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五章
39話【ムスカリ】
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「――スレイン?」
宿屋の部屋に戻ってからも口数の少ない恋人に、クルルは心配そうに眉を下げた。
スレインは風呂から上がった後インナーのままベッドに腰掛けている。クルルは後ろから彼の首へ腕を回した。
密着した体から体温が移る。
「大丈夫?」
囁きに加え甘い息が掛かった。
『嗚呼…なんともねーよ。それよか悪かったな。お嬢サマを送り届けてりゃ、ちっとは贅沢出来たんだが…』
「…いい。お腹へってない」
首を振る神獣の白い髪を撫でる。わざと明るい声を取り繕っていると、彼女に見通されているのではあるまいか。
スレインがいくら明るく振る舞っても、少女は憂いを含んだ痛ましげな眼差しを向けてくる。
「クルルはスレインのぜんぶを知りたい」
『うん?』
「だから、教えてほしい」
クルルにとって、人間の常識や細かな感情はまだ分からない。スレインが今何を考え、何を思っているのか。何を思い詰めてそんなに悲しそうなのか。
クルルは知りたい。
他でも無い彼女に哀願されては無碍には出来ない。
スレインは少し考えて『――貴族ってのは…』と話を切り出した。
『――だからその娘の令嬢は、礼儀作法やら政略結婚やら、名前に恥じない振る舞いやら…スゲー面倒な立場な訳サ』
「ふんふん」
『――あの時…、あの女に殺してくれって言われた時…』
視線は床へ落ちている。だが、青年の脳裏にはあの時の情景がまざまざと浮かんでいた。
『ジャミルの貯蔵庫に入れられた時の事を思い出した』
無力でただ泣き叫ぶ事しか出来ず、捕食者によって生かされていた。あの時強く願った『死にたい』という強烈な感情を彼女の言葉の端に感じた。
『もし、傷を癒やしても、あの洞窟での出来事は簡単には忘れられねーだろ』
護衛と御者が殺される傍ら、女たちも棍棒で滅多打ちにされながら犯される地獄絵図。
『この先一生廃人か…回復しても、ゴブリンに拉致されてた女ってレッテルがいつまでも付き纏う。社交界は湧くだろうな』
スペトラード伯爵家で性格の悪い貴族を散々見て来た。人の良い顔で近付き、陰湿に蔑む。
『俺が見てきた貴族ってのは世間体やら面目ってのを何より大切にする。あのジジィも例外じゃねー』
最悪、メアリーを切り捨てる選択をしかねない。養子をとってマークに嫁がせれば縁故は得れる。
『唯一の救いは、婚約者が本気で身を案じてたって事くらいか…』
そこで思い至る。
スレインは最初、メアリーは壊れながらも貴族としての矜持を捨てきれずに殺してくれと懇願したのだと思った。
だがそれは間違いかもしれない。彼女が自らを殺めてほしいと言ったのは――愛故かもしれない。
あの様子ならマークは、どんな形であれメアリーが生きているなら受け入れるつもりでいただろう。
だが、彼女にはそれが耐えられなかった。いつまでも美しいままで、彼の中に在り続ける選択をした。
メアリーの手の中にあった、血塗れの婚約指輪は彼の愛をずっと側に置いておきたかったからではないか。
『…結局のところ、エゴなんだろうな』
ノエルにエゴを押し付けるなと説教垂れたが、彼の行動もメアリーの願いもただのエゴだ。
何が正しくて間違っているかなんて、誰も分からない。
誰もが幸せになるなんて有り得ない。理不尽で残酷で、不条理な世界なのだ。
ノエルはメアリーの為を思って助けようと尽力したし、スレインも彼なりの正義で彼女を救済しようとした。
「――大丈夫」
黙って聞いていた少女の声が鼓膜を心地よく揺らす。
「レインは間違ってない」
クルルの腕に力が篭る。慈母のような優しい眼差しがスレインを見詰めていた。
「だって、お礼言ってた」
彼女の優れた聴覚に拾われた確かな言葉。メアリーの最期の言葉だ。
「難しいことは分からない。でも、それがぜんぶだと思う」
『………そうだな』
やっと心が晴れた気がする。励ましてくれたクルルの頭を撫でてキスをしようとした時――部屋の扉が乱暴に開かれた。
「そうとは知らず、すみませんスレインさんーーーーッ!!」
騒がしく入って来たのはノエルだ。
目を瞑ったクルルと唇が触れそうな距離で固まったスレインは、こめかみに青筋を立てる。
邪魔したノエルをどう血祭りに上げるか物騒な思考が巡った。
般若に変わりそうだったスレインの頬を手で挟んだクルルはそのまま深い口付けをする。
舌が歯列をなぞり悪戯に上顎を擽った。舌を突いて可愛く誘うクルルに、スレインがやる気になってリードを奪う。
「ン、…ふッ」
呼吸ごと貪られる獣のようなキスに、少女の脳内が溶ける。
