海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(37)いつか金木犀のように③

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「あら、いやだ。皆さんどうかされまして?」

 ぽいっと木の枝棒を欄干の向こうに放り投げ、幸枝嬢は「小鳥でもぶつかったのでしょうかねぇ?」とすっとぼける。なお、全員が振り返る元凶になった騒音を出した木の棒は、一秒後にぽちゃんという間の抜けた音を立てて川底に沈んでいった。

「え……あの、貴女は………」
「どうも、はじめまして。尾坂大尉……で、よろしくて?」

 男共の視線などまるで気にも止めず、幸枝嬢がツカツカと歩み寄って行ったのは尾坂の元。迷った末にようやく件の軍人集団に追い付いた幸枝嬢は、自分が伝えたかったことをちゃんと伝えるために尾坂の元にやって来たのだ。

「本来でしたら、わたしも名乗るのが礼儀でありますが……今はあえて、わたしの名は伏せさせていただきますわ。わたしの名を知るのは、わたしの話をお聞きになった後でも遅くなくてよ」

 尾坂の前に立ってにこり、と微笑む幸枝嬢。その目に敵意は感じられず、強いて言うなら親しみが籠った慈愛の眼差しだった。
 幸枝嬢からは敵意も悪意も無いと伝わってくる。なので取り乱していた尾坂も、一旦深呼吸をして冷静になれる余裕が生まれた。

「失礼、レディ。私に話とは……」
「ええ。というのも尾坂さん、何か大きな誤解をされてらっしゃるようなので、わたしからもその誤解を解かせて頂きたくて参上させて頂いた次第ですの」

 誤解を解きたくて参上した。その一言に、尾坂はキョトンと目を瞬かせる。

「瀧本さんの言ってらっしゃることは本当の事ですよ。いえ、むしろ瀧本さんは被害者と言っても差し支えありません。彼もわたしと同じように、気が付いたら行かざるを得ない状況に追い込まれてしまいましたの」
「は……?」

 幸枝嬢の言葉に嘘は見られない。ということは、瀧本が言っていたことは本当の事だったのか。
 困惑して大人しくなった尾坂を見て、ここぞとばかりに瀧本は畳み掛ける。

「ああ、そうだ。本当の事だよ。俺も氷川さんも、俺の妹に嵌められたんだよ」
「なんだと……、」
「あの馬鹿……じゃなかった。俺の妹はな、ちょーっと………いや、かなり考え無しな上に自分が良いと思ったことを他人に押し付ける悪癖があってだな……大人になってからは多少は落ち着いたと思っていたんだが、俺の見通しが甘かった。昨日の昼間にいきなり連絡を入れてきたと思ったら、明日見合いを設定したから行けって言われたんだよ。妹は海軍造船少将の家に嫁いだんだが……その少将閣下が裏で関わっているみたいだったからな。行くしかなかったんだよ……」
「彼の妹さんは、わたしの女学校時代の後輩ですの。それにわたしは岡山で医者をやっている者なのですが、師匠と兄弟子が海軍の軍医でして。狭い海軍社会、師匠と兄弟子の面子の事を考えたらすっぽかすことができませんでしたわ」
「妹……」

 瀧本に妹がいることは知っていた。そしてその妹が、一言で端的に表現するとかなり傍迷惑な性格をしているということも、探偵の調査で調べはついていた。
 瀧本の妹が三十路を目前に控えてもいまだ独身のままの兄を心配して、このような暴挙に出たのは間違いない。そしてそれは──紛れもなく瀧本の事を思っての事だ。
 その部分が琴線に触れたらしい。尾坂は黙り込んで考え始める。やがて、その瑠璃色の瞳を淡く揺らして小さく口を開く。

「………そうか、妹か……………なら、仕方が無いよな」

 先程までの頑なさとは打って変わって、驚くほどすんなりと納得したかのような発言だった。
 あまりにも急激な変化についていけず、尾坂を押さえ付けていた陸軍側の面々が硬直した隙を縫って彼は音もなく地面に降り立つ。思考を巡らせているのか、その間じっと黙ったままだ。

「……………苦労するな、お互いに……妹っていう存在には……」

 よく耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほどか細い声だったが、確かにその言葉だけは聞こえた。
 それでようやく思い出す。そういえば、尾坂にも腹違いとは言え九条院家に妹が二人いたなと。姉妹の内、尾坂と関わりが深いのは姉の方らしいが……何かあったのだろうか?

「判ったよ……もう、疑って悪かったよ……………」
「うん、判ってくれたら良いんだ」
「誤解が解けたのなら何よりです……それに元々、わたしには既に心に決めた殿方がいたので、このお話は最初から断るつもりでしたのよ」

 さらっと落とされた台詞に、ここに来る途中の彼女の話を聞いていなかった陸軍側がざわっとなった。

「そこでお話は変わるのですが、本題に入らせていただきますね」
「えっ? 本題?」
「ええ、そうです。瀧本さんには先程のお話させて頂きましたが………わたしが女医になろうと思い立った切っ掛けのお話です」

 海軍側は陸軍側と鉢合わせする前に聞いた話だ。なんでも、幸枝嬢の実家はかつて広島幼年学校があった頃に、日曜下宿をする生徒のために倉を改装したものを解放していたとか。

「そしてある日、わたしは運命の方に出会いました。いわゆる一目惚れです。その方はご実家が土佐の武家でして、本物の武士の末裔でしたの」
「ん?」

 土佐の武士の家系出身の、広島幼年学校に通っていた人物。
 妙に聞き覚えがある経歴だと思ったのは尾坂だけでは無かったらしい。ちらりと振り返って後ろを見ると、戸田はなぜか鳩が豆鉄砲を食らったような間抜け面を晒していた。

