海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(34)花水木は微笑まない⑥

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「……は?」
「あのな、陸士なんて所。海兵と並んで国内最高峰の頭脳がわんさか集まってくる場所だぞ。おまけに砲工学校ってあれだろ。砲兵やら工兵やらっていう、陸軍きっての理系のインテリ集団が集まってくる所。そんな場所で主席が取れるような奴が、ただの天才なわけねーよ。そう考えたら、てめえも参加してた陸士やら砲工学校やらの主席の椅子取りなんざ、天才の中でもさらに努力と勉強が大好きな変態共の頂上決戦みてぇなモンに決まってらぁ」
「は…………あ、えっ?」
「てめえはその変態共の中でも筋金入りの変態だよ。フェンシングの訓練だってそれ、睡眠時間を一時間に削ってとかできないからな、普通は。それも大学の勉強と仕事もしながら。お前はな、寝なきゃいいとかそんなアホみたいなスケジュール管理で、初めて三日のフェンシングで優勝しちまうような変態だぜ。ただの天才がそこまで出来るかってんだ。裏で必死こいて努力してるのなんざ当たり前だろ。なのになんでその上で、わざわざ重ねてその努力を認めてやんなきゃいけねぇんだ」
「な………あ………!?」

 突如、罵倒とも言えるような発言が飛んできたことによって、尾坂が正気を疑うかのような目で瀧本を見やる。しかし、残念ながら瀧本は非常に冷静だった。
 冷静過ぎて、傍目から見ればいっそ冷酷とも思えるような言動を取るくらいに。

「誰にも自分を認めてもらえない?無駄で無意味な努力をしてきた? バカを抜かせ、たとえそれが望んだものでなくともそんなの関係あるか。それは、血反吐吐いて苦しんでまで努力なんかしたくない、なんて泣き言を漏らす理由にもならねぇことは判りきってるだろ。努力ができる環境を与えられた以上、たとえ結果を出せなくても努力するのはお前の義務だ。違うか?」
「────」

 正しく絶句、という言葉が合う。それくらいに尾坂は呆然とした表情をしていた。

(ぎゃ、ぎゃー!? あいつ、やりやがった!!)
(なんつー暴言を!!たっ、瀧本ー!!答えなんか判りきっていたのに、なんでわざわざ真逆のことを言って修羅の道へ突き進むんだよー!!)

 瀧本の同期とコレスが絶叫しそうになったのを艦長から押さえられている。陸軍側も、敬愛する上官を侮辱されたといきり立つ大久保を背後から羽交い締めにする堀野と、仔猫入りの箱を抱えて半泣きのまま右往左往するしかない千歳。そして間男扱いされた挙げ句に大事な後輩が目の前で他の男と腹切問答を始めた所を目の当たりにして唖然となった戸田と、中々カオスな状態だった。
 そんな阿鼻叫喚の地獄絵図などまるで知らんとばかりに瀧本は続ける。しかしその目は非常に優しいものだった。言動の冷酷さとはまるで真逆で、慈愛が籠ってさえいる。
 口調はともかく内容については真摯なもの。だからこそ、尾坂は逆上せずに茫然としつつも耳を傾けていた。

「俺の敬意は、どれほど苦しい思いをしてもそれを誰にも悟らせまいとして決して表に出さず、どんな理不尽が降りかかっても毅然とした態度で前を見続けたお前の誇りに対してのみ向けられるべきものだ。血反吐吐くような思いで苦しんだこと自体に向けて良いものじゃねえ」
「………それが、貴様の答えか」

 それで本当に良いのか。それがお前の考えなのか。震える声で、訪ねられる。
 尾坂の顔色は既に最悪だ。唇が白くなるほど強く噛み締め、苦々しげな表情でじっと睨め付けていた。八月の暑い陽射しの中、軍帽が作った影の下で瑠璃色の瞳がほの暗く煌めく。

