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なんでもない日
(29)花水木は微笑まない①
しおりを挟む前略。修羅場勃発三秒前……
「…………」
「…………」
日曜日の往来にいるはずなのに、嫌な沈黙が流れている。客観的に見れば数秒、長くて一分程度だっただろうが、渦中の人物たちにとっては一秒一秒が永遠に続くような思いであった。
(えっ)
────なんでここに、こいつがいるんだ。
なぜ、どうして。日曜日とはいえ、こんな街中で、示し合わせた訳でも無いのに、瀧本と尾坂とバッタリ出会うなんて。こんな偶然あり得るのだろうか?
「た………瀧本…………瀧本、零士…………」
「千歳、階級」
「大尉……」
「えっ、あれが!?」
工兵科の新兵らしき、若い二等兵が手拭いを被せた箱を抱えたまま乾いた声で瀧本の名前を絞り出す。だがさすがに呼び捨てはまずいと思ったのか、隣の上等兵につつかれて階級を付け足した。
そしてそれを聞き付けて、ようやく硬直が解けたとばかりの反応を返したのは見覚えの無い男。
同じ陸軍の軍服を着ているが、襟章の色は緋色。ということは歩兵だ。階級章を確認するため視線を男の肩まで滑らせる。軍人に出会えばまず最初にするのが階級章の確認というのは、陸も海も関係無く軍人にとって軍学校で叩き込まれた習性のひとつであった。
その歩兵の階級章は尉官より黄色の割合が大きく、星が一つ……つまり、少佐だ。胸元では江戸天保の年に作られた硬貨である天保銭に良く似た形の、陸大卒業生徽章───いわゆる天保銭組の証が輝いている。
「………」
「あ……えっ、あっ……そのっ……」
頭の中が真っ白になり、何を言ったら良いのか言葉がまったく出てこない。
だが────もしかせずともまずい状況だということだけは、思考の根底で嫌というほど理解できていた。
瀧本の隣には、明らかに見合い相手と思わしきうら若い女性。そして目の前にいるのは、さも当然とばかりに想い人の側に佇んでいる謎の男……
次の瞬間、瀧本は大慌てで絶叫する。
「いやっ……ちがっ、これは違うんだ!! 誤解だ、仙っ……あっ!尾坂っ!! 違う!頼む俺の話を聞いてくれ!!これは確かに、そのっ、こう、そうなんだがっ!!!ちゃ、ちゃんと説明させ────いや、ちょっと待て!!!っつか、誰だその男は!!?」
その絶叫で───場の空気が凍り付いた。
普段の粋でいなせな伊達男っぷりとは大きくかけ離れた慌てようだけでも切腹物の失態だが、挙げ句とてもじゃないが紳士教育をみっちり受けてきた海軍士官とは思えない醜態を晒した瀧本。
間違いなく、それはあと一歩で修羅場になるのを踏みとどまっていたこの現場にトドメを刺す一言だった。現場に居合わせた誰もが、次の瞬間訪れるであろう阿鼻叫喚の地獄絵図を覚悟する。
なぜならば、瀧本の醜態を目の当たりにした尾坂が、地獄の鬼も裸足で逃げ出すほど恐ろしい威圧感を全身から噴き出させ始めたからだ。
「……おーい、瀧本クーン」
瀧本の背後で物陰から様子を窺っていた春名艦長が、菩薩のような微笑みをフッと浮かべながら一言。
「それじゃあ『浮気中に自分の妻が間男と歩いている所に出くわしちゃった夫』の反応だよぅ」
……艦長のあまりにも的確な例えに、部下の大尉二人は全身から力が抜けたような形で地面に這いつくばって、どんよりと重く暗い影を背負った。
(あぁ……終わりだ、何もかも……)
まさかこんな所で、古鷹士官一同(一部を除いて)目の敵にしていた某陸軍大尉と出くわしてしまうなんて……と、大尉二人はこれから勃発するであろう大喧嘩を思ってツー……と涙を溢す。せっかくいい感じに見合いをさせることができたのに、惨敗した果てにこのような落ちが待ち構えているとは。いわゆる二段落ちというやつだろうか。
「……」
しかし肝心の尾坂はというと、先程から眉ひとつ動かさずに瀧本を睥睨している。
無言──本当に無言だ。吐息の音ひとつ漏らさず、まるで彫刻のように佇んでいる。生き物の気配が感じ取れない、一周回って穏やかささえ感じさせる完璧な美貌でじっと瀧本を見ていた。
「……行きましょうか、少佐」
「はっ、えっ?」
不意に、尾坂が口にしたのは階級だ。それに反応したのは、当然ながらこの場で唯一少佐の階級を持つ戸田。
急に指名されて目を白黒させる戸田を他所に、尾坂は踵を返して来た道をスタスタ戻ってしまおうとした。
「おい、ちょ……待て、待って!待たんか大尉!」
「なにか」
ぎょっとなって戸田が呼び掛けたのを聞き、やっと振り替えってくれた。だが、その目には底冷えしそうなほど冷酷な光が宿っている。
「なにか、じゃない!昨日からこのやり取り何回続ける気だ、ってそうじゃないだろ! お前良いのか。あれが件の瀧本大尉なんだろ? お前の喧嘩相手の……」
「知りません。誰ですかその男は」
再び全員、尾坂以外が固まった。彼の口から身も蓋も無いような発言が飛び出してきたからだ。
戸田が恐る恐る確認しようとした発言をピシャッと遮って、尾坂は皮肉げな薄ら笑いを口の端に浮かべながらこてんと首を傾げた。
「い……いえ、大尉殿。あれは間違いなく瀧本大尉であられます。この間も大喧嘩をして頬を殴られていらしたはずでありましょう?」
「ほら、現場を見ていたお前の部下だってこう言ってる……」
「知りません。少なくとも私の知り合いに、海軍士官という最も身を律しなければならぬ自分の立場もわきまえずに妙齢のレディの隣で堂々と鼻の下を伸ばしてデレデレとだらしのない表情を晒しながら浮かれて人の縄張りにでしゃばってくる似非紳士などおりませんので」
(マズイ、これ以上無いくらいに怒り狂っていらっしゃるー!)
