海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(26)月桂樹で冠を③

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「………」

 ガサガサと新聞紙を地面に広げて、尾坂は持ってきた鳳仙花を二束に分けている。盆はとうに過ぎたからか、あまり暑くなくて良い時間帯だと思うが、尾坂と戸田以外に人影は無かった。

(……こいつは、何も知らないのか……………?)

 妙に淡々とした、まるで作業のような手際の良さだ。そこには何の感情も挟んでいない。義務でやっていると言わんばかりの態度だった。
 いったいいつの間に懐に仕込んでおいたというのだろうか。線香の束に燐寸で火を付けて、設置している。

(まさか、俺の思い違いだったってか?)

 尾坂の家を出た辺りから悶々と考えてきたことは自分の思い違いだった、と結論付けた。戸田は「ふぅ」と一息脱力する。
 確かに偶然にしては行きすぎているとは思っていた。流石に、これは無い。言いがかりにも程がある。

 ───尾坂の実母は隼三郎閣下の亡くなった姪御さんと同一人物ではないのか、だなんて。

(我ながら変なこと考えたもんだなぁ……疲れてるんだろうか)
「では行きましょうか、少佐」

 しばらく手を合わせて物思いに耽るのかと思いきや、尾坂は花を生けて一秒程度合掌しただけであっさり立ち去ろうとした。それで我に返った戸田は慌てて尾坂を引き留める。

「いや、ちょっと待てよ。お前、」
「なにか」
「なにか、じゃない。あとこのやり取り何回目だ」

 感傷もへったくれもない無表情のままの彼を引き留めて、戸田は大きく天を仰ぐ。

「いくら会ったことも無いからってなぁ、閣下から頼まれたことだろ? ちゃんとしろ」
「経でも唱えておけと?」
「それは坊さんに任せておけ。そうじゃなくて、気持ちの問題だよ。少しは故人を偲ぶってことを……」
「必要ありません」

 戸田の台詞を遮って、尾坂はピシャリとはね除ける。取り付く島も無いという奴だ。それでも戸田は、後輩に対してお説教をしようと口を開く。

「おい」
「私に自分の死を偲ばれた所で、迷惑以外の何物でもないと思いますよ───“彼女”は」

 チラッと横目で鳳仙花を供えた墓石を一瞥し、尾坂は諦めたように深く息を吐いた。
 その様子は普段、感情を表に出さない彼にしては非常に珍しいもので………どこか、寂しそうな色が滲んでいる。

「仙………?」
「ええ、だって………“彼女”は私のせいで死んだようなものですから───顔さえ見たくないというほど憎みこそすれ、私が来て嬉しいと思うはずもありません」

 えっ、という驚いたような声は、直後響いた蝉の声によってかき消えていった。
 いったいそれはどういう事だ。ここにある墓は、尾坂家の物。そして、墓石に刻まれた名前の最も端にある名前は閣下の……

「待て、えっ。ちょっと待て、仙」

 “彼女”は、私のせいで死んだ。それは、その言葉が指し示す事は、つまり──

「おい、まさか…………まさか……! 閣下の姪御さんは、お前の……!」
「──何も言わないでください!」

 ジッ!と空気を切り裂くような音。戸田を遮るように響いた大声に驚いたのか、近くの木に留まっていた蝉が澄みきった夏の空に向かって羽ばたいていく。

 どうか間違いであってくれ、という戸田のささやかな願いは、他ならぬ尾坂本人の悲痛な叫び声によって打ち砕かれた。

 自分が脳裏に浮かべた荒唐無稽な話が、まさか的を射ていたとは思っていなかったのだ。息を呑み、知らず知らずの内に呼吸が止まっていたことにさえ気付かないほど驚いていた。
 戸田がいっとう可愛がっている後輩は、顔を斜め下に背け、震えながらぎゅっと拳を握り締めていた。そんな尾坂の姿を見て、何も言えなくなる。

「……暴いた所で、誰も………誰一人として幸せにならない…………父上、いえ……九条院家の者も……閣下も…………そして、“彼女”も……関わった者全員が不幸になる真実です…………その先を言うのは止めてください、センパイ……どうか………後生ですから堪忍してください………お願いします………お願いします……」
「仙……お前、それは……」
「私が差し上げられる物でしたらなんだって差し上げます……ですから、もう………この話は忘れてください…………私のせいで“彼女”が貶められるのを、これ以上見たくないのです………死んだ後でさえも謂れの無い侮辱を受けるなど、あんまりではありませんか………センパイ、貴方に慈悲の心があるというのなら“彼女”を! ……静かに、せめて安らかに寝かせてやってください……」

 喉の奥から懸命に絞り出したような声は、聞いていて胸が苦しくなるほどの悲痛に満ちていた。
 いつも戸田が見ていた毅然とした態度とは大きくかけ離れ、幼い子供のように小さく震える姿に衝撃を受けて固まる。幼い頃からどんな事にも動じることなく、凛と前だけを向いていた、気高い狼のような彼が見せた初めての姿。
 戸田は自分の口の中がカラカラに渇いていたのにも気付かずに、ごくりと喉を鳴らす。

(何てことだ……! 閣下の姪御さんと言えば、亡くなる一年前には婚約を結ばれたばかり………ご病気が発覚したために両家で協議し、破棄するという流れになったと聞いていたが………だが、こいつの話が本当のことなら、九条院侯爵はとんでもない罪を犯していたことになるじゃないか……!)

