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なんでもない日
(25)月桂樹で冠を②
しおりを挟む「やあやあ、お待ちしておりましたよ」
千歳が尾坂大尉に案内されてやってきた場所は、広島市内の中心部から少し離れたら場所にある寺だ。既に話は通してあったのか、住職はにこやかに一行を迎え入れた。隣には奥方だろうか、中年の女性の姿も見られる。
「えぇ、と。貴方が尾坂殿の部下でしょうか」
「ハッ! 千歳孝史と申します」
「千歳ぇ、階級!」
背後で堀野伍長が叫んだ。今回の件には直接関係無いはずの堀野がどうしてここにいるかと言われると、なぜか着いて来たとだけ。
現在、この場には尾坂大尉と千歳の他に、尾坂が連れてきた戸田と千歳に付いてきた堀野、そして尾坂の当番兵である大久保の計五人が揃っていた。
正直、こんなに頭数は要らないのが本音だが……来てしまったものは仕方がない。まあ、仔猫を運ぶ要員が増えたと思うことにしよう。
「ふぉっふぉっふぉ……それで、肝心の仔猫はどこに?」
「こちらであります!」
昨日入れられた箱に入ったまま連れてこられた四匹の仔猫。一匹、先に引き取られて行った雌の黒猫を除いて全員揃っている。
足先だけが白い黒い猫が雄雌一匹ずつ。雄の黒猫が一匹。そして──
「ゲェェェエエ」
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙が、流れる。
「……………」
「ゲェェ……ニェエエエエ………」
「………………………………」
潰れた蛙の方がマシ、というような酷い声が聞こえてきた。
どこからと言われれば、仔猫が入った箱の中からと答えよう。
「ゲェェ、ゲェェエエ」
眠そうな腫れぼったい灰青色の目をジロッとこちらに向けているのは、最後の一匹──つまり昨日、軍獣医長から「曲者」というあまり嬉しくない称号を賜った灰色の仔猫だ。正確には、薄灰色のサバ柄を背負うような白い猫なのだが。
「……なるほど、曲者か」
軍獣医長の見立てはピタリと的中していたのだな。と、尾坂はしげしげと箱の中を眺める。怖いもの知らずの灰色の仔猫は、無表情の尾坂大尉を前にしても果敢に威嚇してくる。
千歳達、下士官兵にしてみれば止めてくれとハラハラする一場面だったが、尾坂大尉はなんとも思っていなかったらしい。
持っていた鳳仙花の花束をガサガサ持ち直し、帽子の鍔を持ってそっと直す。
「少しだけ仔猫を休ませてやってくれるか」
「ええ、もちろん。ですがその前に……」
どうやら何か言いたいことがあるらしい。日頃から世話になっている住職の頼みだ。立ち止まって静かに拝聴する。
「実は、昨日家内とも相談したのですが……もし、よろしければそちらの手先が白い雌の猫、こちらで引き取っても?」
「え?」
まさかの申し出だった。早くも二匹目の引き取り手が現れるなどとは、さすがの尾坂大尉も思って無かったらしい。珍しく部下達と共に目を円くしていた。
住職の隣にいた奥方がにこりと微笑んで会釈する。
「夫とも充分相談いたしましたの。子供たちも既に独り立ちしていったので、余生に猫を飼うのも良いかと思いまして。もし、よろしければで構わないのですが……」
「……千歳」
「あ、はいっ! 可愛がっていただけるのなら、こちらとしては歓迎であります!」
昨日の奥池の時のように選べということか。上官の意図を読み取った千歳が勢い良く返事をした。
「だ、そうです。どうぞ、可愛がってやってください」
「ありがとうございます、大尉。ふふ……何の因果でしょうかねぇ。また猫を飼うことになるなんて。大尉は覚えていらっしゃいますか? 私達、前にも猫を飼っていましたのよ」
「ええ、よく覚えておりますよ。たしか、名前は『茶々』でしたね」
「貴方も幼年学校に通っていた頃、よく来ては可愛がってくださりましたねぇ。残念ながらその後すぐに亡くなってしまったので、今はもうおりませんが」
この寺の住職と尾坂は随分と長い付き合いらしい。彼が幼年学校に通っていた頃と言えば、もう十五年も前の話だ。
「前は茶々と名付けましたからなぁ。今度の名前は茶から連想して菓子に関係する名前でも着けようかと思っておりますよ」
「おや、そうですか。では私からも何か提案をひとつよろしいでしょうか」
「!? 待て、尾坂!」
戸田が慌てて制した。なぜなら、彼は身に染みてよくよく判っていたからだ。
……尾坂の名付けのセンスが、壊滅的だということを。
「菓子に関係する名前……それならば『求肥』というのは、いかがでしょう」
「ふふっ、『あんこ』にいたしますね」
────求肥。つまり、白玉粉に砂糖や水飴を混ぜて練り上げたもの。
確かに菓子ではあるが……その、何と言うか……
(猫に付けてええ響きの名前じゃないけえ……)
尾坂大尉の名付けのセンスは酷すぎる、と『トンカツ三号』や『カリカリ』など数々の実例と一緒に耳にはしていたのだが、実際に聞くと想像の三倍は酷い。
