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一章
5話【魔法】
しおりを挟む【紅の狼】がリンドの街を訪れて1週間が経過した。
あれから彼らはディーリッヒに実践向けの剣術を指南している。
エドワードが息子の為に発注していたオーダーメイドの鎧が届き、ナタリア遺跡への出発が近いとレインは実感していた。
彼はナオの近侍を務める中で、彼女の食の好みや生活リズムなどを完全に把握した。命じられる前に動けなければ良い従者とは言えない。
不快感を僅かでも与えてはならないと、日々神経を擦り減らしていた。
屋敷の別邸には図書室が完備されている。生前マルグリットが集めていた知識の山だ。様々な分野の書物が揃えられ、棚に所狭しと並んでいる。
テーブルに高々と積み上げられた本の中心で胡桃色の髪が揺れる。
「…ッだぁーーーー!」
丁度、時計の針が夜の12時を示した頃、広い図書室内に雄叫びが響いた。集中力が切れたナオが机に突っ伏して伸びている。
側に控えていたレインが恐る恐る声を掛けた。
『あの、ナオ様…如何なさいましたか?』
「レインさん…」
ナオは近頃、図書室へ籠る時間が目に見えて増えた。多くの書物を読み漁り、知識を溜めている。
それは趣味と言うより、使命感に突き動かされているようだと感じた。彼女からは焦りが伝わってくる。
ナオは眉根を寄せて唸り、唐突に「その、…レインさんと私って結構長い時間一緒に居ますよね」と切り出した。
『はい』
「忙しいのに勉強にも付き合って下さって…」
『…?』
彼女の言葉の意味を掴み損ねて、首を傾げる。
そして唐突に結論に辿り着いた。彼女も年頃の娘だ。プライバシーの無い今の状態がストレスになっているのかもしれない。
もしそうなら申し訳が立たないと、膝を折って謝罪しようと一歩身を引いた。
「口止めされてるんですけど…」
躊躇う様子で前置きしたナオと視線が真っ直ぐ交差する。
「私、渡り人なんです」
『…ぇ?』
思いもよらない告白に刮目した。
渡り人とは異世界から来た人間を指す。世界から世界を渡った人、と言う意味だ。
何が原因で世界を渡るのか、時空の捻れか、神の意思か、全ては謎に包まれている。
冗談なのかと頭を擡げるが、少女の摯実な瞳が真実だと物語っていた。
渡り人は貴重な存在だ。常人より身体能力が高く、逸脱している。
賢者として語り継がれるのが多いのも特徴の1つだ。数多の災厄を回避させ、天災さえも予測する。
彼らの叡智を借りて新しい統治を行った地域が大いに栄えた事もあった。
戦場において、新たな布陣を展開させ勝利に導いた軍師もいた。
干魃の地域に赴いた際に一言二言助言を行っただけで、その地が瞬く間に潤った。
渡り人を巡って国同士が争った歴史もある。
「他の人には内緒でお願いしますね」
人差し指を唇に当てて、彼女は困った顔で微笑んだ。
『それはーー…』
戸惑う言葉は行き場を失った。周囲に露見すれば大事になる。
歴史上数百年ぶりの渡り人だ。爵位の授与と引き換えに国への永住を約束させられるかもしれない。事あるごとに国から協力を要請され都合の良いよう使い潰される未来が見える。
【紅の狼】もそれを危惧して彼女に隠すよう忠告したのだろう。
『僕が口外しない保証はない筈です!どうしてそんな大切な事を、僕などに…』
「レインさんとっても良い人ですし、それに――…」
ナオは朗笑し、持っていた本をレインの前に突き出す。
「もう1人で勉強するのは限界なんです!私に…ッ!この世界の事を教えて下さいぃぃ!」
決死の思いが滲み出ていた。勢い良く下げられた頭に瞬きをする。
一拍遅れて困憊した。客人に頭を下げさせるなどあってはならない。従者は『顔を上げて下さい!』と叫ぶ。
