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なんでもない日
(15)月明かりに彗星蘭をかざして①
しおりを挟む夜、重巡「古鷹」にて……
─────巡検おわーり……煙草盆出せぇ……
……巡検終了後、帝国海軍ではどこの艦でも共通でこの号令が響き渡る。
一日の終わりはこの巡検の終了と共に訪れるもの。これで一日の課程は終了というわけである。
後は消灯時間まで好きにして良いというやつだ。そんな訳でここ、ガンルームでも若い士官が飲めや歌えの大騒ぎをしていた。これはその一角で起きた話である。
「はぁ? お前んとこの分隊長、明日見合いすんのか?」
「ああ、本当だ。今日、鎮守府で直接聞いたから間違いねえ」
背後では既に出来上がった若い少尉中尉がゲラゲラ笑い転げながらガンルームの主であるケプガン(※ガンルームの主で普通は古参の中尉)の繰り出すヘル談を聞いている。
その中でも夜食のうどんを平らげていたある少尉が、クラスメートが深刻そうな顔で持ちかけた話を聞いて仰天していた。
「お前んとこの分隊長ってあれじゃねぇかよ。横須賀でエスにMりまくったせいで、一晩で横須賀所属の士官達が全員ギヤブラザー(※ギヤとは海軍隠語で穴という意味)になったっていう伝説にまでなった希代の色男。そうだってのに、呉に来てからは何があったかパッタリエスプレイを絶っちまったってもっぱらの噂の瀧本大尉じゃねえか」
「そうだよ。その瀧本大尉が、だよ!」
今、声を荒らげた彼は砲術科の第一分隊で分隊士を勤めている。そして重巡「古鷹」の砲術科第一分隊の分隊長と言えば、最近何かと話題に上る瀧本 零士 大尉だ。
「はぁー……そうかぁ。伝説のマンリーナイスも、とうとうあの陸サンとこの美人とレッコしてローソク立てる時が来たってわけかぁ」
「それだ。問題はあの陸サンとこの坊っちゃんだよ」
分隊士がクラスメートに向かってビシッと指先を向ける。
一方で話を持ちかけられたクラスメートの方は、うどんをずるんと飲み込んでハッと気付いたような表情をした。
「いやちょっと待てよ。あの陸サンの坊っちゃん、技術屋っつっても大尉だろ。いくら俺達が海軍だっても、一応は上官に対してこんな扱いをして良いんだろうかな?」
彼が言っている「陸サンの坊っちゃん」というのは、瀧本大尉と並んで最近なにかと話題の某陸軍大尉のこと。
容姿端麗、頭脳明晰。名門、九条院侯爵家の現当主である九条院 梅継が溺愛していた寵児にして、人外魔境の巣窟である砲工学校高等科を首席で卒業した後に米国の大学に留学までしてきたとかいう、嫌味なほど非の打ち所が無い完璧人間。なのに上層部に噛み付いて地方の原隊まで島流しにあった挙げ句に、それに腹を立てて派手に女をとっかえひっかえしながら遊び回っているとか噂の不良軍人、尾坂 仙 工兵大尉のことだ。
海軍と陸軍という違いはあるが、それでもあちらは大尉でこちらは少尉。階級にうるさい軍隊に属している身としては、その辺りを気にしてしまうのも無理はない。
「まあ別に良いだろ。あちらさんは陸軍で俺達は海軍だし……それに本人が目の前にいないんだしさ」
「それもそうか」
分隊士の発言に納得したのか、牛のようにどっしり構えて再びうどんに手を付け出した。
「いやいや、ちょっと待て。暢気にうどんなんか食ってるんじゃねぇよ。今はあの坊っちゃんのことを言ってたんだって」
「あーあーそうだったな。で、あの坊っちゃんが何だって?」
「何を能天気なことを言ってるんだ! こっちはなぁ、分隊長がいつ変な気を起こしてあの坊っちゃんとそういう関係を持っちまうか、ずっとヒヤヒヤして気が気でなかったんだよ!!」
「ほぉん。そりゃまた何で?」
「あの坊っちゃん、色事に関して言ゃ良い噂を一個も聞かないからだよ。九条院の家を出されたのだって、侯爵の溺愛っぷりに嫌気が差して自主的にやったとか言われているけど、本当は自分の実の妹に懸想して夫人に追い出されたってのが真相って言われるくらいに小さい頃から色狂いって話だぜ」
「えっ、そうだったのか?」
まさか、自分の実の妹にまで手を付けるほどの節操無しだとは思ってもいなかったクラスメートは目を円くして驚いた。
なお、二人の真剣な話し合いなどまるで知らんとばかりにケプガンのヘル談は佳境に入っている。
「ああ、そうだ。男しかいねぇ陸幼陸士に入って収まるかと思われたけどそうもいかなかった。今度は陸幼で男にベキられる良さを覚えちまって、それで陸士の卒業まで通して気に入ったガンの持ち主を見付けては夜中にクリーピング仕掛けたり、時には厠に連れ込んでPOSってたって話だ」
「へぇ。そりゃまたけったいな戦歴の持ち主で」
