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なんでもない日
(16)月明かりに彗星蘭をかざして②
しおりを挟む「───『夕月夜 さすや岡べの松の葉の いつともわかぬ恋もするかな』」
重巡「古鷹」艦長室に、部屋の主である古鷹艦長の春名 小五郎大佐の、のんびりと間延びした声が響く。
「………猿丸太夫ですかい」
「うん、そうだよ。知っていたんだねぇ、キミ」
ケラケラと笑いながら小五郎は氷を入れたグラスにコルクの栓を抜いた瓶の中身を注いだ。瓶に貼ってあるラベルに書かれた文字を読むと「アクアビット」になるだろうか。独逸語のようだが少し違う。
瓶の中身が瑞典の洋酒であることを鑑みれば、瑞典語で書かれていると見なせばいいだろうか。
この時代、日本から遠く離れた北欧は瑞典の物品を取り寄せるのは大変なこと。なにせ空路が無いので外国から物を取り寄せるとなれば、陸路か海路のどちらかだ。そしてそのどちらも、瑞典から日本に輸出するとなれば最低でも一ヶ月はかかる。
当然、その分料金は上乗せされてそれなりの割高になるので、このアクアビットという酒は芋焼酎であるのに庶民には到底手の届かない高級品だ。
「日本人はほんと、月が好きだねぇ。かの文豪は『愛しています』を『月が綺麗ですね』と訳したくらいだし」
「今度は夏目漱石ですかい。確かに漱石だったらそういうことを言いそうですね」
「ハハッ! 瀧本クンもけっこう文学青年だったんだねぇ。ちなみにこれは知っているかな? 「月は昔から綺麗でしたよ」というのが『あなたのことを昔から愛していました』で、「星が綺麗ですね」が『あなたは私の想いを知らないでしょう』になるっていうの」
「え、そんなのもあったんですかい」
「ソウダヨー。さすがに知らなかったかぁ」
日露戦争の旅順攻略戦の折りに出会った戦友である、某陸軍中将からの頂き物であるそれを艦長が惜しみ無く振る舞う相手は、最近なにかと話題に上る彼の部下である瀧本大尉だった。
「付き合ってもらっちゃって悪いねぇ。明日はお見合いだっていうのに」
「あ、はい……その話なんですがね………」
「判ってる判ってる。キミ、断る気満々なんでしょ。というか、断るっていう選択肢以外は無いって顔してるよ」
コロコロと愛嬌のある笑みを浮かべながら、艦長は客人用のソファに居心地悪そうに座っている大尉にオンザロックで入れたアクアビットのグラスをそっと差し出す。
「キミも大変だねぇ……野村閣下から聞いたけど、妹さんが勝手に決めた挙げ句に間際になってから伝えてきたんだって?」
「へぇ、そうなんでさぁ……怒ってらっしゃらないんですね。俺ぁてっきり、ショートサーキット(※直属の上官を飛ばしてさらに上の上官に直接報告すること。海軍では超嫌われる)をされて機嫌を損ねてらっしゃるのかと………」
「まさかぁ。今日ここに呼んだのは叱るためじゃないから安心してよ。というかボク、そんなことで部下を怒鳴り付けるような心の狭い上官に見えるのかい? それはそれでちょっとショック……」
「い、いえ。そういうわけでは……」
目に見えて落ち込んでいるように眉尻を下げる艦長を見て、瀧本は慌てて弁解を始めた。
「とまあ、茶番はここまでにしておいて……と」
「茶番……」
「キミが何か悩んでいるのはよく判るよ。で、問題は何について悩んでいるかって所。これについてはもう聞かなくても判るよ~。あの子のことでしょ? 隼三郎くんとこの子」
「えっ」
隼三郎、という人名が出てきて一瞬瀧本は混乱した。
どこかで聞いたような、それもかなりの重要人物の名前だった気がしたからだ。記憶をざっと浚ってみると、頭の中にぼんやりと誰かの輪郭が浮かんできて………そして、その隼三郎というのが誰だったのか、ようやく思い出した瀧本は変な声を上げてしまった。
(やっぱ艦長の戦友って、仙の大叔父さんのことじゃねぇかよー!!?)