ナオはこの世界に来て日が浅い。張り切る家庭教師に、何も分からないと告白出来ないままずっとズレたやり取りをしている。家庭教師はナオの礼儀を弁えた様子を見て、一般常識に関して高めの水準を設けていた。
実際はナオは〈アノーラ〉に無知で、子供が知っている事さえ知らない。そんな自分を恥じ、毎日図書室へ通って自主勉強をしていたのだ。
専属従者の彼は彼女と共に行動する事が多く、深夜に及ぶ勉強の間も側に居た。
この広い図書室で目的の書物を探すのを補助し、読み終えた本は元の場所に戻してくれる。
睡魔が襲って来たら暖かいコーヒーをそっと差し出してくれた。
テスト期間や受験勉強中、親にさえこれ程手厚く激励された事は無い。
「このままレインさんに隠し通す自信も無いですし、やっぱり人に聞かないと分からない事が多くて…。遺跡への出発も差し迫っていますしいつまで此処に居れるか…」
【紅の狼】は所用で忙しくしており、屋敷にはレイン以外他に頼るアテが無い。
カイル、アンモスはギルドでクエストを確認したり、装備を新調したり、ディーリッヒの訓練をしている。テオドラはそもそもあの朝から姿を見ていない。
「…駄目、ですか?」
本を突き出したまま、伏せていた顔を恐る恐る上げる。暫し思案を巡らせた後、レインは自身に向けて突き出された書物を受け取った。
ナオが、”勉強するのを手伝ってほしい”と切実な願いを込めて差し出した書物。それを受け取る意味を、秘密を共有する重みを、彼は重々理解していた。
『…僕も世間に疎い所がありますが、それでも宜しければ…』
「あ…有り難う御座います!」
花が綻ぶように、少女の表情が和らぐ。
その笑顔に胸が締め付けられる。知り合いも居ない、知った土地もない。いきなり違う世界に放り出された彼女の不安や心労は計り知れない。
毎日遅くまで図書室に通い、熱心に本を読んでいたのも頷ける。未知の土地〈アノーラ〉で生き残る為の知識を蓄えるのは当然だ。
「助かりました~!この世界の常識も全然分からなくて…」
もう隠す必要が無くなったナオは開き直り、鞄からノートとシャープペンシルを取り出した。横の従者はインクを用いない変わったペンをまじまじと観察する。
彼女のノートにはびっしりと文字が書き込まれていた。読み溜めた知識を忘れないように書き留めておいたものだ。見た事の無い言語でレインには解読出来ない。
改めてナオという少女が渡り人である事実を突き付けられた気がして息を呑んだ。
『ナオ様はいつ頃この世界に渡られたのですか?』
ノートに羅列されているのは見た事もない文字。それが彼女の世界の文字であるならば、〈アノーラ〉で使用されるものと明らかに異なる。
「ゐ文字」と「ゑ文字」の2種類の文字で構成される帝国文字は、大陸でも3番目に習得の難しい言語とされている。
にも関わらず、ナオは円滑に本を読み進め、公用語を綺麗に発音していた。
「私がこの世界に来たのは、えーっと…此処に到着する2週間くらい前ですね」
だとすると、彼女は〈アノーラ〉に来て凡そ20日前後。レインの心中を察したナオはノートを撫でた。
「私、なぜだか文字と言葉は分かるんです。私には此処の世界の文字は全部、元々居た世界で使っていた言語に変換されて見えます。口の動きを見る限り喋ってる言葉も違うんですが、ちゃんと伝わります」
彼女から見て、〈アノーラ〉の人々の口の動きは明らかに違う言葉を話している。しかし、耳に届くのは聞き慣れた言語なのだ。
読唇による視覚の情報と伝わってくる音声の食い違いはボタンを掛け違ったような違和感があった。
「不思議ですけど、私としてはスゴーく助かってます!言葉が通じなかったら今頃飢え死にしてたかもしれませんし!」