これは本当にマズイことになった。淡々とした口調ながらも、出てきた言葉はどんなに鋭い刃よりも深々と心に突き刺さってくる辛辣極まりない物ばかり。どうにかして今、誤解を解かなければ拗れること間違い無しだろう。
「ああ……もしかして。見合い相手との逢い引きのお時間でしたのでしょうか。それは失礼。邪魔をしてはそれこそ真の野暮というものだ。我々はこれ以上何も言わずにそのまま目的地に向かおうではありませんか。彼らにとっては、私の姿が視界に入っているだけで不愉快な気分になるでしょうし」
「っ」
いや、マズイなんて物じゃない。一刻も早く誤解を解かねば、取り返しのつかない事態になってしまうという領域にまで来てしまっている。
このように、尾坂が突発事象に対して何でもない風にさらりと受けて流しているように見せかけて、自分自身を卑下して攻撃している時は、もう既に心を閉ざして他人を拒絶していると見なして構わない。対処が遅れれば、それだけ心の壁は厚くなっていく。
そうなったらもう、二度と彼に触れることさえできなくなるだろう───
「それはそうなんだが……いや、ちょっと待て。あの男、今さっき俺のことをしれっと間男扱いしなかったか?」
「侮辱されたと思われるのなら、参謀本部を通して海軍側に厳重に抗議を入れればよろしいだけでしょう。そも、貴方が昨日私に仰ったのではありませんか。あの男にはもうこれ以上関わるな、と」
「アッ、バカ!!」
「!」
余計なことを言うなとばかりに戸田が制する。しかし遅かったようだ。
(な……ど、どういうことだ、仙? どうしてお前、その男の言うことをこんなにも素直に聞こうとしてるんだ……?)
いや、そもそもどうして歩兵少佐がこんな所で工兵と一緒にいるのだろう。襟章に縫い付けてある原隊番号だって近所にある歩兵第十一聯隊の物ではないし、そもそも先程の会話から察するに男は参謀本部勤務。
それ以前に、どうしてそんな天保銭組の俊英様が、東京から遠く離れた広島に来ているのだ。
「何を仰られるのでしょう。あの男と仲良く腕でも組んでおれと? 貴方が昨日、私に仰ったことと真逆のことをせよと命令されるおつもりですか」
「いや、だからな。あれは命令じゃ無くてお前へ頼み事。もうこれ以上、面倒事は起こすなよっていうな。ただでさえ大事な時期なのに、ここで問題なんか起こしたらいくら俺でももう庇いきれんぞ。サクッと仲直りして無かったことにして来い」
「嫌です。無駄だと判っている努力を続けるほど、私は暇で無いことなど……」
そこで尾坂は一旦区切り、チラリと瀧本の方に視線だけ向けて一瞥くれてやる。
だがそれも一瞬。すぐに視線を戸田の方に戻し、甘えるような声でそっと──だが確実に瀧本に届くよう計算された声量で衝撃的な発言を叩き出す。
「────センパイはご存じでしょう?」
センパイ───つまり、それは……
「せっ!!?」
戸田をわざとそう呼んだ意味に気付いた瀧本が、動揺するあまりに声を詰まらせる。
尾坂が、あの陸軍少佐に対して「先輩」という呼称をわざわざ瀧本の前で使用した。
瀧本がどこまで知っているのか、判っていたからやったのだ。とんでもなく性格が悪いことだが……
(つまり、こいつは……仙の………!)
江田島で鍛えられた日本有数の優秀な頭脳は、即座に全てを悟った。この男、戸田と呼ばれた参謀本部勤務の歩兵少佐こそが、かつて広島幼年学校に通っていたときに尾坂の純潔を奪って好き勝手に調教していった、彼の初体験の相手である当時の模範生徒なのだと。
「っ───仙!!」
それに気が付いた瞬間、瀧本は叫んでいた。
どうしようもないくらいに欲しいと願った、かつて自分に今でも美しく鮮明にあり続ける日々をくれた、そして───人生でただ一度だけの、自身の全てを賭けても良いと思える恋をした。あの、麗しの青年の名を。
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