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一章

4話【約束は】

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 【紅の狼レッドウルフ】が街の冒険者ギルドに行っている間、レインは3人の兵士と共に神獣の平家を訪れていた。 

 3人は訓練兵を卒業したばかりでまだ若く、立ち会いを行うのは初めてだ。
 以前世話役の彼が居ない間に興味本位に檻に近付いた兵士達の悲惨な噂が脳裏を過ぎる。好奇心に負け鍵を盗み出し、神獣を触ろうとした1人の兵士は腕を失ったと聞いた。

 世話に立ち会えるのは一人前の兵士になった証だ。しかし、先輩は「世話役の奴隷が居ない時には会いたくない」と口を揃えて言う。
 兵士になったら神獣の食事運びをする日が不定期で回ってくる。奴隷が病に伏してる時や別件で多忙な際に役目が回って来るらしいが、詳細は知らない。
 その餌やりを経験すると皆決まってそう言うようになるのだ。

 一体どんな魔獣なのか興味が湧く反面、檻を壊して此方に突進して来たらと想像して恐怖に駆られる。五大神獣に数えられるならば力強く雄雄しい姿をしているに違いない。

 若い兵士は強張る表情を隠しきれず青褪めていた。平家の南京錠が青年によって解かれ、鎖が擦れる音と共に扉が開いた。

 奴隷が彼らに対して会釈をして先に中に入る。新しい藁を保管場所に持ち込み作業を始めようとしていた。
 牢の奥に蒼く煌る双瞳が見える。暗がりに動く影は思ったよりも小さい。「グルルル…」と獰猛な唸り声に背筋が凍る。

 奴隷の青年が構う事無く鉄格子に近付き腰を落とす姿に、兵士の体に緊張が走る。奴隷に向けて声を掛けようとするが、それがきっかけで神獣が暴れてしまっては元も子もない。
 背中に隠れて見えないが、いつの間にか唸り声が止んでいた。フワフワとした尻尾が緩く揺れている。

『レンヨウ様、まずは掃除をさせて頂きますね』

「クルル…」

 決まりに従って、レンヨウが居る奥の鉄格子に入ると中から鍵を掛け直す。これは帝国の宝である神獣を逃がさない為だ。例え虫の居所が悪く彼を攻撃する事があっても、兵士たちは何もしない。

 ハニーブロンドの髪色の青年は兵士たちの畏懼した面持ちに気付かないまま、慣れた様子で仕事に取り掛かる。鉄格子が嵌った小さな換気用の小窓を開けると、小屋の中に細い光が差した。

 兵士の肉眼でもやっと姿が確認出来る。子供の頃絵本で見た姿より、実物は神々しくどんな獣より美しかった。光を反射させる白銀の毛並みは粉雪を纏っているかのように輝いて見える。
 レンヨウは兵士たちを一瞥するが直ぐに関心は逸れ、バケツとブラシを持った奴隷へ移った。檻の中に居る青年の手に頭を擦り付け、愛撫を欲している。

 本当にあの神獣が先程の身も凍るような唸りを上げていたのか、と疑いすら持つ程に大人しく見えた。
 奴隷は石造の壁と床をブラシとモップで丹念に磨き、房内に身体を傷付ける異物が無いか細心のチェックを行う。踏み固められた寝藁を端に寄せ、用意していた新しい藁を引く。

 その間レンヨウは青年の脚に身体を寄せたり背中に飛び乗ったりして、気を引こうとしていた。

「クルルー…クルルル、」

「今の、レンヨウ様の鳴き声か?」

 平家の周囲でトレーニングする日もあったが、あんな声を聞いた事はない。

 作業するレインは、次に神獣を隣の並列された区画に進めた。蛇口の付いた一角で、水捌けが良いように細かな溝が網目状にあり排水溝も完備されている。
 蛇口にホースを取り付けて、水圧を調整しレンヨウの身体を濡らした。飛沫にならないよう身体に添わせるのは、過去の失敗から学んだものだ。

 美しい深みのあるサファイアの瞳が気持ちよさそうに細められる。レインは清潔なタオルで白い毛並みを撫でながら、鱗のように点在する石を擽った。
 
「クル、クルルー」

 仕返しとばかりに身体を捻って水飛沫を飛ばされる。びしょ濡れになったお互いを見て声を抑えて笑った。

 水を止めて風邪を引かないようレンヨウの身体を余すとこなく拭きあげる。青く光る艶々の角、身体の毛とは正反対の黒っぽい毛色の肢体。
 前脚をタオルで包む際、魔力を封じる足枷を見るといつも胸がザワつく。

