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二章
14話【悪夢と自壊】
しおりを挟む『うわぁあああッ!』
絶叫と共に跳ね起きた。悪夢を見ていた気がする。しかし、起きたそこもまた彼にとっては悪夢だった。
そこは暗い部屋で、強烈な腐臭が劈く。臭いに耐え切れず嘔吐した。
『おえ…ゲホッ…、ゲホッ!』
顔を顰めて目を凝らす。蝿が多く、そこら中から羽音がした。何匹いるのかも分からない。顔や身体を這うが払う事も出来ない。
レインは椅子に縛り付けられていた。肘掛けに添うように腕を固定されている。
窓も無い部屋には酷い臭いが籠り、嘔吐感だけでなく頭痛まで発症する。不衛生極まりない劣悪な環境だった。
床を数匹鼠が駆け抜け、壁の穴へ消える。
レインの近くで何かが動いた。微かだが、でも確かに。小動物ではない。
暗闇に慣れてきた目を細める。
『!』
髪が長い人物が床に座らされている。
『だ、大丈夫ですか!?しっかり…ぅ、く』
喋ると口の中に虫が入り込む。しかし呼び掛けなければ。
ジャミルが自分以外にも人間を拉致しているなら、呑気に座っている事など出来ない。この悪辣な室内に長い事囚われていると気が狂いそうだ。
何とかして早く一緒に出なければ。最期には血液を絞り尽くされて殺される。人間を家畜と言い放った男など、慈悲を期待しても無駄だ。
『気をしっかり持って…』
何度呼び掛けても応答がない。
――いや、諦めるな。先程動いていた。きっと大丈夫だ。
その時、外から鍵が解除された。開いた扉からジュリエーナがカンテラを片手に入って来て、部屋の全貌を照らし出す。
大量の蝿が辺りを舞った。思わず目を瞑り口を閉じる。閉鎖空間に空気が送られ、目が痛くなる程の腐臭が和らいだ。
レインは横に座る人物を気遣う。
『ひ…っ』
そこに居たのは頭蓋が剥き出しになった人間だった。既に事切れているのは明らかで、片目が鼠によって喰われている。先程動いたと錯覚したのは身体中の死肉に集る蛆が原因だった。
再び嘔吐したくなったが、もう胃には胃液しかない。黄色く粘ついた液を吐き出し、肩で息をした。
『はぁ、はぁ…ッ、ハァ…!』
顔を背けた際に気付いたが、部屋には彼とも彼女とも分からぬ死体が山ほどあった。完全に白骨化した遺体、まだ腐った肉が残った状態のものまで。強烈な腐臭の原因を目の当たりにし、ひたすら絶望した。
「食事をお持ちしましたお客様」
この状態で何を食べろと言うのか。ジュリエーナが赤黒い生肉を握って近付いて来る。差し出された肉を拒絶し外方を向いた。
「我が儘はいけませんお客様。旦那様が是非食べて欲しいと仰っております」
レインの髪を掴み、無理やり口に当てがう。一口大の生肉を押し当てられ息が苦しい。結局塗りたくられるようにしながら、出来るだけ噛まずに飲み込んだ。
獣臭く、とても食べられたものではない。ジュリエーナはレインの口元を血でベトベトにしたのも構わず次の肉を差し出した。
『もう…、これ以上は』
「遠慮なさらずに」
顎を固定され次を詰め込まれる際、身体に異変を感じる。産毛が逆立つ。脂汗が止まらない。
感じたのは熱だ。身体を炙るような、体内を焦がす熱。
レインの異変に反応したジュリエーナは、傍に置いていた注射器を使って血液を抜く。針の鋭い痛みに顔が歪む。
『何を…』
「旦那様は仰いました。“彼は特殊なアビリティを持っているようだ。少なくとも体内で毒を中和、分解している”“血は変化している。つまり彼は一人でありながら、我輩に多種多様な味を提供できる唯一の人間だ”」
チューブを通った血液が袋に溜まる。
「“ジュリエーナ、急いで毒持ちの魔物を仕留めて来なさい。出来るだけ新鮮な内に彼に味わってもらいなさい”“そして効果が現れたら採血し、その日の食卓に並べるのだ!”」
『魔物の…っ』
青年は怖気付く。魔物肉の毒素が含まれる部位を食わされた。特に魔石付近の肉は毒性が強く、魔物同士でも避ける部位だ。
「今の肉は地獄の犬のものですお客様」
ダイアウルフは闇属性だ。闇の魔物の肉を食すなど背徳的で悍ましい行為に当たる。
更に魔物の毒など、彼のアビリティでも太刀打ち出来るか不明だ。
この異常な発熱は魔物の肉を食べた事による症状。
以前の毒薔薇ほどでは無いが、体内で毒素が暴れているのを感じる。
袋が血液で満たされたのを確認したジュリエーナが、血とカンテラを持って立ち去る。再び光の無い、悪臭が漂う空間に閉じ込められ、頭痛と発熱に苦悶した。
◆◇◆◇◆◇
耳障りな羽音が、時間が経つごとに増えていく。
