海辺のハティに鳳仙花

春蘭

文字の大きさ
上 下
86 / 95
なんでもない日

(43)優しさと紫雲英③

しおりを挟む
 出遅れたのは瀧本だ。訳が判らなかったが、この場で最も階級の高い尾坂が敬礼をしたのだ。敬礼をされたら敬礼をするのは軍人の習性のようなもの。それは陸軍も海軍も関係ない。
 やや遅れて瀧本も挙手敬礼を行った。海軍である彼は肘を張る陸軍式とは異なり、艦内で邪魔にならないように脇を締めるコンパクトなものだが。

(えっ、なに?)

 寺の門をくぐって現れたのは、口髭を蓄えた壮年の男性だ。粋な着流し姿なので正体はわからないが、尾坂が敬礼を行ったのならば陸軍の軍人──それも佐官以上の階級の者だろう。

「おお、そこにおるのは尾坂大尉じゃないか。いやぁ、書類の上では何度も目にしているが……顔を会わせるのは久し振りだなぁ」
「ええ、陸軍記念日以来でありますね──師団長閣下」

 えっ、と声。尾坂の一言で瞬時に男の正体を悟ったらしく、一拍間を置いて尾坂以外の全員が悲鳴を上げそうになった。
 師団長、ということは。この着流しの男性こそ、陸軍第五師団を率いる師団長閣下その人。つまり……広島を含めた第五師団管轄内で一番偉い人………

(ひぇぇえ……)

 千歳と大久保がサーッと顔から血の気を引かせていく。堀野も、若干だが顔色が悪くなっていた。
 無理もない、相手は師団長だ。師団本部所属でも無い、聯隊附下士官兵である彼らにとっては、正しく雲の上の人物でしかないお方のまさかの登場である。いくら閣下が気さくで下士官兵達からの人気が高いとはいえ、よほど肝でもすわっていない限り、緊張して当然だろう。

「ああそうそう、聞いたぞ大尉。昼間、近所でちょっとした騒ぎがあったそうじゃないか。なんでも、君のいつも喧嘩相手である海軍大尉と腹切問答をしたとかなんとか」
「ええ、仰るとおりであります。隠していてもいずれ発覚することですから結果を報告申し上げますと、不本意ながら負けてしまったであります……」
「なんだと? 大尉、君が勝負事に負けるなんて……珍しいこともあるものだな」
「はい。なので現在、非常に屈辱的なのでありますが、こちらにいる瀧本大尉に逆らえぬ状況が続いております」
「あっ」

 ───おい、俺を巻き込むんじゃねえ。

 瀧本の切実な願いは、しかし尾坂の一言によって打ち砕かれた。
 これで師団長の意識が瀧本の方に向いてしまい、珍しい組み合わせを目の当たりにした師団長が目を円くしてしまう。

「ほぉー……まあ、良い機会じゃないか。ここは腹を割って話し合い、喧嘩相手と竹馬の友となるのもよかろう。大尉、君にとっては不服であろうが、ここは一歩譲ってみるのもどうかね? 戸田くんから聞いたが、おそらく彼とはもう会うことも無いようだし」
「は……考えておくであります」
「ハハハ! そうか、そうか。向こうに行っても期待しておるぞ、大尉」

 お小言を頂戴するかと身構えたが、そんなことはなかった。師団長は豪快に笑って尾坂の肩をポンポンと軽く叩くだけで終わらせる。

(ん? 向こうに……?)
「おっと、そうだった。何をしに来たのかと言えば、ナハトを……家の猫を迎えに来たのだった」
「フキャリノジカン」
「おお、よしよし。迎えに来たぞ、ナハト」

 ナハトがまた何か喋っているが、さらりと流す。師団長はスタスタとナハトの元に歩いていった。

「なんだ、お前? 随分と可愛らしい遊び相手といるじゃないか」
「ゲェェエェ」
「ハハハ! なんだその声は。面白い鳴き声だ。もしかしたらナハトお前、その仔猫の元に通い詰めていたのか? 最近になって急に台所から食料をくすね始めたから、どこに行くんだと思っていたら………よっぽど好きなんだなぁ、その仔猫が」

 師団長がナハトのついでとばかりに仔猫を撫でたが、千歳のときと違って素直に撫でられている。ゲーゲーと文句を言いながらだったが、手を出していないことからも満足しているのは明白だ。

「師団長、折り入ってお願いが……そちらの仔猫なのでありますが………」
「ああ、良いよ良いよ。こちらで引き取らせてもらうよ」

 断られることを承知の上で口に出そうとしたことだったが、拍子抜けするほどあっさりと了承してもらえた。あまりにも呆気のない早さで了承されたため、ズルッとずっこけそうになる。

「そこで聞いていたんだ。まあ……珍しいものも見せてもらえたし、ナハトも気に入っているようだしなぁ。なに。この間、家内と話していて、ナハトの遊び相手にもう一匹だけ飼うのも良いかと話したばかりなんだ。ちょうどよかった」
「ありがとうございます、師団長………!」
「君に猫を紹介してもらうのも二回目だ。また変な名前をつけられる前で良かったよ」

 ───いいえ、師団長。その人、既に猫に対して『鱶鰭ブラッドリー三世』っていう珍名を付けていましたよ。

 という言葉が堀野達三人の頭の中に一斉に浮かび上がったが、誰もが飲み込んで口に出さないでおいた。気のせいだろうか、回数を重ねるごとにどんどん酷くなっていっている気がするのは。

 確認できる一番最初のものが『トンカツ三号』で次が『昆布太夫』。そして『カリカリ』、『黒ゴマ備長炭』と続いて『鱶鰭ブラッドリー三世』である。
 この人はなぜそんなに食べ物と『三』という数字に拘るのだろうか。

