海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(18)月明かりに彗星蘭をかざして④

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 それから何時間ほど経ったのだろうか。
 奥池に電話が来たという女将の訪問があり、必然的に部屋には戸田と尾坂だけが残された。

「………」
「……………」

 まずい、と急に居心地の悪くなった空間に落ち着きなく身動ぎしながら、戸田は何か話すきっかけが無いか考える。昼間にあんなことがあったのだ。気まずくならないわけがない。
 尾坂はというと、そんなことなどまるで無かったとばかりに超然とした態度でじっと座っている。いつもの何を考えているのか読めない無表情のままで、冷酒の注がれたお猪口に口を着けていた。
 赤い唇がしっとりと濡れているのに思いの外ドキリと鼓動が早くなり、慌てて気を反らすように丸窓の外を見る。

「お……」

 ちょうど雲が切れたのか、丸窓の向こうで満月の光がさっと地上に散らかっていく。
 ようやく話題ができた、と戸田はホッと一息吐いた。

「なあ、仙。見てみろ、今夜は満月………おわっ!!?」
「………」

 尾坂を呼ぼうとそっと振り返ったその瞬間、その尾坂大尉が自分のすぐ側で正座していたのに気付いて盛大に声を上げる。いったいいつの間に回り込んでいたのか、尾坂はまるで最初からここにいたと言わんばかりの態度で当然のように座っていた。

「びっ……くり、したぁ……」
「……なにか」
「なにか、じゃない。驚かせるなよ……寿命が縮んだかと思ったじゃないか」
「それは失礼いたしました」

 よく見ると、その手には徳利が握られている。酌でもしようとしてくれたのだろうか。

「お詫びというわけではありませんがどうぞ」
「あ、こりゃどうも」

 空になったお猪口に並々と冷酒が注がれる。
 男であるという点にさえ目を瞑れば絶世の美人からのお酌だ。それに彼は戸田にとって可愛い後輩。嬉しくないわけがない。
 注がれた日本酒をくっと引っかけ、飲み干した後に再び月に目を向ける。

「…………」

 伏し目がちになったからか、男にしては長い睫毛が頬に影を作っていた。月明かりを反射して、瑠璃色の瞳に少し明るい露草つゆくさ色が混ざった不思議な虹彩が現れる。
 宇宙そらの向こう側にある青色は、こんな色をしているのだろうか?

「……センパイ・・・・
「!」

 尾坂が小さな声で戸田を呼ぶ。昔、まだ彼が何も知らずに世界の美しさを無邪気に信じていた頃の言葉で。

「酔いが回られたようですね」
「あ、いや」
「少し横になられてはいかがでしょうか」

 甘く掠れた低い声。あの頃とは違って、すっかり声変わりも終わっている青年の声だというのに、どこかあの日の幼い面影が残っている。

「大丈夫だよ。このくらいなら平気だから」
「あまりご無理はなされないでください。もう十代の頃とは違うので……」
「………」

 なにも酒の席で現実を突き付けて来なくてもいいじゃないか、と突っ込みたくなったがぐっと堪えて息を吐く。
 ふと見上げると、満月はまた雲の下に隠れていこうとしている所だった。

「心、ここにあらず……という所ですが、なにかお悩みでも?」
「いや───月が綺麗だなと思って……」

 そこまで口にして、その台詞の意味が記憶の隅から引っ張り上げられてきてハッと我に返る。

(いや、いや。ちょっと待て、俺はいったい何を口走って………待て待て、つい勢いで言っちまったけど、こいつ、この台詞の意味なんざ知ってて当然だよな? ど、どうしよう………他意は無かったんだって弁明するか? いや、でも一応は本当のことだし……)
「……月、でありますか」

 戸田が内心で大慌てしているのを尻目に、尾坂が口にしたのはなんともまあ呑気な台詞だった。
 まるで意味など判ってないとばかりに一寸たりとも動じず、戸田越しに丸窓の向こうで顔を隠した満月を見ている。

(え……気付いていない?)