 その婚約破棄の裏側には、このような真相があったとは……参謀本部勤務で情報を専門的に取り扱う現役軍人であるはずの戸田でさえ辿り着けぬよう、あそこまで徹底して隠されていた真実だ。恐らく侯爵と“彼女”が結ばれた経緯は、決して双方共に望んだ事では無かったはず。尾坂の話や、巷に流れる九条院侯爵が寵愛していた愛人の噂から推測するに、恐らくは九条院侯爵が一方的に言い寄って結ばれた関係ではないか。
 皇室の藩屏である華族、それも千年続いた公家の流れを汲む侯爵家の当主が、一回りも年下の──それも婚約を結んだばかりの素人の娘を手篭めにして子供まで産ませていたなどと。もしもこれが白日の元に晒されるような事があれば、間違いなく大勢の人間が不幸になるだろう。 
 当然、その九条院侯爵の罪を背負って産まれてきた尾坂だって、無事では済まされない。ただでさえ彼は何かと槍玉に上げられる存在なのに、その上で侯爵が一方的に恋慕して弄んだ娘を母にして産まれてきたなどと知られれば、今まで以上に酷い中傷を受けるのは考えなくとも判る。

「判ってる、仙……! 俺は、この寺を出るまで何も言わない。そして寺から出たら、ここで起きたことは全て忘れる。そうだ、それで何もかも無かったことにしよう。いいな」
「はい………ありがとう、ございます。センパイ………」

 安堵したかのような声。それでも、尾坂は顔を上げなかった。
 それは、戸田が次に口に出す台詞を予想しての事だったのだろうか。肺の中に溜まっていた空気をゆっくりゆっくり吐き出して、それでも変えられなかった自分の考えから、尾坂を諭していく。

「でもな、仙。それでも………その、ちゃんと手を合わせてやれよ…………もう何も言わないとは言ったが、これだけは言わせてくれ。我が子が来て嬉しくない母親なんかいないんだよ、仙………お前までそんな突き放したような態度を取るのなら、“彼女”が報われないだろ………」
「………」

 戸田は夫を戦争で喪った後、自分を必死になって働いて立派に育ててくれた母親に感謝している。今はもう亡くなっているとはいえ、彼にとって母親の記憶というものは、どれもが暖かくてかけがえのない大切な思い出ばかりなのだ。

 だから───その一点で、尾坂とは決定的すぎる溝ができてしまっていたことなど、考えられなかった。

「………ねえ、センパイ。貴方のお母様はどのような方でした?」

 ふ、と。口の端を皮肉げに吊り上げて静かに顔を上げ、尾坂は疲れたとばかりに力なく笑う。

「真実を知った後、私が今日までどんな思いを抱えながら生きてきたのか………貴方はご存じ無いでしょう? 自分のせいで母親を死なせてしまったという自責と罪悪感に寝ても覚めても苛まれ、苦痛のあまりにいっそ面と向かってハッキリ責めてくれと這いつくばって墓前で乞い願いたくなる子供の気持ちなんて…………そう、自分の母親から「お前なんか産みたく無かった」と言われた方がいっそ楽だという人間がいるなんて、貴方は想像さえしていらっしゃらないでしょう……?」

 理解できない、理解などできるはずがない。
 どんな女でも母親になったら無条件に子供を愛することができると、根拠もないような神話を無邪気に信じられる人間と。理解、しあえるはずもないのだ。

「センパイ、貴方には一生ご理解していただけないでしょうね………当たり前のように子供を愛する母親がいる。それが常識だと信じて疑わない者たちの何気ない一言一言で……自分は結局、人でなしの化け物の子供なのだと突き付けられ………誰かから母親の話もできない変な奴だと馬鹿にされる度に、群れの中で孤立するしかない人間が………どれほど惨めな気持ちで立っていなければならないか、なんて───貴方には一生、判らないでしょうね……センパイ……」

 そっと目を閉じて、尾坂はそのまま戸田を突き放す。譲ることができないものに対して、理解することができない者が下手に慰めた所でそれは悲劇しか産み出さない。知らないということは罪であり、そして幸福なことでもある。
 世の中には、両親からなんの気兼ねも無く愛されて健やかに育った者、そうでなくても両親の愛はどこまでも無償のもので親になれば自ずと芽生えるものだと。そう信じて疑わない者が関わってはいけない世界というものもあるのだ。

「仙、」
「貴方はこちらに来ることなどできませんよ、センパイ」

 たとえ一時でも両親から愛された記憶を持つ戸田は、尾坂の受けてきた苦痛の全て……いや、触りの部分でさえも理解でいないだろう。

「お母様が亡くなられたのはとても残念なことです。ですが……偲ぶような思い出さえ無い者には、持たざる者なりの苦しみというものがあるのですよ………」

 たとえ理解できたとしても、そこに実感は伴わない。
 経験した者にしか判らないのだ。これは。人は誰でも親になれる訳ではないのだと、頭ではなく……根っこの所で理解している人間にしか……