 神獣を人が縛るなど本来あってはならないのではないか。古い文献によれば蒼神レンヨウは空を泳ぐ美しい魔獣だ。
 なのに、こんな石造りの厳重な牢屋に捕われて…。

「早くしてくれ奴隷スレイブ

『!、申し訳ありません』

 手を止めていたレインに、兵士から声が掛かった。急いでレンヨウの水気を拭き取り、何時もの生活スペースの鉄格子に戻る。
 壁に掛けてあるピンブラシで丁寧にブラッシングして、日課の沐浴を終えた。

 片付けと戻る準備を始めたレインに、神獣が寂しそうに身を寄せる。それに気付いた彼は片膝を突き、レンヨウの額に己の額を突き合わせた。

『また参ります』

「クルルー…」

 目を閉じていたレインの口を、レンヨウはぺろりと舐めた。青年は舌が触った口元を押さえて目を丸くし、瞬きを繰り返す。
 神獣が可愛らしく首を傾げて見せるので思わず破顔した。

◆◇◆◇◆◇

 スペトラード家の屋敷は4つの建物により成り立っている。伯爵が住むのは本邸。マルグリットが住んでいた別邸は、現在客間として使用されている。
 ディーリッヒには虫の集まる木が近い東館、ミーアには芸術品が多く飾られた西館が贈られていた。

 花よ蝶よと大事に育てられた彼女の館は別名〈花園〉と呼ばれている。

 幾千の花が彩る中庭の立派な彫刻と噴水を見ながら、渡り廊下を進んだ。
 数百万シェルは下らない壺、1枚で豪邸が建つ絵画を過ぎると、淑女らしからぬ騒ぎ散らかした声が鼓膜を叩いた。

「――何でレインじゃないのだ!?妾は奴が良いと言った筈じゃぞ!?」

 不意に名前が飛び出してギクリとする。

「すみません、お嬢様…」

 扉越しにも召使フットマンが困り果てているのが伝わって来る。息を飲んでミーアの部屋を隔てる両開きの扉をノックした。

「もぉー!誰なのだ!?下らない用ならただじゃおかんぞ!」

 怒りで顔を赤くしたミーアががなる。

『レイン・ルクスレアです。旦那様より、茶請けの差し入れをお持ちしました』

「レイン!?おい、何をしておる、早く開けるのじゃ!」

 召使が疲れた様子で扉を開けた。その途端ミーアが飛びついて来て、レインの体勢が崩れる。後方に尻餅を突いた彼は『お嬢様、お元気そうで何よりです…』と苦笑を浮かべた。

「レイン…ミーアと呼べと何度言ったら分かるのだ?」

『しかしお嬢様、僕は』

「むーー奴隷じゃから敬称なしで人の名前を呼ぶのは許されないと言うのじゃろ?もう聞き飽きたわ」

 レインの上で仏頂面で口を尖らせる彼女は、母親譲りのウェーブがかった赤髪を持つ少女だ。齢12歳で、長身のレインの胸に満たない身長。
 本人が背丈を気にしていつも高いヒールの靴を履いている為、小さいとは口が裂けても言えない。

 召使に目配せしてこの場を引き受ける。少年は助かったとばかりに、そそくさとその場を去った。
 
 立ち上がったレインは少女に手を貸して起立させ、ドレスの乱れを直す。華奢な体はエドワードとディーリッヒとは正反対だった。

『お嬢様、使用人を困らせてはならないとあれ程…』

「レインが来たならもう困らさん!そうじゃ、茶請けを持って来たのであろう?妾と共にまた茶を囲まぬか?」

 彼女は良い意味でも悪い意味でも純真無垢だ。伯爵家令嬢として生を受け、望みは全て父親が叶えてくれる。幼さ故にそれに疑問を抱いた事はない。

 ソファに腰を下ろした彼女は、レインが紅茶の準備をするのを足を投げ出してうきうきと見守った。

「此方にはどのくらい居れる?」

『皆様が戻られる迄…でしょうか』

 【紅の狼】は今朝から外出をしている。帰宅は夕方になると聞いていた。

「うー…その冒険者とやらは良い御身分じゃな。妾からレインを盗りおって…」

 少女は皮肉に顔を歪める。思い通りにならない時に爪を噛むのは彼女の癖だった。

「父上も何を考えているのか…自分の娘の方が可愛くないのか」

 唇を結ぶミーアに気が遠くなる。あれを溺愛と呼ばずして何と呼ぶのだ。世間から切り離し汚いモノを見ないよう珠玉の宝物の如く大事にしているのが、娘のミーアだった。
 そもそも娘のご機嫌取りにレインを寄越した時点で甘さが滲み出ている。