 どうやら戸田の言った台詞のことに気付いていないらしい。あの尾坂が明治の文豪、夏目漱石を知らないはずは無いと思ってはいるが……

「仙、」
「はい。何でしょう」
「お前、夏目漱石って知ってるか」
麦酒ビールに酔って溺れ死んだ猫の話なら読んだことはありますが、それを書いた作者についてはよく知りません。興味が無いので」

 まさかの回答であった。作品は読んだことがあるが作者に興味が無い、とは。

「………論文でも学術書でもない文学作品くらい、著者を気にせず自分の気に入った物だけを読んでも構わないでしょう?」

 首を傾げる戸田の様子に、自分の回答の何がいけなかったのか悟った尾坂がそう追加しておく。
 なにせ彼は工兵科という技術職を売りにしている兵科に属しているのだ。本能的に最新の技術や研究内容についてはいくらでも知りたいし、実際に大抵の論文には目を通している。
 その論文や学術書をいったい誰が書いたのか、そして信憑性に問題は無いのか。しっかりと精査しながら読まなければならないので神経を使うのだ。娯楽の本くらい好きに読ませてくれという奴だろう。気になったら調べれば良いだけの話。尾坂は作者自身の評判なんか気にせずに作品を読みたいだけだ。

「あ、うん。そっか」

 少しむくれたような表情をする後輩の、思いがけない可愛い側面を見た戸田はドギマギしながらも、さりげなくそっとその手に自分の手を添える。

「………」

 するとどうだ。戸田が言いたいことを悟ってくれたのか、尾坂がゆっくりと優雅にその華奢な身を捩らせながら戸田の方に寄りかかっていく。

「……なあ、仙」
「はい、何でしょう」
「心配しなくても、な。お前、原少佐とはウマが合いそうだぞ。今回の技本行き、原少佐は例の意見書も目に通した上でのことだし。いや、むしろあの意見書が決め手だったのかなぁ……なんて」
「………そうですか」

 尾坂としてはもう既に黒歴史認定してしまっている件の報告書だが、どうやら異動先の上官はいたく気に入ったらしい。
 内心複雑であったし、尾坂にとって言いたいことはそれでは無かったのだが、空気を読んで黙っておく。

「だからさ、そう心配するなよ。お前はやっぱり、そういう研究員とか技術屋とかの方が合ってるからさ……」
「……米国留学中に」

 ボソッと呟かれた一言。突然、なんの脈絡も無い話をされて不意を突かれた戸田は、薄く口を開いて考え込む。

「とある祝賀会で……不思議な英国人に出会ったのですが」
「うん?」
「その英国人、まあ本名かどうかは不明ですがエドワードと名乗っていたのでエドと呼びます」
「で、その……エドさんがなにか?」
「出会って早々、妙なあだ名を付けられました」
「妙なあだ名?」

 妙なあだ名、とはいったい何なのだろう。好奇心が湧いてきた戸田は後輩の話にそっと耳を傾けた。

「……ハティ」

 どうやらそのエドという英国人が尾坂に付けたあだ名は「ハティ」というらしい。
 妙に可愛らしい響きだが、女顔とはいえれっきとした成人男性である彼に付けるにしては些か不釣り合いだと感じた。

「気になって調べました。少し時間がかかったのですが、無事にそれらしいものは見付かりました」
「うん、それで?」
「ハティというのは、北欧神話に登場する狼だそうです」
「狼……」
「……外国帰りの少佐にはお判り頂けましたか。そうです。狼というのは西洋では不吉の象徴、しばしば悪魔の化身として描かれるもの。特に北欧からゲルマン地域全体に伝わる神話などでは、狼は天災の象徴として扱われます」

 日本では狼はそれほど忌避されてはいない……といっても、日本の固有種であったニホンオオカミは一時家畜を襲うとして駆除されたり、狂犬病の蔓延で絶滅してしまったのでなんとも言えないが。
 しかし西洋では狼は悪魔の手先とも考えられている邪悪な生き物だ。西洋の童話でもしばしば、狼が悪役として描かれているのを見れば嫌でも理解できる。
 と、いうことはその「ハティ」とやらも良いものでは無いのだろう。