 ────その奥に、確かな憎みの光を宿しながら。

「ああ、そうだ。お前が華族の家に産まれちまったことで今までどれだけ苦しんだのか、俺には理解できん。だが、お前はそれを理由にして逃げなかった。決してな。だからこそ、俺が最も尊重すべきはどんなことがあっても折れなかったお前のその矜持きょうじに対してだけだ」
「っ……」
「誰にも認めてもらえない努力をする苦悩そのものに対しての理解や尊重はしない、できるわけがない。俺はどうやったってお前自身にはなれないからな。それにそれは……お前の矜持を最も深く傷付ける行為だと思っているからだ。これが俺の答えだよ、仙」
「ぅ………ぁ…………」

 何か恐ろしいものでも見たかのように、尾坂はあからさまに挙動不審になりはじめた。
 元から色白ではあったが、そこからさらに血の気が失せた肌は雪のように白い。益々人間味の薄れた容貌になっている。
 大きく目を見開き、隠しきれない動揺からか身体が小刻みに震えていた。頬をつ……と冷や汗の粒が流れていく。

「っ………ぅ………」

 ぎゅっと唇を引き結んで……尾坂は静かに、ゆっくりと顔を伏せていった。

「…………」
「…………」

 再び嫌な沈黙が訪れる。正解か、不正解か。果たしてどちらだったのか。それが判る時が来るのが、永遠のように感じられたのは気のせいではないだろう。

「………っ!!」

 ひゅっ、と息を飲む音。沈黙を破ったのは尾坂だった。
 咄嗟というような突発的な動きで腰に吊っていた軍刀を掴んだため、金具が擦れて金属がぶつかり合う音が甲高く響き渡る。

 ────失敗した。いや、それどころか尾坂を逆上させてしまったのだ。

 とうとう抜刀騒ぎになったのかと、野次馬の中から悲鳴が上がった。すわ一大事か、と誰もが構えていつでも飛びかかれるように体勢を整える。だが……

「………んでっ……………」

 ギリッと奥歯を噛み締めて、消え入りそうなくらいに小さな声で一言。震える手がしっかり握りしめた軍刀をカタカタと鳴らしていた。

「なん……っで…………お前は、いっつも……そう、なんだよ………!」
「……」
「なんで……どうして………!! いつも、いつも……お前だけはっ……私の、思い通りになってくれないんだよ……!」

 バッと伏せていた顔を上げて、尾坂は瀧本をキッと睨む。
 しかしその整った顔には、どう考えても取り繕うことさえできないほどのハッキリとした悔しさが滲んでいた。泣き腫らした目元は赤く、表情は苦しそうに歪んでいる。目尻には、悔し涙と思わしき涙の粒が。

 尾坂にとっては一世一代の大芝居だったのだ。これでこの男を上手く誘導して、罠に引っ掻けてやって……どう答えたって、目の前で腹をかっ捌いてやるつもりで精一杯「可哀想な華族のお坊ちゃん」を演じてやったのに。なのに────なぜ、この男は、尾坂本人でさえも気付いていなかった、気付きたくもなかった本心をピタリと言い当ててきたのか、と。

「あのなぁ……だから言っただろ───お前のことはお前よりも知っているって」

 その上で、トドメまで刺された始末だ。にぃっと不敵に笑って自信満々に小首まで傾げられたら、もはや何も言えまい。
 ぎゅうっと軍刀の鞘を握り締めて……そして………

「………」

 手套に被われた長い指が、軍刀を固定していた金具にかけられた。
 カチャ、カチャ、と軽い金属音。やがて固定していた金具が全て外されて、軍刀がするりと引き抜かれてくる。当然、陛下より賜った軍刀は鞘から引き抜かれることなく、ただ太陽の光を受けて毅然と輝いているだけ。
 尾坂は自身の軍刀を両手で持って、胸の前でしっかり抱き締める。

