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一章

10話【旅路】

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 ディーリッヒの要望で、翌日レインへの鞭打ちが行われた。
 背中の肉が裂けて流血し、失神すれば呪印の苦痛により叩き起こされる地獄のような拷問だった。

 動けるようになるまで2ヶ月以上掛かる重傷を負ったレインだが、エドワードが条件付きで治療を受けさせてくれた。

 内出血を抑え治療した侍祭に、化膿しないよう毎日包帯を替えるよう指導を受ける。
 わざわざ自室まで足を運び、経過を診てくれた侍祭に礼を言って見送った。扉を閉めると小さく吐息して、ベッドに脱ぎ捨ててあったシャツを羽織る。

 腕を回す動作で背中が痛んだ。

 この調子なら完治しても跡が残る。その傷跡を一生、背中に背負って生きなければならない。
 傷跡を嘆くほど女々しくはないが、見る度にあの悍ましい責め苦を思い出すのは気が重い。

 窓を挟んでベッドが2つ並んだ部屋は他の従者の自室と比べて非常に狭い。ユニットバスが完備されているが、シャワーからは水しか出ない粗末な造りだ。

「レイン、大丈夫か?」

 ルームメイトのグリフィスが心配する。
 面と向かってディーリッヒの命令を拒否したのだ。何かしら罰があるとは覚悟していた。

『僕は…大丈夫です。それより、グリフィスさんは?酷い顔ですよ』

 ワイシャツのボタンを留めながら、近頃彼の眠りが浅いのではないかと指摘する。グリフィスの目の下には隠しようもないクマがあった。

「あー…まぁ、な」

 元々近侍についたテオドラが不在の為、グリフィスは農園の手伝いに回っている。

『テオドラ様はあの朝以来屋敷にいらっしゃいませんね』

「嗚呼。全く、何処に行ってるんだか…」

 ベッドに座って肩を竦めるグリフィスの向かいに腰を降ろした。
 任される仕事は肉体労働が多く疲れが溜まっているように見える。

『…休憩の時に少しでも眠った方が良いですよ』

「ハハ、なんだ俺を心配してくれるのかー?」

 八重歯が覗く人懐っこい笑顔。他の使用人も彼のこの気さくさや愛嬌に惹かれるのだろう。

 茶化したグリフィスが手元に視線を落とし、息を吐くと「……お前が無意味に反抗したとは思ってない。きっとそれ相応の理由があるんだろ?」と気を揉む。

 レインは曖昧に微笑んで頷いた。

 グリフィスが召使フットマンになって数年間、レインとはルームメイトとして過ごしてきた。仕事も教えて貰ったし、今まで失敗が少ないのは彼の教え方が良かったからだと断言出来る。
 そんな彼でもレインが何を考えているのか分からない時がある。ただ悪い奴ではないからこそ、同じ部屋で不満もなく過ごせていた。
 
「…それに、大丈夫かよ。ディーリッヒ坊ちゃんの魔物討伐アップシートへ同伴するって聞いたが…」
 
『…はい』

 ディーリッヒが奴隷を毛嫌いしているのは屋敷でも有名だ。中でもレインに並々ならぬ憎悪を抱いており、意味もなく罵倒するのを日課にしている。
 そんなディーリッヒと一緒に魔物討伐に赴くなど心配で仕事どころではない。

「何考えてんだ?断っちまえよ…!」

『はは、断れるのならお断りするのですが…』

 今まで何万回と見てきた、諦めたような笑顔だ。

 街の外には当然、魔物も野盗も存在する。ましてや目的地は魔物が生息する遺跡だ。危険が伴う旅路に自ら志願する者など居ない。

「おかしいだろそんなの!奴隷だからって人の命を何だと思ってんだ!そもそも罰を与えたのは坊ちゃんだろ?」

 憤ったグリフィスが拳でベッドを叩く。

『命令を拒否した事と、アップシートの件は全くの別件でしたので…』

「……明日には出発なんだ。体調が悪いって言って、免除してもらえよ」

 心配してくれるグリフィスの存在が有り難い。
 だが、エドワードと交わした約束は仕事に支障ない程度に傷を癒す代わりに、ディーリッヒに何不自由の無い快適な旅路を提供しろとの事。
 息子と娘に板挟みにされ、ミーアの猫を守ったレインに最低限譲歩した結果だ。