「ハティ、というのは北欧神話で月を追い続けている狼のことだそうです。双子の兄弟にスコルというのもいて、そちらは太陽を追いかけているとか。この二匹がそれぞれ太陽と月を追い続けているので、昼と夜は絶えず入れ換わっている……それが北欧神話の世界観です」

 日本も同じ多神教の国だからだろうか。妙にすんなり納得できる。そういう世界もあるのだろう、と。

「やがては月に追い付いて、それをパクリと一呑みして世界に大きな損害を与える役目を与えられた狼の怪物。それがハティです」

 いったい、そのエドという英国人はなぜそんな怪物の名前を尾坂に与えたのだろう。てんで判らず戸田は困惑する。

「その名前は古代の言葉で『憎しみ』を意味するそうです…………ふふ、私に相応しい名前・・・・・・・・だと思いませんか?」

 ふっと、尾坂が自嘲気味に笑った。
 そんな扱いをされたというのに、まるでそれが順当なものだと言わんばかりの態度だ。侮蔑と捉えてもなんら可笑しくないようなあだ名を付けられたというのに、まったく意にも返さず笑っているだけ。
 なぜそんなにも平然としていられるのか気になって、困惑のために眉を寄せながらも戸田は自分に寄りかかる尾坂の肩をトントンと軽く叩いてやる。

「ええ、だって。人でなしに化け物として育てられて、奪うことでしか満たすことができない怪物として産まれたのが私という男ですから。月を丸呑みしようと追いかけている、憎しみに狂った狼なんて……私にぴったりではありませんか」
「仙……」
「私は他人に優しくすることなんてできません。だって、それは必要の無いことだ・・・・・・・・。そうなのだと侯爵の手で切り捨てられたのですから。憎まれ役だって慣れています。私を憎んで気が晴れるのならばいくらでもどうぞご自由に。本当のことを知って後悔に苛まれるくらいでしたら、私を悪者にして憎むことで心の平穏を保ってくださいな」
「おい、仙」
「だって、私に対してそうであれと望んだのはあなたたち・・・・・でしょう。お前が悪い、お前のせいで。その言葉と憎しみひとつで心が楽になるのなら、憎まれ役などいくらでも引き受けましょう。それであなたたちの気が済むのであれば……」

 うっすらと貼り付けたような微笑み。そこに献身の精神なんて無い。慈悲の心なんて無い。
 彼にとってそれは単なる義務なのだ。誰も彼もが押し付けていった結果、自然とそうなるように調整されていただけのこと。それ以上でもそれ以下でもない。

(待ってくれ、仙……)

 しかし、その考え方は───ハッキリ言うと人間のものではない。いや、人間の精神では到底耐えきれない・・・・・・・・・・・・・・・。その考え方は最早神のもの。それも、どう考えたって悪神の類いのそれだ。
 一見手酷く叱り付けるなど厳しくしているように見えて、その実それはただの甘やかしにすぎない。ひたすら人間を甘やかして思考を単一化させ、そして堕落させるという怪物の在り方。それが彼の魔性の正体なのだろうか。真相の一端に触れてしまったような気がして、戸田はゾッと胆が冷えるような思いを味わった。
 だが、自分が……いや、自分達が彼のその在り方についてどうこう言う資格は無い。

 なぜなら────彼に「そうで在れ」とその役目を押し付けていったのは、他ならぬ自分達なのだから。

「ねえ……センパイ」

 うっそりと、小さく微笑んだ狼が……憎しみの名を関する狼が、月を見上げてそっと囁く。

「明日は早くに起きなければいけないので、中佐が戻られたらお開きということでよろしいでしょうか」

 しかし予想とは全く異なり、尾坂が口にしたのはそんな素っ気ない予定の提案であった。




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