「………敗けた……」

 その体勢のままどれだけ時間が経っただろうか。奈落に突き落とされたかのような力無い声が響く。

「…………私の、敗けだ………………もう、好きにしろ……瀧本……」

 静かに項垂れ、自身の軍刀を目の前の男に差し出しながら、尾坂は素直に敗北を認める台詞を吐いた。後ろから安堵の溜め息と共に陸軍側の悲鳴が聞こえてきた気がしたが、瀧本は気付かなかったふりをしてしれっと無視しておく。

「惜しかった……あと、もう少しだったのに………今度こそ、上手いこと誘導して罠に嵌めてやることができると思ったのに………!!」

 野次馬にとっては寝耳に水のような話だ。ざわめきが大きくなった。尾坂本人は気付いておらず、全ては演技だと思っていたが、実のところあの一連の台詞には尾坂が自分でも気付いていなかった本音近い部分がふんだんに練り込まれていたから……それだけ説得力が増したのだと思う。

「…………あ、やっぱあれって罠だったのか。なんか、妙に誘導されているような感じがあったんだよな」
「このっ………貴様、この期に及んで余計な気遣いを……!」
「あー、はいはい」

 からかうようにケラケラ笑われ、ついカッとなった。が、さすがというか。すぐさま冷静さを取り戻す。
 それをしっかり見届けて、瀧本は優しく微笑みながら尾坂から突きだされた恩賜の軍刀を大事そうに受け取った。

「……あと一歩だったのに」
「ん?」
「あともう少し、上手くやれれば……お前からの同情の言葉を引き出せて、それで心置きなく自決ができたのに……」

 ……本気で、腹を切って自害するつもりだったのだ。瀧本以外の野次馬たちが尾坂の本気を感じ取ったのか、再び周囲に緊張が訪れる。ほの暗く殺伐としている不穏な光が宿った瑠璃色の瞳で瀧本を忌々しげに睥睨し、尾坂は一歩下がって軍靴の踵をカツンと合わせた。そして、まな板の上の鯉になった気分で瀧本の沙汰を待つ。

「また……お前に生かされた………」
「………」
「もう良いよ………もう………好きに使え………」

 ───なんだったら、今まで躊躇していたような過激な行為にも応じてやる。

 唇の動きだけで囁き、尾坂は瀧本の反応をそっと伺う。今まで彼の良心が咎めていたような、今まで以上の激しい性行為にも大人しく応じるつもりだった。自分で積極的に奉仕しろと言われても、もしくは今まで自分が先輩や上官達からやらされていたことをしろと言われても、瀧本の言うことなら全てやるつもりで自分を差し出したのだ。
 しかし、またしても予想外の答えが返ってくる。

「いや……まあ、じゃあひとつだけ」
「……ひとつと言わずに何でも言えよ…………」
「お前、遺言状とかもちろん書いてるよな。辞世の句を用意しているんだったら」
「それは……当たり前だろ。軍人なんて、いつ死ぬかも判らない職業なんだし………戦場じゃなくても、工兵は機械とかも操作するし……私は特に、研究分野が発動機だから……事故で殉職したり………」
「じゃあ、その遺言状に一言付け足せよ。自分が死んだら、左手薬指の骨を俺に贈呈するって」

 まさかの要求だった。いったい、どうして左手薬指の骨をくれと。意図が読めずに誰もが困惑した。

「無理だったら、骨の一欠片でも良いぜ。でもできれば左手薬指の骨が欲しい」
「………はあ?」
「お前だったらこの意味、判ってくれるよな? 左手薬指がどういう意味を持ってるのか……」
「…………………………………………………!」