そう言って腕を摩るナオには悪いが、レインは彼女が飢え死にする想像は全く出来ない。言葉が通じなくてもめげずに突進して、道を切り開いていく強さを彼女は持っている。
彼女は前の世界では一般的な学生だった。通学途中に突然光に包まれ、気付けば〈アノーラ〉に居た。
森を彷徨っていたところ魔物に遭遇し、そこへ【紅の狼】一行が通り掛かった。瞬く間に魔物を撃退し、ナオを保護して事情を聞いてくれたのが始まりだ。
後日、魔法が使えると知り彼らにスカウトされた。
渡り人だと他言しないよう忠告し、温かく接してもらっている。その全てが彼女にとって幸運だった。
「恩返しがしたいなって思ってます」
はにかむナオが眩しく感じる。魔法についての本の続きを読み始めた彼女の横で直立した。
「レインさん、先生になって頂いた事ですし座りませんか?」
『いえ…僕は大丈夫ですよ。ナオ様のお心遣いに感謝致します』
彼女はいつだって奴隷へも配慮を忘れない。
元の世界に奴隷制度は無く、人は平等だと教育されるそうだ。
「最初レインさんの手の甲を見た時、お洒落なタトゥーかと思ってしまって…。結果的に身分を指摘したような失礼を…本当にすみませんでした」
『と…とんでもありません!』
ずっと気掛かりだったのか、申し訳なさそうに頭を下げるナオにレインは焦る。
奴隷呪印は小難しい術式が事細かに書かれており、一見すると通常の魔法陣のようにも見える。
「……〈アノーラ〉を知っていく内に、私が居た世界とは全く違う世界なんだなって実感しました」
眉を下げる少女は、ポツリポツリと元居た世界の事を教えてくれた。
電気を自在に引き出して生活し、それによって暮らしが支えられている。カンテラや洋燈は用途が限定され、一般的な照明は蛍光灯やLED照明。
電化製品が広く普及して大概の事は容易く出来てしまう。時短、簡便、軽量…こうだったら良いな、を詰め込んだ夢のような便利アイテムの数々。
道や空、海を自由に走る鉄の塊。雲にも届く高い建造物。魔法ではなく科学が進歩した、資本主義を掲げたインターネットが蔓延する情報社会。
レインには想像出来なかった。
〈アノーラ〉では人々の生活は魔法と魔道具により成り立っている。魔物や危険と隣り合わせで、僅かな片隅で生きていくにも残酷で理不尽だ。
「でも、こっちの世界と私の居た世界で共通点もありますよ!街並みや人の服装は昔のヨーロッパに似てますし」
『よーろっぱ?此方では聞き馴染みのない言葉ですね』
魔法と魔物の存在により〈アノーラ〉は独特な発展を遂げているが、ナオの世界にあった物や技術も流通している。更に動物や食べ物に違いは少ない。言葉の中にも聞き覚えのある単語や意味が含まれている。
過去の渡り人が伝えた道具や食べ物、言葉が少なからず〈アノーラ〉に受け入れられ広く伝わっている仮説が有力だ。
ナオは久々に元の世界の話が出来て浮き足立っていた。語っている彼女の瞳はイキイキとしており、まるで水を得た魚のようだ。
声を弾ませる彼女に、レインも夢中になって話を聞いていた。
『道を走る鉄の乗り物とは、どういった物なのですか?』
「そうですねぇ…。地竜や馬を必要としない乗り物で、人や荷物を運べます!」
ナオの話は興味深いものばかりだった。
「この世界に来て1番のカルチャーショックは、やっぱり魔法ですかね。最近は上達してきたんですよ!」
この〈アノーラ〉において魔法とは、魔力により引き起こす数多の事柄の総称である。中でも体内のオドとマナを結び付け、自在に操って制御し体現する事を魔術と呼ぶ。
それは膨大な集中力と魔力を制御する緻密なコントロールが必要だ。
ナオは指の先に小さな球体を創り出した。真珠玉は指の動きに合わせて浮遊する。
この世界に来て間もない期間で魔術を会得してしまう脅威的な成長スピード。彼女は正に“選ばれた人間”だ。