『それに、2ヶ月以上仕事が出来ないとなると…どうなるか分かり兼ねますから…』

「レインは奴隷の中じゃ1番の古株じゃねぇか!もっと堂々としとけよ」

 グリフィスの言葉に、13年間スペトラード家に仕えてきて、レインは何を得たのか漠然と考える。人生の大半を捧げてきたが、主人エドワードは自身の名前にさえ興味はない。
 十数年の奉仕など何の意味もないと突き付けられたようで――…。

『……もしも僕が死んだら――…』

「なぁに縁起でもない事言ってんだ!お前が帰って来なかったらお嬢様が暴れて屋敷を破壊しちまうぞ?」

 冗談めかしく言い、レインの肩を強めに叩いた。それはしっかりしろ、と激励の意が篭っていると痛いほど分かる。

「胸張ってさっさと帰って来い。やり遂げたらお前はヒーローさ」

 トンと拳をレインの胸に当てた。

『…有り難う御座います、グリフィスさん』

 いつか、グリフィスのような人の心に希望を芽生えさせるような、強く優しい人間になりたいと切望する。
 魔女の眷属と言われる闇人ナイト・ウォーカーであっても、憧れるだけなら許されるだろうか。

 レインの劣等感は人一倍だ。幼い頃から魔力を使わないようにと両親から口を酸っぱくして言われた。奴隷に堕ち、厳しい躾を受け自尊心と独自性を踏み砕かれた。

 元々闇人ナイト・ウォーカーだと負い目があるレインが奴隷の生き方を受け入れるのは驚く程早かった。

 流されるまま伯爵家の召使になり、伯爵夫人御付きになった途端嫉妬と侮蔑を一身に受けた。それでも頑張れたのは夫人の存在が大きい。
 呪印を決して発動させず、勿論鞭も使わない。そんな彼女から愛情を受け、やっと存在意義を見付けた。
 直向きに努力していればきっと報われると希望を見出したのだけれど。

 夫人が亡くなり、レインは空虚に見舞われた。食事も喉を通らず、咀嚼しては吐き出す日々が続く。毒味役としても不十分で、エドワードも彼の廃棄処分を考える程だった。

 そんな時出会ったのがレンヨウだ。

『グリフィスさん…僕が居ない間、レンヨウ様を気に掛けて頂けませんか…?』

「はぁ…分かったよ…。気は進まないけどなぁー。腕が付いてるうちは極力様子を見に行くさ」

『有り難う御座います』

 体の前に差し出された手を取り、握手を交わす。するとグリフィスは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてから困った顔で笑った。
 掌を滑らせて腕を立て、握り方を変える。元々此方の握手を促したつもりだったようだ。

 瞬きを繰り返すレインに男同士が約束をする時にする握手だと教えてくれる。
 グリフィスは胸の前で彼の手をしっかり掴み、琥珀色の目を真っ直ぐに見た。

「無事で帰って来いよ」

『…はい』

 力強い握手に圧倒されつつ、レインもグリフィスの瞳を捉える。物語の主人公や語り継がれる英雄はこんな輝いた瞳をしているのだろう、とぼんやり思った。

◆◇◆◇◆◇

 ディーリッヒと【紅の狼レッド・ウルフ】がナタリア遺跡へ出発する日が訪れた。

 ノノア地方は快晴で清々しい空模様である。清涼な風が地を撫でて、葡萄畑を彩る果実を揺らした。

 屋敷の前へ使用人が見送りに出る。外套を羽織り旅支度を済ましたレインも外に出た。A級冒険者も続くがメンバーが足りない。

 ミスリル製の強烈に白光りする新品の鎧に身を包んだディーリッヒが、得意げに口角を上げて地を踏む。
 エドワードは息子の晴れ姿に感動し、何度も頷いていた。

「嗚呼、ディリー…私のアップシートを昨日のように思い出す、勇猛な姿だ。呉々も気をつけるんだぞ」

「分かってるよ父さん。まぁ、他の貴族が大口開けちまうくらいの大物を狩ってくるさ」

 白銀の剣を腰に下げ鼻を鳴らす。次にディーリッヒは、胡桃色の髪の少女を探して周囲を見回した。

「ナオは昼頃に森で合流する予定だぜ」

 察したアンモスが囁くと、彼は肩を落とす。舌打ちと共に「しかもあの目隠しした怪しい奴も居ないしよぉ」とメンバーが不足している不満を溢した。

「テオドラは必要ない。今回は奴の手を借りなくても達成出来る」

「ナタリア遺跡はB~C級の探索場だからなァ。オレらにとっちゃァ散歩しに行くみてェなもんさ」

 カイルが何処か面白くなさそうに吐き捨てる。得意げなアンモスは筋肉質な太い腕の上で指2本を陽気にスキップさせた。

 過保護なエドワードは道中、息子に粗末な食事をさせまいとレインに様々な物を持たせている。過剰な食材や使用するか不明な調理道具、日用品などで彼の背負う若草色の鞄は丸く大きい。
 肩に食い込む荷物をからい直し、視線を上げると使用人の中にグリフィスを見付けた。レインと目が合うと人懐っこい笑顔で背伸びをし、大きく手を振ってみせる。