 左手薬指の骨……しばしの間考えて、ようやくその意味を悟ったらしい。尾坂の目が徐々に見開かれ、信じられないものでも見るかのような目で瀧本を凝視する。

「…………」
「いや、ちょっと待て。なんだよその目は」

 と思いきや、急に視線の温度が降下した。まるで毛虫でも見るかのような目で、尾坂は無言のまま瀧本を睥睨する。
 心底軽蔑したと言わんばかりの態度にガクッとずっこけつつ、瀧本は尾坂から押し付けられた軍刀を縦に持つ。そして、一歩進んで尾坂にそっと寄り添ったかと思えば、軍刀を元通りの場所に戻そうと奮闘し始めた。

「あー……えーっと、ここをこうして………」
「……おい、変態。どこを触っている」
「尻」
「堂々と答えるな馬鹿者。私に対する淫行の罪で憲兵に突きだしてやるぞ」
「俺に逆らわないんじゃなかったっけ」
「…………」

 尾坂に対する最高の切り札を手に入れた瀧本は、尾坂が何も言えないことを良いことにやりたい放題し始めた。
 意識を遠くの方に飛ばして耐えていた尾坂だったが、やがて瀧本が自分の軍刀を元通りに金具に引っ掻け、一歩下がったことを切っ掛けに胡乱げな目を向ける。

「………何がそんなに楽しいんだ」
「ん?」
「私に散々期待させて……裏で嘲って楽しんでいるんだろ………? そういう遊びは他所でやってくれないか」

 次に飛び出てきた、あまりにも根暗な発言に唖然とした。こいつ、どこまで自分を卑下したら気がすむのだろうかと。

「は?俺がお前をからかって遊んでいるって? 心外だ。俺ぁ、いつだって本気だぜ」
「………」

 尾坂はいまだ疑り深い目で瀧本を見ている。しかし、やがて溜め息をひとつ残したかと思えば、次の瞬間くるりと踵を返してそっぽを向いてしまった。

「ちょ、ちょちょ、ちょっと待て」

 今にも歩きだしてその場を立ち去りそうな雰囲気になったことに仰天し、瀧本は慌ててその手を掴んで待ったをかける。
 鬱陶しげに振り返った尾坂の目には、疑心暗鬼に満ちている。

「なんだよ………」
「本気だっつってんだろ、仙」
「名前で呼ぶな」
「俺ぁいつだって、お前に対しては本気だ。初めて出会ったあの日から、ずっとな」

 チッ、という舌打ちの音。瀧本ではない。尾坂だ。
 瀧本のことを憎々しげに睨んだかと思えば、捕まれた手を振り払って尾坂は吐き捨てる。

「お前、どうせ私が侯爵の息子……お前にとっていけすかない存在じゃなければ、私のことなんか見向きもしていなかっただろう。声さえかけなかっただろう」
「!」
「もう、放っといてくれ。これ以上、私に惨めな思いをさせないでくれよ………………頼むから……」
「っ、……!」

 ───バカ野郎、どうしてお前はそう……自分の本心に逆らって突き放すような態度をとっちまうんだ。

 名前の着けようが無い感情が、一気に溢れて胸の内を押し潰す勢いで育っていく。

 もう我慢ならなかった。関係者からは色々と言い含められていたが、そんなのもう聞いていられない。
 再び自分の元から去りそうな気配を見せた彼の手を無理やり握って、自分の元に呼び戻す。この馬鹿には、曖昧な物言いをしたところで無駄でしかない。
 この際、言い逃れもできないくらいのハッキリとした意思をぶつけてやれば良いと思って息を吸い込む。

 嵌め手は無用、搦め手も通用しない。ならば小細工などせず、自分自身の気持ちをまっすぐ伝えれば良いだけ。

 だからこそ、叫んだ。声の限りに、ただただ叫んだ。彼への気持ちを思いっきり声に乗せて。遠雷のように叫んだ。この衝動を、言葉に変えて──



「───Peu importe où vous regardez dans le monde,この俺がお前の事をここまで良く知っておいて、 il n'y a personne qui vous aime plus que moiお前になんの関心も無かったとでも言うのか!!」



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