まさかの事実だ。艦長に珍しい北欧の酒を持ってくる日露戦争時代の戦友とやらが、件の陸軍大尉の養父であり大叔父である尾坂隼三郎中将閣下であったなんて。世間は案外狭いものなのかもしれない。
「四面楚歌って奴だねぇ。すっぽかしたら妹さん、引いては霧島閣下の顔を潰すことになるし、そもそも女性を待たせて約束を守らないのは紳士以前に人としてちょっと……かといって広島市内でキミが女性と歩いていたなんてことがあの子の耳に入ったり、万が一にも現場を見られたりしたらどーなることやら」
「へぇ……そうなんでさぁ……」
「泣いちゃうかもねー、あの子。隼三郎くん曰く、あの子が急に人間らしくなり始めたのはキミと再会してからだっていうし、それくらいキミはあの子にとって大きな存在なんだよ。少なくとも、あの子はキミの前だけだったら“人間”でいられるくらいにはね」
「…………」
そんなわけがない。なんて、言えなかった。
彼は、瀧本のことを憎んでいる。そう、本気で。死という逃げ道を与えず生きたままじわじわ苦しめて嬲り、順風満帆な人生を台無しにして滅茶苦茶にしてやりたい、という程度には憎まれている自覚があった。
それもこれも、すべては中学時代に中途半端に彼に関わり、挙げ句助けを求められたのに保身を優先して何もしなかった自分にあると瀧本は素直に受け入れていたのだが。
「……そんなわけ、ねぇですよ。あいつは見ての通り富士山より高いプライドを持ってる奴なんで……まあ、その、たぶん人前で泣いたりすることは…………」
「………ねえ、瀧本クン。キミ、人間の中でもっとも人間らしい感情ってなんだと思う?」
えっ、と小さく声を上げた。質問の意図が読めずに困惑する。人間の中で最も人間らしい感情。いったいそれがなんだというのだろう。
残念ながら何も判らなかったため、素直に「判りません」と口にする。
「さあ……申し訳ないのですが、俺には検討もつきません……」
「────憎しみ」
なんでもない、という風に。あっけらかんと放たれた一言。
憎しみ。
いったいそれがなぜ、最も人間らしい感情だというのだろうか。
「誰かを憎むのって、ものすごーく人間らしい感情だと思うよ。だって合理性の欠片も無いんだもの。人間ってそういうものでしょ? ボクらだって合理的に動くように叩き込まれていても、どこかしら“情”って物が入っているから甘くなる部分が出てくる。どんなに合理的で優れた作戦だって、最後の一押しをするのは人間の“情”さ」
「情……」
「そもそもね。誰かが憎い、だなんて感情は物凄く燃費が悪くて栄養をたんまり用意しないと持続しない感情なの。どうでも良い相手に対してそんなにたくさんの栄養を割くわけがないでしょ。あの子がキミに喧嘩を吹っ掛けるのって、それだと思うよ」
「…………」
彼に憎まれている自覚はある。そして、その憎しみを自分は利用しているのだ。
憎しみでもいいから彼の心が自分の方に向いている証が欲しかった。どうしようもないくらいに醜い男だと自己嫌悪することだってある。だがそれでも、彼が自分に執着しているという優越感は何物にも代えがたい。
「あの子はね、たぶんキミだから我が儘を言えると思うんだよ。キミは自分のすべてを受け入れてくれる、決して自分を捨てて他の誰かに走ることはない。自分はキミとっての唯一だ。それだけが心の支えなんだと思うよ、彼」
「……そう、ですか」
「うん、だからね。広島に行ったらお見合い話は丁重にお断りして、そのあとであの子の所に行ったら良いと思うよ。素直に言って謝って来なさいな。あの子も、キミが何もかも正直に話せば判ってくれるはずさ」
ニコニコと微笑みながら、艦長はポンポンと部下の背中を押してやる。
……どうやら艦長が話したかったのはこれだったらしい。
「それじゃあ、まあ。本題も終わったことだし乾杯しようか。アクアビットは初めてじゃないだろ?」
「あ、へぇ。頂きます……」
この艦長、いったいどこまで判っているのだろう。腹の読めないお人だとは思うが、まあ悪い気はしない。
やはり、部下のことを常に把握しているということは、指揮官としての最低条件なのだろうか。
「ああ、そう言えば今日は満月だったね。ほんのちょっとしか付き合えないけど、月見酒といこうじゃないか」
艦長室の舷窓の向こうでは、綺麗な満月が海の上にポツンと浮かんでいた。
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