 目礼をして視線を戻すと数人に囲まれていた。

「スレイン~」

 ドラコニスの嗤笑の篭った声。気付けば貴族出身の従者に囲まれている。

「お前が五体満足で帰って来れない方に3万シェル賭けたぜ」

「はっ…魔法も使えねぇコイツが戻ってくるかよ。魔物の餌になるのがオチさ」

「せいぜいお荷物にならないように頑張れよスレイン!」

 突き飛ばされ、リュックの重みも手伝い易々と体勢を崩す。
 グリフィスが真っ赤な顔で腕捲りをし、前に出ようとしたので視線で制して小さく首を横に振った。

「――では、我々一同、皆さんの帰りをお待ちしている。息子を宜しく頼む」

「ええ」

 屋敷の皆に見送られ、一行はナタリア遺跡へ向けて出発する。
 大きな鞄を背負った奴隷は彼らの背中を追いかけた。

◆◇◆◇◆◇

 ナタリア遺跡は森の中にある湖辺の古代遺跡だ。ノノア地方から徒歩で3日の距離にあり、凡そ1000年前に建てられた建造物とされる。
 現在露出した部分はごく一部で、大半は湖畔の中に沈み地下迷宮のような造りになっていた。

 一行がリンドの街から数km進んだところで街道に出る。これを西に辿ればルーンブルッジの森に辿り着く。
 舗装され美しく整備されている都心と比べると、地方の街道は砂利と石灰を踏み固め歩くのが多少マシな程度。 

「――それで?従者の仕事以外にお前は何が出来るんだ?」

 見渡しの良い街道に出たことで警戒心が緩み会話が生まれる。初めてレインに皆の注目が集まった。

「そうだな…剣術を嗜んでいるようには見えねェけど」

「フン、こんな奴に期待するだけ無駄だぞ」

 煙を払うように手を振り、ディーリッヒは渋い顔をする。
 レインは『その、…馬や人に慣れた魔獣の世話でしたら』と遠慮がちに口にした。
 言葉の通り人に調教された地竜や飛竜の世話をした経験がある。

「ヒュー♪」

 アンモスが口笛を吹いた。

「…それだけか?」

 突き詰めるカイルに恐怖しつつ、必死に頭を回す。利用価値があると思ってもらえなければ、命さえ危うい。

『後は…料理を人並み程度には』

 屋敷ではあまり知られてないが、レインは素朴な家庭料理を作れる。物心付いた時から食事の手伝いは率先していた。美味しいものを作るのは好きだったし、それを人に振る舞うのはもっと好きだった。
 ナオに夜食を提供した際、料理人になれると絶賛され、含羞したのは記憶に新しい。

「他に俺たちに言っておく事はないのか?」

 問い掛けが変わり息を飲む。まるで報告するべき内容をレインが失念しているような詰問に気持ちが焦った。
 苛立ちを含んだカイルの声を受けて一抹の不安が過ぎる。

 まさか、属性を勘繰られているのではあるまいか。

 レインはこれまで一度も魔力を使用していない。しかし、噂に聞く属性を看破する古代魔道具アーティファクトや、魔力を可視する生まれながらの異能アビリティなど、露見している可能性はゼロではなかった。

『…、……ございません』

 汗で手がぐっしょりと湿っている。

 レインの行手を阻むように、カイルが立ちはだかる。恐懼に身を固くしながら視線を合わせた。

「お前が生まれながらの異能アビリティ持ちなのは聞いてる。毒を食っても死なない、だったか…。俺たちに隠し事なんて良い度胸だな」

 明らかな唾棄を滲ませた言動に、ハッとした。

『!、そんなつもりは…!申し訳ありません!アビリティに関して、お役立てる事がありましたら何なりとお申し付け下さい』

 レインの生まれ持った資質アビリティ、毒の症状を僅かに緩和させる。アビリティを持って生まれる事を、人々は世界に愛されていると羨望の眼差しを向けるが、レインにとってこの能力を持って生を受けた事実は幸か、不幸か。