しかしさすがは年の功といった所か。愛嬌のある微笑みで尾坂の提案をさらっと受けて流し、夫人はさっそく仔猫を抱き上げた。ちゃんと性別を確認したので間違いない。
これで仔猫の引き取り手は残り三匹となった。
「ああ、そうそう。昨日言っていた引き取り手のアテですが……」
「見付かりましたか」
「ええ。黒猫でしたら雄雌どちらでもと言ってくださる家がありました。地図を渡しましょう」
「頼んだ。しかし、その前に……」
ガサッと音。尾坂が手に持っていた切り花をひょいと掲げて見せる。
「あら、そうでしたわね。大丈夫ですよ、もう準備を済ませて生けるだけにしてありますので」
「そうか、感謝する。堀野伍長以下は全員、中で各自休息を取るように。以上」
「ハッ」
「少佐は……」
「俺も一緒に行っていいか?」
「ええ、どうぞ」
短く礼だけ言って、尾坂は戸田を伴って歩き出す。どこに行くのか千歳達が目で追うと、将校二人は墓石が立ち並ぶのが遠目に見える細い道を抜けようとしているようだ。
「……なんじゃ。あんなぁ、墓参りのために花なんか持参したんか」
駐屯地に花束なんか持って現れたから仰天してしまった。尾坂大尉の日頃の行いから考えれば、女に渡すために用意したのが妥当だろうと。
「わしゃぁ、てっきり女にでもやるんかっちゅぅて思うて身構えとったのに」
「まあまあ……」
つならなさそうに後頭部に回した手を組む堀野を苦笑いで制し、大久保が仔猫入りの箱を抱えた千歳を先に行かせてやる。住職の夫人も引き取った仔猫にしてやることをするために引き返していった。
「ん?」
ちょうどそれと入れ違いになって、裏の方から何人かの子供達が走って来た。
夏休みということもあってか、寺の境内で仲の良い友達数人と遊んでいたのだろうか。男女入れ交じって元気な声を上げながらわらわらと集まって来る。その手には──なぜか、その辺で摘んできたらしい雑草の花や淵の欠けた硝子の広口瓶が握られていた。中には水が入っている。
何をするのかと思って見ていると、児童たちは集まった片隅の一角に持っていた物を積み上げて、次々手を合わせていた。
「おーい、ジャリどもぉー」
その様子に何か引っ掛かったらしい。大久保が児童らに呼び掛ける。幸い、大久保には面識のある悪ガキどもだ。堀野も何かあると思ったのか、ひょいとそちらの方に意識を向けた。
「あ、大久保のあんちゃんじゃけぇ。おはよー」
「おう、おはようさん。そんでわれぇ、何をやっとったんじゃ?」
「墓参りー」
「墓ぁ?」
さらりと当然のように答えられて、大久保は首を傾げる。確かに、子供達が『お供え物』を積み上げていった場所を見ると、少しだけ盛り上がっている。土の色は、まだ掘り返されて日が浅いことを示していた。ということは、昨日か今朝早くに掘り返されたのだろうか。
大きさから考えると、小動物の墓のようだった。いったい何の墓だろうと思った大久保の様子に気付いたのか、子供の一人が元気に答える。
「───昨日ここに露人の将校さんが、猫の墓ぁ作っとったけぇ。じゃから、墓参りしとるんよ」
その一言に、大久保も、そして堀野も固まった。
露人の将校、というのが誰を指すのか。大久保も堀野も誰のことなのかよく知っている。それはこの辺りの小学生達がよく使っている、尾坂大尉のあだ名だ。彼の瞳が露西亜人のように深い青色をしているから、そのような名前が付けられた。
問題はその後に続いた言葉だ。露人の将校さん、つまり尾坂が──このタイミングで猫の墓を作っていたとはどういうことだ。
「ああ、そちらですか。確かに昨日、そこに大尉が猫のご遺体を埋めて行かれましたが……」
「……なんか知っとるんか」
「はい、知っておりますよ。昨日、大尉がこちらに寄られた時にですね。猫のご遺体を大事そうに抱えていらしたので、あの隅の辺りなら掘り返して良いと言いました。ええ、ちょうどあの……先程の仔猫達の中にいた、少々個性的な鳴き声の仔猫に良く似た柄の雌の猫でしたねぇ」
「!!」
あの曲者と瓜二つの柄の雌猫。あんな特徴的な柄の猫など、早々いるものではない。ということはつまり、子供達がお供え物を運んできたあの墓に埋められている雌猫は、あの五匹の仔猫達と極めて近い血縁関係を持っているのではないか。そう考えるのは自然の成り行きだろう。
「そ、そん猫は……」
「まあ確かに、顔の辺りはカラスに啄まれていたのか、それはそれは酷い物でしたが……あれは恐らく死んだ後に付いた傷でしょう。死因は衰弱かなにかでは?」
「…………」
「…………」
お互いに顔を見合せ、堀野と大久保は表情を強張らせる。そんなこと、我らの中隊長は一欠片も漏らさなかった。
なぜ、尾坂大尉はその事を一言も口にしなかったのだ?
「あんっの……ど阿呆………!」
ようやく気付いた。下士官兵の中で、一番長く彼を見ていた堀野が真っ先に。尾坂が何を考えて、誰にも言わずに猫を埋葬したのかを──
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