当然だった。死肉に群がる蛆は大量にいる。それが成虫になり飛び立ち、腐肉に卵を植え付ける。その数1度に50~150個。身の毛もよだつ話だ。
マリアーナとジュリエーナが出入りする際、扉が開けっ放しで蝿の数は減るが暫くすると丸々太った蛆が成虫になり部屋を飛び回る。瞼を開けていられない。
目を閉じたその時、レインに襲い来るのは強烈な睡魔だ。
屋敷を出立した時から、常に気を張って不休で動いていた彼の体力は限界を迎えている。
しかし、一睡でもすると忽ち鼠に群がられるので、生きている間は忙しなく身体を動かさなければならなかった。
青年の足には鼠に皮膚を齧り剥がされた形跡があり、血が滲んでいる。僅かな仮眠さえ満足にとれず、此方を窺う鼠の気配に怯えていた。
快眠出来ない事は人間にとって非常に辛い。4日目頃から集中力の低下や幻覚、猜疑心など精神的な変調がみられる。
今日はマリアーナがやって来た。いつも通り扉を開けて、レインへ魔物を差し出す。ただ今回は肉ではなかった。
「旦那様が、これを食べたお客様の血を飲みたいと」
平然と言う彼女はやはり無表情だ。反対にレインは恐怖に引き攣る。
彼女の手中で蠢くのは大きなムカデだった。屋敷では目にした事の無い20cmに及ぶグロテスクな怪物。
凶悪な顎を固定し噛まれないようにしているが、細腕には黒光りする身体と、黄色い足が絡みついている。
「注意事項があります。直ぐ頭を噛んで絶命させて頂かないと、口内を鋭い顎で噛まれ激痛が伴います。マーレの大ムカデに噛まれるとその痛みによって死亡する人間も居るそうで、警告しておきますお客様」
『そ、そんな…』
「さぁ、お召し上がり下さい」
『むり…無理です…っ』
近付けられる生きたムカデに恐慌するレインは、首を左右に振った。今まで押し込まれるがままに食べてこれたのは、魔物が原型を留めていなかったからだ。
例え吐く程不味くても、飲み込んでしまえば関係なかった。泥の味がしようが、黴の味がしようが息を止めて飲み込めた。
しかし、こればかりは無理だ。
「我が儘を言わないで下さいお客様」
突き付けられるゲテモノの足が、レインの口を触る。吐き気が込み上げた。
『わか、分かりました!…せめて、殺してからにして下さい!お願いします…っ』
レインは嘆願する。ムカデが舌を這うなど、想像するだけで怖気が全身を襲う。
「旦那様がそれはダメだと仰いました。マーレ大ムカデの毒は頭に溜め込まれていて、一滴でも取り零す事は許さないと。なので生きたままお持ちしました。さぁ、噛み殺して下さい」
『…ッぅあ、あぁあああ!!』
◆◇◆◇◆◇
「おやおや、元気が無いな大丈夫かね?」
この日は珍しくジャミル本人が貯蔵庫にやって来た。レインはぼやける視界で彼を捉えるが、生気の宿っていない瞳は虚だ。
彼を拘束するロープは、激しく暴れた末に肉を喰んで血が染み込んでいた。
彼は今、ただ生命活動を維持しているだけ。餌だけ与えられ生かされている。
「数日前のムカデの毒に侵された貴殿の血は大変美味だった!素晴らしかったよ!」
切断された左手の傷口は包帯の隙間から侵入した蠅によって卵を生みつけられ、蛆が蔓延る。肩も同様だ。幸運だったのはこの蛆は腐肉を好んで貪る為、劣悪な環境下でありながら傷が化膿せず綺麗に保たれた事。
だが、身体に蛆が集り、傷口を抉る不快感は気が狂いそうだ。直ぐにでも掻きむしって、潰して濯いで洗いたい衝動に駆られる。痒くて痒くて堪らない。
「そこでだ、強い毒肉ほど美味ではないかと考えたのだが、青年はどう思う?」
『……』
「そうだろう?美食を求める者としてこれは試してみなければならない!そもそも我輩も魔物の毒血を美味いのかと直接飲んで見たのだが、あれは飲めたものではないな。つまり、毒が平気な貴殿を通す事によって旨味が凝縮され素晴らしい味へと昇華するのだッ!」
『……』
蝿が肌を闊歩しても無反応。項垂れ何の反応も無いレインに、構わずジャミルは語り掛ける。
「毒持ちの魔物で厄介な魔物を知っているかな?」
『……』
「そう!深紅瞳黒炎帝龍だ!我輩は貴殿にその肉を食べて欲しくてここ数日遠出していた。あの2人では殺されてしまうからね。激闘の末、我輩は勝利し貴殿にこの肉を持って来たと言う訳だ!」
言われてみれば、ジャミルは怪我を負っている。しかし吸血鬼には自己再生能力があると聞く。
彼が袋から取り出したのは肉に埋もれる黒々と輝く魔石。それに張り付いた黒い死肉を剥がした。墨汁に浸したような暗黒の血肉をレインの口元に近付ける。