『…、…。ハァ…人が居んのに、誘ったのはクルルだぞ』
男の手がクルルの太腿を這う。
堂々と繰り広げられる濡れ場に、一体何を見せられているのかとノエルは頭痛に襲われた。
「何をしているんですかッ!」
「前戯」
『…待て、そんな言葉何処で覚えた!?』
瞬きをして、さも当然のように返すクルル。知らない間に語彙が増えており、彼女の前でヘタな事は言えなくなる。
「ふざけるのはそれくらいにして下さい!私は本気で謝ってるんですからーーッ!」
壁が薄いから筒抜けだったのか、話をよく理解している。
『本気で謝ってるってなぁ…』
また壁にへばり付いていたのかと小馬鹿にするスレインに「ちょ、スレインさん裸じゃないですか!シャツを着て下さいシャツを!破廉恥です!」と顔の赤いノエルが我慢出来ずに抗議する。
スレインのインナーは肩から手首までを覆う変わったものだ。正しくは裸ではないが、隠せてもいない。
これ見よがしに溜め息をした白髪の青年は、渋々黒いシャツを着てベッドに寝っ転がった。丁度あったクルルの柔らかな太腿に頭を埋めると、神獣は微笑んでお揃いの白髪を撫でる。
「私、スレインさんは貴族が嫌いだからメアリーさんを助ける気がないんだと思いました…」
ノエルは力無く視線を落とす。
「あの時私が言ったのは、…情け無いですが自分本位の考えだったと認ざるを得ません。私はメアリーさんの立場やその後の事までは考えれていませんでした…。彼女をあの場所から助け出さなきゃって頭が一杯でした」
『…』
「スレインさんもメアリーさんを助けようとしてたんですね…」
彼女を助ける為に、自らが全てを背負うと決めたのだ。不器用で稚拙だが、そういう優しさの形もあるのだと知った。
今なら洞窟でクルルが言っていた、彼が優しいとの言葉を少しだけ肯定出来る気がする。
少なくとも彼の嘘でメアリーの貴族としての矜持は守られた。
彼女は不幸にも灰色狼と遭遇し喰われてしまった貴族令嬢として語られる。何処にでもあるありきたりな魔獣害事件として扱われるだろう。
「でも、私怒ってますよ」
『…だろーな』
きっと他にも道はあった筈だ。彼の思う最善と、彼女の思う最善がぶつかった時点で話し合ってほしかった。考えを打ち明けてほしかった。
ノエルの激情に揺れる瞳を見ていたら、言いたい事は大体分かる。
『命を軽んじるなってか?あの女を殺す意味が、本当にあったのかって?』
「……それもあります。でも同じくらい、…スレインさんに全てを背負わせてしまった自分が許せません」
一方的に主張して我を通したと自覚していたスレインは『はぁ?』と大きな声を出した。
「今度からは何もかも自分で背負おうとせず、話してくれると嬉しいです。…仲間、じゃないですか」
ノエルの真っ直ぐした心が眩しく感じる。言葉を紡いだ彼女の目が照れ臭そうに泳いだ。
『――前にも思ったが、お前ってなんて言うか…変な奴だな…』
青年は思ったままに吐露する。ノエルは「えへへ、そうですか?」とはにかんで頬を掻いた。
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「…クルルにも話してほしい。スレインが元気ないの、ヤ」
『… クルル…』
何度彼女の存在に救われるのだろう。
愛くるしいクルルの頬を撫でて突如始まった2人だけの世界に、「私も居ますよ」とノエルは咳払いをした。
『、まぁ…お陰で報酬はゼロだけどな』
クルルの髪を指に巻いて遊ぶスレインはぼやく。
F級クエストの【薬草採取】の報酬は既に腹の中に消えた。
それに関してノエルは「もう…。2、3日は水だけで生活出来るように訓練しておいた方が良いですよ?」と、誇らしげに貧困生活の極み発言をする。
「…因みに、ゴブリンの巣には他に何が居たんですか?」
『頭が変な形したゴブリンの亜種だよ。自分じゃゴブリンじゃねーって言ってやがったが、ちょっと似てたしな』
「ま、魔物が喋ったって事ですか!?」
人間の言葉を話せる魔物は長い時を生きており、決まって高ランクだ。焦ったノエルが「他にも特徴を教えて下さい!」とせがむもので、『そーいやぁ、光る物を収集する癖があったみてーだな』と付け足す。
それを聞いたノエルは青褪めた。
「そ、それ…まさかとは思いますが、赤い帽子じゃないですか…?話せる事を考えれば明らかに上位の…」
引き攣った笑顔の彼女は勇気を持ってスレインに尋ねる。
「えっと…きっと体内に魔石があったと思いますが…一応聞きますね。それはどうされましたか…?」
あの後、レッドキャップ・キングは首を引きちぎって玉座に飾ってやった。
この上ない悪い顔で『この腐れ×××野郎、そこで1人で××××してな!×××× ×××ッ!ハーッハッハッハ!』と哄笑を上げながら塵にしたのを要約して――…。
