海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(11)八峰の椿に唇を寄せて②

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 清流のように凛としてよく通る声。喉をよく使う職業のためか掠れているのに、どこか甘い色香を含んだ低い声だ。それが誰のものなのか、気付いた場の空気が一気に緊張状態に移行した。
 噂をすればなんとやら。ご丁寧にも一文字一文字お言葉を区切って聞き取りやすいようにしながら現れたのは……

「ひっ……お、尾坂大尉!?」
「け、敬礼っ!!!」

 今しがた話題に出した我らが中隊長、尾坂大尉殿だ。大尉殿はコツ……コツ……とわざとらしいほどゆっくりとした堅い靴音を響かせ、床が軋む音でさえ全て耳で拾えるほど静まり返った室内にスッと入ってくる。

「敬礼はいい。直れ」
「ハハッ」

 軍隊の敬礼と言えばまず真っ先に右手を挙げるものが思い浮かぶだろうが、それは外で帽子を被っている際に行う敬礼。室内で無帽なら、腰を曲げてお辞儀をする一般のそれだ。彼らもその例に倣って我先にと動いた。
 重ねて言うようだが工兵科の下士官兵卒は、入営前は建築業に携わっていた屈強な作業員ばかり。それも怒声飛び交う過酷な現場労働で鍛え抜かれた強面のつわもの揃いだ。
 そんな男達がサーッと壁に背を付け、華奢ながら肌がピリピリするほど恐ろしい威圧感を発する男に向かって一斉にお辞儀をしている光景………ここが軍の駐屯地ではなく彼らが軍服を着ていなければ、抗争から帰ってきた若頭を出迎える組員達“ヤ”の付く自由業の方々に見えなくもなかっただろう。

「騒がしいと思って来てみれば………猫を拾ってきた、だと」

 どういうわけか、のっけから加虐モード全開で現れた尾坂大尉。獲物に飛び掛かる寸前の狼のように底光りする瑠璃色の瞳で睥睨へいげいされた千歳を初めとした分隊の面々が、見る間に顔から血の気を引かせていった。
 特に当事者である千歳はいっそ憐れみをかけたくなるほど震え上がっている。まるで生まれたての小鹿のようだ。いや、小鹿というより餓えた狼に隅まで追い詰められた兎と言った方が良いか。ともあれ正面からではまともに見れないほど恐ろしい威圧感を放つ無表情のまま、尾坂大尉はコツコツと長い脚を優雅に運びながら仔猫入りの箱の前に立つ。

「にー」
「…………」

 対する仔猫達の方は我関せずとばかりに箱の中で好き勝手にしていた。目の前に危機が迫ってきているというのに、能天気にもきょうだいと夢中でじゃれあっているものさえいる。
 頼むから空気を読んで静かにしてくれ───とその場にいた誰もが心の中で叫んだのも無理はないだろう。

「…………………」

 沈黙が耳に痛い。美形が無表情のままで沈黙すると、なまじ顔が整っている分、そこらの凡百とは桁違いの迫力が生まれるということは今の尾坂大尉を見て嫌と言うほど学んだ。

「……………………………」
「シャーッ」
「っ!?」
「……………………………………」

 ビクッ、と誰かが飛び上がった。

(あ、わし終わった……)

 覚悟を決めたらしい千歳がそっと目を閉じて悟りを開いたように心を無にする。あろうことか五きょうだいの一匹が、仁王立ちになって自分達を見下ろす尾坂大尉に気付いて威嚇をしたのだ。この責任は間違いなく猫自身ではなくこの仔猫達を拾ってきた千歳にある。
 ただでさえもご機嫌麗しゅうなかった大尉殿が纏っている空気が氷点下あたりまで一気に下がり、ズドンと重くなった沈黙に集まった下士官兵達が息を詰めた。

「……………」

 ふー、と大尉殿のやけに艶っぽい溜め息だけがやけに響く。だが夏だと言うのに背筋が凍えるようなのは、きっと気のせいではないだろう。

「……石上軍曹」
「ハッ」

 どれくらいの時間が経ったのだろう。大尉が口にしたのは千歳の分隊の分隊長の名前だった。

「炊事場に行って皿に水を入れて持ってきてくれないか」
「ハハッ」
「白井は中沢曹長の所に行って廃棄予定の布切れをいくらか貰って来い」
「ハッ!」
「黒金伍長はこれよりも小さい箱を探して下に新聞紙を敷き、中に半分ほど砂を入れて来てくれ」
「了解であります!」
「土では駄目だ。必ず砂にしろ」
「ハイッ」