「……行きましょう。私の部下が待っています」

 あっさりと、尾坂は話を切り替えて踵を返す。

(持たざる者なりの苦しみ、か……)

 あの頃よりずっとずっと成長し、立派な青年となったかつての自分の稚児。その背に、どれほど重いものを背負い続けてきたのだろう。
 線の細い、ともすれば男装の麗人にも見えなくないその身で、どれほどの苦痛を受け止めてきたのだろう。

 それでもなお、泣き言ひとつ漏らさず気高くあり続ける彼は美しい。

「……?」

 バタバタ、と物音。遠くの方から駆けてきた人影に気づき、歩みを止める。
 息を切らしながら駆け込んで来たのは堀野伍長だ。どうしたというのだろう。彼にしては珍しく、上官の前だというのに怒りに震えるような形相をしていた。

「堀野伍長、なにかあったか」
「───なぜ、言わなかったのでありますか!!?」

 突如、彼からそんな質問が飛んできた。いったい何だというのだろう。

「……報告は簡潔かつ明確に伝えろ」
「なぜ──昨日、あの仔猫達の母親の墓を造ったことを黙っておったのでありますか!」

 猫の、墓。とは。なんの脈絡もなく言われた言葉に戸田は目を白黒させていた。それがどうしたというのだろう。
 答えを出すのに時間はかからなかった。あの仔猫達とは、昨日千歳が拾ってきた猫たちに違いない。だとすれば、その仔猫達の母親の墓を尾坂が造った───つまり母猫の死骸を見付けて埋葬したということだろう。

「必要が無かったから言わなかっただけだ。確かに、昨日私は道端で死んでいた雌猫の死骸を拾って、この寺に埋葬した。だがそれは貴様らに報せるようなものではない」
「それでもっ……知らねばならんことだってあるでしょう!! もしもあの母猫が、いなくなった仔猫を探し回ったせいで死んだのだとしたら、それは────」
「───それは貴様の憶測に過ぎないだろう、堀野伍長」

 軍法会議をも覚悟して出てきた堀野伍長に対し、尾坂は異様なほど淡々とした冷酷な態度で告げる。まるで、反論の余地など無いと言わんばかりに。

「っ……」
「あの雌猫が死んだ理由など知らん。元から衰弱していて、その体で無理をして仔猫を探し回ったせいで死んだ……などと、推測だけで語るつもりか。確かにそうだったかもしれないな。だが実際の所、真相は謎だ。あの猫は、道端で野垂れ死にをしていた。それだけが真実だ。勝手に物語を付け加えるな」
「ですがっ」
「何度も言わせるな。一度言えばそれで十分だろう」

 もうこの話は仕舞いだ、と言わんばかりに遮って。尾坂は再び歩き出す。

「どうしてそこで死ぬ必要があったのか、その意味が明確でない。余計なことを考えて、それで抱えなくとも良い罪悪感を抱えるくらいなら……」

 途中で堀野の横まで来たとき、尾坂はピタリと立ち止まって、そして堀野の耳元で囁くように言い放つ。

「それは……いらないものだ。お前達の人生に必要が無いもの。それを知って、取り返しのつかないことをしてしまったという答えの出せない苦しみを味わうのが目に見えているのならば、知るだけ無駄なことだ。私一人が知っていればそれでいい」
「っ……」

 堀野が息を呑む声が聞こえる。尾坂は堀野の気持ちなど、まるで知ったことではないとばかりに無表情を貫いている。

「判ったのなら、もうこの件に関しては仕舞いだ。休息はもう十分取っただろう。過ぎたことはもう仕方がない。今は、あの猫の飼い主についてだけ考えれば良い」

 コツコツ、と再び歩き出した。
 ……尾坂のその考え方は、自分一人だけが犠牲になればそれで全てが解決する、という自己犠牲の類いのものだ。当然、彼一人が全てを抱え込まねばならない。そのぶん、心身への負担は想像を絶するものになるだろう。
 しかしそこまでしても、部下のためにならない。それは単なる甘やかしだ。何も考えなくてもいい、何も知らずに幸せならそれで良いだろうという。

「何をしている。早くしろ」

 既に上官の顔に戻っていた尾坂は、振り返りもせずに超然としながら淡々と命ずる。

「…………」
「………………」

 それに対して、二人は何も言い返すことができずに立ちすくむばかりだ。
 何も言えない。彼の、その在り方に対して。なぜならそれは、自分達が彼に押し付けていった役目なのだから……


 ほどなくして住職の元に戻った三人は、彼から仔猫の引き取り先である広島市内の薬局が印された地図を受け取る。
 その地図をじっと見ていた尾坂が、市内の中心にある商品陳列所の近くを通ればすぐだと気付いたため、一行はその道を通って行くこととなった。



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