「そしてすったもんだがあった末に、その方が陸士にご入校あそばせるために広島を離れる直前に自分の思いを告白させて頂きました。わたしが『貴方のお嫁さんになりたいので、貴方が理想とする女性をお教えください』と言ったら、彼は『小生が戦死した後でも、一人で生計を立てて生きていくことができる強い女性が自分の妻の理想像であります』と答えられました。なのでわたしは、自分の決断に異を唱える不逞の輩を薙ぎ倒しながら努力に努力を重ねて女医となったのです」
「は、はあ……先程も聞きましたが、それが……なにか?」
「ええ、実はこの話には続きがありますの」

 まさかの続き物だった。いったい、幸枝嬢は何を言おうと言うのだろう。

「最近になって風の噂でその方のことを聞きました。彼は歩兵少尉に任官された後に陸軍大学を卒業され、今は参謀本部附少佐としてお勤めされているとかなんとか」
「ん?」

 土佐の武家の末裔で、広島幼年学校出身者。そこにさらに属性が加わった。
 そう───陸大卒の歩兵少佐で今は参謀本部に勤めているという属性が。

「…………」

 自然と、全員の視線が尾坂の背後にいた戸田に集まっていく。
 戸田は歩兵少佐。加えて陸軍側は彼が尾坂の先輩、つまり広島幼年学校出身者であることを知っている。そして戸田が現在、参謀本部勤務だということも……
 一方で猛烈に嫌な予感がしてきた戸田は、たらたらと大量の冷や汗を流しながらひきつった笑みを浮かべて小首を傾げる他ないようだ。

 頼む、この想像が外れててくれ──と祈ったが、現実はそう甘くはない。次の瞬間、幸枝嬢は今までで一番の爆弾を落としていった。


「ええ、その方───戸田誠治というお名前の方なのですけどね」


 ひぇっ、という変な声が出た。どこからというと、先程から変な汗が止めどなく出ている戸田からだ。
 幸枝嬢からのご指名を受けてようやく何か思い出したのか、とだがプルプル震えながらカラカラに渇いた声をようやく絞り出す。

「あの………失礼……………氷川、さん?」

 カタカタと震えながら、顔をひきつらせた戸田が恐る恐るといった風に確認を取る。

「もしかして………その……氷川……幸枝さん………? 牛田の米問屋の娘さんの………」
「ええ、そうです。お久しぶりですねぇ、誠治さん? どうも、十五年前に貴方が興味なさげに自分の理想の妻の条件としてかぐや姫もびっくりな無理難題を上げ連ねて振った氷川幸枝です」

 にーっこり、と。悪魔がいるなら恐らくこういう笑みを浮かべるのだろうなと。そんな感じの微笑みを浮かべながら、まるで菩薩のような表情の背後に羅刹でさえも裸足で逃げ出していきそうな威圧感を佇ませ、幸枝嬢は戸田の名前を呼んだ。もう逃げられない。

「えっ、あの……」
「その挙げ句、十五年ぶりに再会したというのに気付くどころか関心さえ持たれずに、道端に転がっている石ころ当然の扱いを受けて傷心している最中の幸枝です。お忘れになっているようなのでもう一度名乗らせて頂きましょうか?」
「………センパイ……」

 尾坂がドン引きしたのか、心持ち戸田からそっと距離を取った。それに仰天した戸田は傍目から見ても情けないにもほどがある慌てっぷりを晒しつつ、どうにか必死で弁明しようと声を上げた。

「ちょっ、待てっ!!いや、だってさ!!!俺と彼女が最後の会ったのは十五年も前の事だぞ!!!?俺は数え十六で彼女は数え十一だったんだぞ!!?まだ子供だったんだぞ!!!?あと雰囲気滅茶苦茶変わっていたから全然気付かなかったんだよ!!!」
「それはそうですが少佐。私に対して女性関係のあれこれを説教していらしたのに、ご自身は他人に何か言えるお立場なのでしょうか」
「いや、だってさぁ!!まさか本気にしているなんて思うわけ無いだろ!!?え? 良くある歳上への憧れを混同しているのかと思って、大きくなったらきっと現実を見て忘れてくれると思っていたから、だからほら!!な!!!?」
「少佐殿。貴方のことは尊敬しておりますし、今まで教えて頂いた諸々の薫陶は私の血肉となっております。その点に置いては感謝の念に堪えません。それを重々承知しているとご理解の上、これだけは言わせてください───センパイ、流石にそれは無いです」

 心底軽蔑したと言わんばかりの表情で、尾坂がさらに戸田から一歩離れた。これ以上に心を抉る台詞や態度などあっただろうか。

「せ、仙!!違うんだ!!俺は別に彼女のことを蔑ろにしていたわけじゃ……」
「はあ、ではどうだと言うのでしょうか。人生において最も大切な時期である貴重な思春期の三年間、日曜日になるたびずっと一緒に過ごして、あれほど印象的なお別れをしたというのに……再会しても気にかけるばかりかまるで興味がなかったと言わんばかりの諸々の態度。わたしのことなど、貴方の中ではその辺の石ころ以下同然の、薄っぺらくて軽い存在だったのでしょうか?」
「い、いや……そんなわけ……」
「今さっき思い出されたとばかりの反応を返していらしたのに?」

 尾坂と、そして幸枝嬢自身からも挟み撃ちにされて、戸田はいよいよ顔から血の気を引かせながらどう対処すべきか懸命になって考え始めるしか無かった。
 本日二回目の修羅場発生の瞬間だ。ただし、今度窮地に追い込まれたのは戸田である。
 このまま再び胃の痛くなるような大嵐が巻き起こるのか。誰もがそう思った瞬間だった。


「ウ、ァァァァア!!────ゴチュジャンマグロウマウマゴァンウマイナァァアーン」



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