 尾坂大尉に名前を呼ばれた分隊の面々が、これでようやくこの場から逃げられるとばかりに散開していく。ドタドタと走っていく軍曹たちの後ろ姿を見送りつつ、尾坂大尉はさらに口を開いた。

「……有田と大宮」
「ハッ……えっ?」
「貴様らは第一中隊所属のはずだ。ここで油を売っていないでさっさと持ち場に戻れ」
「はっ、はいっ!!」

 まさか名前を呼ばれるとは思っても無かったらしい。そもそも第二中隊の中隊長である尾坂大尉が自分の中隊所属でもない下っ端の自分達を知っている筈がないとたかをくくっていたのだろう。不意を突かれて目を白黒させながら、名前を呼ばれた二人が大慌てで走っていく。
 そして最後。集まった下士官兵達をぐるりと見渡して、目を付けた三人組をギロッと睨み付けながら尾坂大尉が声を張り上げた。

「──木下、野木、八束やつか!」
「ハッ!!」
「貴様らに至っては第三大隊の者だろう。第一大隊に何の用だ」
「い、いえっ……大した用事は……」
「なら、こんな所で野次馬なんぞしていないでとっとと自分達の分隊に戻れ。昼休憩はもう終わっているのだからな」

 尾坂大尉は華奢な体躯であるため遠くから見るとそれほどでもないように見えるが、実際には五尺六寸越えの長身だ。その上であの威圧感である。それで凄まれながら、追加で舌打ちまでされると工兵科の屈強な兵でもたじろく程には迫力があった。

「犬でも一度で言うことを聞くのだから二度は言わん。さっさと行け」
「ひぃっ!?」
「しっ、失礼いたしましたぁ!!」

 瑠璃色の瞳が餓えた狼のごとくぎらついて攻撃的な色を灯しているのに気が付いた三名が、顔面蒼白になりながらスッ転がる勢いで自分達の大隊に帰っていく。
 よもやあの、人を人とも思わぬ冷血漢と恐れられる尾坂大尉が自分達下っ端の名前と顔──それに所属まで覚えているとは思っていなかったのだろうか。混乱状態のままで走り去っていった。

「堀野と千歳はここに残れ。それ以外の者は各自、本日予定されていた業務に戻るように。以上、解散」

 実に素っ気ない淡々とした命令だったが、訓練された第二中隊の者達にとってはそれだけで十分。第二中隊所属の下士官兵はあっという間に自分達のやることを思い出して散っていった。
 ……不幸にも尾坂大尉に名前を呼ばれた二名に対して同情する視線を投げ掛けながら。

(なんで関係ないわしを残すんじゃぁ、この出戻りチュー太がぁぁぁあ………!)

 同僚からの哀れみの視線を受けながら、何の関係も無い筈なのに目を付けられた堀野は内心で自分の不運を呪っていた。

「……………千歳」
「ハイッ!!」
「この猫を拾ったのは貴様というのは本当の話か」

 問いかけ、というよりは確認のような台詞だ。もうとっくの昔にバレているのだからそんな問いかけ、無意味だと言うのにどうしてまた……と思いつつ、千歳は声を張り上げた。将校からの問いかけに答えないという選択は兵卒には存在しない。

「ハッ! そうであります!!」
「そうか」

 先程の堀野の比ではない怒声を浴びせられる覚悟で叫んだが、しかし返ってきたのはあまりにも短く淡々としたものだった。

(あ、あれ……もしかして許された………?)

 一瞬、そんな甘い考えが脳裏を過る。しかし……


「───拾ってその後どうするつもりだった」


 地の底を這うような恐ろしい声。まるで怒り狂った狼の唸り声のようだ。
 ……千歳の期待は尾坂大尉が放った一言で木っ端微塵に粉砕された。
 密かな信仰対象である尾坂大尉が、どこからどう見てもお怒りになられているのは明白。小さな期待に少しだけ浮かれていた気分を一気にどん底まで叩き落とされ、いよいよ千歳の冷や汗が止まらなくなった。

「えっ、あ……そ、その……あのっ……」
「もう一度聞く。拾って、その後どうするつもりだった」

 丁寧に整えられた前髪の下、影が被ってより深い色になっている瑠璃色の瞳に危険な光が宿る。
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