『…燃やした……』
「ば、馬鹿…ッ、マヌケ…!致命的な世間知らず…!ホント信じられませんっ!ドSッ!悪人ヅラ…いひゃひゃーーっ!?」
ここぞとばかりに悪口を言うノエルの頬を左右に引っ張る。
すっかり赤くなった頬を押さえた彼女は「だってぇ…」と涙目だ。
「上位の魔物には魔石があるって流石にご存知ですよね!?」
『知ってるに決まってんダロ。馬鹿にし過ぎだぜ?』
ただ、殺した魔物が上位種だと思わなかっただけで。
「燃やしといてよく言いますよぉ…。討伐対象でなくともギルドに提出すればお金になるのに…っ」
『マジ…?』
「マジです」
神妙な顔をするスレインと似たような表情で頷く。
「良いですか?クエスト以外でも魔物を討伐したら、冒険者ギルドに売りに行くのが通常なんです。魔物の爪や牙から武器が作れますし、お肉は食材として卸します」
『嗚呼、少し聞いた事があるな…』
「中でも魔石は貴重なので高値で取引されるんです!」
魔道具の原動力は主に特殊な鉱石か魔石。高ランクの魔物ほど高エネルギーで物持ちが良く重宝される。
武器や武具、他にも様々な所に活用される魔石には無限の需要があった。
「まぁ、これから世の中の事も、冒険者についても、少しずつ覚えていけば良いと思います!私も居る事ですしね!」
いつにも増してニッコリ笑うノエルは胸を叩く。「大船に乗ったつもりでいて下さいッ!」とベッドに寝転ぶスレインと目線を合わせる。
「――ただ、ヘンリーさんが…私たちがクエストを失敗した、と冒険者ギルドに訴えちゃったのでペナルティーが発生します」
「ペナるティー?」
聞き慣れない単語をクルルが繰り返した。
「具体的に言うと罰金です。態度によっては憲兵に捕まったりします。ずっと払えなかったり、ペナルティーが続くと降格しちゃいます」
『あーの強欲ジジィ、少し痛い目に遭わねーと分かんねーみてーだな』
メアリーを捜索し見付け出すという目的は達成している。しかし、ヘンリーは遺体や遺品の回収が未達成だったと主張し報酬の譲渡を渋った。
既にクエストは取り下げられており、八方塞がりだ。
スレインが悪い笑みを携えて拳を手で握り、骨をボキボキ鳴らす。
濃密な暴力の気配にノエルは「ダメに決まってます!」と注意した。
『……ジョーダンよ。俺が、んな事すると思ってんの?なー?クルル』
「いやいやいや、絶対本気でしたよね!?良い機会だくらいに思ってましたよね!?」
クルル贔屓の青年は彼女に笑顔を向けながら誤魔化していたが、否定はしなかった。
『兎も角…ペナルティーも追加されて激貧ってこったな』
肩を落とすスレインに、気の毒に思ったノエルは「わ、私の出したクエストを達成したら忽ち大金持ちですよ!」と慌ててフォローする。
『そのクエストに辿り着く前に乞食だぜ…』
世知辛い世の中に溜め息を吐いた。ノエルが「まぁまぁ」と宥め、一先ず、また明日冒険者ギルドへ行って条件の良いクエストがないか探してみようと提案し話が落ち着く。
『そーだノエル。荷物ってどうやって出すんだ?』
「え?」
スレインの問い掛けにノエルは間の抜けた顔をした。
『街には荷物や手紙を代わりに運んで届けてくれる機関があるんだろ?』
彼は話で聞いた事しかない。他の召使や従者たちが実家から荷物や手紙が届くと嬉しそうに燥いで開けているのを、遠くから見ていた。
「……」
『何よ』
「名前――」
『はぁ?』
惚けたように大きく目を開いたノエルは小さく漏らす。スレインは眉間に皺を刻んで藤色の瞳の少女を見た。
「今までオイ、とかお前で、挙句には五月蝿い女、だったのに…。ちゃんと名前を呼んでもらったの、初めてだと思います!もう一度呼んでくれませんかッ!?」
両手で握り拳を作り、キラキラと輝く双瞳で此方を見てくる。一体何がそんなに嬉しいのか分からない。
『うっせーよ。二度と呼ばねぇ』
せがまれて嫌気が差すのはいつもの事だ。ただ今回は僅かな含羞が混じったのを、スレインは気付かないフリをした。
「えへへ…。あ、スレインさんそう言えば私のローブ返してくれませんか?あれがないと落ち着かなくて」
ファー付きのフードが揺れる黒い外套。ノエルのお気に入りだったらしく、返却を催促された。
『あー…アレ、お嬢サマと一緒に燃やしたわ』
悪怯れる様子もなく淡々とした口調。まるで、そこに置いてあるよ、と声を掛ける気軽さで真逆の事を宣う。
「ななな何ですってーーーーー!?」
ノエルの絶叫が宿屋に木霊した。
◆◇◆◇◆◇
――後日、ブラウン伯爵家に手紙が届いた。差出人不明の封筒の中には便箋の代わりに、真珠のピアスが入っていた。
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