「米国留学前までは大人しくてしていたみたいだけど、留学中になにか良いことでもあったのか……帰国してからはあのザマだよ。すっかり派手な女遊びを繰り返すようになっちまった。でも男の良さを忘れたって訳じゃねえ。最近は聯隊長お気に入りの男妾って言われているみたいだしよ」
「ほう、つまりなんだ? お前さん、例の大喧嘩はあの坊っちゃんが瀧本大尉を誘惑して関係持っちまった末の痴話喧嘩かなにかだとか思っていたってわけかい?」
若い胃袋はうどん程度ならツルッと完食させてしまう。あっという間にどんぶり一杯のうどんを胃の中に納めたクラスメートは、分隊士の言いたいことを察して口に出した。
「判ってんなら話は早い。分隊長には将来があるんだ。そろそろ海大受験も視野に入れておくべきだし、それじゃなくてもこれ以上の醜聞は避けるべきだ! 俺ぁ、あの人に惚れ込んでいるんだよ。いや、そういう意味じゃなくってな……先輩として、男として、あの人の粋でいなせな江戸っ子の生き方に憧れてるんだ」
「うん、そりゃ確かにな。俺もあの人は将来、えらい傑物になるって予感がある。こんな所で、メリケンかぶれの陸助なんぞに足を引っ張られて将来を棒に振るなんてこたぁ、あってはならん」
「だろ? つまり、だ。明日の見合い……確実に成功させなきゃならねぇ。そうだろ?」
この部分が本題だったらしい。分隊士がニヤリ、と笑う。
うどんを胃の中に納めきって今度はエントロピー(※中に豆が入っている楕円形のお菓子。正式名称不明)を延々と口に放り込んでいるクラスメートはパチパチと目を瞬かせて分隊士が何をしたいのかじっと耳を傾ける。
「だなぁ。ところで見合い相手ってどんなのなんだ?」
「聞いて驚け。なんとな……女医だ」
「なんだって?」
「しかもかなりの美人らしい。分隊長の妹の知り合いだってさ」
「なるほど。そりゃ期待値大、だな」
今までなぜか見合い話が来る度にのらりくらりとかわしていた瀧本大尉だが、さすがに身内からの紹介とあっては断れないだろう。そこが狙い目だ。
「そういう訳でな……明日、万が一にも分隊長が行きたくねぇって愚図ったら、どうにか丸め込んで艦から追い出してぇから手伝ってくれよ。なんとか相手と会わせることに成功すりゃどうにでもなる。アフター・フィールド・マウンテンってやつだ」
「別に良いんだけどな……そう言えば、なんであの人はあんなにも見合い話をしつこく断るんだろうな?」
ふと、思い付いたことを口に出した。
瀧本大尉はいつもそうなのだ。どんなに良い条件の見合い話が回ってきても、右から左に回していくだけで相手と会うことさえしない。
彼のクラスメートである神田大尉もコレスである大河内大尉もとっくに結婚してしまっているというのに、彼だけはいまだに独身を保ったままだった。
「…………」
「あ? どうした」
「ちょっと耳貸せ」
ちょいちょい、と指を動かして合図を送ってきた。何事かと訝しげに眉を寄せながら身を乗り出して耳をそっと貸す。
「分隊長……どうやら、誰かに恋をしているらしいんだ」
「えっ」
わざわざ毎回毎回見合いを断るのだ。そうではないかと予感はしていたことだったが……的中してしまったようだ。
「俺、見たんだよ。新年に宴会やってるときに。厠に行くために席を立ったときに。俺ぁ酔っぱらってたもんで間違って後部甲板に行っちまったんだ」
「それで?」
「そしたら、ちょうど瀧本大尉が一人で甲板にいるのが見えたんだ」
その時のことを思い出しながら、分隊士は懸命にそれを伝えた。
「一人で何してるんだと思って見たらな、分隊長は月を見てたんだよ。ずっと」
「それがなにか?」
「そしたらその時の分隊長の顔! びっくりするくらい切なそうな顔をしていたんだよ!!まるで遠くにいる恋人に想いを馳せて、今すぐにでも飛び出して会いに行きたいって顔をしてたんだ!」
「なんだって?」
いよいよ面白くなってきた、となったクラスメートがここでようやく菓子を食うのを止めてごくりと息を呑む。
「もしかしたら分隊長が呉に来た途端にエスプレイをパッタリ止めちまったのは、呉でどっかの良いところのコーペルに一目惚れしちまったのが原因ってこたぁ……」
「ううむ、なるほど。それなら余計に道を踏み外さないように、どうにかあのボンボンと引き離さねぇといかんな!」
「貴様だったら判ってくれると信じてたぜ!!」
ガシッと両者が固く手を握り合う。その時、後ろでなぜか“ギィ……”という軋んだような音を立てて扉が閉まるような音がしたが、ガンルームの喧騒に紛れて二人の耳に届くことはなかった。
その扉の後ろにいたのが注射器を持った赤岡中佐だったのか……真相は謎である。
───なお、その瀧本分隊長の想い人が、当の陸サンの坊っちゃんであるとは気付かなかったようだ。
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