ月だ。1ヶ月で俺は国に街を作り上げる。その間にステファンは平民全てに告知し、…イシュベルト、先程の申し出を了承するなら1ヶ月後ブルクハルトを訪れろ』
跪いたままのイシュベルトは選択を迫られ、ゴクリと唾を飲み込んだ。祖国を棄てて未来を選ぶか、貴族としての矜持を守り領地の者と国と共に朽ち果てるか。
『平民の受け入れは随時行う。魔大陸など、彼らにとっては未知の土地だからな、俺も信用されない自信がある。しかし、人間の貴様の様な者が居ると、多少の警戒心は薄れよう』
彼を見下ろしていた魔王は『祖国を棄て貴様の“国”を守るか……変な意地を張って朽ちるか。期待しているぞ、イシュベルト』と口角を持ち上げていた。
「ま、魔王陛下!恐れながら、それなら私の方が適任で御座います!彼は男爵の身…私は侯爵です!」
「そ、そうだ!私こそブルクハルトに相応しい統治を行なって見せます!」
それを聞いた魔王はうんざり辟易した様に喚き出した者を見る。美しく輝くルビーアイに射抜かれ、その者達は口を噤んだ。
『異を唱えるか?俺の決めた事に…?』
魔王の纏う空気がズシリと重く変わった。先程の圧迫感とは明らかに違う、殺気を含んだ強烈な威圧だ。
声を荒げていた貴族達はあまりの恐ろしさに床へ這いつくばった。
「も、申し訳御座いません…っ!!」
「お許しを陛下ッ!!」
『…フン、まぁ良いだろう』
涙を浮かべる彼らに鼻を鳴らして、血の気が通っていない様子のステファンを見る。
『分かったか?貴族の王』
「し…しかし、これではこの国は滅んでしまう…!衰退していく機を隣国が見逃す筈もない!」
『では、我がブルクハルトの属国にでもなるか?他国に侵略されないよう、ギリギリ国が存続出来る位の金銭は約束するぞ?』
見下した様に嘲笑う魔王は、口元で綺麗な弧を描いた。
『俺は国の統治に一切口出ししない。発展もせず餌だけを与えられた家畜の様に生きていく訳だ』
「嗚呼…神よ…」
ステファンはもう神に縋るしか無かった。彼はドラゴンの尾を踏んだと酷く後悔する。有利な条件での国交を申し込むなどとんでもない。(どうすれば…)
多くの平民を失い国としての機能を破壊され、減衰した所を他国によって滅ぼされるか…ブルクハルト王国の属国になり弱火で炙られる如くじっくり滅亡に向かうか。
何方の選択も待っているのは地獄だ。
「…ッ、私達は何もしてないわ!」
「そうだ!全部アラン伯爵が言った事だ…っ」
未来が想像出来たのか、顔が真っ青の貴族達は発端となった男の名を告げた。後ろの方で小さく身を屈めていた男が短く悲鳴を発し、皆が其方を見る。
『アラン?嗚呼、貴様か』
人集りが割れて、ホーリーと魔王が対面した。彼は非常に汗を掻き、思わぬ事態に焦っている様だ。(有り得ない…有り得ないッ)卑小な魔王の筈だ。なのにそれが、如何してこうなってしまったのか。
「何なんだ…お前は一体…ッ!?」
困った様に笑っていたあの姿は、偽物だったと言うのか。全て此方を油断させる演技か。まさか最初から、ラピスの花を焼き払ったあの時から計算されていた?全てはモンブロワ公国を属国にする為の茶番だったとでも言うのか。
白髪の青年が笑顔で言っていた『君達の国、楽しみにしてるよ』その言葉の本当の意味を理解出来た気がして、その恐ろしさに眩暈がした。
「アラン伯爵が魔王陛下を平民と…」
「私達は騙されただけだ…ッ!」
「な…っ黙れ貴様ら!裏切る気か!?パーティーの席で平民を痛ぶるのは風習の筈だ!決まった遊戯…出し物みたいなものだろう!?俺が言わなくても、他の誰かがしていたさ!」
周りの様子に悪態を吐いて真っ赤な顔で唾を飛ばすホーリーは、魔王の眉が顰められた事に気付いていない。
『面白い男だな、貴様は』
先程イシュベルトに掛けられた言葉と全く同じ。まさか、自身もブルクハルトへ招待するつもりか?何百万の平民を統治して見せよと?
それは侯爵…いや、下手をすると公爵に似た地位、立場になるのではないか。ホーリーに思わず笑みが浮かんだ。
『ホーリー、貴様は自らの領地から出る事を禁ずる』
「は!?どう言う事だ?」
ブルクハルトへ移住しろの間違いではないのか?
『他の貴族は平民が居る地へ移り住もうと興味もない。だが貴様は自らの領地に残れ』
「な、何故だ?」
貴族が領地に居るなど当然だ。其処が自分が支配する土地なのだから。
『分からないか?……、まぁ直ぐに分かるさ。精々貴様は領民が領地に残ってくれる事を祈れ』
『領地を出れば直ぐ分かる様、監視を付ける』と、魔王は真紅の目を細める。周囲の貴族はその意味が分かり、青冷めた。同情の目を向けられたホーリーは、周囲の態度に歯軋りする。(一体何だと言うんだ…!)
『では、俺はそろそろお暇しよう。折角のパーティーだろう?この後も楽しんでくれ』
置いてあった背広の胸からカサブランカを抜き取り、彼はそれに軽く口付けてステファンの前に放った。
美しい所作で玉座の方へ優雅にお辞儀し、ポケットに手を入れて踵を返す。
『シャル、【転移門】だ』
「畏まりました、お兄様」
垂れ目の魔導師に命じ、『では、1ヶ月後に』と言い残した。時空が歪んで転移門が現れ、魔王と部下を飲み込んでいく。
残されたステファンやイシュベルト、ホーリー、貴族達は暫くそのまま動けなかった。
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