「折角我輩自ら狩って来たというのに、食さないとは言わせんぞ。この毒を加えれば、貴殿の血の味がどう変わるのか知りたいのだ。これは食の探究…未知なる興味なのだ!」
顎を掴み口を開けられた。抵抗する素振りもない。抵抗しても無駄だと、この数日で嫌という程理解していた。
口内に肉を詰め込まれる。まるで機械汁に浸した腐肉のような酷い味に身体が拒否を示す。
ジャミルは気にせず彼が吐き出した肉を拾い上げ、そのまま再度口へ運ぶ。不潔な床の腐食した木片まで付着したままだ。
今度は咀嚼を促されたが、噛む度に臭みが増して飲み込めたものではない。吐き戻して、それをジャミルが再び口に詰め込む。やっと飲み込めた時には埃や砂、虫の死骸に塗れた状態だった。
徐々に毒が体に回る。龍の毒肉など人間が取り込んで助かる訳がない。レインはやっとこの地獄が終わる事に心から歓喜した。
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
次の瞬間全身にナイフを突き立てられているような痛みが走った。手足に力が篭り、縄が食い込んだ。
身体をミキサーで擦り潰され掻き回されているような、激しい痛み。体内の水分が沸騰している感覚。
苦し紛れに肘掛けを掻き、あまりの強さに爪が剥がれる。
気絶寸前、レインはジャミルがこの上無い悦楽に酔い嬉々としてその様子を見ているのを目視した。
髪を掴み上げ無理に身を起こし、太い注射針を打ち込む。レインの腕は何度も針を刺された紫色の跡が残り、実に痛々しい有様だ。
遠くなる意識の中でジャミルの喚く声が聞こえる。
「嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼…ッ甘美だ!何と濃密な匂い…素晴らしいッ素晴らしいッ!良い香りだぁ…」
辛抱出来ないジャミルは抜いた針に舌を這わす。血が味蕾に触れた瞬間、目を見開き絶叫した。
「あはああああああああぁぁぁぁああああッ!!」
狂気に取り憑かれた彼はチューブを力尽くで抜き、血液袋に口を付ける。喉が激しく動き、勢い良く飲み下しているのが分かった。口角から溢れ、顎を垂れる。
「滋味で最高の珍味ッ!!美味だ!佳味だ!甘露だッ!美味であるぞ青年!これこそ究極の美食…嗚呼、絶品だ…ッ!素晴らしい、最高だぁあッ!」
肩で息をして恍惚とする彼が乱れた髪を整えると、深紅瞳黒炎帝龍との闘争による負傷が消えた。
紳士らしく襟を正した彼は欣幸の至だと震え、ブツブツと独り言つ。
「あの蜥蜴にやられた傷は君の血で治したかったのだ。究極の美食は我輩を更なる高みへ昇らせる…。空腹も相俟って食事は最高…!これは素晴らしい…!だが、優美さに欠ける飲み方をしてしまった。次、次だ、次は…そうだな…嗚呼、嗚呼…迷う」
そこで意識は途切れた。
◆◇◆◇◆◇
鼠に耳を齧られ目が覚める。跳ねた体に驚いて、集っていた鼠達は直ぐ様解散した。
『はぁ…はぁ…、はぁ…』
既にジャミルの姿は無く、部屋も真っ暗だった。
――死んでない。
出来る事なら、もう2度と目覚める事ない眠りにつきたかった。酷薄で陰惨な拷問がまた繰り返されると思うと戦慄する。
一体いつまで…。否、死ぬまでずっと。
自問自答の末に達した結論は希望も救いも無い。
『はは……あは、はッハはハハ は!』
気付けば高らかに哄笑を上げていた。
口に虫が侵入して来るのも厭わない。
『ははは! アは、あははッ ハはハハ』
狂ってる。それは自分なのか、世界なのか。
もう全てがどうでも良い気がした。
仕えて、尽くして、隷従して。
嵌められて堕とされて、棄てられた。
果ては悪臭が漂う部屋で鼠と蛆虫に塗れ、自由無く拘束されている。ただ血液を提供する家畜に成り下り、それで生き長らえていた。嗚呼、なんて惨めで愚かで、この上なく不様な事か!
人の悪意に翻弄され、それでも理想を求めた代償。哄笑は愚鈍な自身への憫笑だった。乾ききった笑い声が室内に何時迄も響き渡る。
『ハハはハ…ぁハァ~…』
終わりは唐突だった。小刻みに揺れていた身体が前にガクリと傾れ、停止する。
口に入った虫を血反吐と一緒に吐き出した。
全身を巡る倦怠感、皮膚を1枚1枚剥がされているようなヒリつく疼痛。まだ体内に黒炎帝龍の毒素が残っている。手足は意思に関係無く細かく痙攣していた。
レインは舌打ちをつく。
『…嗚呼…何もかもがクソッタレだ』
喉の奥から低く漏れる声は今までの彼ではなかった。
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