『恐れながら…旦那様は間違い無く、お嬢様を大切にしておられます。どうか自分は愛されてないなどと誤解なさらぬよう、お気に留め下さい』

 湯気の立つティーカップをテーブルに置き、伯爵に頼まれた菓子を皿に並べる。今帝都で女性に人気のメレンゲを使用した菓子だった。

「レイン、毒味だ」

『これは旦那様がご用意なされた…』

「良いのだ、ほれ」

 毒味を理由に、何度彼女から高級な菓子を食べさせて貰っただろう。マルグリットに似て優しい子だった。

 レインはミーアに突き出された菓子を受け取り、口に運ぶ。口内でほろほろと崩れて消えていく、甘みを過分に含んだ生地は面白い食感だった。
 こんな上等な菓子、本来なら一生口に出来ないだろう。

 奴隷とは労働の対価に賃金が支払われるものではない。主人に衣食住の面倒を見て貰う対価に労働力を提供する。つまり、ただ働きだ。

『有り難う御座います、お嬢様』

「うむ」

 毒味と称さないと彼が与えた物を一向に口にしない事を、ミーアは知っている。例え父親が彼女の為に用意させた菓子で毒の混入の心配が無くても、そう言わないとレインは酷く遠慮してしまう。
 
 単に、菓子を一緒に食べたいだけだと素直に言えれば楽だが、彼の瞳を見ると何だか気恥ずかしい。

 デビュタントがまだのミーアは友人と呼べる者が居ない。領地にも彼女と同じ年頃の娘は少なく、身分の相違を理由に友達作りは捗っていない。

 西館に出入り出来るのは座学や語学算術、礼儀作法、魔術、ダンスを教える教師。そして限られた召使フットマン従者ヴァレット、侍女、伯爵家の者だ。
 その中でもミーアが生まれた時から側に居たレインは彼女にとって従者であり、友であり、もう1人の兄だった。

「どうだ?美味いか」
 
『はい、美味しいです。見た目もカラフルで女性が好きそうですね』

 青年の感想を聞いて、ミーアは満足そうに自らも菓子を頬張る。

「ほお、サクサクして美味い!ダックワーズに食感が似ているのじゃな」

 広がった深い甘味に脳内が蕩ける。少女は用意された紅茶に口を付けた。
 温かな吐息を溢してソーサーにカップを戻すと、ニッコリと微笑む。

「やはりレインの淹れた紅茶が1番口に合う」

『勿体無いお言葉です』

 瞼を伏せ紅茶で唇を湿らすミーアの姿が、マルグリットの姿と重なる。母親の面影を色濃く残すミーアは、彼女の生写しだと思わしめる程にそっくりだった。
 レインにとって伯爵夫人とは、居場所を与えてくれた恩人だ。

 自分は恵まれていると思う。仕事は多いが遣り甲斐があるし、従者となり衣食住は上等な物が用意された。
 食事に関しては食べる時間がなく、毒味の料理がその日の食事になる。それでもエドワードや、ディーリッヒ、ミーアに提供される料理は高級な食材がふんだんに使われていて、舌が肥えてしまいそうだった。

「A級冒険者とやらが屋敷を出たら、レインは妾の元に戻って来るのか?」

 期待を抑えられずテーブルに身を乗り出して尋ねる。

『お嬢様の近侍は旦那様が再度、ご検討なされる筈です』

「むぅ…」

 誰にも言った事はないが、レインには妹がいる。正確には、――いた。
 無意識に妹と彼女を重ねてしまっているのかもしれない。嘗て伯爵夫人に促され揺籠を覗き込んだ時か、はたまた紅葉の手で指を握られた時か、慣れないながらもその腕に抱いた時か、その全てにか。

 青年は何と身の程知らずかと自嘲して膝を折った。

『僭越ですが僕としては、またお嬢様の近侍を務めさせて頂きたいと思っておりますよ』

「そ、そうか!」

 パァッと花が開くように笑顔になったミーアは、レインの前に小指を立てた。

「約束じゃぞ!きっと必ず、妾の元に戻って来るのだ」

 無邪気に笑う彼女に、青年は一拍置いて微笑み『はい。きっと…』と小さな小指に指を絡めて指きりを交わした。

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