(やっぱり変な名前なんだよなぁ)

 そんなことを能天気に考えながらしきりに頷いている瀧本だって、他人のことは言えない。自分だって『漆黒の狩人シュトラーフェ』やら『シュトルム=アーベント・デンメルング』やら、十年後に思い出して悶絶しかねない名前の案を出したことを棚に上げていた。

「今日はもう遅いからな。兵達は帰らせなさい」

 師団長は気付かなかったようにカラカラと笑って、仔猫の脇を持ってそっと抱え上げる。

「それじゃあ、また会おう。尾坂大尉」
「ハッ! 師団長閣下に敬礼!!」

 尾坂が敬礼し、他の者も住職以外はそれに従う。陸軍将校一人を頭に陸軍の下士官兵三人と海軍士官一人を加えた珍奇な一団に見送られ、ナハトを伴った師団長は機嫌良さげに帰路についた。








「さて……」

 師団長の姿が見えなくなるまで見送って、敬礼を解いた尾坂が軽く首を鳴らす。

「堀野伍長」
「はっ、何でありましょうか。大尉殿」
「今日のところはもう遅い。大久保と千歳を連れて聯隊駐屯地に戻れ」
「了解であります」
「明日は確か午後から演習があったはずだ。八月も最終日とは言え、まだまだ暑い。早急に戻って体力の回復に努めよ。以上だ」
「ハハッ!」

 ザッと足並みを揃え、短く返答。たっぷり訓練を受けて絞られている彼らにとっては、それだけで十分だ。
 尾坂が敬礼を解いた直後に揃って直立不動の姿勢を取り、駆け足でその場を立ち去っていく。

「……あれ、俺は?」

 その様を見送って、そして何も言われなかった瀧本が自分を指差して情けない顔をした。
 それをまるで毛虫でも見るかのような顔で睥睨し、尾坂は冷たい回答を返す。

「知るか、帰れば良いだろう」
「ええ……嫌だよ。今帰りたくない」
「だったらどこかの旅館に転がり込め」
「やだ。お前んちに泊めろよ」
「断る」
「なんで」
「………これから用事があるからだ」
「あん?」
「一人でやらなきゃいけないことだから、ついて来るな」

 具体的な事は言いたくなかったらしい。曖昧に言葉を濁した。
 用事、とは何だろう。瀧本の疑問には答えずに、尾坂はスタスタ歩いて境内に消えていく。

「なんなんだ、あいつ……」

 尾坂のつっけんどんな態度に唖然としつつ、瀧本は首を傾げた。彼はいつも無愛想だが、なぜか今日はいつにも増して壁を作ってしまっている。いつもなら簡単に読めるはずの彼の心情がまったく読めない。
 いったい何なんだと思って苛立ちながら、瀧本は側にいた住職に問いかけた。

「なあ、和尚」
「はい、何でしょう?」
「あいつの用事って何?」
「ああ、それですか」

 それだけで思い当たったらしい。住職は合点がいったようにポンと手を打ち……

 ───次の瞬間、信じられないようなことを言い放った。


「今朝供えた花を回収されるおつもりでしょう。実の所本日は────彼の養父である隼三郎殿の姪御様の命日ですから」


 何を言われたのか、瞬時に理解できずに瀧本はひゅっと息を呑んだ。
 今、何と言った?

 自分の聞き間違えでなければ……尾坂の養父である隼三郎閣下の姪の命日だと言わなかったか?

「今年で二十九回忌ですかねぇ。隼三郎殿の姪御様。お姉さまのお子だったそうですよ。若い身柄で病に倒れて、そのままポックリ逝ってしまわれたとか」
「は……な………」
「隼三郎殿は盆には来られたのですが、命日は時間が取れなかったようでして。なので広島に住まわれている養子の彼に、代わりに墓参りをと言われたそうです」
「─────」

 隼三郎閣下の姪御とは、すなわち尾坂の実の……

「……っ!!!!」

 ようやく、気付いた。

 ────今日の尾坂の様子が、どこかおかしかったことに。

 瞬間、頭の中が真っ白になったままで瀧本は地面を蹴り飛ばして駆け出した。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

overdose

水姫
BL
「ほら、今日の分だよ」 いつも通りの私と喜んで受けとる君。 この関係が歪みきっていることなんてとうに分かってたんだ。それでも私は… 5/14、1時間に1話公開します。 6時間後に完結します。 安心してお読みください。

日本が日露戦争後大陸利権を売却していたら? ~ノートが繋ぐ歴史改変~

うみ
SF
ロシアと戦争がはじまる。 突如、現代日本の少年のノートにこのような落書きが成された。少年はいたずらと思いつつ、ノートに冗談で返信を書き込むと、また相手から書き込みが成される。 なんとノートに書き込んだ人物は日露戦争中だということだったのだ! ずっと冗談と思っている少年は、日露戦争の経緯を書き込んだ結果、相手から今後の日本について助言を求められる。こうして少年による思わぬ歴史改変がはじまったのだった。 ※地名、話し方など全て現代基準で記載しています。違和感があることと思いますが、なるべく分かりやすくをテーマとしているため、ご了承ください。 ※この小説はなろうとカクヨムへも投稿しております。

我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。 一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。 二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。 三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。 四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。 五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。 六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。 そして、1907年7月30日のことである。

Candle

音和うみ
BL
虐待を受け人に頼って来れなかった子と、それに寄り添おうとする子のお話

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

支配された捜査員達はステージの上で恥辱ショーの開始を告げる

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる

天災
BL
 高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる。

三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。 三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。 全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。 本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。 おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。 本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。 戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。 歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。 ※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。 ※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。

処理中です...