『ナオ様の魔力は美しいですね』
ナオの魔力は温かい光を纏っている。側に居るだけで心が安らぎ、癒しの力を強く感じた。
「そう言えば、魔力って人によって様々な形や色をしてますね。ゼノさんは赤色でギラギラしてますし、アンモスさんもまた違って…」
『仰られた通り魔力は人によって異なり、その性質によって属性が分かれています』
魔法を研究している学者によれば、生き物の持つ魔力は様々であるが、大まかに7種類に分類されると説いた。
火、水、土、風、雷、光、そして闇――。経験により成長するが、生まれ持った属性は死ぬまで変わらない。
「うーん、じゃぁ例えば、火属性の人が水系統の魔法を使う事は出来ないのですか?」
『一概には言えませんが…扱うマナが違うので難しいと思われます』
レインはシャープペンシルを借りて分かり易く解説した。人型にゲージ、【火球】を絵にして書き込む。ゲージを塗り潰し必要な魔力を表した。
『なので、得意な魔術は属性に影響されやすいとも言えます』
魔術を行使するその環境によって術の質が多少変化する。
灼熱地帯で火属性の魔術が強化されたり、反対に水属性の魔術は弱体化してしまう。
これは、周辺のマナが術者のオドと結び付きやすい条件が揃っているからだ。
レインは人型の周りに矢印を描き、環境が魔術に深く関わりがあると説明する。
「プ、あはは!レインさんの描く絵は独特ですね」
言われて見直すが、歪な人型はまるでアメーバだ。火球を描いたようだが、それは毛むくじゃらの生き物のようでもある。
壊滅的な絵心の無さ。そのお陰で文字だけは際立って綺麗に見えた。
涙を浮かべ爆笑されて、レインもつられて笑ってしまった。
「ははは…あー…おかしい。ふふ、こんなに笑ったの久し振りです!はぁー…ごめんなさい、レインさん」
『いいえ』
笑い飛ばしてもらえた方が断然良い。彼女の明るい笑顔は雰囲気をより和ませる力があった。
涙を掬いながら、ノートの絵に視線を戻す。悪いと思いながらもまだ抑えきれずに口の端を震わせるナオの傍で、従者は茶菓子の準備をした。
中の湯が冷めないよう魔法が込められたティーポット。上品な柄が入ったティーカップを温めながら、茶葉の量を調節する。
暫くすると紅茶の良い香りが鼻腔を擽った。
本の頁を捲りつつ、難しい顔をする。
「うぅ、覚える事が一杯で頭がパンクしそう…」
ナオはパタリと再び机に突っ伏す。レインは苦笑しながら給仕ワゴンに乗せていた追加のマドレーヌを彼女の前に置いた。
「有り難う御座います!」
甘い物を見た彼女はピョンと飛び跳ねて、満面の笑みでお礼を言う。1つを美味しそうに齧った所へ、いつもの温かいミルクティーを差し出した。
「嗚呼、完璧なタイミング…レインさん、貴方ってば良いお嫁さんになれます!」
『…お褒めの言葉と受け取って良いのか、悩みますね』
「え!?もひもん、ほへへまふよ!」
口元を隠してはいたが、もごもごと喋る彼女は何を言っているのか分からない。しかもその拍子にマドレーヌを喉に詰めた。
「んぐ、んー!」
慌てる手にカップを握らせてやると、ナオはそれを一気に呷る。顔色が良くなった彼女はほう、と吐息し「しかも猫舌な私に合わせた完璧な温度管理…」と、有能な従者に惚れ惚れした。
「レインさんに出来ない事って無いんじゃ」
『はは…とんでもないです。僕は出来ない事だらけですよ。絵心もありませんし、実は歌も下手です』
レインは続けて『魔法だって使えませんし』と自嘲気味に笑った。
予期せぬ言葉にナオの手が止まり、横に居た彼を弾けるように見上げる。
『僕に魔術の才能は皆無と言って良いです』
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