 最大のコンプレックスの属性に気を取られた。しくじったと口内を噛む。

「奴隷の分際で隠し事は許されない。身の程を知れ」

『申し訳ありません』

 カイルの叱責に続き、ディーリッヒが野次を飛ばした。低く頭を下げたレインに嘲笑しつつ通り過ぎる。

 舌舐めずりをしたアンモスの目は、肉食獣のようにギラギラしていた。奴隷の青年に悪寒が駆ける。
 貴族生まれの従者たちに似た、暴力に悦を感じる者特有の表情が滲んでいた。

◆◇◆◇◆◇

 ルーンブルッジの森の入り口で、本日2回目の休憩がとられた。
 勿論レインに休憩などなく、ディーリッヒの為に忙しく動いている。靴に付いた土を払い丹念に磨いていると、アンモスから声が掛かった。

 ディーリッヒから許可が降り、男の後を追って森の中に入る。

「久々だなァ…。ナオが来て以来だから1ヶ月くらいオアヅケくらってたかァ」

 サディスティックな笑みでクツクツ笑い、アンモスはレインの肩に腕を回した。街道から外れた茂みに誘導される。

 一行から見えない場所に辿り着き、レインは冷や汗を流す。アンモスの暴悪とも取れる笑みに、誰よりも早く危険を察知していた。

「お前は奴隷のクセに俺たちに隠し事をしたんだ。これは、正当な躾だ。分かるよなァ?」

 背中の荷物を下ろすように指示され、それに従う。急な動作は鞭打ちの傷が痛むが構っていられない。
 直立の格好でアンモスと対峙する。仁王立ちの大男に見下ろされ、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。

「今後、俺の命令に叛く事は許さねェ。口答えも、言い訳『でも』『だって』一切ナシだ。俺が言う事は全部イエスで答えろ。俺の機嫌を損ねるな」

『畏まり、ました』

 高圧的な態度に加え、芋虫のような指の関節をボキボキ鳴らす。暴力の気配に身が竦んだ。

「声が小せェッ!」

 腹を殴り上げられ、胃の内容物を嘔吐した。

「まったく…汚ねェ奴隷だぜ」

『ゲホッ…!ゲホ…』

 膝を折って背を丸め、苦痛に歪む顔のレインを愉快そうに見下ろす。愉悦に浸る強者を仰ぎ見て、青年は更なる災難が降り掛かると察した。

「――たく、俺がどれだけ我慢したと思う?カイルとナオが居る前で下手な事出来ねェからなァ。どうでも良い奴らにも愛想振り撒いてよォ」

 苦労を思い出すように目を閉じて、彼は散々だったと話す。
 カイルとナオは彼の本当の姿を知らない。誰もが憧れる英雄像を演じて、巧妙に隠している。

『…どう…して』

 独り言が思わず漏れた。気付いて口元を押さえた時には既に手遅れで、ニヤリと嗤うアンモスが目の前に居る。

「あの女が渡り人だからだよ!それ以外にあるか?アイツには、このパーティーに居て貰わなきゃならねぇ」

 レインはやっと理解した。渡り人だと明かさぬよう、彼女に忠告したのは周囲に露見してパーティーからの脱退を防ぐ為だ。
 彼女が新しく加わった【紅の狼】は停滞していたランクを瞬く間に駆け上がった。冒険者ギルドでも持て囃され、彼らの鼻は高い。

「カイルにバレると面倒くせェしな。クソが付く程真面目な奴だよ」

 アンモスは懐から煙草を取り出し、一本咥える。立ち上がれないレインを蹴飛ばし「火だろ火ィ!」と着火を催促した。
 軋む体に鞭を打ち、マッチを擦って火をつける。

 貴族の客人は葉巻を吸う者が多く、従者の上着の内ポケットにはマッチや火をつける魔道具が常備されている。火属性の魔力を持つ者は重宝された。

 口から出した大量の煙をレインに吹き掛ける。

 いくら煙くても苦手な匂いでも、絶対に顔を顰めてはならない。背けてはならない。何がアンモスの琴線に触れるか分からない以上、平静に努めるしか無かった。

「あーー、生き返るぜェ」

 濁音混じりの溜め息を零し、繁々と奴隷を見る。家内奴隷にありがちなヒョロい体型で、本気で殴れば骨が折れそうだ。
 人差し指を動かしてレインを近くに呼んだアンモスは、口角を持ち上げる。

「手ェ出しな」

『…?』

「手袋脱いで前に出せ」

 両手を出した奴隷の掌に吸いきった煙草の火を捻った。反射で手を引っ込めそうになるが、寸前で耐える。

『…、ッ』

 押し付けられる熱に掌の皮膚が焼けた。払い除けたい衝動に見舞われるが手を出せと言われた以上、煙草を落としたりしたら何と言われるか。脂汗が滲む。
 痛々しい火傷を作り、アンモスは満足げに鼻を鳴らす。

「あーァ、手を引っ込めやがったら指を折っちまおうかと思ってたんだがなァ」

 火を捻り消した煙草を灰塗れの手に落とす。どうやら、レインの判断は正しかったようだ。

「お前煙草の匂いダメだな?」
 
『…、そんな、事は…』

「ハッハ~、建前は良いぜ。俺は冒険者なんだ、観察力は並じゃねェのさ」

 図星を突かれて困憊するレインは恐縮した。しかし、次のアンモスの言葉に耳を疑う。

「じゃぁ、吸いな」

 火傷の痕が残る掌に、煙草を1本落とされた。

 煙草は贅沢品であり、奴隷にはとても手に入らない代物だ。マッチを擦って火を点ける手伝いは何百回としてきたが、当然レインは喫煙の経験などない。欲しいと思った事もない。

 やり場に困ったレインに有無を言わせず、「吸え」と脅せば青褪めて見様見真似で煙草に火をつけようとする。しかしマッチを2本使っても着火しなかった。

 アンモスは「ヘタクソ」と溜め息混じりに、着火の際に息を吸うよう説明を挟み、舌舐めずりをする。

 まるで白いキャンパスを真っ黒に染めるような、轍のない雪の上に消えない足跡を残す快感。何も知らない奴隷を服従に導く衷情。堪らなく興奮する。

 やっと先端に火が灯る。レインは言われるがまま息を吸ったようだ。
 反抗も出来ない彼を鼻で笑ってやり「ホラ、煙を肺まで入れんだよ」と奴隷を促す。

「お前の嫌いな煙をよォ、肺の奥の奥まで染み付けるんだよ」

『……っ』

 ――肺まで入れる?深く呼吸をしろという事だろうか。

 病気が良くなる、集中力が増す、色白になり美人になる、など煙草や葉巻きは貴族に大人気だ。更に喫煙しているだけで周囲に財力をアピールできる。
 眉唾な話が多い中で、煙草は有害毒素の塊だとレインは信じていた。

 証拠にフィルターを通して吸う空気は最高に不味い。

 眉を顰めて言われた通り思い切り肺まで空気を入れ、激しく咽せる。煙草が零れ落ち、地面に灰を散らした。

『ケホッ…ぉえ、!ゲホッゴホッ』

「よォしよし!これでテメーも肺が汚れちまった、俺の仲間って訳だな!ハハハ」

 機嫌良く笑うアンモスの傍らで膝を突き咳込む。舌が痺れて、風邪気味だった喉が痛んだ。口の中に煙草の味が張り付き、ひたすら気持ち悪い。

 苦しむ姿を満足気に見下ろし、仁王立ちをする。立ち去る訳でもなく、ずっとレインを見ていた。

『はぁ…、はぁ…ッ』

「おいおい、たった1本で俺の気が済むと思ってんのかァ?次だ次ィ。それとも?お前が本当に毒が効かないか検証してみるのも良いな」

 ルーンブルッジの森には凡ゆる毒持ちが居る。蛇や蠍、毒虫、蛙など、魔物ほどではないが毒を保有している。

 人の苦悶の表情はアンモスにとって悦びだ。屈んだ大男は再び喫煙の強要をする。

「オラ、口開けろテメー」

『…、ぁぐ…』

 慣れない煙草が脳内を支配し思考が鈍くなる。

『ケホッ…』

「何だその顔はァ?喜べよ奴隷。煙草なんてお前からしたら贅沢品だ。滅多に吸えるもんじゃねェだろォ?」

『は、はい…』

「俺に礼の一つでもあって良いんじゃねェか?」

『あ…有り難う御座います…』

 身分最底辺の奴隷が、理由は知らないが従者まで昇り詰めている。一度掴み取った人間らしい生活を取り上げられ、犬まで堕ちる気分はどうだ。

 伯爵家に仕えているとはいえ、彼は奴隷。此方の要求には逆らえない。楽しい玩具を得た子供のようにアンモスは笑った。

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